いよいよ梅雨明けでしょうか。暑くなってきました。
さて、今日は
「しあわせの絵具 愛を描く人モード・ルイス」
(2018年 カナダ・アイルランド合作 アシュリング・ウォルシュ監督)
を紹介します。これも実話。最近、実話が多いなあ。
実話の映画化が全て面白い、というわけではないのですが、やはり事実の重みというのはあるかもしれません。
この映画の主人公、モード・ルイスはカナダの有名な絵描きさんです。
最初、モーゼスおばあさんの映画かと思ったのですが、違います。似てるけど。
二人とも素朴派(ナイーブ・アート)の画家で、独学で絵を学んでいます。
また二人とも、リウマチを患っていた、というところも同じです。
リウマチを患いながら絵を描き続けた画家としては、ルノワールやデュフィなどが有名です。ルノワールの晩年は手の変形で絵筆が持てず絵筆を手に括りつけて描いていたそうです。
私もリウマチ患者の一人として、その壮絶さの一端はわかります。
ストーリーはシンプル。
母を亡くして実家を追い出されたモードは、小さな田舎町の伯母の家に引き取られます。
彼女は若年性リウマチを患い、足をひきずりながら歩くので、子どもたちに石を投げられたりしますが、実はとても賢い。
しかし彼女を預かった伯母は事ある毎にモードをいじめます。彼女は何としても自立したい。
そこで、エべレットという男の家に家政婦として志願します。
このエベレット、孤児院で育った非常に粗野で乱暴な男です。
モードのたっての願いで彼女を雇いますが、おまえは我家では犬以下の存在だと宣言します。キッチンと寝室のみの小さな家に、モードは家政婦として住み込むのです。
それから40年の間、二人は共に暮らします。この二人の半生を描いたのがこの映画。
モードを演じているのが、「シェイプ・オブ・ウォーター」のサリー・ホーキンス。彼女の怪演は見どころの一つ。夫のエベレットを演じているのが、イーサン・ホーク。
エベレットは粗野な男の例にもれず、威張り散らし時にモードを殴ったりしますが、モードも負けてはいません。
彼女はエベレットの中にある人間性と優しさに気づき、実に巧みに彼を懐柔していきます。
決して彼に逆らうことなく、気がつけばいつのまにか彼女の望み通りになっている、という辺り、昔の女性の男性操縦法が(いいかどうかは別として)あますところなく描かれます。
モードは実に賢い女性なのですね。
でもねえ、見ていて辛くなるのですよ。
リウマチを患い足をひきずりながら歩くモード。その彼女が、家事をすべてこなし(そうしないと解雇すると脅されているから)、大きくて重たい鍋を苦労して運ぶのを傍で見ながら、決して手伝おうとはしないエベレット。
おまえは犬以下だと宣言され、それでも無抵抗にうなずくしかないモード。
彼女の絵を最初に認めたのは、この土地で夏を過ごすNYから来たサンドラという女性でした。
サンドラに
「何があなたをかりたてているの?」と聞かれ、
モードは絵筆と窓があれば満足なの、と答えます。
「私は窓が好き。鳥が横切ったり、ハチが来たり、毎日違うわ。命があふれている。命の輝きがひとつのフレームに、そこにあるの」
モードにとって、絵を描くことは生まれながらの才能に導かれたものであると同時に、セラピーでもあったのだろうと思います。
絵を描くことがなかったら、彼女はとっくにエベレットとの生活を諦め、あるいは逃げ出していたのではないでしょうか。
でも、逃げ出すわけにはいかない。彼女には行くところがないから。そんな彼女を助けたのは絵を描くこと。そして、エベレットもまたそんな彼女に助けられたのでした。
でもねえ、これ、1930年代から約40年間の話、しかもカナダの辺鄙な田舎町での話なので、仕方ないといえば仕方ないのですが、男尊女卑にも程がある。
モードは実に賢い女性なのですが、それでもあまりある苦労を強いられます。この話のどこがラブストーリーなんだ、純愛物語なんだ、と私は強く思うのです。
もちろん純愛の部分もあるし、エベレットがどれだけモードに救われたか知れないとも思うけど、でも、これを純愛物語として片付けてはいけない気がするのです。
「おしん」の時代じゃあるまいし、これを今さら美談として映画化するってどうよ、と思うわけですよ。
エンドロールにある実際のモードとエベレットはもっと幸せそうです。エベレットの笑顔を見ると、彼が決して映画のような粗野で荒々しい男だったとは思えない。
この映画が私たちに何を告げようとしているのか、今いちど考えてみる必要がありそうです。
美しい音楽とかわいらしいモードの絵に彩られ、美談に仕上がってはいるのですが、騙されちゃいけない。
うかうかしてるとこの手の美談に乗せられて、愛こそすべてよねえ、みたいな価値観に持っていかれそうになるから。
自分をしっかり保っていましょうね。