メキシコの黒人難民の村から
越川芳明
サビナス川は巨大なクリスタルガラスのように、まぶしく陽光を反射させている。川の両岸には緑なす森が迫っている。橋の上から、水面に映るウイサーチェ(アカシア)をはじめとする木々の影を見ていると、一瞬どちらが本物でどちらが影なのか、わからなくなる。まるで生者と死者が行き交う魔法の世界に入り込んだかのように、僕は胸に静かなざわめきを覚えた。
なぜ僕はこんなところをうろついているのだろうか。ここは米墨国境線から百五十キロほど南にくだったメキシコのコアウイラ州ナシミエント。背後に三千メートル級のサンタローサ山脈がそびえるインディアン居留地だ。近くの町ムスキスまで三十キロほどある。
この辺のことは、少し前に出した『ギターを抱いた渡り鳥 チカーノ詩礼賛』でも書いた。その中の小説「アリスの不思議な国」では、主人公アリシアにムスキスから居留地までまでヒッチハイクと徒歩で行ってもらった。すると、少女はこのその途中で彼女の内的な人生にとって決定的な体験をすることになった。
だが実際、僕はムスキスの小さなバスターミナルに停まっていたタクシーと値段の交渉をして、タクシーでいってしまったので、アリシアのような経験はしていない。
運転手はこちらが頼んだわけでもないのに、なぜか、途中でガイド役としてフリオという名の老人を雇った。
車はいったん幹線道路をはずれると、でこぼこの砂利道を、まるでイノシシそっくりのハベリナが餌をさがすみたいに、せわしなく首を振って突き進んだ。
ナシミエントの居留地に生活しているのはキッカプー族とセミノール黒人だ。キッカプー族は北の五大湖周辺からはるばるやってきた放浪のインディアン。セミノール黒人は、もとをたどればアメリカ南部からスペイン領フロリダに逃亡した黒人奴隷だ。
セミノールとは、クリーク族をはじめ、フロリダの複数の先住民部族を統合する名称で、スペイン語のシマロネス(逃亡奴隷)に由来するといわれており、かれらの奴隷だったのがセミノール黒人だ。
キッカプー族とセミノール黒人はいま、互いに干渉し合わない程度に、五、六キロの距離を置いて別々に暮らしている。キッカプー族の家は葦や木の枝で作ったウィキアムと呼ばれる風通しのよい小屋だが、セミノール黒人のほうは日干しレンガを積み立てた建物だ。
セミノール黒人はここでは、ネグロスとかマスコゴスと呼ばれているが、実はメキシコにおいて唯一「ガラ」と呼ばれるクレオールを話す人たちである。「ガラ」とは、サウスキャロライナ、ジョージア、フロリダの近海の島々で奴隷たちによって話されていた、英語とアフリカ諸語との混成語だ。
なぜそんなトランス・エスニックな言語が大西洋の海岸から遠く離れたこんなところにぽつんと、まるで砂漠の亀みたいに、残っているのだろうか。
「ようこそ マスコゴス族」と書かれた標識を通過して、セミノール黒人の村に入っていくと、ガイド役のフリオ老人が村長にあたるリカルド・ゴンサレス氏を紹介してくれた。
ゴンサレス氏はカウボーイハットをかぶり、がっしりした体つきの、愛想のよい男だ。
ゴンサレス氏は「わたしの祖先は十九世紀に、タンパというフロリダの港から船でニューオーリンズを通って、現在のオクラホマにあたるインディアン居留地に強制移住させられたんです」と、スペイン語で説明した。
ボーダーの周縁の民から米国史を見ると、時の政権がいかに強引に「他者」を排除しているかがわかる。一八三八年に、チェロキー族をはじめ南部の先住民たちは「インディアン移住法」によって、ミシシッピー川の向こうの「インディアン・テリトリー」への移住を強要された。ゴンサレス氏の祖先であるセミノール黒人も同様に移住を余儀なくされたが、かれらにとって、その移住先すらも安住の土地ではなかった。米国にはその頃まだ奴隷制が生きていたからだ。
ゴンサレス氏が、トカゲのヒーラ・モンスターが怒ったみたいに、腹を突き出していった。「子どもは連れ去られるし、奴隷狩りを恐れて、メキシコに逃げようということになった。あの頃は、白人だけが敵じゃなかったからね」
僕があっけにとられていると――
「われわれを付けねらっているインディアンもいて。とくに南部アーカンソーのクリーク族だけど。だから、ときどき白人の砦に逃げたりもした」
一八四九年、ジョン・ホースに率いられた約二百名のセミノール黒人は居留地を旅立ち、テキサスを経由してメキシコへ向かう。ワイルド・キャットに率いられたセミノール族も一緒だった。ソフキーというトウモロコシのスープでしのぎ、一年後にようやく国境の町イーグル・パスにたどり着いた。
ゴンサレス氏はいった。「リオ・グランデを目にしたとき、先祖の人たちは思わず「自由の川」と呼んだそうです」
セミノール族は南北戦争が終わった後で、米国のインディアン局の要請でオクラホマに戻った。セミノール黒人も戻ろうとしたが、テキサスに留まっているうちに、十名以上の男たちがアメリカ軍によって斥候として採用され、一九一四年までそこを動けなかった。そこでは農業や狩猟ができないので、その他の者はメキシコに戻った。
いまセミノール黒人はテキサスのブラケットヴィルとメキシコのナシミエントとに分散して暮らしている。オクラホマの居留地を与えるという、かつての約束は守られていない。
「わたしたちにはこういう諺がありますよ。『いま鴨はゆうゆうと泳いでいても、いつか飲み水に事欠くこともある』」。ゴンサレス氏はそういうと、僕と大きな手で握手をして、巨大なサグアロサボテンみたいに両手を挙げて笑った。
僕は国境の町ピエドラス・ネグラスに向かい、そこからリオ・グランデに架かる橋を歩いて渡った。下を見ると、水のない河川敷のほうが水の流れているところより遥かに大きかった。メキシコ側で、のんびり釣りをしている少年がいる。その少年が泳いで渡ろうと思えば、簡単に渡れるだろう。
税関を抜けると、その向こうに広い駐車場があり、国境警備隊の小さな車が一台停まっていた。さっき釣りをしていた少年に似たサンダル履きのメキシコの少年が車に乗せられているところだった。少年にとって、この川はなんと不自由な川だろう。
メキシコ系アメリカ人のアリシア・ガスパール・デ・アルバ(一九五八–)は、こんな詩を書いている。
ラ・フロンテラ(国境地帯)が広々と
横たわる 眠り姫のように。
彼女のウェストは 国旗掲揚の
ポールをぐるりと迂回する河の
土手のようにくびれている。
彼女の匂いは メスキートの木の両腕に
からまる。 彼女の脚は
二つの国の泥に
沈みこむ。その両わき腹から
血(ルビ:サングレ)と夢(ルビ:スエニョス)がこぼれ落ちる。
(「ラ・フロンテラ」より)
眠り姫に喩えられた国境地帯の「ウェストがくびれている」のは、国境線の東半分をなすリオ・グランデ川が蛇行しているからだ。彼女が両脚を広げている姿に、川の両側が同じ文化圏であることが明確にしめされている。
そこから、僕は「黒人ディアスポラ」のルートを逆に辿るべく、フロリダに向かった。ナシミエントからオクラホマを経由すれば、約二千八百キロの旅だ。札幌から鹿児島への距離に匹敵する。
十九世紀に政府が南部の先住民を排除しようとしていたとき、徹底的に抗戦した人々がいた。フロリダのセミノール族だ。かれらは三度も合衆国政府軍と戦い、とりわけ第二次セミノール戦争は一八三五年から七年も続いた。
政府は三千人のセミノール族や、かれらの奴隷だったセミノール黒人をフロリダから強制移住させることに成功した。
だが、移住をこばんだ数百名のセミノール族の人々がエヴァーグレーズに逃げ込んだ。そこはオキーチョビー湖の南に広がる、鰐も棲息する湿地帯だった。面積は一万三千五百平方キロメートルもあり、長野県とほぼ同じくらいだ。
僕はフロリダ半島の南端のマイアミでレンタカーを借り、かつての戦場を巡った。ある朝、フロリダ北部の国道三〇一号線を突っ走っていると、「交易所」という、土産物屋みたいな看板が目に入った。インディアンの名を騙って白人が店を出していることはよくある。無視して通り過ぎたものの、あたりには牧草地しかない。数キロ走ってから、思い直して引き返した。
開店前のドアをノックしてみると、店のなかから中年の女性が現われた。僕がセミノール戦争の跡地のことを持ちだすと、そういうことに詳しい人がもうすぐやってくるけど、とやさしくいった。
やがて、その老人がやってきた。若い男に抱えられて机の向こうがわに坐ると、老人はリック・ナイトですと自己紹介して、名刺をくれた。ナイトは騎士と同じ綴りだ。その前に、博士(ルビ:ドクター)の称号がついている。
「いま七十才。ミカスキ族です。五十年前は怖いもの知らずで、観光客相手のインディアン村で、鰐との格闘ショーなどやっていましたよ」と、落ち着いた声で語った。顔の小さい老人は、頭部だけが白いカラカラという名を持つ鷹の、哲学者めいた風貌を僕に連想させた。
ナイト氏は、その後大学で心理学の勉強をして博士号まで取った。しかし、数年前に病気から両目を失明したという。いまは、店のとなりに「教育センター」を作って、地域のインディアンのための啓発に努めている。
「インディアンであることを恥ずかしく思うような刷り込みを受けた人たちに、言語や文化を教えたりしているのです」
盲目の老人は、白人による同化政策を「文化的虐殺」と表現した。
湿地帯に逃げ込んだセミノール族は、一九五八年に政府から数カ所の土地を得たらしい。七九年にハリウッドというマイアミの郊外にビンゴホールを開き、その後、事業を拡張して、全米のインディアン・カジノの先駆者となった。二〇〇四年には、ロンドンに本拠地を持つハードロックカフェの、フロリダ州でのフランチャイズ権を獲得。ハリウッドとタンパで「セミノール・ハードロックカフェ・ホテル・アンド・カジノ」を経営し、その莫大な収益は約三千名の部族のメンバーに配当されている。
僕が見てきたばかりのセミノール族のカジノのことを持ちだすと、盲目の老人は「月に二千ドルものの配当金が入るので、若者がまじめに働く意欲を失っている」と、辛辣な言葉を述べた。
知らないうちに、まるで旧知の友人のように二時間以上も話し込んでいた。別れ際に、僕が「偶然ここを通りかかって、幸運でした」と、お礼を述べると、盲目の老人はさりげなく「あなたがここに来たのは、偶然などではありません」と、応じた。
僕は一瞬、言葉を失った。
「この地球のどんな辺鄙なところで起こることでも、それだけでぽつんと起こるわけではない。どんな出来事も、みなつながりがあるのです」と、老人は言葉をつづけた。
それから数カ月後、僕は日本の新聞に小さな記事を見つけた。フロリダのセミノール族がオークションで世界のハードロックカフェの権利を購入したという。一二四店舗あるレストラン、六つのホテル、二つのカジノがセミノール族のものになった。セミノール族の代表者が記者会見で、かつて先住民がマンハッタン島をただ同然でオランダ人に売ったことを引き合いに出し、「われわれはいまハンバーガーを一つずつ買い戻すのです」と語ったという。
(『図書』岩波書店、2008年3月号、16-20頁 に若干手をいれました)
越川芳明
サビナス川は巨大なクリスタルガラスのように、まぶしく陽光を反射させている。川の両岸には緑なす森が迫っている。橋の上から、水面に映るウイサーチェ(アカシア)をはじめとする木々の影を見ていると、一瞬どちらが本物でどちらが影なのか、わからなくなる。まるで生者と死者が行き交う魔法の世界に入り込んだかのように、僕は胸に静かなざわめきを覚えた。
なぜ僕はこんなところをうろついているのだろうか。ここは米墨国境線から百五十キロほど南にくだったメキシコのコアウイラ州ナシミエント。背後に三千メートル級のサンタローサ山脈がそびえるインディアン居留地だ。近くの町ムスキスまで三十キロほどある。
この辺のことは、少し前に出した『ギターを抱いた渡り鳥 チカーノ詩礼賛』でも書いた。その中の小説「アリスの不思議な国」では、主人公アリシアにムスキスから居留地までまでヒッチハイクと徒歩で行ってもらった。すると、少女はこのその途中で彼女の内的な人生にとって決定的な体験をすることになった。
だが実際、僕はムスキスの小さなバスターミナルに停まっていたタクシーと値段の交渉をして、タクシーでいってしまったので、アリシアのような経験はしていない。
運転手はこちらが頼んだわけでもないのに、なぜか、途中でガイド役としてフリオという名の老人を雇った。
車はいったん幹線道路をはずれると、でこぼこの砂利道を、まるでイノシシそっくりのハベリナが餌をさがすみたいに、せわしなく首を振って突き進んだ。
ナシミエントの居留地に生活しているのはキッカプー族とセミノール黒人だ。キッカプー族は北の五大湖周辺からはるばるやってきた放浪のインディアン。セミノール黒人は、もとをたどればアメリカ南部からスペイン領フロリダに逃亡した黒人奴隷だ。
セミノールとは、クリーク族をはじめ、フロリダの複数の先住民部族を統合する名称で、スペイン語のシマロネス(逃亡奴隷)に由来するといわれており、かれらの奴隷だったのがセミノール黒人だ。
キッカプー族とセミノール黒人はいま、互いに干渉し合わない程度に、五、六キロの距離を置いて別々に暮らしている。キッカプー族の家は葦や木の枝で作ったウィキアムと呼ばれる風通しのよい小屋だが、セミノール黒人のほうは日干しレンガを積み立てた建物だ。
セミノール黒人はここでは、ネグロスとかマスコゴスと呼ばれているが、実はメキシコにおいて唯一「ガラ」と呼ばれるクレオールを話す人たちである。「ガラ」とは、サウスキャロライナ、ジョージア、フロリダの近海の島々で奴隷たちによって話されていた、英語とアフリカ諸語との混成語だ。
なぜそんなトランス・エスニックな言語が大西洋の海岸から遠く離れたこんなところにぽつんと、まるで砂漠の亀みたいに、残っているのだろうか。
「ようこそ マスコゴス族」と書かれた標識を通過して、セミノール黒人の村に入っていくと、ガイド役のフリオ老人が村長にあたるリカルド・ゴンサレス氏を紹介してくれた。
ゴンサレス氏はカウボーイハットをかぶり、がっしりした体つきの、愛想のよい男だ。
ゴンサレス氏は「わたしの祖先は十九世紀に、タンパというフロリダの港から船でニューオーリンズを通って、現在のオクラホマにあたるインディアン居留地に強制移住させられたんです」と、スペイン語で説明した。
ボーダーの周縁の民から米国史を見ると、時の政権がいかに強引に「他者」を排除しているかがわかる。一八三八年に、チェロキー族をはじめ南部の先住民たちは「インディアン移住法」によって、ミシシッピー川の向こうの「インディアン・テリトリー」への移住を強要された。ゴンサレス氏の祖先であるセミノール黒人も同様に移住を余儀なくされたが、かれらにとって、その移住先すらも安住の土地ではなかった。米国にはその頃まだ奴隷制が生きていたからだ。
ゴンサレス氏が、トカゲのヒーラ・モンスターが怒ったみたいに、腹を突き出していった。「子どもは連れ去られるし、奴隷狩りを恐れて、メキシコに逃げようということになった。あの頃は、白人だけが敵じゃなかったからね」
僕があっけにとられていると――
「われわれを付けねらっているインディアンもいて。とくに南部アーカンソーのクリーク族だけど。だから、ときどき白人の砦に逃げたりもした」
一八四九年、ジョン・ホースに率いられた約二百名のセミノール黒人は居留地を旅立ち、テキサスを経由してメキシコへ向かう。ワイルド・キャットに率いられたセミノール族も一緒だった。ソフキーというトウモロコシのスープでしのぎ、一年後にようやく国境の町イーグル・パスにたどり着いた。
ゴンサレス氏はいった。「リオ・グランデを目にしたとき、先祖の人たちは思わず「自由の川」と呼んだそうです」
セミノール族は南北戦争が終わった後で、米国のインディアン局の要請でオクラホマに戻った。セミノール黒人も戻ろうとしたが、テキサスに留まっているうちに、十名以上の男たちがアメリカ軍によって斥候として採用され、一九一四年までそこを動けなかった。そこでは農業や狩猟ができないので、その他の者はメキシコに戻った。
いまセミノール黒人はテキサスのブラケットヴィルとメキシコのナシミエントとに分散して暮らしている。オクラホマの居留地を与えるという、かつての約束は守られていない。
「わたしたちにはこういう諺がありますよ。『いま鴨はゆうゆうと泳いでいても、いつか飲み水に事欠くこともある』」。ゴンサレス氏はそういうと、僕と大きな手で握手をして、巨大なサグアロサボテンみたいに両手を挙げて笑った。
僕は国境の町ピエドラス・ネグラスに向かい、そこからリオ・グランデに架かる橋を歩いて渡った。下を見ると、水のない河川敷のほうが水の流れているところより遥かに大きかった。メキシコ側で、のんびり釣りをしている少年がいる。その少年が泳いで渡ろうと思えば、簡単に渡れるだろう。
税関を抜けると、その向こうに広い駐車場があり、国境警備隊の小さな車が一台停まっていた。さっき釣りをしていた少年に似たサンダル履きのメキシコの少年が車に乗せられているところだった。少年にとって、この川はなんと不自由な川だろう。
メキシコ系アメリカ人のアリシア・ガスパール・デ・アルバ(一九五八–)は、こんな詩を書いている。
ラ・フロンテラ(国境地帯)が広々と
横たわる 眠り姫のように。
彼女のウェストは 国旗掲揚の
ポールをぐるりと迂回する河の
土手のようにくびれている。
彼女の匂いは メスキートの木の両腕に
からまる。 彼女の脚は
二つの国の泥に
沈みこむ。その両わき腹から
血(ルビ:サングレ)と夢(ルビ:スエニョス)がこぼれ落ちる。
(「ラ・フロンテラ」より)
眠り姫に喩えられた国境地帯の「ウェストがくびれている」のは、国境線の東半分をなすリオ・グランデ川が蛇行しているからだ。彼女が両脚を広げている姿に、川の両側が同じ文化圏であることが明確にしめされている。
そこから、僕は「黒人ディアスポラ」のルートを逆に辿るべく、フロリダに向かった。ナシミエントからオクラホマを経由すれば、約二千八百キロの旅だ。札幌から鹿児島への距離に匹敵する。
十九世紀に政府が南部の先住民を排除しようとしていたとき、徹底的に抗戦した人々がいた。フロリダのセミノール族だ。かれらは三度も合衆国政府軍と戦い、とりわけ第二次セミノール戦争は一八三五年から七年も続いた。
政府は三千人のセミノール族や、かれらの奴隷だったセミノール黒人をフロリダから強制移住させることに成功した。
だが、移住をこばんだ数百名のセミノール族の人々がエヴァーグレーズに逃げ込んだ。そこはオキーチョビー湖の南に広がる、鰐も棲息する湿地帯だった。面積は一万三千五百平方キロメートルもあり、長野県とほぼ同じくらいだ。
僕はフロリダ半島の南端のマイアミでレンタカーを借り、かつての戦場を巡った。ある朝、フロリダ北部の国道三〇一号線を突っ走っていると、「交易所」という、土産物屋みたいな看板が目に入った。インディアンの名を騙って白人が店を出していることはよくある。無視して通り過ぎたものの、あたりには牧草地しかない。数キロ走ってから、思い直して引き返した。
開店前のドアをノックしてみると、店のなかから中年の女性が現われた。僕がセミノール戦争の跡地のことを持ちだすと、そういうことに詳しい人がもうすぐやってくるけど、とやさしくいった。
やがて、その老人がやってきた。若い男に抱えられて机の向こうがわに坐ると、老人はリック・ナイトですと自己紹介して、名刺をくれた。ナイトは騎士と同じ綴りだ。その前に、博士(ルビ:ドクター)の称号がついている。
「いま七十才。ミカスキ族です。五十年前は怖いもの知らずで、観光客相手のインディアン村で、鰐との格闘ショーなどやっていましたよ」と、落ち着いた声で語った。顔の小さい老人は、頭部だけが白いカラカラという名を持つ鷹の、哲学者めいた風貌を僕に連想させた。
ナイト氏は、その後大学で心理学の勉強をして博士号まで取った。しかし、数年前に病気から両目を失明したという。いまは、店のとなりに「教育センター」を作って、地域のインディアンのための啓発に努めている。
「インディアンであることを恥ずかしく思うような刷り込みを受けた人たちに、言語や文化を教えたりしているのです」
盲目の老人は、白人による同化政策を「文化的虐殺」と表現した。
湿地帯に逃げ込んだセミノール族は、一九五八年に政府から数カ所の土地を得たらしい。七九年にハリウッドというマイアミの郊外にビンゴホールを開き、その後、事業を拡張して、全米のインディアン・カジノの先駆者となった。二〇〇四年には、ロンドンに本拠地を持つハードロックカフェの、フロリダ州でのフランチャイズ権を獲得。ハリウッドとタンパで「セミノール・ハードロックカフェ・ホテル・アンド・カジノ」を経営し、その莫大な収益は約三千名の部族のメンバーに配当されている。
僕が見てきたばかりのセミノール族のカジノのことを持ちだすと、盲目の老人は「月に二千ドルものの配当金が入るので、若者がまじめに働く意欲を失っている」と、辛辣な言葉を述べた。
知らないうちに、まるで旧知の友人のように二時間以上も話し込んでいた。別れ際に、僕が「偶然ここを通りかかって、幸運でした」と、お礼を述べると、盲目の老人はさりげなく「あなたがここに来たのは、偶然などではありません」と、応じた。
僕は一瞬、言葉を失った。
「この地球のどんな辺鄙なところで起こることでも、それだけでぽつんと起こるわけではない。どんな出来事も、みなつながりがあるのです」と、老人は言葉をつづけた。
それから数カ月後、僕は日本の新聞に小さな記事を見つけた。フロリダのセミノール族がオークションで世界のハードロックカフェの権利を購入したという。一二四店舗あるレストラン、六つのホテル、二つのカジノがセミノール族のものになった。セミノール族の代表者が記者会見で、かつて先住民がマンハッタン島をただ同然でオランダ人に売ったことを引き合いに出し、「われわれはいまハンバーガーを一つずつ買い戻すのです」と語ったという。
(『図書』岩波書店、2008年3月号、16-20頁 に若干手をいれました)