ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

「小さな家の思想/方丈記を建築で読み解く」長尾重武著

2022-07-09 10:46:39 | 

今回は、エッセイの会の仲間の一人である長尾重武氏が最近出された本、

「小さな家の思想/方丈記を建築で読み解く」(文春新書)

について、私が書いた簡単な解説と感想文を載せたいと思います。

長尾氏は武蔵野美術大学の名誉教授で専門はイタリア建築史とのことです。

以下の文章は合評会のために書いたものです。

小さな家の思想/方丈記を建築で読み解く』を読んで。

 「ミニマリズム」あるいは「ミニマリスト」という言葉は、最近になって流行りだしたと思っていたが、実は八百年も前に鴨長明が「方丈記」を書いた頃から連綿と伝えられてきた住居および人生についての思想だということが、この本を読んでわかった。

「方丈記」は原稿用紙にするとわずか二十枚ほどの短編だという。にもかかわらず、今もなお読み継がれている名作である。この「方丈記」を紐解くに当たって著者は、

「私の専門である建築の立場から『小さな家』というテーマで解読を試みまとめてみました」と「はじめに」に書いている。しかし、建築家という立場以上に、ここには著者の人生哲学が盛り込まれていて、非常に読み応えのある本だった。

 まずは、鴨長明の生きてきた時代と長明の経歴が詳しく語られる。  
当時の日本(十二世紀)では災害が多発した。「方丈記」の前半を占めるのはこの災害の記述であるという。「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」「元暦の大地震」の五大災害は「福原遷都」を除けばいずれも自然災害であり、当時の日本人がいかに自然の猛威に晒されていたかがよくわかる。そしてそれは、このエッセイのテーマである「人と栖の無常」につながり、「実は私たちの普段の日常も、こうした災害時のように危ういものだ」という無常観に行き着くのである。それはまた、東日本大震災を経験した私たちの現在と重なってくる。

 本の前半では、鴨長明の人物像が詳しく語られる。
 長明が生まれたのは十二世紀半ば(1153年頃)、保元・平治の乱の頃で、平安の貴族社会から鎌倉の武家社会への移行期であった。自然災害のみならず世の中も動乱の時代だった。
 長明の父は下鴨神社の正禰宜惣官(神社のトップ)の職にあったが長明が二十歳の頃に他界。神官の要職に就くはずだった長明の運命が、父の死により暗転する。しかも、二十五歳から三十三歳にかけて、相次いで五大災害が起き、彼の無常観はいっそう増していったことだろう。

 一方、長明は神官の職にはつけなかったものの、歌人として名を馳せた。勅撰和歌集に歌が載り、後鳥羽上皇や藤原定家に認められ、勅撰和歌集の編纂にも携わるようになり、歌人として円熟期を迎えるのだが、五十歳を過ぎた頃、突然出家する。
 後鳥羽院が長明を河合神社の禰宜に推薦しようとしたところ、長明の父が他界したときと同じように行く手を阻む輩が現れ、長明の神官就職はまたもや頓挫するのである。長明はこれに絶望し、出家したのではないかと著者は書いている。

 出家した長明は、大原に隠棲する。西行をはじめ多くの聖たちが住んだ場所である。ここで長明は方丈庵の構想を練り、最初の庵を建てた。五十六歳の時に、大原から日野山へ移って本格的に庵を結ぶ。これが方丈庵である。
 都から離れた山間に方丈庵を建て、そこを終の棲家とした。

 方丈庵の間取り、室内の様子、日々の暮らし等についても図入りで詳しく語られる。
「今、さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す」と「方丈記」にある通り、方丈庵は長明が最後にたどりついた理想の住居であった。
 方丈庵は車二台で運搬可能な組み立て式モバイルハウスである。現代のミニマリストに通じるミニマムな住居だ。

 都から離れた山間で周囲を豊かな自然に囲まれていたが、都から訪ねてくる客もあり、近所の子供との付き合いもあって、世捨て人ではなかった。長明は和歌のみならず管弦(音楽)もたしなんでおり、終の棲家での暮らしを楽しんだ様子が描かれる。方丈庵は往生のための住まいであり、同時に「死までの時間をいかに過ごすか」も重要なテーマであったという。

 相次ぐ災害と動乱の時代に翻弄され、波乱の人生を過ごしてきた長明が、最後に行き着いたのが方丈庵という小さな住まいだったのだ。

「方丈記は『死の形』を自らの小さな家で構想しえた一人の文人の、生の最終章のあり方を力強く述べた作品だといえます」と著者は書いている。そして、
「方丈記が読み継がれたことの本質はそこにあるのかもしれません」と結ぶ。

 これこそが、著者がこの本を通して最も語りたかったテーマではないかと思う。

 本の後半では、「方丈記」を離れて、方丈庵を継ぐ思想「数寄の思想」から、茶の湯、茶室に言及し、江戸期の芭蕉、良寛、北斎について語り、海外にも目を向けて、アメリカのヘンリー・ソローの「ウォールデン 森の生活」について述べ、「真に豊かな生活とは何か」を問いかける。そして、現代のル・コルビジェ等の建築についても考察し、現代のミニマリズムに至る、という構成である。

 私がかつて読んだ現代のミニマリストたちの本、たとえば、ゆるりまい著『わたしのウチには、なんにもない』にも「方丈記」と共通するコンセプトがある。東日本大震災を経て、モノであふれた家を見直し、日常を見直す機会を得たというのだ。この本だけでなく、人間に必要なモノは何なのかと自らに問いかけ、最小限のモノで暮らすことを始めた若い人たちが、昨今大勢輩出している。

 鴨長明の「方丈記」のDNAはこうして現代の若者たちにも受け継がれており、それはまた、私たち団塊の世代の終の棲家を考えるきっかけにもなる重要な課題である。

 住み処について考えることは、生きるということについて考えることであり、終焉について思いを巡らせることでもある。 
 災害の多い日本に住むからこそ見えてくる、生きるとは何か、という大きなテーマが、鴨長明の人生を通して語られていて、非常に好感が持てる。それはいつの時代も変わらない大きなテーマなのだと私たちに教えてくれる。

エッセイの会での長尾氏は、ダンディーでユーモアのある素敵な紳士です。

興味のある方はぜひ読んでみてください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする