Chat GPTで電子書籍の表紙を作る、第3弾として、以前出版した本、
「木蓮幻想」
の表紙を描いてもらいました。

なかなかいいでしょう!
現在、amazonで発売中ですが、これ表紙画像が少し小さいのです。
ChatGPTで描いてもらった絵にパワポでタイトル付けたのですが、サイズがどうも違うらしい。
でも、「猫の手もかりたいワニのゴードン商会」や「龍の谷へいったさやか」と同じサイズで作ったはずなのですが。
その時々で絵の大きさが違うってなぜだろう?
何か間違えているんじゃないかと思うのですが、どこをどう間違えたのかさっぱりわからない。
ついでに言えば「龍の谷へいったさやか」のタイトルが白抜きで、作者名が入っていません。これも修正したいのですが、また一からやり直しになりそう。
これが素人の限界なのか・・
所詮、私には無理なのか・・
かなり落胆しておりますが、でも、何とかしたい。
Kindleの本は他にまだ2冊あるので、さらに表紙絵を作り直していきたいと思っています。でも、この程度じゃあ売れないかしらねえ・・
「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」ですが、もう少し頑張ってみます。
ちなみに「木蓮幻想」の冒頭部分を掲載します。これは大人向けの小説です。
興味を持たれた方はぜひAmazonでお買い求めくださいませ。250円です。
「足元を風が通りぬけたのでふりむくと縁側の向こうに木蓮の影がゆらいでいる。みっしりと繁った葉が初夏の日差しの中で影を濃くしている。こちら側の暗さが額縁のように庭を縁取り、鮮やかに緑を際立たせている。ほうっと息をつき思わず見とれる。私の視線に気づいて木蓮は梢を少しふるわせる。
この世でのいちばん最初の記憶は縁側から見た庭だ。縁側の向こうは光にあふれこちら側の座敷は暗く、その暗がりの中から私は縁側の方へ這っていく。たぶん一歳の記憶。あんたはよく縁側から落っこちたんだよと祖母は言っていたが、その祖母も十年前に死んだ。暗がりの中から光の方へ這っていくのは生命の本性だろう。未だに這いつづけてまだ光の中に出られないでいるけれど。こちら側の暗がりは延々と続く。手に取れるほど間近に見えるのにそれはいつでも百年先のように遠い。陽炎のように。逃げ水のように。触れようとすると逃げる。ほらそこにあるのに。ついと逃げてまた百年先へ。現実なんてそんなもので光に届くはずもない。そう考えそうになる自分を奮い立て這いずり、けれども光はまだ遠く・・・
ゆうきえみ. 木蓮幻想: ゆうきえみセレクション1 (p.1). Kindle 版.」
チャットGPTによる表紙絵第2弾として、前回と同じくKindle本の中から、
「猫の手も借りたいワニのゴードン商会」
の表紙を描いてもらいました。
これが現在のKindle本の表紙です↓
これじゃ、幼児向け絵本だと思われても仕方ない。
ミステリー仕立てなので、ワニはシャーロック・ホームズ風、猫はワトソン風に描いてほしいと頼みました。
たしかに、シャーロック・ホームズだ。
でも、事件を解決するのはどっちかというと助手の猫のシロテの方なのですが。
「ウォレスとグルミット」みたいな関係かな。このアニメも大好きだなあ。
ストーリーは、ワニのゴードンと助手のシロテが住む町に不可解な事件が頻発する。家の中に大量のトカゲが出現し、イモリやカエルも出現して、住民たちはパニックになる。住民たちは、トカゲやイモリは町はずれにあるザワザワ森から逃げてきたと噂し、ザワザワ森を伐採せよとの声が上がる。しかし、ザワザワ森に棲んでいるフクロウによると、森を伐採するなんてとんでもない、この森こそが町を守っているのに。おそらく森を伐採しようと企んでいる者がいるに違いない・・そこで、シロテは原因を突き止めるべく、町はずれに住むフクロウの魔法使いを訪ねていくことに・・
というようなストーリーです。
これも表紙を変更して出そうと思っていますが、パワポに取り込んでタイトル入れたりするのがけっこう面倒です。
前に一度やってるから出来るはずなんだけど、すっかり忘れてるもので、最初から学び直さないといけない・・
とここまで書いて、そうだ、Chat GPTにタイトルも入れてもらおう! と思って、改めてタイトル付きの表紙を依頼しました。その結果がこれ↓
なんでやねん??
最初の絵にタイトル付けてって言っただけなのに。
絵柄がすっかり変わっているうえに、何語かわからない文字が・・
Chat GPTもまだまだだなあ。有料版にすればいいのかもしれないけど、けっこう高いのよね。
というわけで、なかなか前に進まないのですが、Kindleは出来るようになれば面白いです。
誰でも出版できるので。ネットで検索すると電子書籍の出版方法がたくさん出てきます。
ぜひお試しあれ。
そのうち出版社や編集者も廃業になるかもなあ・・
PS :最初の絵柄でパワーポイントでタイトルを作ってアップしてみました。反映されるまでに72時間かかるそうです。完成したらまたお知らせします。表紙がしっかり完成されているかどうか、まだ心もとないのですが。ダメならまたやり直します。
数年前にKindle本を数冊出しました。
若い頃に書いた小説などで未熟な作品が多いのですが、個人的に思い出があるのでKindleに残しておこうかと思って。その中の一冊に、
「龍の谷にいったさやか」
というファンタジーがあります。
桃の花の祭りの日に少女さやかが桃畑で龍の三郎と出会い、龍の住む国に行くというお話です。
ちょっと「パフ(Puff the magic Dragon)」の日本版のような話です。
全部自作なので、Kindle本の表紙が難しく、ただの桃の木の絵柄になってしまいました。
これじゃ中身が全くわかりませんね。
チャットGPTが絵を描いてくれると知って、さっそく依頼してみたら、冒頭のような絵が出来上がりました。
なんてこと!
AIはこんなことまで出来るのか!!
道理で最近、PC上にCGっぽい絵柄が出回っているわけだ。
この絵が数秒で出来上がってしまうことに驚きあきれ、また少々ビビっています。
しかも、最初に描いてもらった絵が少しイメージと違っていたので(さやかの着物が白で構図も少し違いました)依頼し直したら、すぐに修正した絵を描いてくれました。
これが最初に描いてくれた絵↓ これもいいんだけどね。
AIがここまで出来るなら、イラストレーターは廃業するよね。ついでに物語作家も廃業するかも・・
今はまだCGぽい絵柄ですが、そのうち人間が描いたのかAIが描いたのか区別がつかなくなる日が来ることは間違いない。
これからAIが発展して人間にどんどん近づいていくと、世の中からどれだけの職業が失われていき、どれだけの人が職を失うことになるのだろうか・・
文章添削士なんて、もしかすると真っ先に仕事を奪われてしまう職業の一つかもしれないなあ・・なんて思いました。
物語作家の創造性だの個性だのも、だんだん怪しくなってくるような気がする。
書きたい物語はあるのだけど、AIに勝てるかなあ・・・
(「龍の谷へいったさやか」はAmazon Kindleで購入できます。表紙を替えようと思っているので購入する方は少し待ってくださいね)
(おいらはCGじゃないぞ)
「侍タイムスリッパー」以来、ちょっとした時代劇のマイブームが到来しておりまして、
時代劇観まくり月間となっています。
まずは黒澤明監督の「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」と観てきまして(いずれも若い頃に観ているのですがけっこう忘れてた)その後、
「壬生義士伝」「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」と続けて観ました。
いずれも邦画の名作であります。
私自身はもっぱら洋画(主に英語圏の)が好きなのですが、邦画もなかなかのものじゃのう、などと思っております。
時代劇では、当然ですが「侍」が登場します。
「侍」って何じゃろか?
袴をはき、チョンマゲ結って、腰に刀を差した独特の姿形をした男性のことですね。
江戸時代の身分制度で上位に位置する特権階級です。武士とも言います。
しかし、当時は士農工商の身分制度よりもはるかに下の階級がありまして、それが、
女性です。
男女間の身分格差は激しく、女は生まれながらに男より下の身分、男性に従属する者として扱われていました。
今もその名残が色濃く残っているのは残念なことですが、時代劇に登場する人々は、この厳しい男女間格差を当然のこととして受け入れて生きていました。
それが悲劇を生み、物語の陰影を濃くしているともいえます。
まあ、言ってみれば浪花節みたいなものですが、この浪花節、日本人にはなじみが深く共感しやすい心理構造で、私の中にも色濃く染みついております。
藤沢周平の文学などを読むと心揺さぶられるわけですね。
藤沢周平の原作による時代劇は数多く、今回観た中では
「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」がそうです。
この二作品、とてもいいです。心に響きます。
でも、この時代、女はここまで貶められていたのかと思うとやるせなくなりますし、今だにそれを引きずっている社会のありようにもやるせなくなりますね。
1月から始まったNHKの大河ドラマ「べらぼう」なんて、あろうことか吉原をテーマにした作品だというし。
吉原といったら江戸時代の風俗。この時代、お上公認の風俗店を集めた街があったわけです。
戦争中に、韓国の女性が日本兵により慰安婦として扱われたことが問題になっていますが、それを政府公認のもとで開業していたのが江戸時代の吉原という街なのです。
吉原には吉原の文化がある、などといいますが、その文化は大勢の気の毒な女性たちの犠牲のもとに育まれたものだということを忘れてはならないと思います。
さて、吉原はともかく、時代劇に登場する侍たちは皆、当時の社会の慣習に従って生きてきたわけで、
女性を蔑視するという発想すらなく、そういうものだと思い込んでいたわけです。
侍には侍の悲劇があり、農民には農民の、女性には女性の悲劇がある、というわけ。
まあ、理屈はともかく、こうした女性を男性より一段下に見る風潮というか、しきたりというか、慣習というか、文化というか・・は今も根強く残っているわけで、
それが物語に陰影を与えると同時に、私たちを少し前の時代に引き戻し、純粋に涙した後で、ハッと我にかえり、ああ、あの時代じゃなくてよかったと思ったり、逆に、あの時代に生きていたとしたら、私はどうしていただろうかと思ったりするわけです。
男性はこういうこと、思わないだろうなあ・・
同情はするかもしれないけれど、我が身のこととして痛切に感じることはないでしょう。
逆もまたしかり、なのですが。切腹とか、想像を絶する。
そこに、なんだか深くて暗い川があるような気がしないでも・・・
また、侍は常に腰に刀を差していますが、現代で言えば銃刀法違反、侍が二人以上集まれば凶器準備集合罪に当たるわけです。
しかし、江戸時代に実際に人を切ったことのある侍がどれくらいいたか、おそらく大半は一度も人を切ることなく、無事人生を終えたのではないでしょうか。
だとすると、
常に凶器を持ち歩く「侍」と言う存在は、実に大した人たちである、ともいえるかもしれませんね。
とまあ、時代劇を見ながらいろんなことを想像したり考えたりしています。
まだ観てない時代劇たくさんあるので、もうしばらく時代劇を観ようかと思っています。