越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 ミゲル・シフーコ『イルストラード』

2012年08月22日 | 書評

文学でフィリピン深層へ

ミゲル・シフーコ『イルストラード』(白水社)

越川芳明 

  語り手の「僕」(著者と同じ名前のミゲル・シフーコ)は、冒頭で、米国に亡命中のフィリピン作家クリスピンの謎の死について語る。

 クリスピンも「僕」もフィリピンの同じ地方の富裕階級の出でありながら、政治ではなく、文学に希望を託す点で共通している。

 物語は、クリスピンの遺作『燃える橋』の原稿の探求をめぐって展開する。

 それは、「何世紀にもわたってフィリピンの支配階級を蝕んできた血族登用、樹木の不法伐採、ギャンブル、誘拐、汚職、その他ありとあらゆる悪徳がその中で見事にすっぱ抜かれているはずの原稿」だった。

 「僕」はその原稿の在処を探しながら、クリスピンの伝記を執筆しようとする。

 「彼の人生について書くことが自分の人生の謎を解く手がかりになると考える」からだ。

 この小説は、小さな筒をまわすたびに異なる絵模様が見える万華鏡のようだ。

 というのも、ポストモダン小説にお馴染みの「モザイク模様」のテクストよろしく、ブリコラージュ(あり合わせの材料を使った「器用仕事」)という語りの方法を採用しているからだ。

 たとえば、クリスピンが書いたとされる小説群(『マニラ・ノワール』という冒険活劇小説や『啓蒙者たち』という自伝小説、『自己剽窃者』という回想録など、十個を超える小説やエッセイ)のみならず、作家が関わったとされる雑誌インタビューや、ローカルなジョーク集など、ときにユーモアたっぷりの語りの断章群が巧みにつなぎ合わせられている。

 感心させられるのは、そうした語りの断章の総体がフィリピンの近現代史の暗面をあぶりだし、十九世紀末の独立戦争時代から現代までつづく少数の富裕層による寡頭政治の「からくり」をすっぱ抜いているということだ。

 フィリピンの地方色をふんだんに取り入れながら、世界文学としての普遍性をそなえた驚嘆すべきデビュ作だ。

(「北海道新聞」2012年8月19日)

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ミてのエッセイ 

2012年08月21日 | コラム

「ミて」に書いたエッセイを写真入りで、編集人の新井さんがウェブ版に載せてくれました。

「死者のいる風景、12月のハバナ」です。

http://www.mi-te-press.net/essay/index.html

 


 

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書評 中村文則『迷宮』

2012年08月21日 | 書評

震災後の迷路をさまよう

書評 中村文則『迷宮』

越川芳明

 ギリシャ神話で「迷宮」といえば、クレタ島のミノス王が、半獣半人の怪物ミノタウロス(なんと王妃と牡牛のあいだに生まれた!)を閉じ込めておくために名工ダイダロスに設計させた巨大迷路「ラビュリントス」を思い出す。  

 この迷宮をめぐっては、アテナイの英雄テセウスが怪物を退治するだけでなく、「アリアドネの糸」を使って迷宮からの脱出に成功するエピソードが有名だ。  

 つまり、「迷宮」とは、どのように窮地から脱出するか、人間の知恵をためす装置なのだ。  

 この小説の「迷宮」は、そうした目に見える形を取っていない。まるで大空を風に流されてゆく白雲のように変幻きわまりない、人間の暗い「内面」世界を指している。  

 語り手の「僕」は、三十代なかばという設定だ。ある弁護士事務所に勤めている。

 上司や同僚に悪意を抱いていても、それをそのまま口にすることはしない程度には、社会に適応している。

 だが、幼い頃に母親に捨てられたトラウマは消えていない。  

 あるとき、「僕」は紗奈江という中学時代の同級生の女性に会い、彼女のアパートに誘われて泊まる。

 その翌日、探偵と称する男に会社帰りに待ち伏せされて、紗奈江の素性を知ることになる。

 探偵によれば———。  

 かつて日置事件という「迷宮」入りした不可解な殺人事件があった。

 誠実だが平凡きわまりない夫が被害妄想に取り憑かれ、絶世の美女である妻の行動に不信感を募らせ、極度の「嫉妬心」から妻の自転車を壊したり、家中に防犯カメラを取り付けて監視したりする。

 十五歳の息子は不登校になり、妹に性的な接触をもとめたり、気味のわるいプラモデルを作ったりする。

 そのうち、「壊れる家族」を象徴するかのように、凄惨な殺人事件が発生する。

 鍵のかかった家の中で、夫と妻と兄が殺されて、妹だけが生き残ったのだ。

 その生き残った妹は、「僕」がアパートに泊めてもらった紗奈江である、というのだ。  

 小説は、この日置事件に関する「僕」の調査や推理を推進力にして一気に突き進むが、「僕」だけでなく、紗奈江も彼女自身の「迷宮」に閉じ込められていることが分かってくる。  

 自分の中の暗い暴力的なケダモノを飼いならす術を心得ている「僕」は、出口のない「迷宮」を彼女と共にさまよう覚悟を決める。  

 最後に一言添えておくと、小説の時代設定は、あの大震災の数ヵ月後である。

 語り手の「僕」は、震災後のこの時期を既視感を持って捉える。

 つまり、かつて自分が幼かったバブル崩壊後にも、そうした「無力感」を覚えたというのである。  

 ここに来て私たちは「迷宮」が震災後に難局に立たされた日本社会の比喩にもなっていることに気づかされる。

 迷宮からの脱出ではなく、その中で生き延びることを説く寓話だ。(了)

 『週刊現代』(2012年8月11日号、123ページ)より。タイトルを変更しました。

 

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交遊抄「ボウルズの部屋」

2012年08月03日 | コラム

ボウルズの部屋

越川芳明

 アメリカ文学の作品をいろいろと翻訳してきた。

 翻訳に取りかかるさいに、なるべく原作者に会って、生の声を聞くことを心がけてきた。

 旅費もかかるので放蕩息子の道楽みたいなものだが、作家や詩人と友達になるという役得がある。  

 とりわけ九〇年代初めに、モロッコのタンジールに住んでいた今は亡きアメリカ人作家ポール・ボウルズの部屋に通ったことが忘れられない。  

 毎日、夕方になると、彼の部屋まで歩いていき、日課であるフェズ市場での買い物につき合った。

 それから、世界中から訪ねてくる作家やジャーナリスト、彼の若い友人ための「芸術サロン」と化した居間で雑談に加わった。

 あとで振り返ると、それが私の文筆家修行の事始めだったような気がする。  

 ボウルズは、漁師町育ちの私とは大違いで、ダンディで物静かな人だった。

 なかなか本心を語らない人でもあったが、ある時、私にポロッと愚痴をこぼした。

 朝、突然ひとりの運転手がやってきて、外でオランダ人の女性が待っていると言う。

 何が目的なのかと訊くと、ただ彼に会いたいだけだと言う。

「どうもタンジールに行ったら、ヘラクレスの洞窟とボウルズは見に行けって言われているらしい」

 そう言いながら、ボウルズは苦笑いした。 (『日経新聞』のコラム「交遊抄」2012年7月20日朝刊)

 

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8月2日(木)のつぶやき

2012年08月03日 | キューバ紀行
22:19 from web
いま発売中の『週刊現代』(8月11日号)に、中村文則の新作『迷宮』についての書評を書きました。この作家の作品は、去年、『王国』の書評を文芸誌『新潮』に書かせってもらって以来です。

22:32 from gooBlog production
これまで知らなかった作家だが、自虐のユーモアが面白い。 blog.goo.ne.jp/nekonekoneko_1…

by roberto410 on Twitter
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書評 広小路尚祈『金貸しから物書きまで』

2012年08月02日 | 書評

資本主義の「正義」にユーモアの矢を放つ

広小路尚祈『金貸しから物書きまで』

越川芳明

 語り手の広田伸樹(三十三歳)は、毎朝、会社に行く前に肩痛と首痛と吐き気に見舞われながら、「死の儀式」を執りおこなう。

 きょう一日、会社の中でつつがなく過ごせるように、駅構内のカフェでコーヒー一杯とタバコの一服によって「地獄」に飛び込む覚悟を決める。それは彼にとって、いわば己を殺すための儀式なのだ。

 彼は、高校を出てからいろいろな職場を転々としてきた。「必死になって受験勉強をしたり、スポーツなどで根性を鍛えたり、就職活動をしたり、仕事を覚えたりしなきゃならなかったはずの貴重な時間を、ふらふら暮らしてしまった」(9)。

 だが、結婚し子供ができると、人並みの生活に憧れるようになる。根性なくふらふらと生きてきた「ダメ男」でも、それなりの報酬をくれるのは、ある中堅の消費者金融会社ぐらいだった。

 待っていたのは、劣悪かつ極悪な労働環境。意地悪な直属の上司(支店長)にはねちねち絞られ、もう一つ上の上司(ブロック長)には細かく持ち出されて怒鳴られる。お客に対しては、法律に抵触しないように、あの手この手で応対せねばならない。

 広田は述懐する。「これほど客と良好な関係を築くのが難しい職業が他にあるだろうか」(68)と。  

 会社で働いているあいだ自我を抑え神経をすり減らすしかない。だから、毎朝、「死の儀式」を執りおこなうのだ。  

 安定した生活が送れない新たな貧困層(プレカリアート)が、日本社会に大勢出現している。この小説はそうした貧困層の側に立つが、社会批評に欠かせない逆説(パラドックス)の顔を持っている。  

 語り手は「おれには学歴がない。根性もない。特別な才能もない」(9)と告白するが、そうした愚直な語りによってこそ、おおらかなユーモアの才能を披露することができる。

 「ああもう、腹立つ。頭が良くて感性の鈍い人とは、きっと話をしてもつまらんだろうな。理屈ばっかで。よかった。おれ、インテリじゃなくて。(中略)そういうつまらないインテリが世の中を仕切ってきたから、このつまらない世の中が出来上がってしまったのだろうけれど、おれには崩せんね、この世の中のシステム。インテリじゃないから」(30)

 崩せないシステムの周縁に置かれた男のつぶやきが、むしろ周縁の「豊かさ」をあぶりだす。

 「ないない尽くし」を「あるある尽くし」に転化することで、作家は常に強者に味方する資本主義の「正義」にユーモアの矢を放つ。

(『すばる』2012年8月号、100頁)

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