電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

政治の腐敗について

2024-01-01 10:11:10 | 政治・経済・社会
 ギリシャの昔から、そして民主政治の初めから、選挙はすぐに腐敗し始めた。自民党の派閥のパーティー券のキックバックは、選挙資金に使うためだと思われる。「政治には金がかかる」というのが彼らの言い分だ。本当は、金のかからない制度を考えるべきである。

 民主政治の初めは、一般的にはアテネの「クレイステネスの改革」によって実現された「ポリス・アテネ」の政体から始まるとされている。塩野七生の著書『ギリシャ人の物語』によれば、この政体の実体は、アリストテレスの『アテネの政体』で初めて正確に分かるようになったという。ただし、この便利な解説書は、1891年に発見されて刊行されたものである。つまり、フランス革命の頃は、誰も読んでいなかったことになる。

 塩野七生はアリストテレスの本に基づき、アテネの政体について紹介している(詳しくは同書を参照)。それによれば、古代のアテネの「デモクラシー」は、「国政の行方を市民(デモス)の手にゆだねた」のではなく、「国政の行方はエリートたちが考えて提案し、市民(デモス)にはその賛否をゆだねた」ということだそうだ。

 ペイシストラトスはエリートをただ名門階級の出身(世襲)でなく、真に実力のあるもの(名門に多い)から選んだ。だから、興隆期のアテネの指導者たちは、ほとんど全員が名門出身者で占められている。つまり彼は、アテネを「メリトクラティア(メリットクラシー)」という実力主義の方向へ導いたのだ。塩野七生は、「デモクラシー」と「メリットクラシー」とは、意外と相性が良いと言っている。この改革の25年後にアテネの命運を一身に背負うことになるテミストクレスは、アテネのリーダーの中でただ1人「非名門出」であった。

 金のかからない選挙ということと、合理的な選挙とはおそらく同じことだと思われる。例えば、これはギリシャの昔からあるが、参議員を抽選にすることだ。実際、クレイステネスが作った「500人委員会」と呼ばれる「ブレ」は、成年男子から抽選で選ばれるものだった。これについて、塩野七生は、「抽選を導入したクレイステネスの深意は、アテネの市民たる者、一生に一度くらい公職を経験すべきである、ということだったのではないかと想像している」と述べている。

 そして、衆議院は、全国をまとめて(特大区)で、1人1票の投票を行うことが良いだろう。そうすれば、私は北海道の友人に投票することができる。こちらの方法はシステムとしては難しいかもしれないが、インターネットの時代には、地縁・血縁は時代遅れだと思う。地域の仲間が少なくても、日本全国に支援者がいれば議員になれるようにすることは、比例代表より良いと思われる。これらは、あくまでも議員代表制を取る場合の工夫である。

 以上は、今年の初夢選挙である。
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2023年の三つの衝撃

2023-12-31 12:13:51 | 政治・経済・社会
 2023年に私に起こった精神的な三大事件は、ChatGPTの登場、エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(上下巻)の読了、そして柄谷行人が前年末に「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞し、その後すぐに『力と交換様式』が出版されたことだ。

 ChatGPTについては、意識がないのに言葉を話せるという事実に驚いた。生成AIが身近になり、誰でも使えるようになったことも衝撃的だった。その後、今井むつみと秋田喜美の共著で『言語の本質』という本が出た。AIでは記号の身体接地問題が解決できないと指摘されていたが、むしろ接地していないにもかかわらず、会話ができるということに驚いた。『言語の本質』は良い本で、改めて言語と意識について考えるのが面白くなってくる。勿論、それだけでなく、AIをめぐっては、世界の競争と戦いも起こる可能性さえあると思われる。AIは、人間の味方になるのか、それとも敵となるのか、いろいろ考えさせられた1年だった。

 トッドについては、彼の家族類型論で現在の世界の構造が説明できるところがすごい。直系家族型である日本、ドイツ、韓国、ノルウェーなどが現代社会における似た特性を持っている。『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(下巻)では、わざわざ第16章に「直系家族型社会──ドイツと日本」という1章を設けて、ドイツと日本を比較している。それによれば、現在、日本とドイツは人口減少に対する対策で苦慮している。ドイツは移民の活用を検討しているが、日本は内向きの姿勢を取り、高度経済成長から一転して脱成長に直面しているという。確かに、ドイツと日本の今後がどうなるのか、またどうあるべきかを考える必要があると思った。

 最後に、柄谷行人は、宗教の力と本質について教えてくれた。世界的に認められ、英語で読まれ評価される日本人の思想家がいるということに、私は誇りを感じている。マルクスの再評価が盛んに議論されている中、柄谷行人はマルクスをどのように超えるかについて一貫して考えてきた。受賞の報を聞いて、読んでいなかった、『世界史の構造』、『帝国の構造』を直ぐに読んだ。そして、その他の本も、読み返してみた。彼の思考は私に考える基準を教えてくれたように思う。。トッドの家族論と共通する点もあり、フランスと日本の思想家の最先端の考え方が興味深い。

 実は、年末になった、またブログを始めようと思ったのは、これら3つのテーマについていろいろ考えていて、その気持ちが強くなったからだ。つまり、インプットだけでなく、個人的なアウトプッもやってみるべきだと思うようになった。ウクライナ問題、パレスチナ・イスラエル問題、さらにグローバルサウスの内戦や飢餓問題など、エマニュエル・トッドによれば、「第三次世界対戦はもう始まっている」という状況になっている。目に見える戦争だけでなく、目には見えないところで、いくつかの陣営ができ、目に見えない戦争が始まっていると思われる。
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グローバル経済ということ

2013-01-04 22:53:14 | 政治・経済・社会

 年末の選挙で、小選挙区制のメリットを生かして、自民党が得票数以上に圧勝した。この選挙では、今までの民主党政権のだらしなさに対する不満のようなものが追い風となり、反民主党の受け皿として自民党が選ばれたと思われる。その風向きを安倍自民党は、経済成長戦略と頼れる国づくりというように総括し、「経済、教育、外交、安心」を取り戻すという言い方で、「日本を取り戻す」というスローガンを掲げていた。前回の安部自民党に比べて、今回の安部自民党は、円高・デフレ脱却による経済成長とナショナリズム的な政治と教育により力点が置かれているように思われる。それで本当に、経済が成長し、「世界に貢献し、信頼される国」になれるのだろうか。

 民主党が迷走し、自ら墓穴を掘って、政権から転落していったのは、政権担当能力がなかったったからだと言われてしまえばその通りだが、民主党政権が目指していたのは、安部自民党と同じように、円高・デフレ脱却による経済成長と日本という国の威信を高めることだった。野田総理が、玉砕的に三党合意を図ったのは、彼らが共通の方向を向いていたからだ。それゆえに、私は、民主党政権が崩壊したのは能力の問題だけではなく、現状認識に問題があったからだいうことも考えておいたほうがよいと思う。おそらく、円高・デフレ脱却による経済成長戦略もナショナリズムも、グローバル化した世界と国民国家との間に起きた矛盾から生まれた国民国家的な幻想だと思われる。だから、新しい政権も、このままでは、同じ過ちをくり返すことになるに違いないと思う。

 ヒト・モノ・カネは、国境を越えて、世界中を駆け巡っている。同志社大学教授の浜矩子の言葉を借りれば、グローバル化したヒト・モノ・カネは、クニを翻弄しながら、新たなワクを創り出そうとしていると言うべきかもしれない。浜矩子は、グローバル時代の特徴を次の6項目で示している。

①グローバル時代はグローバル・スタンダードの時代にあらず
②グローバル化は均一化にあらず、多様化なり
③グローバル化は巨大化にあらず、極小化なり
④グローバル時代は国民国家の危機の時なり
⑤地球の時代は地域の時代にほかならず
⑥グローバル時代は奪い合いの時代にあらず、分かち合いの時代なり
(浜矩子著『新・国富論 グローバル経済の教科書』(文春新書/2012.12.20)p50~51より)

 森山たつをが、「月給1万円のカンボジア人が『日本語入力』 日本人に残された仕事はあるのか?」という記事を書いている。森山たつをは、「海外就職研究家」と呼ばれているが、日本の普通の人の生活が苦しくなるのに比例して、アジアの途上国の暮らしが豊かになっていく状況を次のように述べている。

 今回、カンボジアで衝撃的な光景を見ました。10年前に日本人のアルバイトがやっていた文字データ入力の仕事を、カンボジア人が行っていたのです。
   日本語が分かる人は少ないのに、なぜそれが可能なのか。それは、マウスでできる画像データの修正と、アルファベットの入力作業のみ行っているからです。その作業が終わると、次工程の中国やタイにデータを飛ばしていました。
   日本人がインターネットで送った元データを、カンボジア人が一次加工し、中国人やタイ人が完成データにして日本の顧客に戻してくる。データの移動コストは、金額・時間共にほぼゼロです。
「日本語が話せるタイ人が月給5万円でこれだけ仕事をしてくれるのに、日本人に20万円払う必要はどこにもないよね?」
   こう言うと、「日本は生活費が高いんだから仕方ないだろ!」と反論がきます。確かにその通りなのですが、そんな個人の事情とは関係なく、仕事は無情にも月給5万円の人のところに流れていきます。
   そうやって、月給20万円の日本人の給料は少しずつ下がり、月給5万円の日本語が使えるタイ人の給料は少しずつ上がる。そしてタイ人の仕事も、少しずつ月給1万円のカンボジアに流れていくのです。(J-CASTニュース・上記記事より)

 森山は、ここで、グローバル化した経済の仕組みを述べている。ここで、日本人は、次の二つの選択肢を迫られている。一つは、そうした仕組みを作り、仕事を回す側になるか、それとも自分たちの給料を下げてタイ人と競争するかの二つの選択肢である。森山は、前者を選べば、日本人はさらに豊かになれるという。

 例えば、カンボジアにデータ加工の仕事を発注しているのは、他でもない日本人です。ひとつの仕事を複数工程に分割し、タイ人やカンボジア人に効率的に振り分ける仕組みを作ることで、低コストで制作する方法を編み出したわけです。
   この仕組みは会社に毎月何百万円もの利益をもたらすので、仕組みを作って維持管理する人は数十万円の給料をもらえる価値があります。
   我々日本人が考える「普通の生活」は、世界からしてみたら「あこがれの生活」であり、世界中の人から狙われている特権階級の生活です。そのポストを守りながら、他人を幸せにする道はないのか。私は、あると考えています。
   日本が仕組みを作り海外に発注している仕事が、多くのカンボジア人の生活を豊かにしているように、日本人の技術や知恵をアジアに展開すれば、世界のもっとたくさんの人を幸せにし、我々の生活も豊かにできるものだと信じています。(同上)

 これは、ある意味では、アップルのビジネスモデルでもある。iPhoneやiPadは、確かにそうしてつくられている。浜矩子が言うところの「羊羹チャート型分業」(浜矩子『新・国富論』p131~136)である。考え方としては正しいのだが、雇用を失ったすべてのヒトが、そうしたビジネスモデルをつくり出せるということは、多分不可能だ。だから、依然として、日本は、より格差を広げていくことになる。やがて、タイ人やカンボジア人と同じ給料の水準に落ち着くことになる。そのとき、円高がいいのか、円安がいいのか、考えてみる価値はありそうだ。そして、この場合、経済成長とは何を意味するのか。アップルのような会社が、日本に乱立することになるのだろうか。

 朝日新聞の1月1日の朝刊は、トップ記事といい、社説といい、少し変わったという印象を受けた。その社説は、「『日本を考える』を考える」というタイトルがついている。なかなか興味深い社説だと思った。相変わらず、広告の多い誌面ではあるが、新しい冒険をしているように思われる。この記事は、日本=国家を相対化して眺めてみようという提言だ。そして、私は、久しぶりに、朝日の社説に拍手を送った。

「(国境を越える資本や情報の移動などによって)国家主権は上から浸食され、同時に(国より小さな共同体からの自治権要求によって)下からも挑戦を受ける」
 白熱教室で知られる米ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は17年前の著書「民主政の不満」でそう指摘していた。これから期待できそうなのは、国家が主権を独占しないで、大小の共同体と分け持つ仕組みではないかという。
 時代はゆっくりと、しかし着実にその方向に向かっているように見える。「日本」を主語にした問いが的はずれに感じられるときがあるとすれば、そのためではないか。
 もちろん、そうはいっても国家はまだまだ強くて大きな政治の枠組みだ。それを主語に議論しなければならないことは多い。私たち論説委員だってこれからもしばしば国を主語に立てて社説を書くだろう。
 ただ、国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない。(「朝日新聞」1月1日朝刊社説より)

 ところで、『国富論』の原題は、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsであり、そのまま訳せば「諸国民の富の性質並びに原因に関する研究」である。浜矩子は、アダム・スミスの『国富論』を踏まえて、『新・国富論』を次のような言葉で結んでいる。

 さてそこで、グローバル長屋の合言葉である。それは、「差し伸べる手」なのだと思う。「見えざる手」に代わるものは、決して国々の「見える手」ではない。諸国民がお互いに対して差し伸べる手、やさしさの手、勇気ある手、知恵ある手だ。
 さらにいえば、差し伸べる手を持つ人々は、実は諸国民に止まっていてもいけないのだと思う。本当に力強い差し伸べる手を持つためには、我々は諸国民から「全市民」に脱皮しなければいけないのではないかと思う。国境をまたぐグローバル市民の視野があればこそ、お互いに慮りの手を差し伸べ合うことが出来る。そういうことだろう。そのようなグローバル市民の活動拠点はどこにあるのか。
 それは「地域」にあると思う。(『新・国富論』p243・244)

 私たちは、世界経済を読み解いたからと言って、幸せになれるわけではない。しかも、浜矩子の主張は、なんだか、「世界経済がグローバル化するなかで、国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」(橋下徹・堺屋太一共著『体制維新―大阪都』)と述べた大阪市の橋下徹市長の応援演説のような気がしてくる。私は、橋下徹の主張が私たちを幸せにしてくれるとは思っていないが、時代の流れをつかんでいることだけは確かだと思われる。そうした流れの中に私たちは必然的に巻き込まれていくに違いない。年の初めに、グローバル化した時代の大きな流れの方向だけは、つかんでおきたい。

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3.11から5ヶ月

2011-08-11 21:28:31 | 政治・経済・社会

 8月5日にUSTREAMで配信されていた「孫正義×堀義人 トコトン議論 ~日本のエネルギー政策を考える~」を昨日と今日で見る。約3時間30分、とても興味深く2人の意見を聞いた。ソフトバンク社長の孫さんは自分を「原発ミニマム論者」と言い、グロービス社長の堀さんは自分を「電力安定供給論者」だと言っている。孫さんの考え方に私は全面的に賛成する。そして、こういう議論ができるようになったということが素晴らしいと思う。原子力発電を推進していくためには、本当に安全な原子力発電所を造らなければならない。どうすれば、安全になるのか、再度根本的な点検が必要だと思う。それが不可能なら、できるだけ原発に頼らないようにしていくしか方法はない。

 堀さんは、まず、東日本大震災での被災者に、哀悼の意を表し、原子力発電を推進することに力を入れていたものとして、福島第1原発に被害者に向かって、安全を確保できなかったことに対して反省した上で、原子力発電の重要性を4つの観点から主張した。①電気エネルギーを安全保障することができること、②環境にやさしいクリーンなエネルギーであること、③事故さえ起きなければ、電気を安定して供給できること、④化石燃料などの資源の枯渇ということを考えると未来があるエネルギーであり、現段階では他の自然エネルギーでは代替不可能であること、など。これは、今まで、私たちが原子力を推進してきた根拠そのものであり、改めてその原則を確認しているように見える。そして、脱原発ということになると、すぐに電力不足になり、日本経済は活力が低下するという。

 これに対して、孫さんは、次の点を問題だと言う。①福島第一原発の事故によって、「安定」「安い」「安全」という3つの神話が崩壊したこと。「安定」というけれど、沢山の事故を隠していたことが発覚したし、1基2500億円もの交付金(全国54基で13兆円)や事故での賠償金などで、最も高いコストの電力になってしまっている。そして、勿論、もはや「安全」など保証されていないと言う。さらに、②核燃料廃棄物の処理の仕方自体が未解決であること。その上、福島の瓦礫の処理さえままならない。そして、③ストレステストということを言っているが、誰も現在の基準のままで、事故が起きないと保証できないこと。保険会社でさえ保証しないものを誰が保証するのかと言う。

 孫さんは、その上で、みんなの努力で、できるだけ電気を節電して、それでも足りないのであれば、最も安全だと思われる原発を稼働すればよいという。ただ、今のところは、何とか電力の供給は大丈夫そうに見える。正確なデータがないので何とも言えないが、ピーク時の電力をできるだけ少なくすれば、何とか乗り切れそうだ。また、例えば、すべての電球をLEDにかえれば、原発14基分くらいの電気の節電になる。そのための補助をした方がよい。さらに、将来を考えて再生エネルギーによる電力の供給ができるように努力すべきである。そのために、「自然エネルギー財団」を作ったが、孫さんは、ほかの参加者にはそれなりの利益を保証したい(そうでないと、誰も参加しない)が、ソフトバンクとしては自分が生きている限り、一切利益は受け取らないつもりだと言う。

 元々、この対談は、堀さんが孫さんのことを「政商」と呼んだことにたいして孫さんからとことん話し合いたいと申し入れがあり、それに対して堀さんが「ネットによる公開討論で、モデレーター入れずに、時間をフェアに配分する方式」という提案でそれに応じたものである。お互いに相手の主張を尊重しながら、討論は進められたが、全体としては、孫さんの主張のほうに分があり、堀さんが守勢だった。それは、お互いに、もう一度原発の事故が起きたら、もうすべてがアウトになるという共通認識がある以上、福島第一原発で事故が起きてしまったということが堀さんの負い目になっているからだ。今のところ、事故処理のめどが立たない限り、つまり、これからどれだけ被害が増えるか分からない状況では、孫さんの主張が最も妥当な現段階での解だと思われる。(堀さんは、「政商」発言を撤回していた)

 これから、私たちが、確認しなければならないことは、次の諸点である。①福島第一原発の事故は、どういう事故だったのかという正確な事実のデータの入手、②原発の事故処理の確実の実行、③原発の安全性をどうやって担保するのかということ、④地域独占になっている電力会社の在り方の検討、⑤原発以外の自然エネルギーの開発、などである。確かなことは、無能な政府であるにも関わらず、私たちは、困難な状況の中で、何とか正常な経済活動をやり始めていると言うことだ。どんなに時間がかかろうとも、私たちは、安全を最優先にして、安易な解決を選択しないようにしたい。それが、被害で苦しんでいる人たちに対する私たちの立場でありたい。ここで間違うわけにはいかないと思う。

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日本の円高の意味

2011-08-09 22:15:25 | 政治・経済・社会

 またもや、世界経済は、ドル安の中、失速しつつある。今日は、日銀の介入にも関わらず、ついに円は76円台になってしまった。アメリカの国債の格付けは、アメリカの経済の状況を反映したものだ。そして、このアメリカの国債のいちばんの保有国が中国であり、二番目が日本である。そして、二つの国だけでアメリカ国債の全体の半分近くになる。その上、日本国家は、アメリカに匹敵するくらいの借金を抱えている。そして、この日本の国債は、90%以上は、日本の金融機関が持っている。要するに、日本の金融機関は、自分たちの資産運用は、ほとんど日本とアメリカの国債に依存していると言うことでもある。アメリカか日本かどちらかの国債がデフォルトにならなくても、暴落するだけで、おそらく、すぐに日本のすべての金融機関は破綻するに違いない。

 ところが、不思議なことに、今は、円高で、円が買われ続けている。先週、日銀が介入して、一時1ドルが80円近くになったが、現在はまた、1ドルが76円代まで上がっている。日銀の介入がほとんど働いていない。同志社大学の浜矩子教授が、日本円は将来50円位になる可能性があると言っていたが、ひょっとしたら、現実になるかもしれない。私たちは、むしろ、そうなることを想定して、対策を講ずべきかもしれない。その昔、円は1ドル=360円だった。それが、今では、1ドル=76円の時代になっている。1ドルが本当はいくらであるべきかという基準などない。アメリカの経済と日本の経済の相対的な動きがその価格を決めているだけに過ぎない。

 さて、野田佳彦財務相は9日午前の参院財政金融委員会で、民主党の中谷智司氏に対する答弁として、円高の影響について「輸入価格の低下による企業収益の増加要因、購買力増加につながるメリットがある一方で、外需の減少や設備投資、雇用の停滞、企業の海外移転などを通じ経済成長の下押し要因になる」と指摘したそうだ。そして、「昨今のマーケット動向は明らかに一方的な円高の動きに偏っている。日本経済や金融の安定に悪影響を及ぼすという観点から、介入を実施した」と説明した。ここを見る限り、野田さんは、円高のメリットとデメリットを勘案しても、結局は、円高は経済成長を押し下げるものであり、今は、一方的な円高の動きになっていると言っているように思われる。

 特に、現在、東北大震災の影響による電気エネルギー不足の問題もあり、円高が進むことによって、より生産拠点の海外移転が進むものと見られている。ところで、その生産を海外に移転することは、国内産業の空洞化をもたらす原因となり、日本経済にマイナスになると言われている。しかし、日本の農業人口の減少と同じで、工業生産そのものも、どんどん海外に移転していて、日本の工業生産に従事する人数もどんどん減少している。そして、日本の主な産業は、第3次産業に移りつつある。そのことは、本当は、よいとか悪いとか言う問題ではなく、先進国の必然であるように思われる。そして、多分、円は、1ドル=50円、1ユーロ=100円という時代がきっと来ると覚悟した方がよい。

 つまり、これからは、本当はデフレで、円高で、コストで勝負している製造業はほとんど海外に移転しているという日本の経済の状況を前提として、物事を考えた方がいい。それは困ると考えてみても仕方がない。デルやアップルは、ハードメーカーでもあるが、今のところは、アメリカ国内では、何も製造していない。彼らは、多分、アメリカでの雇用の創造には寄与していないが、税収には寄与しているはずである。むしろ、デフレで、円高で、高齢者社会で、しかも輸出産業は海外に移転したほうがよいという状況の中で、どんな雇用が可能で、どんな経済が可能かを考えるべきだと思う。

 これからの経済は、量的な経済発展ではなく、経済の質的な転換が必要だと思う。例えば、GDPについて、日本は既に中国に抜かれて3位になった。遠からずインドやブラジルに抜かれる日が来るに違いない。それは、人口が多い国だから当たり前だ。問題は、1人当たりGDPでも、日本は過去の栄光はないと言うことだ。私たちは、高度経済成長の時代、輸出立国を合い言葉に、安くて質のよいものを作って、アメリカで売るというのが、一つの理想であった。そして、ある時期まで、その理想は日本の経済を引っ張ってくれた。今では、それは、韓国や中国やインドに取って代わられている。

 もしそうなら、今の日本は、安くて質のよいものなどもう作れなくなっていると考えた方がよい。むしろ、高いけれど質がよいものを作って売ると考えるべきだと思う。日本の農業問題は、むしろその典型だと思う。日本の不幸は、海外と言ったときにそれは、日本の外だということになってしまうことだ。華僑やユダヤ人ではないが、世界中に日本があると思うしかない。そういう時代なのだ。極端なことを言えば、日本の大学生は、日本の中で就職しなければならないと思っているところに既に問題があるのだ。食料生産だって同じである。日本は海外でも日本の農業をすると考えるべきだ。そう考えたとき、円高は、本当は、日本に有利ではないだろうか。

 日本は、3.11以降、もう過去には戻れない。東日本大震災の結果、日本のこれまでの政治・経済の在り方根本的に問われているが、日本の政治は、民主党と自民党と公明党の妥協の産物として管内閣の退陣と引き替えに、たった3つの法案を通すことしかできないでいる。エネルギーの問題、経済の問題、TPPと食料生産の問題、少子高齢化問題など、私たちは、今、大きな岐路に立っているように見える。しかし、本当は、岐路なんかではない。地球を外から眺めて見れば、国境など存在していない。国境とは、人々の幻想のなかにある何かである。私たちは、いま、現実の地形から溶け出して、不可思議に変形している国境の枠の中にとらわれているが、それがいま崩れつつある。日本の不幸は、多分、他の国から海で隔てられていて、あたかも、地形と国家が同じように見えることかもしれない。しかし、私たちの抱えている問題は、国境の枠内で考えていたら、永遠に解決できない問題だと思う。それが、3.11に世界中の人たちが注目したということの本当の意味だと思う。

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