「少年犯罪が起こるたび、ネットやケータイが悪玉にされる。だが、今やそれらの機器が子どもにとって『唯一の居場所』であり、『自己の鏡』とさえなっている。大人はどう接するべきか」というのは、かつてこのブログで取り上げた香山リカさんと森健さんの共著の『ネット王子とケータイ姫』のテーマだった。その中で、香山リカさんは、「ゲーム脳」というのはまだ証明されたわけではないというように言っていた。香山さんは、「ゲーム脳」になるからケータイやネットなども含めたIT機器のへののめり込みがあぶないということより、そこにしか自分の居場所を見つけられない少年少女たちの心の危機のほうが重大だといっている限りでは、私もそうだと思う。
しかし、証明されたわけではないが、「ゲーム脳などない」というのも言い過ぎなのではないだろうか? 確かに、この点については、脳科学者の川島隆太教授も「ゲーム脳」はないということを述べている。川島教授は、『頭をよくする本』(KKベストセラーズ)の中で「ゲーム脳」という言葉の定義を「テレビをしすぎることで脳が壊れたり、うまく働かなくなったりして、病気に近い状態になってしまうこと」というように述べ、「ゲームをやって脳が壊れるということはない」と言っている。そして、「テレビゲームをしている間は前頭前野はほとんど働かないで、休憩のような状態になってしまう」と述べている。「ゲーム脳」という言葉について言えば、おそらく川島教授の言っていることは正しいだろう。
しかし、私は、これだけ色々な方法をつかい脳を活性化させようとしている人が、子どもがテレビゲームにのめり込んだ場合、脳に何らかの影響を与えているだろうと言わないことのほうに驚く。私は、テレビゲームは脳に色々な影響を与えていると思う。それは、いい意味でもそうだし、悪い意味でもそうだというほかない。小さな頃から、テレビ、ケータイやパソコンに囲まれ、それにどっぷりつかって育ったらどういう人間になるかは、今のところ未知だと言うほかない。一方では、ビル・ゲイツやリーナス・トーバルズのような人間を生み出し、他方では様々な犯罪者をも生み出している。だから、私は、『壊れる日本人』(新潮社)の中で、次のように述べている柳田邦男さんに意見にかなりの部分で共感する。
ただ、私はこの場合の「ゲーム脳」について言えば、「ゲーム」のとらえ方が問題だと思う。なぜなら、ここでは多分「テレビゲーム」や「PCゲーム」のことを言っているということに注意しておく必要があるからだ。どうも、問題になっているのは、シミュレーション・ゲームのことが中心のような気がする。テレビは、観るものを受動的にさせ、そのことが脳の働きを休ませることにつながるのだと思うが、ゲームそのものは必ずしも脳を休息させるとは思えない。サッカーなどもゲームに違いないが、それはかなりの脳の働きを必要とするはずだ。
こうなると、一つの文学作品が一人の読者にどんな影響を与えたかと同じように、一つのゲームが一人のプレーヤーにどんな影響を与えたかということを追跡調査をする必要がある。そして、ゲームとプレーヤーの相互作用を分析する必要がある。たとえテレビゲームでもかなり高度な頭脳プレーを必要とするのであり、川島教授の言うような脳が休憩しているというのは、おそらくただ受動時にテレビを見ているときのような場合だと思う。
すべての子どもが「ゲーム脳」になるのではないと思う。色々な才能がそうであるように、脳はいろいろな特異性を持っていて、人によってはある種のゲームに異常に反応し、そしてそのゲームの世界にのめり込んでもう戻ってこれなくなる場合もあり得るのだ。また、どれだけゲームをやっても、何ごともない子どももいるに違いない。その差は、一人一人の子どもの個性(身体的な特性または脳の構造)によるのだと思う。
大事なことは、「ゲーム脳」があるかないかという問題ではない。なぜ、ある種の人びとはテレビゲームにのめり込み、そのまま人間であることを忘れてしまうようなことになってしまうのかを具体的に研究してみることだと思う。私たちのまだ知らない原因があるのかも知れない。しかし、おそらく、ゲームにのめり込むというのは、とても人間的な行為なのであって、人間の精神だけが、あるいは人間の脳だけがそのことを可能にしていることも確かなのだ。
そして、少なくとも、子どもは小学生の間は、パソコンやケータイなど電子機器は、慣れ親しむ程度でいいのだ。そんなものがなくても学習ができることが大事だし、基本的な読み書き計算には、電子機器は必要ない。むしろ、紙と鉛筆こそが必要だ。声を出して読んだり、また手を使って紙の上に書いたりすることは、ある種の運動を伴っている。そして、その運動が脳に作用する。こうして、脳は学習していくのだと思う。学習は、頭の中だけで行うのではなく、体全体を使うことを通して行われるのだ。
そう考えると、むしろ、パソコンやケータイがないと新しい情報が入手できない状況こそが問題なのかもしれない。いつの間にか、いろいろな情報がインターネットでしか得られなくなってしまっている。政府や企業のいろいろな情報開示がインターネットで公開すればよいという時代になっている。だから、私たちは、インターネットから無縁でいることは不可能な時代にいるわけだが、使わなくてもいいときはできるだけ使わないようにした方がいいと思う。
しかし、証明されたわけではないが、「ゲーム脳などない」というのも言い過ぎなのではないだろうか? 確かに、この点については、脳科学者の川島隆太教授も「ゲーム脳」はないということを述べている。川島教授は、『頭をよくする本』(KKベストセラーズ)の中で「ゲーム脳」という言葉の定義を「テレビをしすぎることで脳が壊れたり、うまく働かなくなったりして、病気に近い状態になってしまうこと」というように述べ、「ゲームをやって脳が壊れるということはない」と言っている。そして、「テレビゲームをしている間は前頭前野はほとんど働かないで、休憩のような状態になってしまう」と述べている。「ゲーム脳」という言葉について言えば、おそらく川島教授の言っていることは正しいだろう。
しかし、私は、これだけ色々な方法をつかい脳を活性化させようとしている人が、子どもがテレビゲームにのめり込んだ場合、脳に何らかの影響を与えているだろうと言わないことのほうに驚く。私は、テレビゲームは脳に色々な影響を与えていると思う。それは、いい意味でもそうだし、悪い意味でもそうだというほかない。小さな頃から、テレビ、ケータイやパソコンに囲まれ、それにどっぷりつかって育ったらどういう人間になるかは、今のところ未知だと言うほかない。一方では、ビル・ゲイツやリーナス・トーバルズのような人間を生み出し、他方では様々な犯罪者をも生み出している。だから、私は、『壊れる日本人』(新潮社)の中で、次のように述べている柳田邦男さんに意見にかなりの部分で共感する。
脳がダイナミックに成長する幼児期に、毎日テレビゲームにひたっていたら、反射的な運動神経やカッとなったりする感情的反応の神経ばかりが発達して、人間として大事な、感情をコントロールする自制心や事態の全体をとらえようとじっくりと考える判断力や創造力につながる思考力は発達しないという「ゲーム脳」説について、私はそのとおりだと思う。
アメリカ小児科学会の勧告については、アメリカでも日本でも、専門家からの批判がある。二歳未満の子どもの脳の発達とテレビ視聴の関係についていまだ科学的な実証性に乏しいのに、テレビを見せるなとまで言うのは疑問だというのだ。確かに科学的な実証性となると、アメリカ小児科学会の勧告には弱いところがある。
だが、科学的な実証とは何なのか。薬の有効性を調べる研究のように、二歳未満の子どもを百人とか千人規模で二組選び、片方のグループには毎日三時間も四時間もテレビを見せ、もう一方のグループには全くテレビを見せないという生活を数年続け、その人格形成の違いを観察分析しろと言うのだろうか。(『同上』p15・16より)
ただ、私はこの場合の「ゲーム脳」について言えば、「ゲーム」のとらえ方が問題だと思う。なぜなら、ここでは多分「テレビゲーム」や「PCゲーム」のことを言っているということに注意しておく必要があるからだ。どうも、問題になっているのは、シミュレーション・ゲームのことが中心のような気がする。テレビは、観るものを受動的にさせ、そのことが脳の働きを休ませることにつながるのだと思うが、ゲームそのものは必ずしも脳を休息させるとは思えない。サッカーなどもゲームに違いないが、それはかなりの脳の働きを必要とするはずだ。
こうなると、一つの文学作品が一人の読者にどんな影響を与えたかと同じように、一つのゲームが一人のプレーヤーにどんな影響を与えたかということを追跡調査をする必要がある。そして、ゲームとプレーヤーの相互作用を分析する必要がある。たとえテレビゲームでもかなり高度な頭脳プレーを必要とするのであり、川島教授の言うような脳が休憩しているというのは、おそらくただ受動時にテレビを見ているときのような場合だと思う。
すべての子どもが「ゲーム脳」になるのではないと思う。色々な才能がそうであるように、脳はいろいろな特異性を持っていて、人によってはある種のゲームに異常に反応し、そしてそのゲームの世界にのめり込んでもう戻ってこれなくなる場合もあり得るのだ。また、どれだけゲームをやっても、何ごともない子どももいるに違いない。その差は、一人一人の子どもの個性(身体的な特性または脳の構造)によるのだと思う。
大事なことは、「ゲーム脳」があるかないかという問題ではない。なぜ、ある種の人びとはテレビゲームにのめり込み、そのまま人間であることを忘れてしまうようなことになってしまうのかを具体的に研究してみることだと思う。私たちのまだ知らない原因があるのかも知れない。しかし、おそらく、ゲームにのめり込むというのは、とても人間的な行為なのであって、人間の精神だけが、あるいは人間の脳だけがそのことを可能にしていることも確かなのだ。
そして、少なくとも、子どもは小学生の間は、パソコンやケータイなど電子機器は、慣れ親しむ程度でいいのだ。そんなものがなくても学習ができることが大事だし、基本的な読み書き計算には、電子機器は必要ない。むしろ、紙と鉛筆こそが必要だ。声を出して読んだり、また手を使って紙の上に書いたりすることは、ある種の運動を伴っている。そして、その運動が脳に作用する。こうして、脳は学習していくのだと思う。学習は、頭の中だけで行うのではなく、体全体を使うことを通して行われるのだ。
そう考えると、むしろ、パソコンやケータイがないと新しい情報が入手できない状況こそが問題なのかもしれない。いつの間にか、いろいろな情報がインターネットでしか得られなくなってしまっている。政府や企業のいろいろな情報開示がインターネットで公開すればよいという時代になっている。だから、私たちは、インターネットから無縁でいることは不可能な時代にいるわけだが、使わなくてもいいときはできるだけ使わないようにした方がいいと思う。