恐怖の中で生きる男女
ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』
越川芳明
主人公のフィリップは、第二次世界大戦中(一九四三年)にナチスの鉤十字の旗が街中にはためき、秘密警察(ゲシュタポ)によるユダヤ人狩りが行われているフランクフルトで、フランス人といつわって暮らすユダヤ系ポーランド人だ。
二年前まで、ドイツに占領されたワルシャワに設けられたユダヤ人ゲットーにいたが、恋人と劇場でダンスを披露しているとき、ドイツ兵がいきなり襲ってきて、恋人や両親、親せきを殺されてしまったのだった。
フィリップは背が高くイケメンだが、ときどきシニカルで反抗的な態度を見せる。
それはおそらく、繊細で壊れそうな心をおおう仮面である。
かれは一流ホテルのレストランでウェイターとして働いている。
故郷で恋人と身内を失ってからからどのようにこの都市にやってきたのか、どのようにこの仕事を見つけたのか、詳しい事情は説明されない。
だが、おそらくポーランド人の工場長スタンシェクの手助けがあったものと思われる。
二人はともにポーランド人であり、誰ひとり信用できない環境で、お互いに信頼を寄せあっているようだった。
フィリップは工場長の金稼ぎのために、こっそりホテルの高級ワインを持ってきてあげていたし、工場長もフィリップのために国外逃亡のための偽造パスポートを作ってやっていた。
工場長が言う。「ポーランド人は好きだ。好きなユダヤ人は君だけだ」と。
そして、つづけて「祖国のゲットーは消滅した。ユダヤ人は皆殺しだ。君以外は。私のほかに心を許せる者はいるのか?」と訊く。
フィリップは、きっぱりと「いない」と答える。
実は、フィリップには心を許せる者がわずかながらいた。
戦時中ドイツの異邦人
そのうちのひとりはウェイター仲間で、同室で暮らすピエールだった。
かれはドイツの占領地ベルギーからやってきていた。
レストランの高級ワインをちょろまかし、フィリップにわけてくれる。
さらに、一緒に市中のプールに出かけていき、夫が外地に出兵して孤独をかこつドイツ人女性たちをナンパしてまわる。
ピエールはあるとき焦燥感を募らせるフィリップに問う。
「食うのにも困っていないのに、何が不満なんだ。ここはアウシュヴィッツよりもマシだろ」と。
しかし、ユダヤ人のフィリップにとっては、それほどの違いはなかったのだ。
レストランの給仕スタッフは、支配人によれば「ヨーロッパ中から集められた精鋭揃い」である。
イタリアや、ハンガリーのようなドイツの同盟国、あるいはオランダ、ベルギーなどのドイツの占領国から集められたらしい。
丸刈りにされた女たち
第二次大戦中にドイツ兵と愛し合い、解放後に「対ナチの協力者」の烙印を押されたフランス人女性たちを取りあげ、その後を追った『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅』の著者・藤森晶子は、映画のパンフにエッセイを寄せている。
それによれば、戦時中の労働力不足を補うために、ドイツは農場や工場で七六〇万人もの外国人を働かせていたという。
戦時中のドイツにそれほど多くの外国人がいたというのは驚きであるが、本作は、それらの外国人労働者の中でもエリートと見なせるかもしれない外国人ウェイターたちの、存在の「象徴性」に観客の目を向けさせる。
一言でいえば、十人ほどいる外国人ウェイターは二重の意味で「奴隷」だということだ。
ひとつは、給仕する側と給仕される側の階級によるものだ。
給仕されるのは、ドイツの上流階級の家族や将校たちであり、かれらは給仕するウェイターたちを同じ人間と見なしていない。
もうひとつは、外国人恐怖症(ゼノフォビア)のナチス思想に染まった環境では、外国人はドイツ人の「純血」を汚す、穢らわしい存在でしかない。
いずれにしても、かれらは虫ケラ同然なのだ。
たとえばオランダ人のルカスは、ナチス将校に、目の前で「アムステルダムは、汚い町だ」と侮辱される。
ルカスに反論は許されないので、「お前も同様に、汚い人間だ」と揶揄されているのに等しい。
ルーマニア人の美少年イリエは、ナチス将校によって「性的虐待」を受ける。
戦時下の女性たちの描かれ方にも触れなければならない。
とりわけ、ドイツ女性のブランカの描かれ方は注目に値する。
外国人ウェイターたちと付き合い、それが当局に発覚して、見せしめに丸刈りにされる。
外国人とドイツ人女性との恋愛について、先ほどの藤森晶子はこう書いている。
「『ドイツ人女性やドイツ人男性と性交した者やみだりに接近した者には死刑が科される』とされた。/ドイツ人女性も、民族の純血を汚したとされれば、厳しく罰せられた。公衆の面前で丸刈りにされるという辱めを受けた」と。
狭隘なプロパガンダ(国家イデオロギー)に染まらない女性たち
フィリップがプールで誘惑するドイツ将校の妻たちは、ポーランドやポーランド人を侮辱する発言をする。
だが、ブランカはそんな当局のプロパガンダ(ナチスドイツの国歌にある「ドイツ、あらゆるものの上にあれ!」)に染まらずに、自分に忠実に生きる人間として描かれている。
髪を切られたブランカが救いを求めてフィリップの部屋にこっそりやってくる。
フィリップは高級ワインと食事とタバコをあげて、彼女を励ます。
「この腐った世界に迎合しないで生きてくれ」と。
同じことは、フィリップと恋に落ちるドイツの上流階級の女性リザにも言える。
周囲の者たちが白い目を向けるにもかかわらず、白昼堂々と外国人のフィリップとデートを重ねる。
現代にも通じる戦時下の恐怖や不安を描く
さて、本作はティルマンドという名の、ユダヤ系ポーランド人作家の自伝小説を基にしている。
小説は一九六一年に政府の検閲により大幅に削除されて出版されたが、たちまち発禁処分になったという。
映画は第二次大戦の「戦闘」を描くものではない。
むしろ、フィリップやブランカなど、戦争が生み出す「難民」や「犠牲者」の、恐怖の中での生き方に焦点を当てている。
そういう意味では、パレスチナ、シリア、ウクライナなどで、次々と生み出されている現代の戦争難民の、恐怖や絶望や怒りに通じるものがある。
監督自身もこう言っている。
「この映画は戦争映画ではありません。
トラウマに苦しむ孤独で疎外された男性についての映画です」と。
この映画は観客に、フランスやドイツをはじめ、ヨーロッパ各国で、移民を嫌悪する自国中心主義的な勢力が力を増している昨今の実情をも憂慮させるものだ。
ミハウ・クフィェチンスキ監督『フィリップ』
越川芳明
主人公のフィリップは、第二次世界大戦中(一九四三年)にナチスの鉤十字の旗が街中にはためき、秘密警察(ゲシュタポ)によるユダヤ人狩りが行われているフランクフルトで、フランス人といつわって暮らすユダヤ系ポーランド人だ。
二年前まで、ドイツに占領されたワルシャワに設けられたユダヤ人ゲットーにいたが、恋人と劇場でダンスを披露しているとき、ドイツ兵がいきなり襲ってきて、恋人や両親、親せきを殺されてしまったのだった。
フィリップは背が高くイケメンだが、ときどきシニカルで反抗的な態度を見せる。
それはおそらく、繊細で壊れそうな心をおおう仮面である。
かれは一流ホテルのレストランでウェイターとして働いている。
故郷で恋人と身内を失ってからからどのようにこの都市にやってきたのか、どのようにこの仕事を見つけたのか、詳しい事情は説明されない。
だが、おそらくポーランド人の工場長スタンシェクの手助けがあったものと思われる。
二人はともにポーランド人であり、誰ひとり信用できない環境で、お互いに信頼を寄せあっているようだった。
フィリップは工場長の金稼ぎのために、こっそりホテルの高級ワインを持ってきてあげていたし、工場長もフィリップのために国外逃亡のための偽造パスポートを作ってやっていた。
工場長が言う。「ポーランド人は好きだ。好きなユダヤ人は君だけだ」と。
そして、つづけて「祖国のゲットーは消滅した。ユダヤ人は皆殺しだ。君以外は。私のほかに心を許せる者はいるのか?」と訊く。
フィリップは、きっぱりと「いない」と答える。
実は、フィリップには心を許せる者がわずかながらいた。
戦時中ドイツの異邦人
そのうちのひとりはウェイター仲間で、同室で暮らすピエールだった。
かれはドイツの占領地ベルギーからやってきていた。
レストランの高級ワインをちょろまかし、フィリップにわけてくれる。
さらに、一緒に市中のプールに出かけていき、夫が外地に出兵して孤独をかこつドイツ人女性たちをナンパしてまわる。
ピエールはあるとき焦燥感を募らせるフィリップに問う。
「食うのにも困っていないのに、何が不満なんだ。ここはアウシュヴィッツよりもマシだろ」と。
しかし、ユダヤ人のフィリップにとっては、それほどの違いはなかったのだ。
レストランの給仕スタッフは、支配人によれば「ヨーロッパ中から集められた精鋭揃い」である。
イタリアや、ハンガリーのようなドイツの同盟国、あるいはオランダ、ベルギーなどのドイツの占領国から集められたらしい。
丸刈りにされた女たち
第二次大戦中にドイツ兵と愛し合い、解放後に「対ナチの協力者」の烙印を押されたフランス人女性たちを取りあげ、その後を追った『丸刈りにされた女たち――「ドイツ兵の恋人」の戦後を辿る旅』の著者・藤森晶子は、映画のパンフにエッセイを寄せている。
それによれば、戦時中の労働力不足を補うために、ドイツは農場や工場で七六〇万人もの外国人を働かせていたという。
戦時中のドイツにそれほど多くの外国人がいたというのは驚きであるが、本作は、それらの外国人労働者の中でもエリートと見なせるかもしれない外国人ウェイターたちの、存在の「象徴性」に観客の目を向けさせる。
一言でいえば、十人ほどいる外国人ウェイターは二重の意味で「奴隷」だということだ。
ひとつは、給仕する側と給仕される側の階級によるものだ。
給仕されるのは、ドイツの上流階級の家族や将校たちであり、かれらは給仕するウェイターたちを同じ人間と見なしていない。
もうひとつは、外国人恐怖症(ゼノフォビア)のナチス思想に染まった環境では、外国人はドイツ人の「純血」を汚す、穢らわしい存在でしかない。
いずれにしても、かれらは虫ケラ同然なのだ。
たとえばオランダ人のルカスは、ナチス将校に、目の前で「アムステルダムは、汚い町だ」と侮辱される。
ルカスに反論は許されないので、「お前も同様に、汚い人間だ」と揶揄されているのに等しい。
ルーマニア人の美少年イリエは、ナチス将校によって「性的虐待」を受ける。
戦時下の女性たちの描かれ方にも触れなければならない。
とりわけ、ドイツ女性のブランカの描かれ方は注目に値する。
外国人ウェイターたちと付き合い、それが当局に発覚して、見せしめに丸刈りにされる。
外国人とドイツ人女性との恋愛について、先ほどの藤森晶子はこう書いている。
「『ドイツ人女性やドイツ人男性と性交した者やみだりに接近した者には死刑が科される』とされた。/ドイツ人女性も、民族の純血を汚したとされれば、厳しく罰せられた。公衆の面前で丸刈りにされるという辱めを受けた」と。
狭隘なプロパガンダ(国家イデオロギー)に染まらない女性たち
フィリップがプールで誘惑するドイツ将校の妻たちは、ポーランドやポーランド人を侮辱する発言をする。
だが、ブランカはそんな当局のプロパガンダ(ナチスドイツの国歌にある「ドイツ、あらゆるものの上にあれ!」)に染まらずに、自分に忠実に生きる人間として描かれている。
髪を切られたブランカが救いを求めてフィリップの部屋にこっそりやってくる。
フィリップは高級ワインと食事とタバコをあげて、彼女を励ます。
「この腐った世界に迎合しないで生きてくれ」と。
同じことは、フィリップと恋に落ちるドイツの上流階級の女性リザにも言える。
周囲の者たちが白い目を向けるにもかかわらず、白昼堂々と外国人のフィリップとデートを重ねる。
現代にも通じる戦時下の恐怖や不安を描く
さて、本作はティルマンドという名の、ユダヤ系ポーランド人作家の自伝小説を基にしている。
小説は一九六一年に政府の検閲により大幅に削除されて出版されたが、たちまち発禁処分になったという。
映画は第二次大戦の「戦闘」を描くものではない。
むしろ、フィリップやブランカなど、戦争が生み出す「難民」や「犠牲者」の、恐怖の中での生き方に焦点を当てている。
そういう意味では、パレスチナ、シリア、ウクライナなどで、次々と生み出されている現代の戦争難民の、恐怖や絶望や怒りに通じるものがある。
監督自身もこう言っている。
「この映画は戦争映画ではありません。
トラウマに苦しむ孤独で疎外された男性についての映画です」と。
この映画は観客に、フランスやドイツをはじめ、ヨーロッパ各国で、移民を嫌悪する自国中心主義的な勢力が力を増している昨今の実情をも憂慮させるものだ。