越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』

2021年05月10日 | 映画


伝統と近代化のはざまに苦しむ辺境の女性
ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』
越川芳明

ここはヒマラヤ山脈の北に広がるチベット自治区の高原地帯。辺境に暮らすチベット族はだいたいが伝統的な牧畜に従事しているという。

本作に登場するのは三世代にわたる家族で、現代のチベット族の典型的な家族と言えるかもしれない。父タルギェと妻ドルカル、タルギェの老父、そして子供三人である。

冒頭で「中国政府は、一九八〇年代から家族計画を実施した」というクレジットが流れる。中国の人口動態に詳しい若林敬子によれば、中国が一人っ子政策を始めたとき、チベット自治区の遊牧民の少数民族は四人まで子供を持つことを許されていたらしい(「中国少数民族の人口研究序説」国立社会保障・人口問題研究所、一九八八年)。

そうした家族構成の変化は、牧畜の働き手としての子供をたくさん産むことを義務づけられた女性たちの意識をも変化させる。夫にタバコや酒以外に気晴らしがないように、妻ドルカルも、日常の家事の他に羊の世話で忙しく余暇を楽しむ余裕などはない。だが、夫婦は乏しいお金を使ってでも子供たちに教育を受けさせようとする。

この家庭でも長男ジャムヤンは、家を離れて都会の寄宿中学校にいる。親たちは牧畜以外の仕事に就かせようとしているのかもしれない。

伝統的な暮らしの変容と言えば、昔は交通手段として馬を使っていたが、今では、タルギェもドルカルもオートバイを乗りまわしている。これは近代化の象徴なのかもしれないが、何千年と続いてきた遊牧のための土地が国家戦略で縮小させられて、狭い土地に定住せざるをえなくなった結果、わざわざ馬で移動する必要がなくなったのだ。

映画には一貫してチベットの「伝統と近代化」というテーマが流れている。その一つの変奏として、宗教と科学の対立がある。チベット族に根づく仏教の教えと、医療の浸透とが時にはげしくぶつかりあう。

仏教の教えを説くのは、妻ドルカルの妹シャンチュと老父である。シャンチュは恋愛に破綻をきたし出家して尼僧になっている。お寺の本堂の修理がおこなわれることになり、近隣の住民たちに寄進を募りに帰ってくる。

かたや字の読めない老父は、羊の皮をなめすときにもひたすら呪文を唱えている。これは、観世音菩薩の慈悲を説くマントラ(真言)の一種で、チベット語で六文字となることから「六字真言」ともいわれる。これを飽きずに一億回唱えると成仏して、その後、この世の誰かに転生できるという考えだ。この二人によれば、長男は亡くなった祖母と同じホクロが背中にあるので、祖母の生まれ変わりだという。

一方、科学を代表する人物は、ドルカルが避妊手術を頼みにいく診療所の女医だ。女医は、自分には子供が一人しかいないが、それでもなんの不都合もない、とドルカルに告げる。都市社会で男性と対等に生きている、合理的な現代人である。四人目の子を宿したドルカルに中絶を勧める際も、まったくブレがない。科学の「進歩」というイデオロギーを信奉しているからだ。

かくして、ドルカルはその胎児が急死した老父の生まれ変わりであると信じる妹や夫、長男から産むように言われ、一方、女医からは産んではいけないと言われ板挟みにあう。

ところで、ツェテン監督は漢語とチベット語の両言語で書くことのできるバイリンガル作家である。本作は彼自身の小説を映画化したものだ。それは『すばる』二〇二〇年三月号に、大川謙作によって翻訳された「風船」である。大川の解説によれば、小説は漢語で書かれているというが、映画はチベット語である。ツェテンは「チベット語母語映画の創始者として国際的に名高い映画監督」だという。

両言語に堪能であるということは、漢族とチベット族の双方を外から見られるということで、「他者」の視点を生かした創作が可能になる。たとえば、ドルカルの中絶についても、ドルカルの深い悩みに寄り添う。決して「宗教」や「科学」のイデオロギーのどちらかにくみしたりしない。

さて、原作と映画とでは、大きく異なるシーンも出てくる。ここでは三つだけ取りあげておこう。一つは、尼僧になった妹シャンチュだが、小説では尼僧になった動機は明かされないが、映画でははっきりと男女関係のもつれが原因であるとわかるようになっている。相手の男性が長男の学校の先生として登場する。

辺境に暮らすチベット族は、従来、未婚率も高かったといわれるが、この二人のエピソードは、都市に暮らすチベット族の現代の「家族問題」、とりわけ自由恋愛と離婚に言及しているのだろうか。

二つめは、長男を都会の寄宿学校に連れていった後に、タルギェが雨の中しばし文成公主(ぶんせいこうしゅ)の大きな像の前で佇むシーンである。文成公主は、七世紀の唐の時代に、中国からチベットに嫁いできた女性で、チベットと唐との和親に貢献したと言われる。だから、このシーンは遊牧民のチベット族文化を代表するようなタルギェが、中国文化(妻の中絶の決断)を理解しようとした瞬間なのだろうか。

三つめは、父親が町で買ってきた赤い風船が空に飛んでいってしまうシーンだ。小説では、飛んでいく風船を眺めるのは子供たちだけだ。父親にねだってせっかく手に入れたものなのに、取り合いをしているうちに飛んでいってしまう。その風船には、子供たちの後悔や失望、父親の徒労感が重なるような気がする。

一方、映画では、子供たちだけでなく、登場人物たちのほとんどが空を見あげている。僕には、飛んでいく風船は亡くなった老人の魂、あるいは、老人の「生まれ変わり」として生まれてくるはずだった赤子の魂の象徴のように思える。ドルカルは中絶するが、その後、妹に連れられて山籠りを決心するので、女医と違ってドライでなく、死者の霊魂は信じている。

最後に特筆すべきことに、チベットの大自然の美しさをことさらに誇示するような映像が一切出てこない。むしろ雨にぬかるんだ舗装されていない道路や布団をしまう場所もないほど手狭な家の中など、地を這うリアリズムの手法で撮られている。そんな中で、この風船の飛んでいくシーンだけはあまりに幻想的で、一瞬だけ観客に想像する機会を与え、多義的な解釈の余地を残す。

牧畜に従事するチベット族の女性の生きづらさに焦点を当てながら、国家戦略としての近代化のしわ寄せを食ってしまう辺境に暮らす女性たちにも思いを寄せることができる素晴らしいボーダー映画である。2625字 6枚半 ゲラで25行オーバー。
『すばる』2021年1月号に加筆。
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映画評 スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

2019年09月10日 | 映画

インディアンになった騎兵隊の兵士たち 
スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

越川芳明

十九世紀末のアメリカ西部の旅を描くロード・ムービーだ。

この時代設定には、意味がある。合衆国国勢調査局によれば、フロンティア(辺境)とは、一平方マイルにつき人口が二人以上六人以下の地域をいい、その地域を結んだ南北の線を「フロンティア・ライン」と呼ぶが、一八九〇年の国勢調査で、フロンティア・ラインの消滅が明らかになったからだ。一八三〇年の「強制移住法」をはじめとして、アメリカ政府がインディアンの土地の収奪をおこなってきたのがその理由である。この時点で、この大陸からインディアンが自由に移動できる土地はなくなったことを意味する。

主人公は騎兵隊大尉ジョー・ブロッカーだ。かれはニューメキシコから、コロラド、ワイオミングを経て、カナダと国境を接する北のモンタナまで約千五百キロの大移動をすることになる。

ブロッカー大尉は、「ウーンデッド・ニーの虐殺」にかかわった経歴をもつらしい。その虐殺事件とは、一八九〇年の年末に、サウスダコタ州の辺境ウーンデッド・ニーでおこった。合衆国第七騎兵隊がミネコンジュー族の長ビッグ・フットや、そこに身を寄せていたスー族の者(ほとんどが子供や老人、そして非武装の男女だった)に対して民族浄化をおこなったのだ。四百人ほどいた中でインディアンの戦士は、百人足らずだったという。

そんな筋金いりの「インディアン・ヘイター」である大尉が、上官からとうてい受け入れがたいようなミッションを与えられる。長年、捕虜になっているシャイアン族の長とその家族を故郷に送り届けるよう、命じられるのだ。銃の名手であり、荒野の地理に通じていて、部族語も流暢に話せる点が起用の理由だった。

ところで、映画が始まる前に、あるイギリス作家の言葉が引用されている。“The essential American soul is hard, isolate, stoic, and a killer. It has never yet melted.”(本質的なアメリカの魂は硬直して、孤立して、禁欲的で、殺し屋である。それは未だに硬直したままだ)。一九二〇年代に二年ほどニューメキシコのタオスに移り住んだD・H・ロレンスだ。ロレンスは当地で『アメリカ古典文学研究』という独自の文学論を上梓し、ジェイムズ・フェニモア・クーパーの、無学だが、インディアンさながらに大自然で生きる知恵をもつ白人猟師ナッティー・バンポーをめぐる、植民地時代から建国時代にかけての年代記(五部作の「革脚絆物語」シリーズ)を高く評価している。

またケビン・コスナーが監督・主演した画期的な西部劇『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』(一九九〇年)は、南北戦争時代の西部を舞台にした、北軍の中尉ジョン・ダンバーが「失われる前に辺境を見ておきたい」と、サウスダコタの砦へと赴任する物語だ。荒れ果てた砦で自給自足の生活を始めるが、近隣のスー族とのつき合いなかで、「シュンカマニトゥタンカ・オブワチ(狼と踊る男)」という名前をもらうまでにインディアンの心をつかむ。

本作のジョー大尉の造型に、ナッティー・バンポーやジョン・ダンバーといった、荒野に生きる白人という、神話的なヒーローが関与しているのはまちがいない。というのも、この大尉の場合も、旅の最後には、シャイアン族の長の埋葬をめぐって、部族の儀式を尊重するまでに、精神的な覚醒がもたらされるからだ。

 また、十四歳のときから軍隊に入ったというメッツ曹長は、これまで二十年もインディアン討伐にかかわり、「動くものは何でも殺した。男も女も、子供も」と、部下に述懐する。だが、かれもまたコマンチ族の兵士の襲撃から、シャイアン族が守ってくれた事件をきっかけに、大きく内面の変化を見せる。かれは「シャイアン族のかれらにも、殺す権利はある」と、クロッカー大尉にいう。シャイアン族の長には、部族語で「インディアンの扱いをめぐっては、自分たちがまちがっていた」と、謝罪すらする。

先コロンブス期には数百万人はいたと推測されるインディアンも、一八九〇年代には二、三十万人ぐらいに激減していた。白人によるジェノサイドや、外から持ち込まれた伝染病の蔓延などが原因である。それに伴い、三百はあったといわれる部族語も、いまでは二十まで減少しているという。十九世紀末から連邦政府が「同化政策」を推進し、インディアンの子供たちにキリスト教と英語を強制したからだ。

そうした負の歴史を振り返り、白人がインディアンの部族語に敬意を払うハリウッド映画が出てきたことは、文化の多様性を声高に否定するトランプ政権下のアメリカにあって、大変意味あることだ。

ただし、この映画は白人の視点で描かれており、ここが到達点ではないだろう。インディアンの視点で、インディアンの部族語で作られる次世代の映画が期待される。

実は、そうした試みはすでに文学の世界では始まっており、余田真也によれば、部族語と英語のバイリンガルの作家が登場しているという。英語にメスクワキ語を交ぜた詩を書くレイ・ヤング・ベアという作家をとりあげて、余田はこう述べる。「高度な言語意識を武器に、複数の視点や多様な声で作品の輪郭を曖昧にし、主流言語(英語)の安定を脅かし、紋切型とはまるで違う先住民の姿を浮かびあがらせる」(「アメリカ先住民の文学」阿部珠理編『アメリカ先住民を知るための62章』明石書店」289-293)と。

(初出『すばる』2019年10月号、340−341頁)

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映画評 テイラー・シェリダン監督『ウインド・リバー』

2018年10月20日 | 映画

アメリカ辺境の「正義」とは?
テイラー・シェリダン監督『ウインド・リバー』
越川芳明

 凍てつく夜中に、動物の悲鳴のような風音が鳴り響く。吹雪が止んで、静寂な夜空に白い満月浮かぶ。ワイオミング州の「インディアン保留地」ウィンド・リバー。

 アメリカ西部にあるワイオミング州は、ロッキー山脈と大平原からなり、南にはコロラドやユタ、北にはモンタナが控えている。この地域を一言で表現すれば、人間によって飼い慣らされない、産業文明と対極にある大自然だ。

 主人公コリー・ランバートは、野生生物局で働く白人の狩猟家。保留地で牧畜業を営む先住民に依頼され、羊や馬など牧畜を襲う野生動物の駆逐を仕事とする。雪が深く積もった山岳地帯雪でもスノーモービルを駆って、猟銃を携えてピューマやオオカミなどを追う。この地域の気候や動物の生態に通じていて、その退治に執念を燃やすコリーにとって、大西部の自然は征服すべきものとして存在していると言える。

 それは熊や猪など、狩猟の対象を山の神と考える日本の「またぎ」とは、根本的に違う発想であり、十九世紀の開拓者時代と変わらないように感じられる。

 冒頭に象徴的なシーンが出てくる。先住民が放牧している羊の群れが、オオカミたちに取りかこまれる。どこからともなく銃声が聞こえ、一発でオオカミが仕留められる。

 シェリダン監督は、この作品を現代アメリカのフロンティアを描く三部作の最終編に位置づけているという。前二作は脚本家として参加しているが、今回は脚本家と監督の二役をこなす。第一作目『ボーダーライン(Sicario)』(2015)は、米墨国境地帯を舞台にして、ドラッグトラフィキングをテーマに扱い、第二作目『最後の追跡(Hell or High Water)』(2016)は、テキサス州西部の潰れかけた牧場を舞台にして、アメリカの貧富の差が生み出す暴力と犯罪を描いた。

 本作『ウィンド・リバー(Wind River)』(2017)で語られるのは、アメリカ社会における「他者」への暴力、とりわけマイノリティの女性への暴力である。映画の最後に次のようなテロップが流れる。「数ある失踪者の統計にネイティブアメリカンの女性のデータは存在しない。実際の失踪者の人数は不明である」と。

 実は、主人公の狩猟家コリーも先住民の妻(今は離婚しているようだ)との間にもうけた娘がいたが、謎の犯罪に巻き込まれ亡くなっている。先住民に属する友人の娘も先頃、これまた謎の犯罪の犠牲になり亡くなっている。

 この殺人事件の捜査のために、はるばるネバダ州のラスベガスから、ジェーン・バナーという名のFBIの女性捜査官が派遣されてくる。都会の捜査官と辺境のハンター、この二人の関係性は、『ボーダーライン』に出てくるFBI女性捜査官のケイトと「暗殺者」のアレハンドロのそれと類似している。ジェーンはケイトと同様、法の番人としての誇りを持ち、彼女の中で、正義と悪は相容れないものだ。合法的な手続きで犯人を捕まえようとし、またFBIの応援隊を呼ぼうとするが、この辺境で法の矛盾に遭遇してしまう。

 一方、狩猟家コリーは女性捜査官による犯人探しに協力する。保留地には部族警察もいるが、彼らもまた法の縛られる立場にあるが、コリーは「暗殺者」アレハンドロと同様、目的の為には手段は選ばない。「法」によって犯人を罰することができないのならば、自分が「法」になり、犯人を罰するという、いわゆる「フロンティアの正義」(行為自体は合法的ではないが、無法地帯では許される「保安官」の正義)を体現している。この過酷な風土の中で、コリーが頼りにするのは人間社会のルールではなく、自身のサバイバル能力だ。その一つが動物の足跡を読む能力で、動物の足跡を分析して自分の行動を決める。事件の現場でも、人間の足跡を見ながら、犠牲者や犯人の行動を推測して、犯人を追いつめる。そういった意味で、この映画は現代風にアレンジされた西部劇だといえるかもしれない。

 さて、舞台となっているウィンド・リバー保留地であるが、八九〇三キロ平米の面積を持ち、日本でいうと、山梨県の二倍、鹿児島県とほぼ同じ広さを有する。この保留地には、かつては敵対していたという二部族が住んでいる。北部アラパホ族と東部ショショーン族だ。本作に出てくるのは、前者である。この広大な領地に一万ぐらいいたようだが、いま住んでいるのは約三千人だという。牧場経営とカジノ経営などが主な収集源だが、他の部族と同じような問題を抱えている。保留地の外では人種差別に遭遇し、保留地の中では生きる目的を失った若者のドラッグ中毒に陥るという問題だ。

 『ボーダーライン』で、国境線であるリオグランデ川を挟むチワワ砂漠地帯砂漠が俯瞰的に上空から撮られたように、本作でも雪に覆われた山岳地帯を主人公たちが追跡する際に上空から撮られている。砂漠であろうと山岳地帯であろうと、そこに生息する動物たちにとって、人間の作り出す境界線は意味がない。そこは人間の秩序やルールが適用できないボーダーレスな世界である。

 逆に言えば、そうした辺境でこそ、現代アメリカの社会問題や犯罪が先鋭的かつ露骨な形であらわれる。それがこの監督/脚本家のメッセージなのだ。
(『すばる』2018年7月号)
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映画評 サミュエル・マオズ監督『運命は踊る』

2018年10月20日 | 映画
検問所を通り抜けるラクダ  
サミュエル・マオズ監督『運命は踊る』
越川芳明 
 
 草一本生えていない広大な荒地に、真っ直ぐに一本の舗装道路が走っている。舗装道路とはいえ、やっつけでアスファストを流し込んだような気配で、いたるところにヒビが入り、補修なども一切していないようだ。その粗悪な道路を、カメラはまっすぐ突き進む。トラックか列車かの屋根の上にカメラが据えられているらしい。

もちろん、この一本道にはどちらにも終点があるはずで、そのうちの一つは首都テルアビブに通じる高速道路だ。そちらは山道を切り開いているので、真っ直ぐではなくカーブもある。一本道が戦闘地域に直結する道路として、「戦争」や「紛争」を表すのに対して、真っ直ぐではない高速道路は生活道路として、「非戦闘」や「戦争のない日常」を象徴している。

 この映画の物語構造は「円環」である。ちなみに、邦題は「運命は踊る」だが、原題は「FOXTROT」と言い、ダンスのステップのことだ。このステップも、踊り手が最初の位置に戻ってくるという意味で、円環構造を中に宿している。

 文学の世界では、円環構造を持つ語りを「ウロボロス」に譬えて論じられることがある。ウロボロスとは、神話的な動物で、おのれの尻尾を口にくわえる蛇(あるいは竜)で、そのイメージから、循環性や、終わりなき永遠性、死と再生、破壊と創造などを象徴するという。かつて英文学者の高橋康也は、シェークスピアをはじめとする近代文学にそうしたウロボロスの構造があることを突き止めた。

 この世界は「意味づけしがたい無秩序な混沌」であり、物語が終わっても「無秩序な混沌」は終わらないということを、円環構造が示唆するのだ、と論じた。二十世紀文学の傑作であるジョイスやカフカにもその説を応用し、例えばカフカの作品にとって、「時間は・・・(中略)ひたすら不安で苛立たしい、しかも不条理で無意味な瞬間の連続となり、作品は解決を欠いた推理小説といった迷宮的構造を露呈する」(『ウロボロス』)と述べた。
 
 さて、イスラエルを舞台にした本作でも、テーマとなるのはこの世の不条理であり、映画が終わっても、若者兵士のヨナタンに啓示(ルビ:エピファニー)は訪れないし、観客にカタルシスがもたらされることもない。

 ヨナタンは、イラストが得意で、作中に彼の描いた物語が挿入されている。ホロコーストを生き延びた父ミハエルの母(ヨナタンの祖母)は、苛烈な経験の証しであり記憶として、聖書を大事に保管していた。だが、二十代のミハエルは古本屋で見かけた男性誌のピンナップに魅せられ、その聖書を男性誌と交換してしまう。ホロコーストの重みと女性のヌード写真が天秤にかけられるという話だ。ここに流れる皮肉なユーモアは、この映画の底流にもなっている。息子の訃報を間違ってもってくる軍の関係者や、葬儀をてきぱきと円滑に進めようとするユダヤ教のラビの手配のよさにも。

 検問所についても一言触れておきたい。戦地の検問所には、通行車両を停める遮断機が設置されている。そこでは、検問する側と検問される側、敵と味方、市民と兵隊(テロリストも含む)などが、厳格に二分される。遮断機はそうした厳格な分割をおこなう装置なのだ。しかし、それを操作するのは人間である。しかも、二十歳前後の若者たちだ。イスラエルは徴兵制を敷いていて、十八歳以上の男女には兵役の義務が課されている。経験不足から人為的なミスも生じやすい。味方の兵士や市民を間違って攻撃してしまうこともありうる。そんな遮断機をやすやすとくぐりぬけていくものがいる。砂漠のラクダだ。ラクダは、遮断機によって象徴される分割があくまで人為的で無意味な虚構であることを示すかのごとく、ゆっくりと通りぬけていく。戦場におけるそうした滑稽なシーンによって、戦争の不条理も際立つ。また、湿地帯で徐々に沈下していくコンテナ兵舎の描写にも、泥沼化する戦争への批判が読み取れる。

確かに映画の終盤、戦争後遺症を患う父ミハエルと妻は、夫婦の危機を脱するように見えるが、夫婦関係が永続する保証は何もないのである。彼らにとって、夫婦の危機こそが常態だから。ミハエルは建築家として社会的には成功者であり、一家の長として頼れる存在ではあるが、それは見せかけであり、精神不安定に悩む。その原因といえるのは、かつて徴兵制によって戦争に駆りだされたときの記憶である。自分の判断で先頭を譲った車が地雷を踏んでしまったのだという。たとえその事故が戦争のもたらす不可抗力だとしても、彼には罪意識が残る。「なぜ自分の代わりに先に行かせてしまったのか?」と。

 今年の五月、トランプ大統領はテルアビブからエルサレムに米大使館を移した。パレスティナ人やイスラム教徒は当然、それに反対した。エルサレムはユダヤ教のみならず、イスラム教やキリスト教の聖地でもあり、一九四七年に国連によって国際管理下に置くという決議がなされている。にもかかわらず、イスラエルは、実力行使(第一次、および第三次中東戦争)で、六七年にエルサレムを自国の首都と一方的に宣言した。そんなわけだから周囲のイスラム陣営と紛争が絶えない。ここは世界でも類を見ない紛争地域である。この映画は、そうしたイスラエルの抱えこんでいる戦争の不条理を市民の視線で語った傑作である。(『すばる』2018年10月号)
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映画評 アクタン・アリム・クバト監督『馬を放つ』

2018年03月12日 | 映画

大衆文化の古層を語り継ぐ
アクタン・アリム・クバト監督『馬を放つ』
越川芳明

 まっ暗な夜更けに一人の男が夜警を出し抜き、厩舎にしのび寄り馬を外に逃す。少し変わった「馬泥棒」である。というのも、高額な競走馬に狙いをつけながら、闇市で売り払うわけではないからだ。草原でさんざん乗りまわした後に、馬を解き放ってしまう。

 男は、普段、大工仕事で糊口を凌いでいるが、かつては村の集会場で映写技師をしていたらしい。部屋の壁には、昔、自分が映したことがある映画のポスターが飾ってある。『赤いりんご』という、キルギスの代表的な監督の作品だ。

 男は、いつもこのフィルムを専用缶に入れて持ち歩いている。「馬泥棒」の一件で捕まった後、村の議会で、罰としてイスラム教の聖地への巡礼を命ぜられる。村の集会場でイスラムの伝道師たちと一緒に祈祷をするときに、こっそり隣の映写室に入り込み、『赤いりんご』を会場に映しだす。奇しくも、草原を馬が疾走する場面だ。そんな「不敬な」行為のために、村からの追放の憂き目に遭う。

 「共同体」にとって異分子でしかないこのような男、皆から「ケンタウロス」とあだ名で呼ばれているこの主人公は、どうしてそんなことをするのか。

 舞台となっているのは、中央アジアの山岳・草原地帯キルギス。キルギス人は、本来馬を駆って移動生活する遊牧民だ。紀元前三世紀頃には、「堅昆(ルビ:けんこん)」と呼ばれ、モンゴルに端を発し北極海に達する南モンゴルのイェニセイ川上流にいて、匈奴の支配下に置かれていたという。遊牧民ゆえに様々な隣国列強によって支配、服属させられてきた。一九三〇年代にはソ連によって定住化政策が推し進められ、農業に従事するようになった。

 この映画に出てくる田舎の村でも、高速道路が整備されていて、馬ならぬ自動車が目に止まらぬスピードで走っている。裕福な家の子供たちは、携帯ゲーム機で遊ぶ。かつて遊牧民の家だった天幕を使っているのは、隣村のシャーマン(占い師)ぐらいだ。伝統文化の変容が激しいことが見てとれる。
 男の家では、息子が手まわし簡易映写機で映画を壁に映しだし、男が手を使った影絵で息子と遊ぶ。また、男は妻に促されて、息子にキルギスの英雄の話を聞かせやったりする。

 キルギスの英雄譚といえば、津島佑子(『黄金の夢の歌』)も魅せられた『マナス』である。文字に書かれたテクストではなく、語り部が民衆に語りきかせた文学作品。指導者マナスが誕生して成長を遂げ、遊牧民をまとめて国を建て、外敵の侵略に抵抗するヒロイックな行為が描かれている。『マナス』の「翻訳者」はこう述べる。

 「牧畜民はそのような生活の中で祝日や誕生日をことのほか重んじた。その日のために遠方をものともせず一箇所に大勢の人が集まって酒宴に興じた。そうした折にはよく語り部が招かれて腕前を披露したものであった。酒宴は何日も続くので、長大な語り物、とくに英雄叙事詩が人々の歓迎を受けたのである」(若松寛訳『マナス−−少年篇』東洋文庫、2001)

 だが、男が息子に話して聞かせる物語に、英雄マナスは出てこない。人民を苦しめる指導者を諭すのは「馬」だ。「おい、メレズ・ハーン、人々を苦しめるな、自然を破壊するのをやめろ」と、馬が人間の言葉をしゃべる。その馬はキルギスの「馬の守護神」カムバルアタの化身だという。
 動物が人間に警告を発してくれるような「物語」を信じていた頃の人間は、想像力豊かで賢かった。だが、今では遊牧民をはじめ、人類全般がそうした霊性を信じる心を失いつつある。

 「馬泥棒」として捕まった男は、その理由を涙ながらに告白する。「ある晩、夢を見た。白馬に姿を変えた馬の守護神カムバルアタが言った。“はるか昔、私たちはお前たち人間を友と信じ、この地に生きてきた。ところが、お前たちは自分を神だと思い込み、自然を壊し、富と権力を手に入れるため・・・・・”」

 男は、夢によって世界の出来事を予言するシャーマン的な能力に長けていて、馬に神の霊性を感じとることができる。

 「馬は人間の翼である」とは、この映画の冒頭に出てくるキャッチフレーズだが、馬は人間の心を解放してくれるだけでなく、生活を助けてくれる伴侶でもある。もう一人の「馬泥棒」サディルのように、馬をただの道具として手荒く扱う者や、畜産業の商品としか思わない者に対する警句なのだ。

 ところで、村のそばには大きな川が流れていて、大きな吊り橋がかかっている。川は共同体の境界線を意味し、吊り橋は共同体とは違う世界観を持つ異世界への出入り口である。男は三度この橋を渡る。そのすべてのシーンで示唆されるのは、十七世紀ごろにキルギス人の中に入ってきて人民の精神的なバックボーンとなったイスラム教ではなく、それ以前の、キルギスの大衆文化の古層にある自然信仰(ルビ:シャーマニズム)への男の傾倒である。
 さて、口承文芸『マナス』の語り部は、キルギス語で「マナスチ」と呼ばれるらしい。語り部によって、その時代特有のアレンジが加わり、尾ひれがつく。「マナスチは叙事詩の伝承者であり、またその語り手でもあるばかりではなく、作者でもあった。マナスチ一人ひとりに『マナス』があると言われるのはこのためである」(若松寛訳『マナス−−青年篇』東洋文庫、2003)

 この映画は遊牧民の伝統的な「良心」を掘り起こすもう一つの『マナス』にほかならず、監督はそれを映像によって語り聞かせる、もう一人のすぐれた「マナスチ」なのだ。
(『すばる』2018年4月号、364-365頁)
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映画評 テリー・ジョージ監督『The Promise 君への誓い』

2017年12月22日 | 映画

歴史の彼方から訴える ーーアルメニアン・ジェノサイド、アルメニアン・ディアスポラ
テリー・ジョージ監督『The Promise 君への誓い』
越川芳明 

 二〇世紀初頭のオスマン帝国が舞台だ。南部ののどかな山間の町を俯瞰するシーンで始まる。語り手のミカエル青年は、この町の薬剤師らしい。アルメニア人である彼の家は、この地で二百年も前から薬局をしていて、薬草や鉱物を使った先祖伝来の調合法を受け継いでいるという。その言葉から窺われるのは、この町ではトルコ人(イスラーム教徒)も少数民族のアルメニア人(キリスト教徒)も対立することなく同居しているということだ。

 ミカエル青年には大学で医学を学ぶという野心があり、故郷から遠い帝都コンスタンティノープル(現イスタンブール)に向かう。帝都では伯父の立派な邸宅に下宿させてもらうことになる。上流社会のパーティの様子が描かれ、この都会においても、少数派のアルメニア人は貿易や金融などで成功を収めていたり、知識人や中央官庁の役人としても、社会の上層部に食い込んでいたりすることが示唆される。

 とはいえ、映画のテーマは、他民族との融合によるダイバーシティ社会の建設といったものではなく、むしろ、他民族の抹殺である。一言で言えば、第一次世界大戦中のオスマン帝国による「アルメニア人の大虐殺(ルビ:ジェノサイド)」だ。

 今より百年以上前に、オスマン帝国はドイツやオーストリアと同盟を組み、イギリスやフランス、ロシアらの連合国と戦った。一説にドイツ軍顧問団の指示により、オスマン帝国(「統一と進歩委員会」の指導者)は、ロシアとの国境近く、アナトリア半島東部に住むアルメニア人の蜂起(国家への反逆行為)を恐れて、アルメニア人の強制移住を行なった。アルメニア人はシリアの砂漠地帯の強制収容所への「死の行進」を強制されたという。ミカエルの故郷でも、強制移住が行なわれ、彼の家族が巻き込まれる。

 問題は、強制移住だけでなく、その時に「アルメニア人の大虐殺」があったことだ。虐殺された人数は、数十万人から三百万人まで大きな隔たりがあるが、信頼できる学者の説によれば、六十万人から八十万人ぐらいだという。

 だが、この歴史的な事件については、当事者同士で合意を見ていない。被害者側のアルメニア人は、歴史の彼方から「ジェノサイド」を訴え、EU(欧州連合)はそれを認定しているが、トルコ共和国は、国家による計画的な「ジェノサイド」は認めていない。二〇一四年に、エルドアン首相は「強制移住」を認める発言をしているが・・・。優れた世界文学の書き手でノーベル賞作家のオルハン・パムクは、トルコがジェノサイドを認めるべきだとの発言をして、国内で物議を醸したことがある。

 一方、数多くのアルメニア人が住んでいるアメリカのカリフォルニア州には、ロサンジェルス郊外に、人口の約三割がアルメニア人だというグレンデール市がある。この「ジェノサイド」の認定をめぐって、アルメニア人の下院議員が積極的に国会に働きかけている。

 そういうわけで、このハリウッド映画は、視点人物の設定から言っても、「ジェノサイド」をめぐってアルメニア人の主張を取り入れた、「プロパガンダ映画」であり、啓蒙映画である。舞台がトルコであるにもかかわらず、全編で使われているのが英語である点も、アメリカ国民をはじめ、世界中の人々にこの事件を知らしめたいという意図が見える。

 そうした「ジェノサイド」のテーマを、この映画の中で補強するのが「サバイバル」の思想である。母を残して家族や親族を殺され、「(トルコ兵に)復讐をしてやりたい」と毒づくミカエルに、恋仲にあるアナが「サバイバルこそが復讐よ」と告げる。とにかくこの苦境を生き残り、後世に体験を伝えることが先決だ、と。

 彼女自身は海の藻屑と消えてしまうが、彼女の言葉をミカエルは忠実に守る。

 ミカエルはアメリカに渡り、彼にとって唯一の親族となってしまった伯父の娘の結婚式に「アルメニア人の大虐殺」を生き延びた同胞を招く。そこでアナとの約束を果たすのだ。その時、この映画で初めてアルメニア語が出てくる。ミカエルは「神が子供たちを祝福し、守ってくれますように。子供たちが無事に戻ってきますように」とアルメニア語で祈り、「彼らもここにいる!」と、強制移住の間に無残にも亡くなった死者たちに言及する。映画のタイトルにある「君への誓い」は、そうした死者たちのために果たすべき、ミカエルの執念のこもった使命感に呼応している。

 最後にクレジットが流れる直前に、ウィリアム・サローヤンの言葉が引用されている。言うまでもなく、サローヤンは小説『わが名はアラム』や戯曲『君が人生の時』などでよく知られているアルメニア系の作家である。彼の両親は、このジェノサイドを生き延びた人たちだ。

 サローヤンはこう言う。「世界のいかなる権力が/この民族(アルメニア人)を消せるのだろうか(中略)消し去れるか試してみよ/彼らが笑い 歌い 祈ることがなくなるかを/どこかで彼ら二人が出会えば 新しいアルメニアが生まれるのだ」と。

 サローヤンは最晩年の一九七九年に、自身のルーツでもある、アルメニア人の「ディアスポラ」を扱った劇作「Haratch」を発表している。
(『すばる』2018年1月号)
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Film Review: Gabe Klinger's "Porto" 

2017年10月05日 | 映画

 

How to leave memories of happiness
Gabe Klinger's "Porto" 

Yoshiaki KOSHIKAWA

Male and female strangers involved in something encounter in a foreign country and take a night together. Even though the couple tasted a sense of unity that is unforgettable for a lifetime, such a relationship will not last long. But in just a moment in your life, the memory that tasted happiness does not disappear. This movie tries to leave such a momentary ephemeral memory that remains in the human mind.

As a narrative of the movie, it adopts the "minimalism” which aims at the maximum effect with minimum representation. Rather than telling many stories, it appeals to the imagination of the audience rather. For that reason, it repeats several scenes that left intense impression on the two protagonists.
For example, the scene that the man and woman stare at each other shows at the beginning and ending. They will face sideways on the bed and stare at each other. The man is naked, but the woman is dressed. In the morning, only a woman gets up and goes to buy breakfast for them and it is a blissful moment to lie on bed again. At the beginning this scene lasts only a few seconds, but at the end of the film it lasts for more than a minute. Both of them are silent without any speech. It is the imagination of the audience to establish the conversation between the two people, and what they think of then.

Another scene is a late-night restaurant. After making love, they go out and eat. For the first time the information exchange on each other is made. Male (Jake) is an American of 26 years old. When his father was a diplomat and transferred to Lisbon, he was a high school student and also came to Portugal. When his father was to be transferred to another place again, he decided to stay with an older sister in this city. He does any work he gets, but he doesn’t like the job itself.  The images of train stations, rush hours and clocks will flow, but he does not seem to take part in the modern industry which seeks productivity and efficiency.

A woman (Matty) is a French student of 32 years old. She was learning archeology and classics at Sorbonne, but she became in love with the Portuguese professor who came to Paris. The professor said that he wanted to divorce and want to be with her, but she refused his offer because he wanted freedom.  She has led a student life for many years because she was hospitalized of a mental illness. She is not cured yet. She seems to have come to this city following the professor.
This place is the second largest city of Portugal, Porto. It is also the title of this film. Construction of the old city was done before the 5th century, and there are also residuals of Celtic culture.  It is also a multicultural city open to the outside. The Old Town is registered as a World Heritage Site in 1996 as "Historic District". Although the image of the "historical district" such as the elevated iron bridge over the Douro River and the Saint Bent railroad station comes out in the film, it seems to have a deep symbolism, not being merely the backdrop.

For example, the hordes of seagulls flying over the Gulf of Porto are displayed several times with their distinctive barks. Among other things, the beautiful scene is where the seagulls flock to the expanse of blue sky on the dawn when the two spent together.
It goes without saying that seagulls are omnivorous and strong enough to eat crabs, octopus and small fish, and garbage thrown away by humans. In addition, they give birth and raised babies in colonies, and are considered that the mate fidelity is very high. They  rarely cheat.
The large group of seagulls is a thing that does not change over time.  Love affair is easy to change. It is only memory of love that does not change. What this movie tried to capture might be the beauty of things that will not change.

 Conversely, in this world, all things are changed and lost. Matty speaks of the paradox of forgetting while quoting the words she read in a certain book. "People forget everything, but things forgotten are not lost."
Soundtrack is also wonderful. It is itself a unique presence rather than a background for a movie. Two contrary black musicians are used.  While this movie has a Western couple as main protagonists, African music gives a global perspective and spiritual element of the different culture.

One is John Lee Hooker's thick voice, singing lightly and soulfully, the Blues song "Shake It Baby" of the 1960’s. By the way, John Lee Hooker is a black guitarist / singer (1917-2001) from the South of the United States. He had session with Rolling Stones, Doors and  numerous rock bands in the 60’s, but he simply continued working for the rest of their lives without ending as " a legend". In the movie, the strange man and woman meet at a cafe restaurant in the Old Town called "Ceuta", then the music of John Lee Hooker flows in a crushing moment. Refrain of "One Time for Me" (for once, for me) and "Me and you, nobody but you (me and you, only you)" is very impressive.

Meanwhile, in contrast, the flow is Emmahoy Tsegue-Maryam Ghebrou's piano, "Homeless Wonder" and "Presentiment (Insect Notice)".  Emmahoy is a pianist, a composer from Ethiopia, influenced by Western music. Two songs are adopted here from the album of the 60's. Like Eric Satie, her piano music is unique that a strange dynamics is felt in a tranquil melody.  Once it is heard it cannot be forgotten. The audience is playing a role in imagining the mental and physical of the couple who have experienced a shocking love and lose it.
Speaking of a love affair between foreigners at a journey, Richard Linklater's "Before Sunrise" is reminiscent of it, but this work is an interesting indie work that surpasses that.


("Subaru" October 2017 issue)

 

 

 

 

 

 

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映画評 ゲイブ・クリンガー監督『ポルト』 

2017年10月05日 | 映画

 

幸福の記憶を残す方法

ゲイブ・クリンガー監督『ポルト』 

越川芳明

 

 見知らぬ外国人同士の男女が何かの因縁で、異国で出会い霊感を受けて一夜を共にする。生涯忘れないほどの一体感を味わった二人なのに、そうした関係は長く続かない。しかし、人生の中でたった一瞬であれ、幸福を味わった記憶は消えない。この映画は、人間の脳裏に残るそうした一瞬の儚い記憶をスクリーン上に残そうとする。

 映画の話法としては、最小の表現で最大の効果を狙う「ミニマリズム」の話法を採用している。多くの物語を語らずに、むしろ観客たちの想像力に訴えるのだ。そのために、二人の脳裏に強烈な印象を残した、幾つかのシーンを繰り返す。

 たとえば、冒頭と結末で繰り返される、男女が見つめ合うシーン。二人はベッドの上で横向きになり、互いを見つめ合う。男は裸だが、女は服を着ている。朝方、女だけが起きて朝食の買いにいってきて、再びベッドに横になる至福に満ちた一瞬である。冒頭ではわずかに数秒のシーンだが、幕切れでは延々と一分以上も続く。二人とも何もしゃべらずに無言である。二人がその時何を思っているのか、二人の間の会話を成立させるのは観客の想像力である。

 もう一つは、深夜のレストラン。二人は濃密な愛の時間を過ごした後、外出して食事をとる。ここで初めて互いに関する情報交換がなされる。男(ジェイク)は二十六歳のアメリカ人。父親が外交官でリスボンに赴任した時、高校生で一緒にポルトガルにやってきたという。父親が再度よそに転任することになった時、姉と共にこの地に残る決心をした。手に入る仕事は何でもするが、仕事自体は好きではないという。その時、鉄道の駅やラッシュアワーや時計の映像が流れるが、彼はそうした生産性や効率を求める近代産業の片棒を担う気はないようだ。

 女(マティ)は三十二歳のフランス人の学生。ソルボンヌ大で考古学や古典を学んでいたが、パリにやってきていたポルトガル人の教授と恋仲になった。教授は離婚して、彼女と一緒になりたいと言ったが、自由が欲しいので断ったという。なぜ長年、学生生活を送っているかというと、心の病気で入院していたからだ。今も治っているわけではない。彼女は教授を追ってこの地にやってきたらしい。

 この地というのは、ポルトガルの第二の都市ポルト。本作のタイトルにもなっている港湾都市だ。建設は五世紀以前とも言われ、ケルト文化の残滓もあり、外に開かれた多文化都市でもある。旧市街は「歴史地区」として、一九九六年に世界遺産に登録されている。本作にもドウロ川に架かる高架鉄橋や鉄道のサン・ベント駅など、「歴史地区」の映像が出てくるが、単なる舞台とは違い、深い象徴性を帯びているように思える。

 たとえば、ポルトの湾岸を飛ぶカモメの大群が幾度か、その独特の鳴き声とともに映し出される。とりわけ、美しいのは、二人が一緒に過ごした明け方の、青を基調とした大空にカモメが群れなすシーンだ。

 いうまでもなく、カモメは雑食性であり、植物の種から蟹やタコや小魚、さらに人間の捨てたゴミまで食すほどにたくましい。その上、集団繁殖地(ルビ:コロニー)で子作りをする彼らは、つがいの忠誠度(ルビ:メイト・フィデリティ)が非常に高いという。人間でいえば、滅多なことでは浮気をしないらしい。

 カモメの大群は、時間の経過とともに変化しないモノである。かたや、恋慕の情は移ろいやすい。移ろわないのは、恋の記憶だけだ。この映画が捉えようとしたのは、そうした変化しないモノの美しさなのかもしれない。

 逆にいえば、私たちの世界では、変化して失われるモノばかりである。女主人公マティは、ある本で読んだ言葉を引用しながら、忘却のパラドックスを説く。「人はあらゆることを忘れるが、忘れられた事柄は失われない」と。

 サウンドトラックがまた素晴らしい。映画のための背景というより、それ自体が独自の存在感を放っている。二人の対照的な黒人演奏家の曲が使われていて、欧米の白人を主人公とするこの映画に、グローバルな視野とスピリチュアルな異文化の要素が付与される。

 一つはジョン・リー・フッカーの野太い声で、軽快かつソウルフルに歌われる、六〇年代のブルース曲「シェク・イット・ベイビー」。ちなみに、ジョン・リー・フッカーはアメリカ南部出身の黒人ギターリスト・歌手(1917-2001)だ。ローリング・ストーンズやドアーズをはじめ、数多くのロックバンドとセッションを組んだこともある大物アーティストだが、単に「レジェンド」で終わることなく生涯、現役を通した。映画の中では、見知らぬ男女が「セウタ」という旧市街のカフェレストランで出会う、ときめきの一瞬に流れる。「ワン・タイム・フォー・ミー(一度だけ、僕のために)」や「ミー・アンド・ユー、ノーバディ・バット・ユー(僕ときみ、きみだけ)」のリフレインがとても印象的だ。

 一方、それとは対照的に流れるのが、エマホイ・ツゲェ・マリアム・ゲブルーのピアノ曲、「ホームレス・ウォンダラー」と「プレゼンチメント(虫の知らせ)」だ。エマホイは、西洋音楽の影響受けたエチオピア出身の作曲家、ピアニスト。ここでは六〇年代のアルバムから二曲採用されている。エリック・サティにも似て、静謐なメロディの中にも不思議な躍動感が感じられるユニークな曲想で、一度聞いたら忘れられなくなる。観客が、電撃的な恋を経験しそれを失う男女の心象風景を想像するのに一役買っている。

 旅先での外国人同士の行きずりの恋といえば、リチャード・リンクレーター監督の『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』が彷彿させられるが、本作はそれをも凌ぐ興味深いインディーズ作品だ。

(『すばる』2017年10月号)

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映画評 テレンス・デイヴィス監督『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

2017年07月31日 | 映画

 

死者のユーモア    テレンス・デイヴィス監督『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

越川芳明

死を遂げた人々の 追随をゆるさぬ威容には/この世の威厳を凌ぐ 威厳がある/ 魂は その肉に <留守中>と記し/ もはや追随をゆるさず/ さわやかに風のように歩み去る (1691番、岡隆夫訳)

生前は、たった十編の詩を新聞に発表しただけで、詩集すらなかったエミリ・ディキンスン。家族が寝静まると、自分自身と向き合って、詩を書き続けた。死後に発見された千八百近くの詩篇によって、二十世紀半ば以降、現在に至るまでアメリカ文学の代表的な詩人のひとりと見なされている。  

詩人としてどこがそんなに優れているのか?   

まず、僕個人が一番惹かれるのは、彼女の詩に頻出する死のモチーフとユーモアだ。確かに、彼女が好む詩のモチーフとしては、アメリカ東部の自然、孤独、愛など他にもあるが、私たちが生きているこの世界を、墓場から見る「死者の視線」は秀逸で、そこから来るパラドクシカルなユーモアが面白い。

おそらくディキンスンは生存中に「死」を体験していた。言い換えれば、周囲の説く現世での「悔い改め」や「回心」には心動かされずに、詩を書く作業によって、魂の「永遠/不滅」を実感していたのだ。  

時代背景としては、十八世紀に東部ニューイングランドでは「大覚醒」と呼ばれる「信仰の復興運動」があった。巡礼のたち父祖の精神(ピューリタニズム)の世俗化を嘆き、厳格な教義を訴えた。それから一世紀後、ディキンスンが十代の頃にも、そうした「復興運動」が見られた。  映画は、冒頭の女学校でのシーンや、若いワズワース牧師が彼女の家を訪ねてくるシーンで、死や魂に対するディキンスンの姿勢を示唆する。

冒頭、女学校(のちの名門マウント・ホリヨーク大の前身)で、校長から信仰告白を「強要」される女子学生たちが映し出される。校長は生徒たちに「キリスト教徒として救われたいと思うか」と問いただす。ディキンスンはただ一人抵抗する。あたかも自分は既成の教会を介在させずに直接神と対話すると言いたいかのように。  

のちに、ワズワース牧師夫妻が訪ねてきて、夫妻はお茶を「嗜好品」として退け、水と白湯を所望する。そうした牧師の厳格な姿勢や詩心ある演説にディキンスンは魅了される。あたかも同類の人間を見つけたかのように。  

さて、本作はドキュメンタリーではないので、伝記的な細部において、あえて大胆な改変を行なっているようだ。ディキンスン研究者の武田雅子は、監督が独自のディキンスン像を提示するために、「この映画は生涯をできるだけ忠実に描くということはあえてしていない」と述べている。例えば、「詩人としてのあり方において重要な人物である批評家ヒギンスン、女学校時代の友人で、名のある小説家となったジャクスン、その死がディキンスン自身の死を早めたと言われる甥のギブなどは姿も見せない」(映画パンフレットより)と指摘する。  

武田が言うような、独自のディキンスン像はこの「伝記映画」のどこに見られるのか?   

それは二十一世紀に通用するディキンスン像ではないだろうか。  

私たちはどの時代に生きても、所属する社会の制約から逃れられない。十九世紀アメリカに生きたディキンスンの場合、それは南北戦争と奴隷制である。だが、そうした特定の制約にジェンダーという変数を加味して、社会と対峙する個人を主人公として描いた点に本作のドラマとしての真骨頂がある。ディキンスンは名家の生まれで、祖父はアマスト大の創立者の一人だった。父も同大の財務理事をして、下院議員も務めた。

だが、当時は家父長制の時代であり、エミリのような優秀な女性に社会での活躍の場所はなかった。南北戦争は男性の戦いであり、女性は除外された。南部には黒人奴隷を酷使する奴隷制があるが、北部には女性を差別するもう一つの「奴隷制」がある。それがエミリの見方だった。

文学の世界も同じだった。同時代のイギリスにはブロンテ姉妹の活躍があったが、アメリカでは、「不朽の名作は女性には書けない」という偏見が多数派の正論としてまかり通っていた。そうした制約にも、本作の主人公は詩を書くことで立ち向かう。死後の名声を確信して。

ひどい正気はーー全くの狂気ーー ここに、多数が 全体のように跳梁するーー 賛成すればーーあなたは正気でーー 異議を唱えればーーあなたは忽ち危険人物ーー そして鎖をもって扱われる。 (435番、安藤一郎訳)  

映画の中で、二十編ほどの詩が朗読される。これほど多くの詩が使われるのは、これが伝記映画だからというより、詩作が主人公にとって真に生きることを意味したという、映画のメッセージの表れのような気がする。偉大な詩人というより、真摯な人間というイメージが最後に残る佳作である。

(『すばる』2017年7月号)

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映画評 ジャファル・パナヒ監督『人生タクシー』

2017年04月03日 | 映画

 

静かな「抵抗」のユーモア  ジャファル・パナヒ監督『人生タクシー』

越川芳明

 

 タクシーという密室空間で起こる、人々の出会いや事件をユーモラスに撮った映画だ。静かだが、愉快この上ないブラックユーモアの毒矢が幾つも放たれる。舞台はイランの首都テヘラン。  

 イランといえば、ドナルド・トランプ米大統領が二〇一七年一月末に、テロリストの排除という名目で下した大統領令の中で、米国への入国を短期間禁じた七カ国のうちの一つだ。ニュースメディアを通じて大統領令が一人歩きして、名指しされたイラン人をはじめ、中東やアフリカのイスラーム教徒をことごとくテロリストと見なすような、極めて単純な思考が世界の隅々にはびこっていく。そんな中で、中東から心理的に遠く離れた日本において、イラン人たちの多様性を打ち出した本作が上映される意義は、決して小さくはない。  

 とはいえ、この映画を取り上げるのは、そうした政治的、社会的な理由だけではない。むしろ、芸術映画として凝った工夫がなされている点にこそ惹かれたのである。  なぜタクシーなのだろうか。ここに出てくるのは、普通のタクシーではない。目的地が異なる複数の乗客を一緒に運ぶ「乗り合いタクシー」だ。  

 乗り合いタクシーは、ホテルや駅、空港などと同じように、出自や思想信条の異なる市民が出合う可能性のある一つのトポスである。しかも、小さな密室空間という特徴を有する。見知らぬ人間同士が膝を接して一定の時間を一緒に過ごすことで、まるで元素同士が化学反応を起こすみたいに、個人の感情や思想が露呈しやすい。  

 例えば、最初に乗ってくる自称「路上強盗」の男は、次に乗り合わせる女教師と「死刑とイスラーム法」をめぐって、熱い議論を繰り広げる。女教師が些細な罪ですぐに死刑にするのはやりすぎだと理性的な意見を述べるのに対して、「路上強盗」は、あなたは本ばかり読んでいる空想家だとバカにして、車のタイヤを盗むような奴は死刑に処すべきだと自説をまくし立てる。タクシー運転手を演じている監督はどちらの側にも与せず、ニコニコしているだけだ。  

 だが、注目すべきは、このシーンが市民生活を規制するイスラーム法の施行をめぐって、一般市民の間にも異論や反論が存在するという事実を伝えていることだ。労働者階級と知識人、男性と女性といった階級やジェンダーによる意見の食い違いにも細かく目配せしている点も見逃せない。  

 周知のように、イランでは一九七九年にホメイニー氏によるイラン・イスラーム革命が成就し、宗教指導者が国政の最高指導者を兼ねるイスラーム共和制が樹立された。そのことによって、イランに住むクルド民族や同性愛者など、少数者への「迫害」がイスラーム法のお墨付きを受けやすい。リベラルな映画製作も禁じられ、パナヒ監督自身も、イスラーム法に抵触した作品を作った廉で二十年間の映画製作禁止の処分を受けている。  

 そうした宗教原理主義による規制拡大への風刺は、本作の終わり近くに登場する女性弁護士の存在に明らかである。女性弁護士はバレーボールの試合を見にいったために拘留されている少女の弁護をして、弁護士会から「活動停止」の憂き目に遭っているという。少女がハンガーストライキという最後の抵抗手段に訴えているというので、応援のためにバラの花束を届けにいくところだ。彼女の言葉によれば、監督自身もまた映画監督協会から「活動停止」の処分を受けており、二人は官憲から「反体制派」の危険分子として目をつけられているのだ。  

 とはいえ、彼らは非寛容な体制に対して異議申し立てを試みる内部人(ルビ:インサイダー)である。自らの文化とは異なる「他者」(イスラーム教徒)に対して、非寛容に排除を訴えるトランプ大統領のような外部人(ルビ:アウトサイダー)ではない。  

 そこで、パナヒ監督はイランで生き延びるために実に巧妙な技術を駆使する。直接的に異議を唱える社会主義的リアリズムではなく、自己言及のメタフィクション(入れ子細工)を採用するのである。  

 例えば、本作はドラマとドキュメンタリーの境界地帯を掘り下げて、ドラマともドキュメンタリーともつかぬ、曖昧な立場を貫く。監督自身が素人のタクシー運転手として出演するというドキュメンタリーの体裁をとるが、ダッシュボードの上の小型カメラに興味を示す自称「路上強盗」によって、監督は「偽の運転手」だとたやすく見破られてしまう。その上、海賊ビデオ売りの小柄な男からは、すべてドラマ映画の演出ではないか、との疑いをかけられる。  

 さらに、映画撮影をめぐる自己言及は、いたるところに顔を出す。大学で映画学を専攻しているという学生は、製作のための題材をどこから得ているのかを監督に質問する。監督の答えは「自分で見つけるんだ。教えられない」である。言い換えれば、「題材はどこにでもある、この映画のように」と、監督は言いたいかのようだ。  

 きわめつけは、監督の姪のおしゃべり少女の登場だ。彼女は短編映画を作るという宿題が出たと言い、デジカメで車窓風景を撮り始める。学校の先生から提示された「上映可能な映画」をめぐるルールを監督に告げる。それによれば、「女性はスカーフをかぶり、男女は触れ合わないこと」や「政治や経済に触れないようにすること」などの他に、「俗悪なリアリズムや暴力を避けること」があるという。「俗悪なリアリズム」とは、体制にとって都合の悪い現実を撮ることに他ならず、少女は路上で盗みを働いた少年を偶然撮ってしまったために、それが「上映不可能」になる不安に襲われる。  

 かくして、声高に時の政権に異を唱えることで欧米の非寛容なキリスト教原理主義に与してしまわないようにする一方、静かにかつユーモラスに、これまた非寛容なイスラーム原理主義に対する「抵抗」を展開するという、高度なテクニックに裏打ちされた傑作である。 (初出『すばる』2017年4月号、395-96頁)   

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映画評 パトリシオ・ グスマン監督『真珠のボタン』

2015年09月15日 | 映画

二つの「ジェノサイド」を隠喩的に結びつける --パトリシオ・グスマン監督『真珠のボタン』

越川芳明  

太平洋をはさんで日本と遠く斜めに向き合う南米のチリ。国土は南北に細長く、面積は日本の二倍である。それに比して、人口は日本の十三パーセントにすぎない。  

「西パタゴニア」と呼ばれるチリの南端には、フィヨルドの中を自然の水路が網の目のように走り、ティエラ・デ・フエゴ島をはじめとする数々の島が点在する。  

そうした群島には、一万年前から人類が住んでいたという。  

彼らは海洋民だった。島の中に町を作ることなどしなかった。小さなカヌーを作って櫂を操り、帆を立てて、水路をあちこち移動して、食料となる魚介類を取って暮らしていた。  

五つの部族が知られている。カウェスカル族、セルクナム族、アオニケン族、ハウシュ族、ヤマナ族だ。もちろん、南極に近い彼らの生活圏では、厳しい自然(暴風雨、飲み水不足など)と対峙しなければならないが、それでも、海は彼らには家族の一部であり、敵ではない。  

十九世紀のパタゴニアには、まだ八千人の先住民が住み、三百艘のカヌーがあったという。特にオリオン座と南十字星を崇め、星座を読む(宇宙の中で自分の位置を確かめる)能力にすぐれていた。彼らの魂は死後に星になるという信仰があった。

二十世紀の初めに、あるオーストリア人司祭が撮ったセルクナム族の「ボディペインティング」の写真には、男女の裸体に白い点や線で表わした図が描かれている。現代詩人のラウル・ズリタは、「宇宙に自分を近づけるための手段だった」との仮説を述べている。  

パタゴニアの先住民は「神話の時間」に生きていたと言えるかもしれない。

「神話の考えるところによると、私たち人間もほかのすべての生き物と同様この地球上を仮の住まいとしているだけで、ときがいたればそこから消滅していくことだってありうる(中略)、宇宙の中ではいたってか弱い存在にすぎないのです」(中沢新一『人類最古の哲学』24ページ)

グスマン監督は、レヴィ=ストロースが『野生の思考』の中で、先住民の思考の特徴だと述べた「神話的思考」を実践する。レヴィ=ストロースによれば、「神話的思考とは、一種の知的な器用仕事(ルビ:ブリコラージュ)である」が、グスマン監督は、チリの海を舞台にした時代の異なる二つの「ジェノサイド」を「ブリコラージュ」で一つに結びつける。ある意味、想像力を駆使した隠喩的な手法と言える。  

一つ目は、いうまでもなく、一六世紀に始まるヨーロッパの植民地政策である。ポルトガル、オランダ、イギリスなど、ヨーロッパ諸国が軍隊、教会関係者、民間人をパタゴニアに送り込み海路を切り開く。「インディアン狩り」などをやって、先住民のある部族を絶滅させる。  

十九世紀初頭に象徴的な事件があった。イギリスのビーグル号の船長ロバート・フィッツロイは、一八二六年から三〇年までの「南米航海」においてこのパタゴニアに旅をしているが、四人の「野蛮人」をイギリスに拉致した。船長のもくろみは、「野蛮人」を「文明化」することだった。そのため、「野蛮人」の一人の家族には、「真珠のボタン」を代金として渡した。そので、その男は「ジェミー・ボタン」と名づけられた。本作のタイトルはそこから採られている。ジェミー・ボタンは、一年後にパタゴニアに戻されるが、イギリスで培った「教養」や「産業文明」をかなぐり捨てて、パタゴニアの自然に戻ったという。  

二つ目は、チリにおける「9/11」である。一九七三年九月十一日、ピノチェトによる軍事クーデターによって、アジェンデの民主政権が倒された。米国CIAが加担したその後のピノチェトの独裁政権下で、アジェンデ政権下の大臣やその支持者などが軍によって拉致され、拷問や虐待を受けたり殺されたりした。殺された者の行方は分からなかったが、約千四百の死体が海に捨てられたという。死体を鉄道レールに縛りつけて、ヘリコプターや船で海に捨てたという証言がある。最近、浜辺に死体が打上げられたり、海の底で錆びたレールが発見されたりしている。象徴的なのは、殺された人のものだと思われる真珠のボタンが腐食したレールに張り付いていたことである。ピノチェトの軍隊は、殺人を隠そうとして海に死体を投げ込んだが、この一件が示唆するように、まさに「海は語る」のだ。  

『カオスの自然学』の著作もあるドイツの学者、テオドール・シュベンクの言葉が映画の中で引用されている。「人間の思考の原理は水と同じで、あらゆるものに適応できるようにできている」と。独断的な思考に囚われた植民地時代と独裁時代とを一気に結びつける水の流動性(思考の柔軟性)をこの映画は有する。

グスマン監督は、「失踪」とか「拉致」といったテーマに執拗にこだわる。数々の映画祭で絶賛された『光のノスタルジア』(2010年)でも、北部アタカマ砂漠で、ピノチェト独裁政権による「ジェノサイド」の犠牲になった家族がその親族の遺体を小さなシャベルで捜す絶望的な映像が印象的であった。  

本作もまた、独自の詩学と倫理を兼ね備えた優れたドキュメンタリー映像作家監督の力作である。

*『すばる』(集英社)2015年10月号、p.400-401

公式フライヤー

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映画評  クラウゼ監督『パプーシャの黒い瞳』

2015年03月08日 | 映画

「詩」を書くジプシー女の物語

ーーヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ監督 『パプーシャの黒い瞳』

越川芳明 

 黒い服を着た身重の女性が、店のウィンドーに飾られた白いドレスの人形をじっと見つめている。窓ガラスに映る女性の顔は少女のように驚くほどあどけない。彼女は「パプーシャ」こと、ブロニフワヴァ・ヴァイスを産んだ母親である。「パプーシャ」とは、ロマ語で人形という意味らしい。  

 パプーシャは、長い行列をなして森から森へと移動するジプシーの一家に生まれる。生まれて間もなく、パプーシャは厄払いを受ける。祈祷師は「羽根のように軽やかに大地を歩けますように」と祈るが、「この子は恥さらしな人間になるかもしれない」と、不吉な予言をする。  

 映画は、単純な時系列的展開をしない。パプーシャの誕生(1910年)と晩年の政府による表彰(1971年)という、彼女の人生の外枠をまず設定したうえで、時間軸を行ったり来たりしながら、重要な瞬間を切り取っていく。  

 パプーシャの物語の中にポーランドの20世紀がかいま見える。中でも、注目すべき時代は次の三つだ。  まず1925年。パプーシャは十五歳のときに、父親によって結婚を強制される。夫になるのはディオニズィという名の、ジプシー楽団のリーダー。親子ほどの年の差だ。それもそのはず、ディオニズィはパプーシャの父の兄だから。二つの大戦のあいだの、一二〇年以上ぶりに三大国から「独立」したポーランドで、ジプシーの楽団は貴族の邸宅に呼ばれて金を稼ぐ。政府の出した「ジプシー追放令」にもかかわらず、貴族たちがそれを無視している姿が映し出される。  

 次に、1949年~52年。第二次大戦後、パプーシャの人生は大きな転機を迎える。子供の頃から好奇心旺盛で、ジプシーの掟にさからって、商店を営むユダヤ人女性に読み書きを教わってきた彼女。1949年にイェジ・フィツォフスキという名の男がパプーシャたちの野営地にやってきて、二年ほど寝食を共にする。男は首都ワルシャワで、ナチスドイツに対するレジスタンス運動に加わり、戦後は、社会主義国の秘密警察に抵抗して、追われているのだという。皆からは「ガジョ」と呼ばれている。ジプシーたちの言葉で「よそ者」という意味だ。この男は詩人であり、ときたまパプーシャのつぶやく言葉の中に詩を発見して、ロマ語で詩を書くことを勧める。パプーシャが紙入れに書きなぐる詩は、歌の歌詞のように素朴なものだ。  

 すべてのジプシーよ  わたしのもとへおいで  走っておいで  大きな焚き火が輝く森へ    

 ガジョは、パプーシャの言葉をポーランド語に翻訳して発表する。そして、パプーシャたちと一緒に暮らした経験をもとに、『ポーランドのジプシー』という本を出版する。活字をもたないジプシーの歴史や文化を、彼らに成り代わって書くという行為は、両刃の剣だ。パプーシャはポーランド中で有名になるが、ジプシーの秘密を売ったとして、夫と共に共同体から追放される憂き目に遭う。1952年、社会主義国のポーランドは、ジプシーの定住化政策を進める。住居を提供し、職業を斡旋し、子供の就学機会を与える。それと引き換えに彼らの移動の自由を奪う。  

 最後に、1971年。刑務所に鶏泥棒で収監されているパプーシャを女性官僚が引き取りにくる。パプーシャはコンサートホールに連れていかれて、「パプーシャのハープ」というオペラの演奏に立ち会わされる。気の進まない彼女に暴君的な大臣が列席を強要する。ジプシー詩人としてのパプーシャを顕彰することで、少数民族にも平等に機会を与えていることを宣伝し、体制内に取り込もうという「同化政策」が透けて見える。  

 運命に翻弄されるジプシー女性を扱っているとはいえ、悲しい出来事ばかりではなく、笑えるエピソードもある。ワルシャワの新聞がパプーシャを大々的に取りあげたとき、パプーシャの息子が通う校長が子供にその新聞を家に持ち帰らせる。字の読めない男たちに向かって息子がそれを読んできかせると、パプーシャの夫は、とんでもない自慢話を始める。自分たちは才能ある一家だ、と。「昔、俺はレーニンの前で演奏した。革命で疲れ果てたレーニンが演奏を聴いて小躍りして喜んだ。翌朝には執事がシャンペンを注ぎにきた。クレムリン宮殿での話だ。レーニンが言った。『貴君なしには革命はなし得ない。私の右腕としてここにいてくれ。我が偉大なる宮廷楽師よ』」と、大ぼらを吹く。仲間が「なぜ断った」と問いつめると、夫は「ピウスツキ元帥と先約があったからさ。元帥はジプシー音楽を愛したんだ」と、自慢話を締めくくる。  

 いうまでもなくレーニンは、市民革命によってロシア帝国を打倒し、社会主義国家ソ連を樹立した指導者だし、ピウスツキ元帥と言えば、第一次世界大戦をへてようやく復活した「第二次ポーランド共和国」の初代元首であり、「建国の父」と見なされる男である。だから、このほら話には、自分たちジプシーは、各地で厄介者扱いされながらも、ポーランドにもソ連にも帰属しない誇り高い遊牧民なのだ、という自覚がうかがえる。  

 ジプシーの物語は、過去のものだろうか。シリアをはじめ、中東の国境地帯でテント暮らしを余儀なくされている戦争難民や、祖国を離れて他国で暮らす経済難民など、世界にはかつてのジプシーと同様、国籍(国軍)によって守られない「見えない人々」が大勢いる。そういう意味で、もっとも現代的なグローバルな問題を提起しているのだ。(『すばる』2015年4月号、340-341ページ)

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映画評  ティアオ・イーナン監督『薄氷の殺人』

2014年12月08日 | 映画

変わりゆく中国の暗闇  ティアオ・イーナン監督『薄氷の殺人』

越川芳明    

中国語の原タイトルの意味は『昼の花火』。「黒い石炭、薄い氷」という意味の英語のサブタイトルがついている。『薄氷の殺人』という邦題は、英語のサブタイトルからヒントを得たらしい。市場経済の導入により急速に変わりゆく中国で、ごく普通の人間がある出来事をきっかけにして自分でも信じられないような凶悪な犯罪に手をそめてしまう。邦題は、そうした中国のあやうい日常をたくみに示唆する。  

花火は真っ黒な夜空を背景に打ち上げてこそ美しく映える。昼の花火のシーンは、マンションの廊下で飼われている馬のシーンと同様、シュールで非現実的な雰囲気が漂う。  主人公は二人。刑事のジャンと、容疑者である若く美しい女・ウー。刑事が視点人物となり、女性を追跡する。だが、彼らは同じ穴のムジナだ。というか、鏡に映るもう一人の自分だ。  

刑事ジャンは妻から離縁状を突きつけられ、ばらばら死体事件の捜査に出向いても、心ここにあらずの状態だ。死体の一部が発見された貯炭場で、工場主任に話を聞きながら、足下にある空瓶を蹴るジャン。コンクリートの床の上をうつろで無機質な音を立てて転がる空瓶が、彼の空虚な心を表す。  一方、町のクリーニング店で働くウーは、夫が何者かに殺されたらしい。ばらばらにされた死体はウーの住む華北地方だけでなく全国各地の貯炭場に運ばれ、そのうちのどれかで夫の身分証明書が見つかったという。同僚刑事とウーを訪ねたジャンは、彼女が店の前の木のねもとに夫の遺骨を埋めているのを目撃する。ウーもまた、伴侶を失った孤独な人間に映る。  

ジャンは、逮捕したある兄弟に銃で撃たれ怪我を負う。そのため、刑事から警備員へと転職を余儀なくされる。それが一九九九年のことである。映画はそこから一気に二〇〇四年へと移り、一介の市民として、昔の同僚刑事に協力するジャンを描く。  

ここで、二つの大きな疑問が生じる。なぜ時代設定は、一九九九年と二〇〇四年なのか。なぜ舞台は華北地方の田舎の都市なのか。それらは、互いに関連しているように思える。  最初の疑問点から考えてみよう。七〇年代から始まった中国の改革開放政策は、成長と後退をくり返しながら、九九年、WTO加盟の事実上の合意によって一気にグローバル化の波に乗った。経済成長の指標ともいうべき国内総生産GDPの伸び率は、一九九九年の七・六パーセントから二〇〇七年まで右肩上がり。ちなみに、二〇〇七年は一九九九年の約二倍にまでになる。だから、一九九九年から二〇〇四年という時代設定は、そんな経済成長の最初のステージを監督が敢えて選んだということを意味している。  

そのことが二つ目の疑問にかかわってくる。急激な経済成長によって生み出される格差が顕著に現われるのは、北京や上海のような大都市ではなく、大多数の農民が暮らす田舎である。経済成長がピークに達した二〇〇七年、上位十パーセントの高所得層と下位十パーセントの低所得層の平均世帯収入の格差は約五十五倍であったという報告もある。こうした経済格差が、改革の波に乗れない住民のあいだに不満と不安を募らせるのは、言うまでもない。  

映画の中の二〇〇四年は、誰も彼もが浮かれている。とりわけ、役人と癒着して経済自由化の波に乗った新興実業家ジャオ・ジェンピンは、いわば典型的な「勝ち組」で、貿易商を経ていまはネットカフェを経営している。「税務局」にワイロをつかませているようなことを匂わすし、違法賭博で莫大な金を賭けていて、「昨夜は十万元勝った」とまで、うそぶく。二〇一四年でさえ、全世帯平均年収は、一万八千元であるというから、いかに法外な数字であるかが分かる。  

さらに、かつて「負け犬」扱いされていたジャン自身の羽振りも、なぜか二〇〇四年には良くなっている。殺人事件に関係あると睨んだ傷んだ革ジャケットを一千元も払ってクリーニング屋から引き取るのだから。  

一方、ウーは、自分がダメにしてしまった高級革ジャケットの持ち主から二万八千元の弁償金を要求されている。彼女は、二〇〇四年でもクリーニング屋の店員をして暮らしている。いわば「負け組」のウーにとって、まわりの世界は「昼の花火」同様、シュールかつ不条理に映るに違いない。ジャンにしても、警察に協力して犯人逮捕の「手柄」を立てるが、それでもダンスホールでイカれたステップで踊る彼の姿からは、決してまともな未来はみえてこない。  

「勝ち組」にとっても、「負け組」にとっても、バブル景気は束の間の夢のように儚いものだ。監督自身は、インタビューでこう言っている。「私の描くキャラクターは全員、生きることと夢の狭間を彷徨っている。彼らの人生は危なっかしい。人生を欺いていると言ってもいい。私は彼らに大いに共鳴する」と。  薄い氷の上を歩くような登場人物たちのあやうい人生をサスペンスタッチで描いた傑作だ。

(『すばる』2015年1月号)

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映画評  ジョエル&イーサン・コーエン監督『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

2014年08月05日 | 映画

猫を連れたフォーク歌手ーー『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

越川芳明     

 アコースティック・ギターの澄んだ響きに煙草の煙。六〇年代のニューヨーク、グリニッジヴィレッジ。売れない芸術家やミュージシャンが安アパートに住んでいる。  フォーク歌手のルーウィン・デイヴィスは、そうした安い家賃さえも払えずに、その日暮らし。友人たちのアパートを転々と渡り歩き、リヴィングのソファーに寝かせてもらう。  

 一九六一年の〈ガスライト・カフェ〉のライブシーンが印象的だ。ルーウィンが歌うのは、絞首刑になる男のつぶやきを歌った「首を吊るしてくれ」だ。  

 首を吊るしてくれ ああ 首を吊るしてくれ  そうすりゃ オサラバさ  もうすぐ死ぬ俺さ  縛り首は構わないが  長いあいだ 墓に横たわる  哀れな男   世界中を渡り歩いた俺さ  

 これはルーウィンのオリジナル曲ではなく、伝統的な「フォークソング」だ。それでも、あたかも彼のオリジナル曲のように聞こえてくる。人間を善悪の二分法で決めるピューリタン的な発想からは生まれてこない、「犯罪者」の視点の歌だ。神(宗教/倫理観)による「上から目線」ではなく、大衆の「下から目線」で歌われる、まさに人民の歌(ルビ:フォークソング)。  

 ルーウィンがライブ演奏をおこなうヴィレッジの〈ガスライト・カフェ〉は、暗く湿っぽくボヘミアン的な雰囲気が特徴で、一九五七年にオープンした。バスケットを廻して客に投げ銭をもらう方式で、新進のミュージシャンの登竜門であり、やがてボブ・ディランやホセ・フェリシアーノなども出るようになった。だが、そもそもは、詩「吠える」によって物議を醸すアレン・ギンズバーグら〈ビート世代〉の詩人連中が、パフォーマンスをおこなう店だった。  

 ルーウィンは、金持ち階級の者たちが住むアップタウンの大学教授の家にもたまに泊めさせてもらっていた。朝、主人のいない家から出て行くときに、教授の猫が外に逃げ出してしまい、なんとか捕まえたものの、玄関のドアはロックされてしまっており、仕方なく教授の愛猫を連れて、また別の友達の家へ向かう。ギターを背負い、片手に足手まといの猫を抱いたルーウィンの姿は、彼の人の好さを表わしていると同時に、前途多難な道を象徴している。  

 ルーウィンは、起死回生を狙って旅に出る。新人の売り出しに成功しているシカゴのメジャーレコード会社に直接出向いて契約を結ぼうとするのだ。ニューヨークからシカゴまでは、仕事で知り合った男の紹介により、ある二人組の車に乗せてもらう。ガソリン代を折半するという約束だったが、ガソリン代も食事代もたかられる始末。  一緒に旅するのは、相当に変てこな二人組だ。後部座席にどっかと腰をおろしているのは、帽子をかぶり黒めがねをかけた白髭の老人だ。人を見下すようにステッキで肩をつつき、嫌みなことをずけずけとルーウィンに言う。一方、運転手は寡黙な若者で、名前はジョニー・ファイヴといい、老人によれば、彼の「付き人」だという。  

 あるとき、寡黙なジョニー・ファイヴがぼそっとピーター・オーロフスキーの詩を口ずさむ。

 もっと もっと とベッドは泣き叫んだ もっと話して ああ 世界の重さを受けとめたベッドよ あらゆる失われた夢が お前にのしかかる ああ ヘアの生えないベッドよ ファックされない あるいはファックされるベッドよ ああ あらゆる世代のベッドの欠片が お前にこぼれ落ちる  

 オーロフスキー「私のベッドは黄色に包まれた」(一九五七年)の一節だ。いうまでもなく、オーロフスキーは、五〇年代から七〇年代までギンズバーグのパートナーだったビート詩人。  

 シカゴのメジャーレーベルの社長、バド・グロスマンがルーウィンの演奏を聴いたあとに、彼に言う。「君は決して下手じゃないが、金の匂いがせんな」と。  

 コーエン兄弟はなぜ六〇年代の売れないフォーク歌手に焦点を当てた映画を作ったのだろうか。  

 アメリカの資本主義は、六〇年代以降、過度の情報消費主義へと向かい、歌手も質よりも量(レコードやCDの売り上げ)重視の方向へ向かう。いまや世界は、情報資本主義から金融グローバリズムにまでつき進んできている。  

 それに対して、「ビートニク」「対抗文化」の思想は、競争よりも協調、自然の征服よりは自然との共生、物質文化よりも精神文化の重視を謳う。  ベトナム戦争後遺症の男を登場させた(『ノーカントリー』や『ビッグ・リボウスキ』)コーエン兄弟らしい、アメリカの主流文化への「ノー!」を、ソフトに、しかし的確に突きつけた映画だ。 (『すばる』2014年4月号)

 

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映画評  ダニス・タノヴィッチ監督『鉄くず拾いの物語』

2013年12月19日 | 映画

鉄くずと火力発電所  ダニス・タノヴィッチ監督『鉄くず拾いの物語』

 越川芳明

 二人の幼女が出てくる。利かん坊の妹は、歳のあまり違わない姉とソファでじゃれつきながら、テレビのチャンネルを争う。その部屋に、太った中年の母親が入ってきて、コンロを兼ねるストーブに薪をくべる。彼女の名前はセナダ、その右腕には「ハートを射抜く矢」の刺青があり、彼女が労働者階級であることがさりげなく示される。父親ナジフが帰ってきて、テーブルの前で煙草を取りだして喫う。妻が、薪がなくなったわ、と言うと、夫は無言でうなずく。

 この冒頭では、けっして裕福とは言えないが、薪ストーブの暖かさに象徴される愛情豊かな四人家族の、ありふれた日常が提示されている。

 だが、そこから、ありふれていない、過酷な物語が始まる。

 夫は雪の積もった道路を、のこぎりと鉈を持って森へと向かう。森では適当な木を探し、切り倒して家に持ち帰り、それを斧で細かく割って薪を作る。また、自分を「兄貴」と呼ぶ近所の解体屋のところへ行き、大鉈を手にして、ポンコツ車の解体を手伝い、わずかな日銭を稼ぐ。彼は、いわば日本で言うところの、非熟練の「フリーター」だ。だからと言って、怠け者ではけっしてない。むしろ、勤勉な方だ。

 妻のセナダも、夫に劣らず働き者だ。夫が木を切りにいっているあいだは、夕食の準備に余念がないし、夫が寒空の下で解体作業をしているあいだは、小麦粉とチーズでパイ生地を作り、それを薪ストーブのオーブンで焼く。それが終わると、浴室へ行き、家族の汚れた衣類を手で洗い、外のベランダに干す。

 問題は、そうした二人の肉体労働に象徴されるものが、この社会では報われないという点だ。彼らが住んでいるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナの山奥の、ポーリャというロマ人たちの集落。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(一九九〇-九四)は、一種の民族紛争で、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が互いに異民族を排除する「民族浄化(ルビ:ジェノサイド)」が繰り広げられた。紛争後、ボスニア・ヘルツェゴビナは、二つの政体からなる国となったが、政治的にはボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が主流をなし、ナジフたちのようなロマや、ユダヤ人は、国勢調査で「その他」と分類される。そうした「その他」の少数民族は、社会の周縁に置かれ、さまざまな差別に晒される。

 たとえば、ナジフは兵士として民族間の戦いに四年間参加したのに、恩給も生活保護も子供手当ももらえない有様だ。旧ユーゴスラビア時代に充実していた医療や社会保障、教育も資本主義市場経済の導入と共に不十分になる。

 妻セナダは、三人目の子を身ごもっているが、あるとき腹痛を覚える。夫に連れられて、遠い都市の大病院に診察を受けにいく。その病院で流産との診断がくだされるが、とりあえずの応急処置しかしてもらえず、紹介状を渡される。そこで、二人は別の産婦人科病院へ行くが、その病院では掻爬手術を断られる。

 セナダは、少数民族のロマだから手術を拒絶されたのではない。「保険」に入っていかなかったから、死ぬかもしれぬ病態でも手術をしてもらえなかったのだ。看護師は、保険証がなければ、九八〇マルク(約六万五千円)かかると夫に告げる。だが、彼にそんな金があるはずがない。解体屋が車一台つぶしても、一五三マルク(約一万円)にしかならなかったのだから、二人にとって、それがとてつもなく法外な額だということが分かる。それでも、夫は諦めずに、分割にしてほしい、と頼む。

 夫婦は再同じ病院を訪れるが、担当医は、院長の意向に背くことはできない。自分も雇われている身だからと言い、ナジフの頼みを断る。このとき、病院は営利目的の会社でしかなく、その資本主義システムの末端で働く看護師や医者は、単なる駒でしかない。その図式は料金の支払いが滞納したという理由で、ナジフの家の電気を止める電力会社にも言える。末端で働く人々は、会社の命令で仕事をするだけだ。

 この映画は、実話に基づいて、本人を登場させて、監督自らがハンドカメラで撮った「ドキュドラマ」。素人であるナジフの落ち着いた演技には、ベルリン国際映画祭で「主演男優賞」が与えられているが、それ以上に、この作品が単なる実録もので終わっていないのは、一見物語とは無関係に思える「都市部」の火力発電所の映像に、象徴的な意味を帯びさせることに成功しているからではないだろうか。

 ナジフたちは、山奥のロマの村から遠くの都市の病院に出向いては、拒絶されて家路に就く。その際に、カメラは都市近郊の発電所を捕らえる。昼となく夜となく、不気味に煙を吐いている。映画の中で四度も映し出される発電所は、社会の中では経済発展のシンボル、映画の中ではセナダの手術を拒む資本主義の都市の象徴となっている。一方、ナジフは粉雪吹くなか、山奥の集落のはずれにある崖地のゴミ捨て場に出向いて、自転車の車輪や金網など、鉄くずを黙々と拾う。ほんのわずかの金にしかならないことを知りながら。

 このような資本主義システムにおける、鉄くず拾い(非生産性)と火力発電所(生産性)の比較映像によって、この映画は、周縁からのメッセージを私たちに伝える。「生産性」だけを追い求めることは、かえって人間を殺すのだというメッセージを。

(『すばる』2014年1月号、334−335ページに、若干手を加えました。)

 

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