越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』

2024年07月15日 | 映画
恐怖の中で生きる男女
ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』
越川芳明

主人公のフィリップは、第二次世界大戦中(一九四三年)にナチスの鉤十字の旗が街中にはためき、秘密警察(ゲシュタポ)によるユダヤ人狩りが行われているフランクフルトで、フランス人といつわって暮らすユダヤ系ポーランド人だ。

二年前まで、ドイツに占領されたワルシャワに設けられたユダヤ人ゲットーにいたが、恋人と劇場でダンスを披露しているとき、ドイツ兵がいきなり襲ってきて、恋人や両親、親せきを殺されてしまったのだった。

フィリップは背が高くイケメンだが、ときどきシニカルで反抗的な態度を見せる。

それはおそらく、繊細で壊れそうな心をおおう仮面である。

かれは一流ホテルのレストランでウェイターとして働いている。

故郷で恋人と身内を失ってからからどのようにこの都市にやってきたのか、どのようにこの仕事を見つけたのか、詳しい事情は説明されない。

だが、おそらくポーランド人の工場長スタンシェクの手助けがあったものと思われる。

二人はともにポーランド人であり、誰ひとり信用できない環境で、お互いに信頼を寄せあっているようだった。

フィリップは工場長の金稼ぎのために、こっそりホテルの高級ワインを持ってきてあげていたし、工場長もフィリップのために国外逃亡のための偽造パスポートを作ってやっていた。

工場長が言う。「ポーランド人は好きだ。好きなユダヤ人は君だけだ」と。

そして、つづけて「祖国のゲットーは消滅した。ユダヤ人は皆殺しだ。君以外は。私のほかに心を許せる者はいるのか?」と訊く。

フィリップは、きっぱりと「いない」と答える。

実は、フィリップには心を許せる者がわずかながらいた。

戦時中ドイツの異邦人

そのうちのひとりはウェイター仲間で、同室で暮らすピエールだった。

かれはドイツの占領地ベルギーからやってきていた。

レストランの高級ワインをちょろまかし、フィリップにわけてくれる。

さらに、一緒に市中のプールに出かけていき、夫が外地に出兵して孤独をかこつドイツ人女性たちをナンパしてまわる。

ピエールはあるとき焦燥感を募らせるフィリップに問う。

「食うのにも困っていないのに、何が不満なんだ。ここはアウシュヴィッツよりもマシだろ」と。

しかし、ユダヤ人のフィリップにとっては、それほどの違いはなかったのだ。

レストランの給仕スタッフは、支配人によれば「ヨーロッパ中から集められた精鋭揃い」である。

イタリアや、ハンガリーのようなドイツの同盟国、あるいはオランダ、ベルギーなどのドイツの占領国から集められたらしい。

丸刈りにされた女たち

第二次大戦中にドイツ兵と愛し合い、解放後に「対ナチの協力者」の烙印を押されたフランス人女性たちを取りあげ、その後を追った『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅』の著者・藤森晶子は、映画のパンフにエッセイを寄せている。

それによれば、戦時中の労働力不足を補うために、ドイツは農場や工場で七六〇万人もの外国人を働かせていたという。

戦時中のドイツにそれほど多くの外国人がいたというのは驚きであるが、本作は、それらの外国人労働者の中でもエリートと見なせるかもしれない外国人ウェイターたちの、存在の「象徴性」に観客の目を向けさせる。

一言でいえば、十人ほどいる外国人ウェイターは二重の意味で「奴隷」だということだ。

ひとつは、給仕する側と給仕される側の階級によるものだ。

給仕されるのは、ドイツの上流階級の家族や将校たちであり、かれらは給仕するウェイターたちを同じ人間と見なしていない。

もうひとつは、外国人恐怖症(ゼノフォビア)のナチス思想に染まった環境では、外国人はドイツ人の「純血」を汚す、穢らわしい存在でしかない。

いずれにしても、かれらは虫ケラ同然なのだ。

たとえばオランダ人のルカスは、ナチス将校に、目の前で「アムステルダムは、汚い町だ」と侮辱される。

ルカスに反論は許されないので、「お前も同様に、汚い人間だ」と揶揄されているのに等しい。

ルーマニア人の美少年イリエは、ナチス将校によって「性的虐待」を受ける。

戦時下の女性たちの描かれ方にも触れなければならない。

とりわけ、ドイツ女性のブランカの描かれ方は注目に値する。

外国人ウェイターたちと付き合い、それが当局に発覚して、見せしめに丸刈りにされる。

外国人とドイツ人女性との恋愛について、先ほどの藤森晶子はこう書いている。

「『ドイツ人女性やドイツ人男性と性交した者やみだりに接近した者には死刑が科される』とされた。/ドイツ人女性も、民族の純血を汚したとされれば、厳しく罰せられた。公衆の面前で丸刈りにされるという辱めを受けた」と。

狭隘なプロパガンダ(国家イデオロギー)に染まらない女性たち

フィリップがプールで誘惑するドイツ将校の妻たちは、ポーランドやポーランド人を侮辱する発言をする。

だが、ブランカはそんな当局のプロパガンダ(ナチスドイツの国歌にある「ドイツ、あらゆるものの上にあれ!」)に染まらずに、自分に忠実に生きる人間として描かれている。

髪を切られたブランカが救いを求めてフィリップの部屋にこっそりやってくる。

フィリップは高級ワインと食事とタバコをあげて、彼女を励ます。

「この腐った世界に迎合しないで生きてくれ」と。

同じことは、フィリップと恋に落ちるドイツの上流階級の女性リザにも言える。

周囲の者たちが白い目を向けるにもかかわらず、白昼堂々と外国人のフィリップとデートを重ねる。

現代にも通じる戦時下の恐怖や不安を描く

さて、本作はティルマンドという名の、ユダヤ系ポーランド人作家の自伝小説を基にしている。

小説は一九六一年に政府の検閲により大幅に削除されて出版されたが、たちまち発禁処分になったという。

映画は第二次大戦の「戦闘」を描くものではない。

むしろ、フィリップやブランカなど、戦争が生み出す「難民」や「犠牲者」の、恐怖の中での生き方に焦点を当てている。

そういう意味では、パレスチナ、シリア、ウクライナなどで、次々と生み出されている現代の戦争難民の、恐怖や絶望や怒りに通じるものがある。

監督自身もこう言っている。

「この映画は戦争映画ではありません。

トラウマに苦しむ孤独で疎外された男性についての映画です」と。

この映画は観客に、フランスやドイツをはじめ、ヨーロッパ各国で、移民を嫌悪する自国中心主義的な勢力が力を増している昨今の実情をも憂慮させるものだ。

草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』

2024年07月14日 | 書評
何役もこなした翻訳家の人生   
草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』
越川芳明

シェイクスピアの翻訳で知られる松岡和子は昭和十七(一九四二)年、日本が中国の東北地方に樹立した満州国で生まれた。

本書は、和子とその家族が経験した出来事を伝記風につづった「ファミリー・ヒストリー」。背景である時代も知ることができる。

父親は帝大出のエリートで、満州国の高級官吏だった。

日本の敗戦により、中国の八路軍(はちろぐん)(のちの人民解放軍)によって連行され、その後消息不明になる。

母は四歳の和子と妹と、父の連行十日後に生まれた弟を連れて、一年近く中国をさまよい、なんとか無事に帰国。

行方不明だった父は、十一年間ソ連で抑留生活を送ったのち帰国を果たす。

和子は十四歳になっていた

明治生まれの母は東京女子大英文科卒だった。

父の不在のあいだ英語教師の職を見つけ、「母子家庭」に向ける世間の冷たい目にも屈せずに、幼い子供たちを養った。

やがて和子も母と同じような「キャリア・ウーマン」の道を歩む。

東京女子大英文科を出たあと、演出家をめざして新興の一小劇団の研究生になる。

さらにシェイクスピアを本格的に学ぼうと、東大大学院英文科に進む。

東大紛争まっさかりの一九六八年、エンジニアと結婚。

その後、母校をはじめ大学で教える傍ら、二人の子を育て、夫の母の介護もしながら、せっせと小劇場に出かけ、劇評を書き、海外の現代劇の翻訳をこなす。

一人で何役も引き受ける、多忙な毎日だった。

著者は言う。「……演劇は和子を嫁や母であることの義務から、ほんのひととき救い出してくれる解放の時間だった」と。

和子は人生の節目で、さまざまな人脈に恵まれている。

なかでも「彩の国さいたま芸術劇場」の芸術監督に就任した蜷川(にながわ)幸雄は、シェイクスピア全作を上演するプロジェクトで和子による翻訳を採用することに決めた。

和子の未来の仕事に期待した異例の抜擢だった。

ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年07月12日 | 書評
世界を救うための寓話 
ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。

一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。

素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。