ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

ハウルの動く城

2020-01-05 13:01:55 | 映画

新しいPCを導入するにあたり、データの整理をしています。
そこで見つけた古いブログの記事(もうネット検索かけても見つからないと思う)がけっこう面白いのではと思ったので、ここにアップしてみます。よかったら読んでやってください。

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<以下、2006年7月のブログ(くりくり日記)より>

 今日は、TVで見た「ハウルの動く城」についてちょっと書いてみたいと思う。

 劇場公開されたのは2年前。友人と見に行ってすごくガッカリして帰ってきたのを覚えている。

 何あれ? ジブリ? 宮崎駿も歳なのか? 私たちはたくさんの???を抱え、腑に落ちない気分で帰ってきたのだった。
 原作を読んでいたのであれはないだろうという感じがした。

 で、昨日2回目を見た。よかった。
 2回見てようやくわかる映画もある。

 そこで私的ハウルの読解をちょっと書いてみようと思う。

 これは、強力な女たちに取り囲まれて育ち、苦労して大人になろうとしている少年の話です。

 背景に戦争があるので、戦争の悲劇を描いているとか言われてるけど、それは全然違う。
 あれは、いってみれば、ハウルとサリマン(少年と母親)の戦いなのですね。
 戦火がだんだん酷くなるのを見てもわかるし、戦争の唐突な終わりもそれを示唆している。

 ハウルは幼い頃から強力な魔力を持った母親に恐れを抱いて育った。そこで、ある日、流れ星を捕まえて飲み込み、
 自分の心臓をカルシファーに託すという方法で安全策をとった。

 でも、心臓を託した彼はだんだん魔物になっていく。

 ハウルは家を飛び出すのだけど、魔法の力もまだ未熟で、荒地の魔女(娼婦)につかまってしまう。

 キーワードは「心臓」

 ハウルが若い娘の心臓を取って食べると噂されてるし、荒地の魔女もハウルの心臓を狙っている。

 心臓というのは、愛のありか、生きていることの肝心要の部分。それがないと、人間ではなくなる。

 ハウルはようやくソフィーを見つけだすのだけど、荒地の魔女により(嫉妬され)90歳の老婆の姿に。

 これは、男が女に求める二面性を物語ってもいる。ハウルはソフィーに18歳の少女でいてほしいと思いつつ、
 同時に90歳の世話焼き婆さんでもいてほしいわけだ。都合よくね。

 そんなハウルにソフィーは恋をして、何とかしてハウルを助けたいと思う。
 でも、ソフィーにできるのは掃除をすることくらい。 

 掃除をして、家を居心地よくし、おいしい食べ物を食べさせる。
 (つまりは、サリマンがしてくれなかった母親的なことをソフィーがしてあげる)

 「僕にもようやく守るべきものができた」なんておバカなことをいって飛び立つハウル。
 でも、守るべき相手に助けられるというお粗末さ。ここでも女が絶大な力を発揮するというわけ。

 ハウルは実際、呪われているのね。魔法ではなく、女たちに。

 最後はハウルとソフィーがラブラブになるシーンが出てくるけど、いずれソフィーが実権を握り、ハウルはまた逃げ出すかもしれない。

 ハウルの「動く城」はハウルの心臓そのもの。

 愛に飢えて、奇怪な姿になっている。だからこそ、壊されねばならなかった。

 ソフィーが時々若い顔に戻るのも、魔法というのはそうしたものだから。
 無防備に眠っている間は魔法の力も消えている。しっかりしなくちゃと起き上がった時、魔法は効力を発揮する。

 ソフィーにかけられた魔法はソフィー自身が解かないといけないということ。

 だからこそ、ソフィーは荒地の魔女をも取り込むことにより、自分の魔法から解き放たれていったのだ。

 荒地の魔女はいかにも恐ろしげだけど、本当に恐ろしいのは冷酷な(母親でもある)サリマンのような女性。

 荒地の・・という言葉からもわかるとおり、魔女は都市から追い出された漂泊の民。
 だからこそ、サリマンの息子(ハウル)を狙ったのかもしれない。

 まあ、こんな風に解釈してしまうと、なんかつまらない感じもするけど、でも、別の解釈もいくらでも成り立つ面白い映画だということは確か。

 宮崎駿監督の一つの到達点でもあると思う。

 ただ、やはり、もう少しわかりやすく説明してほしかったなあというのはあるけどね。

 皆さんも、いろいろ解釈してみてね。
 面白い発見があるかもしれないよ。

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以上、古い記事でした。
ついでに言えば、女はみんな魔女なのよ。男たちよ、気をつけて。

 

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あけましておめでとうございます! 「アガサ・クリスティー ねじれた家」

2020-01-03 15:27:21 | 映画

あけましておめでとうございます!

2020年が明けました。
新しい年ってやっぱりいいですね。
新しい服、新しい靴、新しい家、新しい車、新しいPC、新しいiPhone、新しい私・・

新しい年を迎えるとまた一つ年を取るのに、なぜか若返った気がするのは不思議。

このまま一年ずつ若くなっていって40歳くらいで、じゃあさようなら、ってのがいいかも。

去年の元日もそうだったけど、今年の元日もよく晴れて風もなく穏やかでした。

今年一年平和で穏やかに過ごせそうだなあ・・・。
たとえ錯覚だとしても、そういう日があることは大事です。

さて、私事ですが、
去年の暮れも押し詰まった27日の夜、突然我家のPCのネット接続が切れました。

普段使っているのは富士通のデスクトップPC(中古で購入)でランケーブルで接続するやつです。
そのランケーブルがどうやら途中で破断、あるいは接触不良を起こしたらしい。
Google先生に聞いて分かったのですが、ランケーブルを取り替えなくちゃいけないみたい。
(ネット以外は正常に使えます)

ランケーブルは居間のルーターから私の部屋まで延々と引っ張ってきているので(途中に大きな本箱が二つ背中あわせになっていてその本箱の背中にケーブルを走らせてる)取り換えるとなると大仕事。

というわけで暮れの忙しい時期にあたふたしていました。

で、結論として、この際新しいPCを買う! と決めた。

何事も良い面と悪い面があります。ものは考えよう、受け止めよう、というわけで、
これはもう「新しいPCを購入せよ」との神さまのお達しと受け止め、早速ビックカメラに行き、PCを見てきました。

ITは日進月歩というけれど、デスクトップPCの進化も目覚ましい。

モニターの横にデンと居座っていたPC本体(デカイ箱)はモニターと一体化してなくなり、キーボードもマウスもワイアレス。
これが標準装備というから驚いた。

我家のPCはWindows8.1でいずれ変換しなくちゃいけなかったしちょうどいい時期かも。

というわけで新しいPCが届くまで一ヶ月ほど待たなくてはいけません。

この原稿はもう一台のPC、MacノートPCで書いています。
原稿書きには少々使いにくい。まあ大したものを書いてるわけじゃないんですけど。

新しモノ好きな私としては、新年に新しいPCというのもいいかな、と思ってね。

というわけでブログの更新も滞っておりました。

PCに関わると延々と時間取られるよね。

新しいPCが来たらモニターもデカくなるので映画見放題になり、ますます怠け者になりそう。

ま、年も年だし、好きなことがあるのはいいことよね、と開き直っておりますが。

ついでに(というのもナンだけど)暮れに見た映画を一本紹介します。

「アガサ・クリスティー ねじれた家」(2017年)

アガサ・クリスティー原作の映画化で、クリスティーのミステリーはやっぱり面白い。

前半は登場人物(大勢いる)の紹介が延々と続くので少し退屈ですが、後半は怒涛の展開となり、
なんてったって最後のどんでん返しが秀逸です。

オオーッ!

となること必至。
グレン・クローズが出てるから、絶対何かあるとは思ってたんだけど、こう来たか、
という映画です。

ぜひ、最後まで目をしっかり開けてご覧くださいまし。

ま、今年はねじれのない平穏な年であることを願っておりますが。

今年もどうぞよろしくご贔屓のほどお願い申し上げます。

皆様にとっても素敵な一年でありますように!

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