越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

管啓次郎さんとのトークショウ@青山ブックセンター(表参道)

2009年12月29日 | 音楽、踊り、祭り
旅の達人、文章の名人の管啓次郎(すが・けいじろう)さんとトークショウをすることになりました。

まだずいぶん先のことで、2月9日(火)の夜、場所は表参道の青山ブックセンターです。

管啓次郎さんは、先頃、『本は読めないものだから心配するな』という本を出されたばかりです。

詳細は、書店のホームページ http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_



死者のいる風景

2009年12月29日 | 音楽、踊り、祭り
死者のいる風景(第一話)
「仮装踊りの夜」(メキシコ・オアハカ編)
越川芳明

 メキシコでは、十月三十一日の夜から二夜つづけて「死者の日」のお祭りがある。その日は、ちょうど日本のお盆のように、先祖の霊が現世に戻ってくるので、お墓でお迎えするのである。

 僕は、最初の夜、定石どおりに、まるで超人気のバーゲンセールみたいに人で身動きが取れないオアハカ市内のサンミゲル墓地に行き、“砂絵のガイコツ(ルビ:タペテ)”の展示を見た。さらに、それから車で先住民の多い地区に向かい、まるで芋虫の行列のように縁日の屋台がいっぱい繰り出したホホトランの墓地を見物した。

 しかし、オアハカの「死者の日」の祭りは、お墓でばかり祝うとは限らない。僕はさらに中央オアハカ盆地を三十分ほど東に車で走ったあたりにあるサン・アウグスティン=エトラの村に向かった。夜を徹しての仮装踊りが見られると聞いたからだ。

 仮装踊りと行進は、真夜中すぎてからが本番で、高台の広場に設えられた舞台の上では、バンドの演奏や政治風刺の活劇など、さまざまな演芸が繰り広げられていた。

 夜中の十二時をすぎると、ようやく八、九人編成のブラスバンドに率いられた行軍が始まった。まず舞台に近いあたりから、エトラの各地区を訪ねてまわる。集会場で出迎えた婦人たちから温かい飲み物や酒をごちそうになり、集会場の前の小さな空き地で踊る。それが済むと、また山あり谷ありの真っ暗な夜道を歩いて、別の地区へ向かう。

 ブラスバンドは指揮者がいないので、ホルンが低音でリズムを刻み、他の吹奏楽器をリードする。だいたいが三拍子のワルツだ。

 行軍に参加しているのは、僕のような見物客以外は、仮装した踊り手だ。動物やモンスターの仮面を被ったり、ケバい女装をしたりしている。仮面を付けた上に、鈴を縫いつけた鎧のような上着とズボンを身につけている人も多い。踊り手が飛び跳ねると、鈴がシャンシャンシャンと鳴るので、単調なブラスの音に軽快なアクセントが加わる。

 三番目に訪ねた集会場の空き地で、ある若者がカメラを構えていた僕に向かって、これ着て踊ってみない、と鈴を縫いつけた上着を脱いで、差し出した。試しに着てみると、まるで防弾チョッキのようにずしりと重たかった。

 ある女性に声をかけられた。さきほど鈴の上着を貸してくれた男の姉で、マリアだと名乗った。その地区に住んでいるらしかった。彼女は肌の色が土色に近い、先住民の血をひく三十代の女性だった。

 マリアと一緒に夜道を次の集会場まで歩いた。彼女の家の前を通ったときに、ここが私の家よ、と指さした。誘っているのかな、と思ったが、祭りを最後まで見届けたい気持ちが強かったので、気づかない振りをして通り過ぎた。

 僕が結婚していないの?と訊くと、彼女は「家事と育児に明け暮れるような生活が嫌だから、結婚したくない」と、答えた。

 十カ所以上の集会場の広場を訪ねまわった頃、僕たちは見晴らしのよい高台に来ていた。東の空が白くなり始めていた。

 男たちはオールナイトで重たい鈴の鎧をつけて踊りまくり、疲れきって、みな仮面を脱いでいた。白日のもとに顔をさらしている。夜のあいだ別の人格(ルビ:ペルソナ)を演じてきたあとで、そろそろ元の自分に戻る時刻のようだ。

 完全に太陽が昇り、朝の七時頃になると、僕たちの一行は舞台のある坂道を降りた十字路の前に戻ってきていた。そこで別のルートをまわっていたグループと鉢合わせとなった。ブラスバンドがけしかけるような音を出した。

 両グループが対面する形で、おしくら饅頭(ルビ:まんじゅう)を始めた。相手が勢いよく迫ってくると、僕らは坂道を後ろ向きに後退する。かなり後退したところで、ブラスバンドが僕らを応援するように音を出すと、僕らは勢いづく。すると、相手の一群が坂道を後退する。バトルは一時間以上つづき、一晩中踊ってきたのに、若者たちはまだまだ元気だ。というより、オールナイトの行進はこのバトルのための準備運動であったというかのように、汗を飛ばして暴れまくっている。

 メキシコの「死者の日」とは、征服者(スペイン人)の文化と被征服者(先住民)の文化のぶつかり合いの中から生まれたものだ。七世紀頃からヨーロッパで祝われていたローマカトリック教会の“万霊節”(煉獄にいる死者の罪を浄めるお祭り)と、メキシコの先住民たちの先祖信仰(ご先祖様が神様という発想)が合わさったもので、キリスト教の行事でありながら、きわめて異端の匂いのする行事だ。

 その日の午後遅くにも、二日目の祭りがあるらしかった。道中、そのことを僕に教えてくれたのはマリアだった。その祭りを一緒に見ようと約束したが、いま、あたりを見まわしても、彼女の姿はなかった。

 オアハカ市内のホテルに帰って、ベッドの上で熟睡した。僕ははからずもマリアとの約束をすっぽかしてしまった。

『Spectator』21号(2009年12月)、146-147頁

キューバ映画祭inサッポロ2010

2009年12月28日 | 映画
今年も1月下旬に札幌で貴重なキューバのフィルムが見られる映画祭が開催されるようです。
(写真は、ソラス監督の傑作『ルシア』のポスター)

今回は、『反米大陸』(集英社新書)の著者である伊藤千尋さんの講演会やジャズの生演奏(映画チケットがあれば、なんと無料)もあるみたいです。

これはゼッタイに行かねば、と旅行好きの友人に教えてもらった「トラベルコちゃん」というネットの検索で探しましたが、羽田発の飛行機と宿泊がセットになったプランで、二泊三日で2万5千円でした。ホテルはもちろん、すすきのです。駅前もありましたが。

下に映画情報を貼付けておきますが、<キューバ映画inサッポロ>と打ち込めば、主催者の正式ホームページに入れます。

また、marysolさんのブログ(marysolのキューバ映画修行)にも、面白い情報が満載です。http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/

期間:2010年1月23日(土)~1月29日(金)
場所:札幌東宝プラザ(札幌市中央区南2条西5丁目/狸小路5丁目) 繁華街のど真ん中なので、とても便利です。


上映スケジュール
☆1月23日(土)

10:20 ルシア
13:30 伊藤千尋さん講演
16:00 ダビドの花嫁
18:10 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ
20:20 ペドロ

☆1月24日(日)

10:00 12の椅子 
12:10 フルカウント 
14:20 成功した男 
16:40 シュガー・カーテン 
18:30 ある官僚の死 
20:20 恋人たちのハバナ 

☆1月25日(月)

10:50 ある方法で 
12:40 ダビドの花嫁 
14:50 ルシア 
18:00 エル・ベニー 
20:30 ペドロ 

☆1月26日(火)

10:10 ある官僚の死 
12:00 フルカウント 
14:10 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ 
16:20 12の椅子 
18:30 恋人たちのハバナ 
20:40 シュガー・カーテン 

☆1月27日(水)

10:40 ペドロ 
12:40 成功した男 
15:00 エル・ベニー 
17:30 ある方法で 
19:20 ルシア 

☆1月28日(木)

10:00 シュガー・カーテン
11:50 ダビドの花嫁
14:00 フルカウント
16:10 恋人たちのハバナ 
18:20 12の椅子 
20:30 ある官僚の死 

☆1月29日(金)

10:50 エル・ベニー 
13:20 ある方法で 
15:10 成功した男 
18:20 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ 
20:30 森村献 meets カルロス菅野 from 熱帯JAZZ楽団 LIVE 

書評 目取真俊『眼の奥の森』

2009年12月21日 | 小説
森の洞窟(がま)に響け、ウチナーの声
目取真俊『眼の奥の森』(影書房、2009)
越川芳明

 米国東部の小さな大学で教えている若い日本人の友人が、目取真俊の短編を教材にしているという。興味をひかれて、どの作品をテクストにしているのか、と訊いてみた。「身体と文学」といったテーマの授業で、日米の文学やアニメや映画など数多くのテクストを扱うらしく、手塚治虫、塚本晋也、宮崎駿、押井守、村上春樹、クローネンバーグ、オクタビア・バトラー、J・G・バラードらの作品にまじって、目取真俊の「希望」という短い作品(英訳)がリストに挙げられていた。

 このリストはいろいろなことを考えさせてくれた。一つには、日本文学や沖縄文学といった文脈を取り払うだけでなく、文学やアニメといったジャンルの枠も取り払って、文学作品を脱コンテクスト化することで、目取真俊は意外な作品群と呼応しあうのだ、という新鮮な驚きを得たことだ。だが、その一方で、目取真俊の作品には、リストに挙がっている他の作品にはない切迫したアクチュアリティがあり、まるで接合を拒む膿(う)んだ生傷のように、リストのそこだけグサリと穴があいてしまっているような、違和感を覚えたのも確かなのだ。

 「希望」という小説は、もともと「朝日新聞」の夕刊(一九九九年)に掲載されたものであり、米兵による沖縄の女性の強姦事件に業を煮やして、アメリカ人の幼児を誘拐して殺してしまう犯人を語り手にした衝撃的な作品だ。語り手は、八万人の抗議集会を何の効果もあげない「茶番」でしかないと考え、「自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ」と、言いつのる。

 この小品に見られるようなたった一人の「復讐劇」は、目取真俊の文学の隠れたモチーフだ。たとえば、短編「平和通りと名付けられた街を歩いて」では、皇太子の訪沖に際して、沖縄県警が過剰に自己規制の包囲網を張るなか、一人の認知症の老女が県警の目をかいくぐって糞の付いた手で皇室の車のガラスを汚す。「軍鶏(タウチー)」のタカシ少年は小学五年生でありながら、地域のボスにたった一人で立ち向かう。さらに、前作『虹の鳥』では、暴力団によってクスリ漬けにされていたマユという若い女性が、逃避行の途中で米兵の子供を誘拐して殺す。

 『眼の奥の森』も、太平洋戦争時に、伊江島と思える離島を攻略した米軍の若い兵隊たちによって小夜子という若い女性が強姦され、それに対して、盛治(せいじ)という地元の男がたった一人で行なう復讐が主たるモチーフとなっている。

多彩な視点と語り
 『眼の奥の森』がこれまでの小説と大きく違う点は、まるで万華鏡を覗くかのような、語りの視点の多彩さだ。
 戦時中から現在までのスパンで、<戦争>という現実が、十個の語りのプリズムによって乱反射する。被害者側の視点もあれば、加害者側の視点もあり、過去の視点もあれば、現在の視点もある。

 だが、それはただの「薮の中」の手法といった、ある意味で気楽な、相対的な世界の提示と違う。
 なぜなら、目取真俊がある企図のもとに、こうした語りのプリズムを用いているからだ。
 全体の語りの視点と内容について簡略に触れておこう。なお、小説には章立てがないが、ここでは便宜的にナンバーをつけておく。

① 国民学校四年生のフミと十七歳の盛治。三人称の語り。戦時中の離島。四名の米兵による小夜子の強姦事件。盛治による銛での米兵刺傷事件。
② 区長の嘉陽。二人称の語り。現代の沖縄。若い女性による戦争体験の聞き取り。
③ 久子。三人称の語り。現在。戦争トラウマ。泣きわめき、走りさる女性の夢。六十年ぶりの沖縄行き。松田フミとの出会い。
④ フミ。三人称の語り。現代の離島。戦争時の回想。発狂する小夜子。盲目になる盛治。
⑤ 盛治。一人称の語り。ウチナー口による独白形式。現代の沖縄。戦争時の回想。米軍による取り調べ。日系人の通訳。
⑥ 若い作家。一人称の語り。現代の沖縄。大学時代の友人Mからの依頼。銛の先を利用したペンダントをめぐるエピソード。
⑦ 米兵。一人称の語り。戦時中の離島。集団で沖縄の女性を強姦する。仲間と海で泳いでいるうちに銛で刺される。
⑧ 沖縄の中学の女子生徒。一人称の語り。現代の沖縄。クラスでの陰湿ないじめ。戦争体験を聞く授業。
⑨ タミコ。一人称の語り。現代の沖縄。中学で戦争体験を語った後に声をかけてくる女子生徒たち。戦時中の回想と現在の生活。里子に出された姉(小夜子)の赤ん坊。父の怒り。姉の施設への訪問。
⑩ 日系アメリカ人の通訳。一人称。現代。手紙形式。沖縄県による顕彰の辞退の理由。米軍による強姦事件の隠蔽。

 一般的に、小説の中で、立場の異なる登場人物たちが一人称で語り合い、同じ事件なのに、まったく正反対の「事実」が露呈するというのが<薮の中>の手法の特徴だとすれば、この小説で、根本的な「事実」をめぐって、視点によるぶつかり合いはない。小夜子の強姦事件をめぐって、その被害者や加害者による見え方の違いはあっても、事件そのものを否定するような人物は登場しない。小夜子の強姦という「事実」に関しては、冒頭の三人称の客観的な語りによって提示されてしまっているからだ。目取真俊の力点が「事実」の有無にないのは明らかだ。

 むしろ、この小説では沖縄内部の差異に目が向くような仕掛けがなされている。

 この小説は季刊誌『前夜』の連載がもとになっているが、採用されなかった掲載誌(第一回目)には、外部者や障害者への差別問題が書かれている。その他に、第二章の、かつての区長であった「嘉陽」という老人を視点人物とした二人称の語りが注目に値する。

 「カセットテープを交換し小型レコーダーをテーブルに置いてスイッチを入れると、まだ大学を卒業して二年にしかならないという小柄な女は、お前を見やりかすかに笑みを浮かべたように感じたが、透明なプラスチックの窓の内側で回転するテープに視線を落としたお前は、二世の名前も女の名前も思い出せず、不安な気持ちになりかけていた」(39頁)

 一般的に、二人称の語りは視点人物と読者を一挙に結びつける効果を発揮する。とすれば、これは戦時中に、盛治の隠れ家(洞窟(がま))を米軍に密告した経験のある「悪辣な」区長の立場に読者を追いやる挑発的な試みだ。そこに沖縄人が被害者の立場に安住することを許さない作者の激しい姿勢が見られる。と同時に、この二人称の語りは、記憶の隠蔽や歪曲などの実例をしめし、沖縄で行なわれている戦争体験の安易な聞き取りを風刺するものでもある。

ダイアレクトと世界文学
 短編集『魂込め(まぶいぐみ)』に収録された短編「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」は、これまでに日本文学が達成した独白形式の傑作だったが、残念ながら標準語だった。だが、この小説の第五章は、ルビという方法で、終始沖縄のダイアレクト、ウチナー口で語られる。

 村上春樹が国民作家として、通常は小説など読まない読者層にも支持される理由は、その言語にある。どんなにひどい暴力的な殺人シーンを扱ったとしても、語る言葉が誰にでも分かる標準語であるかぎり、読者は軽く受け入れる。翻訳も容易であるので、海外で紹介されやすく、それによって、村上春樹を世界文学の担い手として持ち上げる批評家が出てくる。

 だが、世界文学は世界のへりから、いわゆる標準語に風穴をあけるようなダイアレクトとの創造的な格闘からしか生まれない。というのも、ダイアレクトは、音の豊かな響きによって微妙な感情を表出し、それによって均質化した日本語そのものを多様性へと導くからだ。結果的に、それはマイノリティの立場に立った多元的な思想を生み出す。

 ガルシア=マルケスのマコンド、フォークナーのヨクナパトーファ、大江健三郎の四国の森、中上建次の路地など、世界文学の先人のモデルを受け、目取真俊もヤンバルの森を想像上のトポスへと確立しつつある。

 だが、、重要なのは、沖縄の言葉をどれだけ小説の言語として創造できるかという点である。それによって、目取真俊は、世界の周縁のカリブ海で「クレオール語」で創作を行なうエドゥアール・グリッサンなどと一気につながる。今福龍太の『群島-世界論』にならって言えば、世界文学は、国籍に関係なく不定形の連なりをなすからだ。

 だから、目取真俊が沖縄から発信する文学は、ダイアレクトとしての沖縄語のハンディキャップを引き受けねばならない。ルビを多用した盛治のウチナー口の独白こそ、その一つの成果だ。

 「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ・・・、風(かじ)に乗(ぬ)てぃ、波に乗(ぬ)てぃ、流れ(ながり)て行きよる(いちゅぬ)我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な?」(103頁)

 これは戦後、六十年以上たった沖縄での独白であり、その中で盛治自身の言葉が日系の通訳の話す標準語や、父母や区長のウチナー口などとも激しく衝突し合い、その総体が彼の記憶となっている。それは、いわばさまざまな言語からなる森であり、読者はその森をかいくぐって盛治の内面に近づく。その凝縮された声が「我(わん)が声(くい)が聞こえる(ちかりん)な? 小夜子よ」なのだ。

 この声は、後に妹のタミコが耳にする、精神病を病んだ小夜子がつぶやく声「聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ」(202頁)に鮮やかに対応して、読者に感動を与えないではおかない。

 目取真俊の「抵抗の文学」は、この連作小説に見られる森の洞窟(がま)に響くかのような語りの工夫によってさらなる進化を遂げただけでなく、世界文学の一員として確かな一歩をしるしたと言えるだろう。

(週刊朝日別冊『小説トリッパー』2009年冬季号、434―436頁に若干手をいれました)

青山ブックセンターで、エクスタシー祭

2009年12月18日 | 音楽、踊り、祭り
青山ブックセンター(表参道)で、エクスタシー祭りをやっているとの情報が入りました。

『エクスタシーの湖』のカヴァーを拡大したポスターの前に、本を広げた展示がなされているらしいです。

店を訪れた人が恍惚となって、我を忘れて本を買ってくれればよいのですが。。。





書評『エクスタシーの湖』

2009年12月09日 | 小説
『エクスタシーの湖』の書評がでました。共同通信から各地の新聞(信州新聞、山陽新聞、福井新聞ほか)に配信されたようです。
 佐々木暁さんの労作である装丁も、「装丁から文字組みまで、造本の美しさに惚れ惚れする」と、ベタ褒めでした。


一色こうき
「詩なのか、神話なのか、はたまた夢日記なのか」
 
 なにやら異様な小説だ。「マジックリアリズムとSFと純文学の境界域を越境する作家」と紹介されているが、本作ではもっと別の領域に入り込んでいる。詩なのか、神話なのか、はたまた夢日記なのか、とにかく規格外。

 文字列からして通常の小説の流れから外れ、あらぬ方向へとたゆたい目まぐるしいほど。しかし、豊穣なイメージが続き最後まで飽きることなく読んでしまう。小説はまだまだ進化しうる。そんな可能性さえ感じた。

 ロサンゼルスの街の中心部に突如として巨大な湖が出現する。主人公クリスティンは湖で息子を失い狂女へと変貌。そこに、天安門事件で戦車にひとり立ち向かった男の物語や、舟で湖を巡る女医の話が交差する。小説は無数のエピソードが重なりカオスと化す。

 湖が「レイク・ゼロ」と名付けられているように、舞台は9・11後のアメリカを想起させる。作品で描かれている混乱は、つまりテロ以降に同国で起こったことなのだ。

2009/12/07 10:51 【共同通信】http://www.47news.jp/EN/200912/EN2009120701000216.html

映画『第211監房』 隠れたゲイ映画?

2009年12月09日 | 映画
昨日、スペイン映画際(新宿バルト9)のオープニング上映で、『第211号監房』(ダニエル・モンソン監督)を見ました。

一種の監獄映画ですが、スペインなので、北のバスクの独立運動の政治性が加味されていて、見応えがありました。

看守(候補者)が、ひょんなことから鉄格子に象徴される境界を越えて囚人の側に立たされることで、囚人の視線を獲得していく展開が面白いと同時に、それがヘテロセクシュアル(異性愛)からホモセクシュアルへの「性の旅」の隠喩にもなっていて、これはすぐれたボーダー映画だと思いました。

バッドマザー役の俳優をはじめ、監獄の囚人たちが本物の「ワル」のように迫力があります。

筒井監督なら、この映画、きっと気にいると思います。

10日(木)午後9時よりもう一度だけ見られます。

(オフィシャル解説)
刑務所の職員として働くことになったファンは、予定の1日前に職場に赴き、そこでアクシデントに見舞われ、気を失ってしまう。その直後、凶悪犯が収容されている監獄で暴動が発生。慌てふためいた職員たちは、気を失ったファンを第211号監房に置き去りにする。目を覚したファンは、事態を理解し、身を守るために囚人として振る舞う。こうして嘘とずる賢さを駆使して危険を回避する日々が始まった。2009年/ドラマ/110分

鷲宮神社の酉の市

2009年12月04日 | 音楽、踊り、祭り
こんどの日曜日(6日)に、埼玉の鷲宮神社で大酉の市があるようです。商売繁盛を祈り、神楽の奉納もあります。

神社によれば、「お酉様の本社」として、福をかき取る縁起物が社頭に並び、商売繁晶を願う人々が集うそうです。

金儲けをねらう人には見逃せませんよ。

この前の浅草神社の酉の市には行けなかったので、天気も良さそうなので、熊手でも買ってきたいと思います。

もし行かれる方がいたら、午後には行って神楽を見ていますので、声をかけてください。

東武伊勢崎線鷲宮駅徒歩7分。

映画評『フローズン・リバー』

2009年12月03日 | 映画
「貧困」と「民族」を越えるマザーの絆
コートニー・ハント監督『フローズン・リバー』
越川芳明
 
 舞台は、米国ニューヨーク州にある国境の小さな町。

 そこからセントローレンス川沿いを北東方面に百キロほど行くとカナダの首都モントリオールがある。

 冒頭の初冬の寒々しい風景が象徴的だ。

 空はどんよりと灰色の雲に覆われ、まっすぐ延びた一本道を古ぼけたトラックが去って行く。

 すると、道路脇に「ようこそ、マシーナへ」という案内板が見えてくる。次に一面が雪に覆われた風景の中にわびしくトレーラーハウスが現われる。

 この映画の隠れたテーマは、そうしたトレーラーハウスに象徴される大国アメリカの「貧困問題」である。

 日本では、トレーラーハウスと言えば、レジャー用の高級設備であり、高価なイメージがあるが、アメリカでは地上に固定して、住宅として使われる。安いもので、六千ドル(約五十五万円)もあれば、購入可能だ。

 この映画では、レイという名の中年女性(演技派のメリッサ・レオが演じる)が古いトレーラーハウスの住民だ。

 胸や足に花や鳥の刺青をいれた映像から、彼女が労働者階級であることが分かる。

 彼女のトレーラーハウスは、厳冬で外の水道管が凍結し水が出なくなったり、寒さ凌ぎにブランケットを窓に張らねばならなかったりする。

 新しいトレーラーハウスのために千五百ドルの前金を払いながら、残りの四千五百ドルをギャンブル狂の夫に持ち逃げされて、業者に支払いを迫られる。
 
 彼女には五歳と十五歳になる二人の息子がいるが、大型安売り店のパートタイマーの賃金ではとうてい養えない。

 物質主義のこの国では、ポップコーンの食事で済ませざるを得ない貧困家庭とはいえ、子供の楽しみとしてテレビだけは欠かせないようだ。
 
 その立派な液晶テレビもレンタル代が滞り、業者に回収されそうになる。

 思いあまった上の息子は、詐欺まがいの電話をかけて生活費を稼ぐ。ごく善良な若者を「貧困」が「犯罪」に追い込む、そうした負の連鎖を目のあたりにする思いだ。

 もう一人の主人公は、これまたトレーラーハウスの住民で、ライラという名の先住民の女性だ。

 彼女は、夫を交通事故で亡くし、一人息子を夫の母に奪われてマシーナの近くのモホーク族の保留地で一人で暮らしている。

 レイの車を勝手に乗りまわすだけでなく、返そうとしないので、怒りに駆られたレイによって銃で、ドアに穴を開けられる。

 そのせいで、外の冷気が部屋の中に入り込み、凍え死にそうだと告白する。

 二〇〇〇年の米国の国税調査によれば、マシーナの近くの「アクウェサスネ」と呼ばれるこの保留地には、約六百七十戸、二千七百人が暮らしており、「貧困ライン」を下回る家庭が約二割存在する。

 ちなみに、ニューヨーク州の貧困ライン(一人家庭)は、年収百六十万円だ。ライラもそんな一人と言えるだろう。
 
 国境地帯のこのインディアン保留地は、セントローレンス川を挟んで米国とカナダの両国にまたがり、モホーク族の者は国境線を自由に移動する権利を与えられている。
 
 ライラは、部族のギャンブル場で仕事をもらうが、視力が極端に悪く、金の計算を間違えてクビになる。

 そこで、冬に凍結するセントローレンス川を車で渡って、向こう岸のカナダ側から不法移民をアメリカに密入国させるの仕事にかかわる。

 映画は、貧困白人(プアーホワイト)のレイと、プアーインディアンのライラの友情を描く。

 二人はひょんなことで保留地のギャンブル場の駐車場で出会い、民族的な偏見によって互いに不信を募らせながら、最終的にはこれ以上はないほど信頼を寄せ合うようになる。
 
 二人の関係を進展させるのが犯罪である点がミソだ。

 レイが運転手として、ライラの密入国ビジネスを手伝うということで、二人の関係が始まるが、彼女たちはそうした汚れた金で決して私服を肥やすわけではない。

 むしろ、そんなあぶく銭は氷が溶けるように、あっという間に生活費に化けてしまう。

 ライラの場合は、金を義母の家に密かに置いて、それを養育費に当ててもらうだけだ。

 レイの場合は、テレビのレンタル代と新しいトレーラーハウスの残金に化ける。

 一見些細に見えるが重要なエピソードに触れておこう。カナダ側の密入国のアジトで、密入国を希望するパキスタン人の男女を見て、白人のレイが短絡的に彼らを自爆テロと結びつけたり、爆弾が入っていると思い込んで厳冬の雪道に彼らのボストンバッグを棄てたりするシーンがある。

 これは、イスラム教徒=テロリストという安易な図式を垂れ流してきた米国マスメディアに体する風刺に他ならない。

 ジャーナリストとしての冷徹な視線と、社会の底辺の置かれた人々に対するローアングルの温かい視線とを兼ね備えた女性監督による、これは実に見応えのあるエンターテインメント映画だ。

(『すばる』2010年1月号372-73頁)

スペイン映画祭2009

2009年12月01日 | 映画
スペイン映画祭が来週、12月8日~10日、新宿バルト9で開催されるようです。個人的には、ペルーの「悲しみのミルク」が面白そうに感じますが・・・。(写真はアレバロ監督「デブたち」より)

【上映スケジュール】
12月8日(火) 16:00~「デブたち」/18:30~「第211号監房」/21:00~「マップ・オブ・ザ・サウンズ・オブ・トーキョー」
12月9日(水) 16:00~「マップ・オブ・ザ・サウンズ・オブ・トーキョー」/18:30~「瞳の奥の秘密」/21:00~「デブたち」
12月10日(木) 16:00~「悲しみのミルク」/18:30~「泥棒と踊り子」/21:00~「第211号監房」

【料金】一般券¥1,300/学生・シニア・小人¥1,100/「3作品セット券」¥3,000 *劇場窓口のみで販売。

【上映作品紹介】
『第211号監房』 CELDA 211
監督:ダニエル・モンソン
出演:ルイス・トサル、アルベルト・アンマン、アントニオ・レシネス、マヌエル・モロン
2009年/ドラマ/110分
刑務所の職員として働くことになったファンは、予定の1日前に職場に赴き、そこでアクシデントに見舞われ、気を失ってしまう。その直後、凶悪犯が収容されている監獄で暴動が発生。慌てふためいた職員たちは、気を失ったファンを第211号監房に置き去りにする。目を覚したファンは、事態を理解し、身を守るために囚人として振る舞う。こうして嘘とずる賢さを駆使して危険を回避する日々が始まった。だがその先には更に過酷な運命が彼を待ち受けていた。
オフィシャルサイト:http://www.celda211.com/


『マップ・オブ・ザ・サウンズ・オブ・トーキョー』 
MAPA DE LOS SONIDOS DE TOKIO
監督:イサベル・コイシェ 出演:菊地稟子、セルジ・ロペス、田中泯、中原丈雄
2009年/ドラマ/109分
カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品/アカデミー賞外国語映画賞スペイン候補作
リュウは築地の魚市場で働きながら、裏で殺し屋家業に手を染めている。あるとき実業界の大物、ナガラの娘のミドリが自殺。悲嘆にくれるナガラは、娘の夫ダビ(東京でワインを商うスペイン人)を恨む。ナガラの部下で密かにミドリを愛していたイシダは、ダビの暗殺をリュウに依頼するが… 密かな愛の物語の証人となるのは、東京の街の音に取りつかれている、唖のサウンド・エンジニア。実は、彼は密かにリュウに魅せられていた。
オフィシャルサイト:http://www.mapofthesoundsoftokyo.com/

『泥棒と踊り子』 EL BAILE DE LA VICTORIA
監督:フェルナンド・トゥルエバ
出演:リカルド・ダリン、アベル・アヤラ、ミランダ・ボーデンフォファー、アリアドナ・ヒル
2009年/ドラマ/130分
アカデミー賞外国語映画賞スペイン代表作
チリに民主政権が戻り、大統領による恩赦のおかげで、金庫破りの名人ベルガラ・グレイと、アンヘル・サンティアゴは出所する。娑婆に戻った2人の計画は、まるで正反対だった。家族を取り戻すことだけを願い、人生をやり直そうとするベルガラに対し、まだ若いアンヘルは、刑務所の所長に復讐することと、大泥棒をやってのけるのが夢。そんな2人の前にビクトリアという娘が登場し、3人の運命は大きく変わっていく…。
オフィシャルサイト:http://www.elbailedelavictoria.com/

『瞳の奥の秘密』 EL SECRETO DE SUS OJOS
監督:ファン・ホセ・カンパネラ
出演:リカルド・ダリン、ソレダー・ビリャミル、パブロ・ラゴ、ハビエル・ゴディノ、
2009年/ドラマ/129分
アカデミー賞外国語映画賞アルゼンチン代表作
ベンハミン・エスポシトは、長年に渡り刑事裁判所で働いた後、退職した。彼には小説を書くという夢があった。モチーフは1974年に起きた、忘れ難い事件。当時のアルゼンチンは、暴力と死がはびこる長い夜を迎えていた。執筆を進めるうち、いつのまにか、密かに愛する女性のために、ベンハミンは書いていた。彼女もそのストーリーに関わっていたからだ。事件があった25年前、ベンハミンは、証人という特権的な立場にいた。しかし、小説家の目で事件を見直す今、思い出が呼び覚ます亡霊に翻弄される。そして、自身の過去だけでなく、未来にも立ち向かうことを余儀なくされる。
オフィシャルサイト:http://www.elsecretodesusojos.es/

『悲しみのミルク』 LA TETA ASUSTADA
監督:クラウディア・リョサ
出演:マガリ・ソリエル、スシ・サンチェス、マリア・デル・ピラル・ゲレロ、エフライン・ソリス
2009年/ドラマ/94分
ベルリン国際映画祭金熊賞・国際批評家連盟賞
第24回グアダラハラ国際映画祭イベロアメリカ部門最優秀作品賞
アカデミー賞外国語映画賞ペルー代表作
ファウスタは“悲しみのミルク症候群”という、ペルーにテロが多発した時代にレイプや暴行を受けた女性の子供たちが、母乳を通して感染する病に罹っている。紛争は終わっても、彼女は“恐怖の病”に魂を奪われたまま。だが、突然の母の死で、自身の怖れや体内に隠した秘密と向き合うことに… 実は、彼女は身を守るために、盾として、じゃが芋を膣に入れていた。そうすれば、誰にも触られないと考えて。『悲しみのミルク』が語るのは、人生を開花させるための模索。恐怖から自由への旅立ちだ。

『デブたち』 GORDOS
監督:ダニエル・サンチェス・アレバロ
出演:アントニオ・デ・ラ・トーレ、ロベルト・エンリケス、ベロニカ・サンチェス、ラウル・アレバロ
2009年/ドラマチックコメディ/120分
アカデミー賞外国語映画賞スペイン候補作
ドラマチック・コメディ。肥満をめぐる5つのストーリーが、“グループセラピー”の場で交錯する。参加者はセラピーを通して、痩せることよりも、なぜ太っているのか?どうして自分の身体が好きになれないのか?その理由を探る。体重や体形は二次的な問題に過ぎない。肥満とは、日々の暮らしのなかで我慢して受け入れるうち溜まっていき、仕舞いには表現したり、対処したり、引き受けるのが困難になってしまった事について話すためのメタファーなのだ。
オフィシャルサイト:http://www.gordoslapelicula.com/







BRUTUSが研究室にやってきた!

2009年12月01日 | 音楽、踊り、祭り
 先日、BRUTUS(マガジンハウス)が小生の研究室にやってきました。
 
 鹿児島出身の才色兼備のオリーブも一緒でした。キューバのオリチャ(神霊)のために、和菓子を持ってきてくれました。皆でいただきましたが、とても美味しかったです。

 今月15日発売号で、<読書特集>をするということで、オリーブの取材を受けたのです。若いポパイ(写真家)もやってきて、南米のカルトグッズが密かに飾られている研究室の様子をパチパチいっぱい写真に撮りました。

 どんな風なページになるか、楽しみだなあ。