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書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』

2024年08月31日 | 書評
「精神的な異邦人」となることを恐れずに  
書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』
越川芳明

中沢新一は述べる。
「いわゆる言語学主義的な構造主義の限界を突破して、それを生命と物質の領域にまで押し拡げていかなくてはならない。この本はそういう要求に応えて、レヴィ=ストロースの構造主義に新次元を開こうと試みた」と。

いかにしてレヴィ=ストロースの「構造主義」が過去の遺物(研究対象)などではなく、むしろ未来に開かれた、新次元の「革命的科学」になりうるのか。

「構造主義」の現代性を説くべく、三元論の諸構造の「奥」で作動しているとされるものをトポロジーの助けを借りて論証する第三章といい、
北米大陸の北西海岸(ブリティッシュ・コロンビア)の先住民のふたつの対照的な仮面をめぐるレヴィ=ストロースの考察を引き継ぎ、
それらと日本列島の山人や山姥の仮面との共通性を論じ、「環太平洋圏」に共通の基層文化層が存在するという大胆な仮説を打ち立てる第四章といい、
本書の後半で中沢が繰り出す論法(レトリック)は、まるで熟達の大道芸人のダイナミックなジャグリングのように、我々を飽きさせない。  

我々は本書を読み進めるとき、レヴィ=ストロースの「構造主義」のどこに「革命性」があるのかを語る著者の手捌きを、驚嘆を覚えながら楽しむことができる。

ここではとりわけ前半のふたつの章に絞って論じていこうと思う。

詩人と量子物理学者
レヴィ=ストロースは「神話的思考と科学的思考」と題したエッセイの中で、量子物理学の父のひとりニールス・ボーアのことばを取りあげ、面白いことを言っている。

ボーアは量子物理学が見かけ上の矛盾を乗り越えるために、詩人や民族学者に目を向けるべきだという。
とりわけ詩人は、この世界の「現実」を表現するさいに、常識や定説(ものごとの表層)に惑わされないために、たとえば複数の視座に立ったり、相容れない意味を含んだ言葉を並置させたりする(撞着語法と呼ばれる)ことばの使い方をする。
そうした一見矛盾をはらむようなイメージや表現によってこそ、「記述という直接的な努力からはこぼれ落ちてしまう構造」(本書のいう、構造の「奥」)が知覚可能になるのだという。

撞着語法とは、身近な例で言えば、「チベットのモーツァルト」のようなことばの使い方で、ごく初期の頃から、中沢は詩人(=革命的な民族学者)として、見かけ上の矛盾を乗り越えようとしていたわけである。
その姿勢は、四十年以上もたった現在でも変わらない。

しかしながら、いま我々が注目したいのはそこから先である。

レヴィ=ストロースは、先のエッセイで量子物理学者のことばを引きながら、神話(古代人の思考の産物)と科学(近代人の思考の産物)というように、一見対立するふたつの項に第三の項(民族学と詩)を持ち出すが、
中沢によれば、近代思考(二元論に代表される)の行き詰まりや矛盾を突破し、構造の「奥」にたどりつくためにも、そうした三元論的思考が必要らしい。

のっけから、度肝を抜かれるような論考が待っている。
「仏教の中の構造主義」と「構造主義の中の仏教」と題された考察がそれである。
一見、これも撞着語法のように感じられるかもしれないが、そこにはかならずしもパラドクシカルな飛躍はないようだ。

というのも、「構造主義を仏教の光によって新しく照らし出してみるとき、それはふたたび、現代の人類を導く有力な思想として蘇ってくるに違いない」という信念が中沢にはあるからだ。

レヴィ=ストロースの「構造主義」が「未開社会」の分析を通して、最も進化しているとされる西洋近代の思考が、古代人の「非二元論のダイナミズムを失った変形ないし硬直化」でしかないことを明らかにしたように、
仏教もまた、生と死、善と悪といった二元論的思考を否定して「現実」を観察する方法をとっている。

仏教では、たとえば形を持たないもの、名付けられないもの、自我と無我のあいだにあるものなど、いわゆる「中道」を追い求める。
それはまさしく対立するどちらのグループにも属さない実在である。
僕なりの理解では、それは集合でいう重なりの部分である。
たとえば、Aという集合とBという集合があるとして、ふたつの集合が重なる部分だ。
AでありAでない、BでありBでない、AでもありBでもある、そんなボーダーの「実在」を仏教は追い求めた。
おそらく、それこそが構造の「奥」なのであろう。とはいえ、そう理解しても、修行を経ずしてそれを体得するのは、それほど簡単なことではない。

五〇年代初頭レヴィ=ストロースは東パキスタン(現バングラデシュ)を訪れていた。
そのとき、彼は直感したようだ。「私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、西洋(オクシデント)が自慢の種にしているあの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下での聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?」と。

要するに「西洋がつくりだしてきた思想も、学問も、科学も、仏陀の瞑想に包摂される教えの断片にすぎないのではないか」
アジアで仏教の本質を学んだ(と中沢が想像する)レヴィ=ストロースが、本書で「生まれながらの仏教徒」と呼ばれるゆえんだ。

プロレタリアの民族学
我々の楽しい驚嘆はさらにつづく。
「構造主義と仏教」という、一見異質に見えるふたつの対立項が論じられるさいに、第三項としてマルクス主義が登場するからだ。

具体例として、レヴィ=ストロースの弟子のひとりであったリュシアン・セバークが引き合いに出される。
セバークこそ、民族学(構造主義)を使ってマルクス主義を完成に導いていくことができる人だった。

「今日、不成就の状態で足踏みと後退と裏切りを続けている資本主義の姿を正確に映し出すことのできる、このような人間科学を真に必要としている」のであれば、セバークの仕事(マルクス主義的民族学)に期待しないほうがおかしい。

プロレタリアをほかの領域にも応用できる「理念」としてとらえるセバークにとって、「民族学は資本主義そのものを照らし出す、歪みない鏡となることのできる稀有な人間科学」となるはずだった。

だが、セバークは志半ばにして斃れてしまう。
だからこそ、本書はセバークになり代わり、「構造主義」のマルクス主義的展開を試みるのだ。

読者諸賢の愉しみを奪うことになると思うから、これ以上は深入りしない。その代わり、僕の心に響いたセバークをめぐることばを最後に挙げておこう。
「民族学者は自分の生きている社会の価値に呑み込まれてしまうことのできない生き方を自ら選んだのであるから、その社会の求める思考法をそのまま受け入れることはできない。彼は自分の生きている社会の中で、精神的な異邦人となる」

「精神的な異邦人」となることを恐れずに、本書の数々の刺激的な論考をさらに発展させていくのは、若い人類学者たちに課せられた使命だろう。