バックカントリー

岩手県盛岡から四季通じて自然、食の情報を発信します。

大陸飯店餃子・ライス

2014-05-03 15:48:18 | グルメ
クライミングのため昼食はやはり少しでも体重を減らす事も考えました。
そこで大陸飯店の数ある美味しいメニュー中から餃子に半ライスにしました。 ひさびさになる餃子はほかと違いちょっと甘いがとくちょうになります。

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みたけの外壁クライミングボード

2014-05-03 15:07:17 | アウトドアスポーツ
合言葉
昨年の11月にはまだ旧クライミングボードがありちゃんと上るのはそれ以来ひさびさになりました。 今日はB壁を借りた仲間と一緒になりました。 今日は足ならしになり当分はこの壁の傾斜になれるのが目標になります。
今日は休みながらハング下までが精いっぱいでした。これをこえられるまでがけっこうたいへんそうです。

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(続)手もとにもあったウッドのピッケルエバニュー NEW RCC 4 型

2014-05-03 01:53:43 | アウトドアスポーツ





ある。大江によると原因は交際相手を親に反

対されたからとのことである。このため2型
は300~400本程度で生産ストップとなった。

9.エバニューへの生産移管
その後モデルRCCの生産はエバニューに
移管された。1960年(昭和35年)のことで
ある。エバニューに移った経緯は明らかでは
ない。これについてはRCCⅡのメンバーで
あり、当時エバニューの顧問をしていた芳野
満彦によると「私が働きかけをしたというこ
とではない。元々田中とエバニューとは付き
合いがあり、田中が家を出る際にエバニュー
に生産移管を依頼したのではないか」とのこ
とだった。芳野によるとエバニューではピッ
ケルを西日暮里にあった鍛冶屋に作らせてい
たとのことである。この鍛冶屋の屋号は不明
であり、当時60才前後の主人が一人で作って
いたとのことである。
この鍛冶屋が作ってエバニューが販売した
モデルRCCを3型と称しておく。3型は数多
く生産されたので多くのクライマーが手にし
た。3型は初期型及び2型とは若干形状が異な
っている。それはピックの前傾角度が初期型、
2型の大江オリジナルほどきつくないという
点である。どうしてこのような変化があった
のかは分かっていない。エバニューでは197
3年(昭和48年)頃まで生産していた。エバ
ニューでのモデルRCCの生産は年間100本
余りとして14年間で2000本程度と推測でき
る。もっと作られたかも知れないが一人でや
っていたという鍛冶屋の生産能力を考えると
多くても5000本は越えなかったと考える。

10.当時のその他のピッケル
大江は東京トップの顧問をしていたことも
あり、モデルRCCに続いてシルバーザッテ
ルの設計も行った。また樋口産業(現クロス
ター)のタンネという名のピッケルも大江の
設計によるものであった。

写真13、シルバーザッテル(東京トップ製)

写真14、タンネ(樋口産業製)

また蛇足ながら今回の調査でエバニューの
代表的ピッケルであるグレッチャーとローツ
ェは芳野の設計による物であったことが判明
した。ヘッドに刻まれたモデル名を表す独特
の文字は芳野の書いた物である。(以上文中敬
称略)

写真15、グレッチャー(エバニュー製)

10.謝辞

今回の調査にあたっては当人である大江幸
雄氏及び芳野満彦氏にご協力頂いた。ここに
深く感謝申し上げる次第である。また当会の
理事であり大江氏と同じ日本山嶺倶楽部所属
の羽田英治氏には大江氏とのコンタクトを取
って頂いた。またこれを機会に当会に入会し
た和田好弘氏からは貴重なモデルRCC2型
を拝借した。合わせて感謝申し上げる次第で
ある。

[参考文献]
・佐瀬稔「喪われた岩壁-第2次RCCの青春
群像」山と渓谷社、1982年
・新田次郎「栄光の岩壁」新潮社、1973年
・碓井徳蔵「登山用具入門」池田書店、1960

・吉田二郎「山と渓谷、1958年(昭和33年)
11月号、登攀用具を再点検する(2)ピッケル」
・エバニュー社カタログ1964年(昭和39年)

そしてこのピッケルエバニュー NEW RCCはその後1972年~75年のわずかな期間、製造された4型になるようです。
その後エバニューではウッドのピッケルの製造をする事はなかったようです。 それは他のメーカーも同様になりやがてそのすべてが金属製にかわりそのウッドの役目は終焉をむかえる事になりました。

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手もとにもあったウッドのピッケルエバニュー NEW RCC 4 型

2014-05-03 01:52:26 | アウトドアスポーツ





合言葉
手もとにエバニューのウッドのピッケルがありました。ここは老舗の登山用品を扱う会社になります。
何時、買ったかはさだかではありませんけど平成になるあたりだったとおぼろ気な記憶があります。
市内にまだあったスポーツ店の登山用品のコーナーにそれは、ほこりをかぶり置かれてありました。
山道具の中でもピッケルに憧れがありました。それを使う山に行く事はありませんでした。その機会が訪れる事は無く月日は流れました。
ホームページには、このエバニューのウッドのピッケルに関して調査した興味深い記事がありました。
1.はじめに
本会第2回大会に於いて筆者は「世界のピ
ッケル鍛冶概説」と題してスイス、フランス、
イタリア、オーストリアそして日本のピッケ
ル鍛冶について急ぎ足で説明をした。その折
り、西本副会長から「モデルRCCはどこで
作っていたのか?」との質問を受けた。私は
モデルRCCが第2次RCC同人の大江幸雄
設計による物であることは既に知っていてそ
れがエバニュー製であることは知っていたの
で「エバニューです」と答えた。
しかし私はその後、エバニュー製ではない
モデルRCCが存在したことを知った。それ
はTAKAYUKIという人物が作った物であった。
そしてこのピッケルには極めて興味深い歴史
があるのではないかと考えて調査を始めた。

写真1、エバニュー製モデルRCC

2.モデルRCC登場の経緯
第2次世界大戦後、ピッケルの主流はスイ
ス物からフランスのシモンやシャルレの手に
なる物に移った。彼らのピッケルは軽量かつ
実戦的な形状であった。特にヘッドにカラビ
ナを掛けるための穴が開いたモデルが出始め
ると、この流れは決定的になった。シモンの
スーパーD及びE、シャルレのモンブラン及
びスーパーコンタなどが一世を風靡した。門
田を含めた国産メーカはそれらのコピー品を
作るような有り様だった。
しかし1956年(昭和31年)5月のマナスル
登頂に端を発した登山ブームが訪れると新し
い登山用具開発の機運が高まった。そこに登
場したモデルRCCはシモンやシャルレの物
真似とは違い、それまでのピッケルとは一線
を画す形状であり、また先鋭的な第2次RC
Cの名が冠されていたため大いに注目を浴び
た。

3.第2次RCCと大江幸雄
第2次RCC(Rock Climbing Club、以下
RCCⅡ)は奥山章らが中心となり、1958
年(昭和33年)1月31日に結成された。大正
時代の旧RCC創立者藤木九三も招き、創立
会員は22名だった。RCCⅡは現在も存在し
ている組織である。
このRCCⅡ創立会員でもある大江幸雄は
1932年(昭和7年)年2月、役人であった父
戦後ピッケルの雄「モデルRCC」

戦前戦後を通じて日本のピッケルの多くは輸入物を模倣し
た物が多かった。しかし昭和30年代に登場したモデルRCCは
輸入物の長所を取り入れながらも独特の理論に基づいて作ら
れた独創性溢れるピッケルであった。
諏訪部 豊(静岡県)
[日本山岳文化学会 ウッドシャフトピッケル研究分科会]

親の赴任先、旧満州で生まれた。芝浦工業大
学時代は山岳部員であると同時に日本山嶺倶
楽部にも属していた。滝谷第2尾根P2フラン
ケ芝工大ルートの初登攀者として有名である。

写真2、若かりし頃の大江幸雄氏

大学卒業後は日本専売公社(現JT)に入
社し、機械技術者として定年まで活躍した。
現在は千葉県茂原市の郊外で夫人と共に悠々
自適の暮らしをしている。最近は山の絵を描
くのが楽しみだそうで、内部の造作を殆ど自
分で行ったというアトリエ「セロトーレ」に
いることが多いそうだ。

写真3、大江幸雄氏近影(アトリエにて)

大江は学生の頃から登山用具の開発に興味
を持ち、既に埋込ボルトの開発に着手してい
た。これは後にRCC型ボルトとして世に出、
現在でも販売されている。

写真4、RCCボルト

大江はボルトと平行してピッケルも考案し
ていた。大江はアッシェンブレンナーの使い
良さに惚れ込んでいた。アッシェンブレンナ
ーはオーストリア・チロル地方スチュバイ谷
のフルプメスにあったフルプメス社が製造し
たピッケルである。フルプメス社は後にスチ
ュバイ社に吸収され、モデル・アッシェンブ
レンナーはその後も生産された。

写真5、モデル・アッシェンブレンナー

4.大江の目指したピッケル
大江は先鋭クライマーとして、また技術者
としてピッケルについて一家言持っていた。
それはピッケルはあくまで道具であるべきで、
優雅さは不要であるということだ。
大江が目指したピッケルは次のような物だ
った。
①ピック下辺はアッシェンブレンナーのよう

に直線の方が氷雪に刺した後抜けにくい。
②手がかりとして刺した時や滑落時に確実に
ブレーキとなるよう氷雪と接触する面積を広
くしたい。そのためにはピック下の幅をなる
べく広くしたい。
③それに対してピック側面は厚くする必要は
なく、強度の許す範囲で削り取ってしまいた
い。
④ブレードは湾曲していた方が氷雪を削るの
に適している。
⑤ピック先端はベントや山内のような点では
なくてアッシェンブレンナー、あるいはシモ
ンやシャルレのように線、即ちノミ型の方が
良い。岩に付いた氷は点状のピックでは刺さ
るだけであって上手く割れてくれない。
⑥シモンやシャルレのようにシャフト延長上
にカラビナホールを開けるとヘッドの強度が
落ちるのでブレードにカラビナホールを空け
たい。

写真6、ブレードに空けたカラビナホール

5.モデルRCCの登場
このような設計思想に基づいて大まかな形
は頭の中にできていた。後はその構想を図面
に落として試作に取りかかるばかりになって
いた。
結成間もないRCCⅡでは代表的登山道具
であるピッケルにRCCの名を冠して売り出
すことがRCCⅡの知名度向上に繋がるとの
思惑があった。このため大江の新ピッケル案
を聞いた奥山らは大江に製品化を促した。こ
うしてRCCⅡ発足と同じ年、1958年(昭
和33年)9月頃、モデルRCC初期型が世に
出た。
大江の話では初期型は50本程度生産され
たようだ。数が極めて少なかったために残念
ながら初期型は未だに現物が見つからない。
また図面も写真も残っていない。大江の手元
にもない。そこで雑誌の記事や広告のイラス
トを参考にし、後に出た2型を画像処理して
描いた初期型が写真7及び8である。

写真7、モデルRCC初期型(推定1)

写真8、モデルRCC初期型(推定2)

大江の設計思想通りピック側面は大きく削
り取ってある。ピック側面の削り取りが推定
1のようにピック部だけであったのかまたは
推定2のようにシャフトを横断してブレード
近くまで行っていたかどうかは大江自身も記
憶がないのではっきりしない。

資料1、「山と渓谷」記事

資料2、「梓」の宣伝広告

資料1は雑誌「山と渓谷」1958年(昭和3
3年)11月号の記事中のイラストである。ま
た資料2は雑誌「岳人」1959年(昭和34年)
1月号に載っている「梓」の広告である。これら
によれば初期型は推定2のような形状であった
と判断できる。

6.モデルRCCの作者
モデルRCCの最初の作者は田中隆行(ま
たは隆之)だった。田中に関しての詳しい情
報はないが東京自由が丘で親子で鍛冶屋をや
っていたことは分かっている。大江が大学生
の頃、自由が丘の学友を訪ねた際、たまたま
そこに田中がいたのが知り合うきっかけだっ
た。田中は登山家ではなかった。
RCCⅡによるピッケル製作の話が決まっ
た時、大江はそれを田中に作らせることにし
た。しかし専門の鍛冶屋にとってもピッケル
作りはなかなか難しく、最初は大江の引いた
図面通りに作るのに苦労したようだ。およそ
20本程度の試作を経てようやく製品として
完成した。

7.モデルRCCの評価
この初期型は当時東京駅八重洲口にあった
秀山荘、及び奥山章が経営していて飯田橋に
あった梓で販売された。
名にし負うRCCⅡが出したピッケルであ
る。あれこれ評価を受けるのは当然で、シモ
ンやシャルレに比べて「重い」という評価が
出た。これに関して大江は「これはシャフト
にヒッコリーを使った結果である。ヒッコ
リーは重いが丈夫であり、シャフトはぜひ
ヒッコリーにしたかった。またピッケルは
重量配分が重要であり、ヘッドだけ軽くす
る訳にはいかず、やや重めの仕上がりとな
った。しかしシモンやシャルレに比べて極
端に重いとも言えない」という見解であっ
た。
また「モデルRCCは焼きが甘い」とい
う評価も受けた。これについても大江は「ピ
ック先端を普通のヤスリで研ぐことができ
るようにわざと焼きを甘くした。飽くまで
もピッケルを道具と考えた結果である」と

語っている。

8.モデルRCCの変化
さて、初期型は翌1959年(昭和34年)に2
型に変化した。2型はブレードだけでなくシ
ャフト線上にもカラビナホールが開いてい
る。これは大江の話ではブレード先端でザ
イルを擦ってしまう事例が発生したためと
のことである。しかし筆者はそれ以外にや
はりシャフト線上にもカラビナホールがな
いと古くさく見えたためではないかと考え
ている。
また初期型のピック側面削り取りが推定
2のようであったか否かに関わらず、シャ
フト線上にもカラビナホールを空けた影響
で削り取りはシャフトまで及ぶことはなく
なった。

写真9、モデルRCC第2型

ところで大江がこだわったピック下面の幅
はどうだっただろうか。写真10は2型を下か
ら見た写真である。当時のシモン・スーパー
D及びシャルレ・スーパーコンタとピック厚
みを比較するとモデルRCCがかなり幅広で
あったことが分かる。

写真10、ピック下面(上からシモン、モデル
RCC、シャルレ)

2型も初期型同様に秀山荘と梓で販売され
た。初期型、2型共にピックには製作者の名
前TAKAYUKI、及び設計者の名前Design S.OOE
が記されている。ピック反対側に記された
Model RCC も含めて銘は打刻ではなくて薬品
処理、いわゆるエッチングによって刻んだ。

写真11、モデルRCCの銘(表)

写真12、モデルRCCの銘(裏)

こうして販売開始されたモデルRCCであ
ったが1年余りで作り手がいなくなってしま
った。それは田中が家を出てしまったためで

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