ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

「シン・ゴジラ」と「ハドソン川の奇跡」

2017-05-17 21:05:04 | 映画


久しぶりにツタヤでDVDを借りてきた。

「帰ってきたヒトラー」「ハドソン川の奇跡」「シン・ゴジラ」

「帰ってきたヒトラー」はイマイチ。
ヒトラーの人物造形は見事だし、皮肉は効いてるけど、何しろ面白くない。


「シン・ゴジラ」

3度目。
でも、やっぱりゴジラは劇場で見ないとね、と思った。

  おお、ゴジラ、でけええええええ~

という感想がネット上にあったけど、その一言に尽きる。ゴジラは。
お茶の間で見るものじゃない。劇場の大画面で、大勢の人たちと一緒に、神がかりの状態で見ないと。

それでも、私はゴジラが大好きだなあと改めて思った。
巨大ゴジラが巨神兵のように火を吹くシーンは心底しびれる。
この世の終わりかと思うような、すさまじい火炎、そして背中から放射する白熱光線。
東京の街を焼き尽くす地獄の炎の中心に、その巨大な姿を黒々と浮き上がらせて、都心に向かって歩みを進めるゴジラの姿には、やはり神を感じる。神の名がふさわしい。
何度でも見たい。

でも、これは一体どういう深層心理から来るのだろうか・・
絶対に3・11じゃないよな、と改めて見て思った。
何なんだろう・・

もう一度初代ゴジラから見たくなった。
劇場で再上映してくれないかなあ・・


「ハドソン川の奇跡」

よかった。
さすがクリント・イーストウッド監督作品。
2009年1月、アメリカの旅客機がハドソン川に不時着したけど乗員乗客全員無事だった、という事件がベースとなった話で、トム・ハンクスがサリ―機長を演じている。
原題は「Sully」

サリー機長は155人の乗員乗客の命を救ったにも関わらず、
国家運輸安全委員会に、左のエンジンは作動していたはずだし、シミュレーションでは他の空港に着陸できたはず、として訴えられる。
英雄から一転して容疑者へ。

トム・ハンクス、老けたなあ。
アーロン・エッカートが副機長やってたけど、この人も老けたなあ。
と(自分を棚にあげて)思った。

アメリカという国は恐ろしい国だ、とも思った。
あれほどの偉業を成し遂げたヒーローが一転して、容疑者へ。
サリー機長は仕事もキャリアもすべて失いそうになる。

155人の命を助けた機長が、40年かけて培ってきたすべてを失うという、
アメリカという国の過酷さ。

どんなに優秀な機長であろうが、どんな経歴やスキルの持ち主であろうが、
たった一度のミスで(しかも乗客を救ったにも関わらず)
容赦なく切り捨てる。

つくづく恐ろしい国だ。
アメリカって。
アメリカ資本主義って。

自社の利益のためなら、人を病気にしたり殺したりするのもやむを得ない、
貧乏人は死んでも仕方ない、
という国だから、当たり前といえば当たり前なのだけど。

それに対峙するには、サリー機長のような確固とした信念と経験がモノを言うのだけど、
信念も経験もスキルもない我々庶民が、もしこのような立場に追い込まれたら、
死ぬしかないんだろうなあ・・

ということを強く感じた映画だった。
サリー機長の揺れ動く心理描写が巧いとか、いろんな映画評はあるけど、私が感じたのはそれ。
そういう国が、今、世界の中心にいるということ。

いやあ、日本は甘ちゃんだし、世界はなかなかシビアですねえ。
生き残れるのか、日本?

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カタカムナ考 10 (偽書考)

2017-05-15 13:10:15 | 日本語
カタカムナに戻ります。

前回は『東日流外三郡誌』という東北地方の古い歴史について書かれた本が、実は偽書であった、ということを暴いた本「偽書『東日流外三郡誌』事件」についてでした。

そこで、今回は、偽書とは何だろうか・・
ということを改めて考えてみたいと思います。
もしも『東日流外三郡誌』がフィクションとして公開されていたなら、
全く問題なかったはずです。

想像をたくましくすると、
フィクションであるはずのこうした物語が、年月を経る間に、いつのまにか真実の歴史とすり替わってしまう可能性は、全くないとは言い切れないのではないかと思うのです。

  東北に限らず、常に政治に翻弄されてきた庶民の立場から見た歴史観とも重なり、
  そうであったらどんなによかっただろう、きっとそうだったに違いない、
  偽書であろうがなかろうが、信じたい、という気持をかきたてられるのは、
  何も東北の人々に限りません。

と前回書きましたが、人々はたとえ偽書でもいいからこうした歴史を切望していたはずで、だとすると、この偽書は人々の切望を受け止める形で(人々の無意識の願望から、和田喜八郎という人物を通して)生まれた物語である
と言う風にも言えるのではないか。

歴史上に残る伝説の数多くはフィクションです。
古事記・日本書紀しかり。旧約聖書の創世記だってフィクションです。

前回の記事で、安本美典の言葉「真実は一つである」を引用しましたが、
今は少々疑問に感じています。

 真実って一つだろうか?
 それは誰にとっての真実なんだろう・・

ともあれ『東日流外三郡誌』は偽書で、今や疑う余地はありません。
あちこちからかき集めた、虚実あいまった情報を、適当に配置し、和田喜八郎が造りあげた本で、事実ではありません。
それでもなお、そこには尽きせぬ魅力があり、
だからこそ、人々を惹き付けてやまないのだと思います。

人々はこうした「もしかしたらありえたかもしれない歴史」を切望し、人々が切望することによって、あるいはこうした捏造された歴史が後世に残されていく可能性だってないとはいえないと思うのです。

歴史というのは、そもそも為政者、侵略者、権力者の側から見た「歴史」であって、それ自体真実かどうかわからないのですから。
庶民の側の偽書が、こうした権力側の歴史に取って代わられる時が来る、という可能性は否定できないと思うのです。

もちろん、だからといって何もかも無批判に受け入れるのは危険です。
私たちがいかに騙されやすい存在であるか、という認識は常に持っていたほうがよい。

それはさておき、
実は、カタカムナもこうした偽書の一つではないかと言われています。

カタカムナ発見の経緯が少々神がかっていること。
楢崎皐月が六甲山系の金鳥山で出会ったという平十字(ひらとうじ)は、その後彼の前に現れることはなく、
また、カタカムナ神社という名前の神社も存在していなかったこと。

そして、楢崎皐月の経歴、
戦時中軍関係の仕事をしていたとあるが、実は原子力開発に関わっていたという説もあり、また自衛同盟という右寄りの団体の中央委員でもあったこと(『謎のカタカムナ文明』参照)。

さらにまた、
肝心のカタカムナ文献が、楢崎の後継者である宇野多美恵の軽井沢の別荘全焼により全て失われてしまったという事実。宇野多美恵自身もその時焼死した。

貴重な歴史的文献が火事で失われるという、きわめて重大な事件の背景には、何らかの見えない力が働いた可能性があるのではないか。
つまり、カタカムナにはそれほど重要なことが隠されているのでは・・と想像をたくましくしてしまいます。

残されたカタカムナ文献は、楢崎がカタカムナ研究のために立ち上げた「相似象学会」が発行していた「相似象学会誌」という機関紙のみ。そして、相似象学会も宇野多美恵の死後消滅した。

こうした事柄の数々が、どうも怪しい、カタカムナは楢崎の捏造ではないか、あるいは、オカルト、秘教秘儀の類ではないか、と疑いの目で見られる原因かもしれません。

なぜ、楢崎皐月はカタカムナを一般公開しなかったのか。
なぜ、後継者を宇野多美恵一人に絞ったのか。
なぜ、文献が火事で焼失したのか。
なぜ、相似象学会は消滅したのか。

これらの問いに対する答えは、どこかにあるのかもしれませんが、
インターネット、あるいは入手可能な本を読んだ程度ではわかりませんでした。

でも、
カタカムナが伝える世界や宇宙の成り立ちは、
きわめてロジカルでシンプルで、現在の量子力学やフラクタルに通じるものがあり、
大変魅力的です。

そこで、
もう少し、カタカムナそのものに絞って、私自身の直感をたよりに、
一体、これはどのようにして私たちの元にもたらされたのか、
考えてみたいと思っています。

吉野信子(『カタカムナ言霊の超法則』の著者)はカタカムナ解読にあたり、
「相似象学会誌」を読みこんだけれど、そこには自分の探していたものはないと判断し、本を括ってしまいこみ、
直感でカタカムナ解読の努力をしたといいます。

同じ方法で考え続けていたら、
もしかすると、私にも何らかの解読の糸口が見つかるかもしれない・・

人はこれをオカルト、といいますが、
オカルト、というのは、そもそもラテン語のoccult(隠されたもの)という言葉から来ています。

科学的な思考も、今では量子論のように、素粒子の振る舞いが粒子なのか波なのかわからない、箱の中の猫は「生きている状態」と「死んでる状態」が重なりあっている、など、むしろオカルトに近くなってきています。

カタカムナ関係の本を読みこみながら、私自身の直感も鍛えていきたいと思っています。
(敬称は省略しました)

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祝 かさこ塾生1000人突破!

2017-05-12 10:09:48 | 日記
かさこ塾の塾生がついに1000人を超えた、というニュースが入ってきました。
ここ数日、Facebookのかさこ塾サイトは、ほぼお祭り状態です。

3月にかさこ塾に入り、いろんなことを学びましたが、
一番の収穫は、
仲間が出来たことだと思います。
しかも、1000人!
しかも、皆若い!

そこで、私は全国のシニアの仲間たちに言いたい!
同世代とばかりつるんでないで、たまには若い人と楽しもうよ!
かさこ塾で知り合った仲間は平場で対等に付き合えるので、
年齢や経歴は関係ない。

若い人たちの集まりだと、
私のようなシニア世代は浮いてしまいがちだけど、
かさこ塾では仲間の一人として
一緒に楽しむことができる。
みんなみんな優しかった!

あれは、お祭りだったのだなあと、今も思う。

全国のシニアの諸君、

かさこ塾に行こう!
きっと、
人生、まだまだこれから!
と思えるから。

とはいえ、
塾ですから、楽しいことばかりではありません。
毎回出される宿題の数々。
一週間でどうやったらあの宿題をこなせるのかと悩んだものですが、
終わってみると、
なんと充実した日々であったろうと
つくづく思います。

名刺も作ったし、パワポも出来るようになったし。
ブログ更新もしてるし(毎日じゃないけど)
収穫は大きい。

かさこ塾新入生の諸君、
これから、あのわくわくが始まるのかと思うと、
とても羨ましいです。
  
人生はいくつになっても新しい発見があり、
新しい出会いがあります。
ほんと、
人生、捨てたもんじゃない。

いくつになっても、
わくわくしながら生きていこうじゃありませんか!
いつでも一年生になれるんだから。
  
  ♪♪
  一年生になったら、一年生になったら、
  友だち100人できるかな
  あれ、
  1000人できちゃった!

かさこ氏って、つくづく凄い人なのだなあ。



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カタカムナ考 9 (「偽書『東日流外三郡誌』事件」について)

2017-05-09 13:13:45 | 日本語


「偽書『東日流外三郡誌』事件」
この本は、催眠術にかかりかけていた私の頭をガーンと殴ってくれました。

古史古伝にハマり、もしかしたら、本当に「竹内文書」や「東日流外三郡誌」のようなことがあったのかもしれないと、半ば思いかけていたところです。

「竹内文書」については、あまりに荒唐無稽で、何をか言わんやなのですが、それでもはるか昔にそんなことがあったとしたら、面白いなあという世界ではありました。

キリストは日本に来て日本で死んだとか、大昔、日本は世界の中心で、日本から様々な人種(青、黄色、赤、白、黒)が世界に拡散していったとか、天皇は「天浮舟」という飛行機のようなもので世界じゅうを駆け巡っていたとか・・。

でも、『東日流外三郡誌』の歴史はもっと現実的です。
かつて、東北の地に「アラハバキ」という一族がいて、大和朝廷の東征にも屈せず一大都市を築き上げ、大陸と貿易をして栄えていた、というのです。

「まつろわぬ民」のあり得たかもしれない歴史が人々の目の前に繰り広げられたとき、偽書でもいいから信じたい、という気持になった人々を責めることはできません。

これを暴露したのが、東奥日報の記者の齊藤光政です。
(偽書疑惑については彼だけでなく多くの人たちが関わっていますが)
彼は10年に渡って「東日流外三郡誌」を取材し続け、この文献の発見者である和田喜八郎という人物について多方面から検討し、この本が偽書以外の何ものでもないことを、完膚なきまでに暴き出したのでした。

和田喜八郎によると、1947年、突然自宅の天井から煤だらけの古い長持ちが落下してきた、その中に「東日流外三郡誌」の文献が入っていた、というのです。

しかし、彼の死後、自宅を調べたところ、長持ちを置くようなスペースは天井裏にはなく、梁の強度も低く、そこに大量の文献があったなどとはとうてい考えられない、ということが判明したのでした。

『東日流外三郡誌』の文献は4800冊に及ぶといいますから、その量と重量たるや膨大なものであるはずです。

しかも、すべて和田喜八郎本人の癖のある字で書かれており、彼は原本(寛政原本)が古くなったので書き写したからだと言い訳していたようなのですが、原本はついに公開されることなく彼は亡くなります。そして彼の死後も寛政原本が見つかることはありませんでした。

和田喜八郎に関しては、一事が万事こうしたお粗末なストーリーのオンパレードだったようです。

たとえば、
青森県五所川原市の荒覇吐神社石塔から発掘された御神体が、930年ぶりに秋田県田沢湖町にある四柱神社に戻ってきた、という小さな町にしては大きな事件があったのですが、
これも、和田喜八郎その人が御神体を発見し、田沢湖町に奉納したのでした。

町をあげて「太郎権現遷座式」を執り行い、その神官役を務めたのが、和田喜八郎本人。
そして、
彼が持ち込んだ御神体たるや、神様ですらなく得体のしれない仏像で、しかも外国の土産物屋で売っているような安物であったといいます。

その後、さらにまた御神体が発掘されたと和田が言い出し、四柱神社に奉納されたのですが、それは遮光器土偶のレプリカだったというのです。
仏像といい遮光器土偶といい、素人相手の骨董屋にも置いてないような代物であったというから驚きます。

こうした和田喜八郎によるチープな詐欺事件が次から次へと後を絶たないのですが、
なぜか人々は信じてしまうのです。

彼が巧妙だったから、というよりは、人々が信じたかったからではないか、
と齊藤氏は本の中で述べています。

10年という歳月をかけ、著者は和田喜八郎という人物とその詐欺事件、そして彼を取り巻く人々の願望と欲望、和田自身の様々な奇行を描きだし、検証していきます。

さらに東北地方という、常に中央からないがしろにされてきた地方の歴史的背景もまたこの偽書事件に複雑な影を落としています。
それらを一つひとつ丁寧に暴きだしていく手腕は見事というしかなく、下手なミステリーより面白いです。
新聞記者だけあって、わかりやすくテンポもよく、すらすら読めます。

東北に限らず、常に政治に翻弄されてきた庶民の立場から見た歴史観とも重なり、
そうであったらどんなによかっただろう、きっとそうだったに違いない、
偽書であろうがなかろうが、信じたい、という気持をかきたてられるのは、何も東北の人々に限りません。

そうした人々の気持にするりと入り込んでくる、こうした偽書事件は後を絶たないのではないかと思います。

『東日流外三郡誌』は本や雑誌に取り上げられ、2006年現在で関連書籍は130冊を超えるというからその影響力ははかり知れません。

でも、実は、人々は最初に直感していたようです。
和田喜八郎という人物について、異口同音に「何かおかしいと思った」と後に語るのです。

 「正しいか正しくないか、必要か必要でないか、こうした大事なことを自分の頭で考えることを怠ってきた日本人独特の前例主義、そして、主体性のない横並びの論理が「古文書」商法のつけこむ隙だった・・」

と著者は書いています。

和田喜八郎の従妹であるキヨヱさんはこういいます。

 「はんかくさい(おかしいの意)、私が最初から言っているじゃないですか。すべて喜八郎さんの作り話だと・・それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたありません」

身内はよくわかっていたのですね。

肝心なのはやはり現実的になることです。
事実を積み上げ、検討し、筋が通るかどうか、果たしてこのようなことがありうるかどうか、ありうるとしたら、どのように検証すればいいか・・・
そうした検証を重ねた結果、歴史は積みあがっていくのでしょう。

けれども、一方で、
「古事記」や「日本書紀」はどうなのかと問えば、
これもまた一種の偽書ではあるのでしょう。

誰が書いた歴史なのか。
誰が何のために書いた歴史なのか、
という視点が大事ですね。

人々の願望と欲望と歴史的背景がないまぜになった、
『東日流外三郡誌』事件。
これはまさに「事件」と呼ぶべきものです。

最後に著者は安本美典の言葉に代えてこう述べます。
 
 「私たちは・・優しくありたいと願う・・
  あらそわずに事をおさめたいと願う。
  しかし、この優しい精神は危険でもある。
  (やさしさに乗じて人心を支配する輩がいるから)
  優しさのゆえに、沈黙し、真実に至る道をゆずってはいけないのである。
  真実は一つである」

偽書に限らず、私たちは、ほとんど何でも信じてしまう、という弱点をもっている、という自覚を持つことも大事かと思います。
この本はそれを教えてくれました。


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カタカムナ考 8

2017-05-05 11:49:57 | 日本語
カタカムナ関係の文献は少ないとはいえ、けっこうあって、なかなか全部に目を通すのは難しいです。
しかも、興味があちこちに飛ぶので、いろんな本を平行して読み進めています。

これまでに読んだ本は、

「カタカムナ 言霊の超法則」吉野信子著 徳間書店

 カタカムナの入門としてわかりやすい。

「カタカムナ 数霊の超叡智」吉野信子著 徳間書店
 カタカムナを数から読み解いたもの。数秘術っぽい。
 ほんとにそうなの? という感じではあるが。

「謎のカタカムナ文明」阿基米得緒 徳間書店
 
カタカムナのみならず、レイラインとか錬金術とかにも言及していてエキサイティングな本。

「超科学書 カタカムナの謎」深野一幸著 廣済堂出版
 カタカムナ文明の高度な知識を紐解く。原子転換は普通に起きており、生命は自然発生する、また楢崎は核エネルギーを無力化する方法も開発していたという!

そして、量子力学から仏教、はたまた日本の超古代へと興味は移り、あちこち読み散らしております。

「ペン・ローズのねじれた四次元」(講談社ブルーバックス)
 講談社ブルーバックスはたいてい途中で投げ出すことになるのだけど、これも例外ではなく、数式を使わずに量子力学を説明とあるにもかかわらず、数式いっぱい出てくる。結局、科学は数式なのですね。世界は数で出来ている。だから「カタカムナ 数霊の超叡智」も出てくるわけ。
 量子力学については、YouTubeの動画で見たほうがいいです。アインシュタインとニールス・ボーアの論争とか、シュレジンガーの猫とか二重スリット実験とか、本よりずっとわかりやすい。
 
「掌の中の無限」新評論 
 チベット仏教の僧マチウ・リカールと天体物理学者のチン・スアン・トゥアンとの対談で、仏教の教えが現代の量子力学に通じるものがあるところが非常にエキサイティングです。まだ読み始めたばかりだけど、これは面白い!

「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」徳間書店
 古代史研究家の佐治芳彦氏の著作で、少し前に「謎の竹内文書」も読みかじりましたが、この本はさらに驚くべき内容で、日本の古代史を書き替えたほうがいいんじゃないの、というくらいの本。でも、最近になって偽書であると断定された。その偽書騒動もかなり興味深く、近々読む予定です。
 ちなみに去年書いた「南海トラフ大地震」についての記事の中でこの「東日流外三郡誌」に触れています。十三湊の街が一夜にして津波で壊滅したという伝説があるが、この本が偽書と判明したことから、津波の事実も覆された。でも、今から考えるとあるいは、津波は事実であったのかもしれない。

「竜の棺」高橋克彦著
 小説です。日本の古代史をテーマにしていて、一巻で「東日流外三郡誌」について詳しく書かれているので読み始めたところ。小説としては古いタイプで、女性の描き方がステレオタイプなのが気になる。全6巻もあるので読み切れるかどうか不明。

他にも、
「カタカムナの使い手になる」芳賀俊一著 ヒカルランド 
 カタカムナを使って、直観力を磨いたり波動を上げたりしよう、という実用書めいた本。

「異次元の刻印」グラハム・ハンコック著 バジリコ株式会社
グラハム・ハンコックは「神々の指紋」が有名だけど、これも面白そう。シャーマンの話。エイリアンなんかも出てくるみたい。

まだ届いてないけどAmazonに注文したのがこの三冊、

「日本超古代史の謎―神代文字が明かす日本創生の原像 」(舵輪ブックス)
「 偽書『東日流外三郡誌』事件 」(新人物文庫 )
「はじめてのホツマツタエ」今村聰夫著 かざひの文庫


読むそばから忘れる、という傾向もあり、なかなかはかどりません。
幸い、時間だけはたっぷりあるので、少しずつ読み進めていこうと思っています。

またいろいろ分かり次第報告します。
HPもまだ工事中です。もうしばらくお待ちくださいませ。

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