越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

「世界政府(その1)」第三回目

2010年12月29日 | 翻訳
(訳注:ひきつづき、エスチューリンの著書『ビルダーバーグ倶楽部』からの引用です)

カウンターカルチャーの創造

 合衆国の若者に対する、宣戦布告なしのオープンな文化「戦争」は、1967年に始まった。

 ビルダーバーグのメンバーが彼らの目的を確実なものにするために、野外コンサートを組織し始めたのである。
 
 この秘密武器によって、400万人以上の若者をいわゆる「フェスティバル」に引きつけることに成功した。

 それと知らずに、若者たちは完璧に計画された薬物実験の犠牲者になった。

 ビートルズによってその消費が促進された幻覚ドラッグは・・・そうしたコンサートで自由に配られた。

 まもなくコンサートに参加した5千万以上の者(当時、10歳から25歳)が帰宅して、新しいドラッグ・カルチャーというか、やがて「ニューエイジ」として知られることになるもののメッセンジャーや奨励者に改宗した。

 史上の最大のコンサート、野外での「ウッドストック音楽・芸術フェア」は、『タイム』誌によって「水瓶座のフェスティバル」とか「史上最大のショー」などと称された。

 ウッドストックは、若者世代の「文化用語集」の語彙の一つとなった。
 
 ジャーナリストのドナルド・フォーによれば、「ウッドストックでは、50万近く若者がある農場に引き寄せられるように集まり、洗脳された。

 犠牲者たちは、孤立させられ、汚物まみれになり、サイケなドラッグを詰め込まれ、3日間連続で眠ることを禁じられ、そのすべてがFBI(連邦捜査局)と政府高官の完全な共謀によるものだった」。

 コンサートの警備は、LSDの大量配布にたけたヒッピーのコミューンによって提供された。
 
 ここでも再び、唱道者は英国の軍情報網であったが、CIA前長官ウィリアム・ケイシー[CIA長官1981年~87年]と、MI6のセフトン・デルマーとのCIAコンタクトを経由したCIAの後援があった。

 CIAコンタクトと関係していたのは、ブルース・ロックハード [ジャーナリスト]、ブルシェビキ革命時代のレーニンとトロツキーのMI6側の工作員だった。
 
 カウンターカルチャーが合衆国の用語集の中に組み込まれるためには、さらに10年が必要だった。

 しかし、合衆国の文化的価値観を一転させる巨大な秘密計画の種は、そのとき蒔かれたのである。
 
 セックス、ドラッグ、ロックンロール、国中の大きなデモ、ヒッピー、学校をドロップアウトしたドラッグ中毒者、ニクソン政権、ヴェトナム戦争は、アメリカ社会の「精神」をずたずたに引き裂いた。
 
古いものと新しいものが正面衝突したが、誰も、そうした対立が世界で最も賢明で非道な国民の中の少数の者によって構想された秘密の社会計画の一部であるという事実に気づくことはなかった。
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「世界政府(その2)」第二回目

2010年12月27日 | 翻訳
(訳注:エスチューリン『ビルダーバーグ倶楽部』からの引用のつづきです)

オルダス・ハックスリー登場

 「英国のアヘン戦争の最高司祭は、オルダス・ハックスリー[英国の小説家]だった。

 彼の祖父は、トマス・H・ハックスリーといい、「ローズ円卓」グループの創設者であり、進化論を展開するチャールズ・ダーウィンを手助けした著名な生物学者でもあった。

 オックスフォード大学出身の[経済学者、アーノルド]・トインビー(英国の経済学者)は、1919年にパリで開かれた平和会議の英国代表だった。

 『トインビーのオックスフォード大学でのチューター(個人教授)は、H・G・ウェルズ[英国の小説家]であり、ウェルズは第一次世界大戦時の英国情報局の局長であり、<水瓶座の陰謀> を生んだ、いわば「精神な父親」だった。

 オルダス・ハックリーは英国の円卓エリートの子女たちが作ったディオニオス的なカルトである<太陽の子供たち>の新入会員だった。

 ハックスリーの最も著名な小説『素晴らしい新世界』は、唯一の政府のもとで営まれる正当な社会主義的世界の(数名の世界評議員によって命じられた)青写真である。

 あるいは、「ファビアン協会」[1884年創設。革命によらない、斬新的な社会主義を唱える]の恩師H・G・ウェルズの言葉を借りれば、ウェルズ自身の人気のある小説の一つに使われたタイトルを借りれば、「新世界秩序」(1940年刊)の青写真だった。

 『素晴らしい新世界』で、ハックスリーは、すべての国民をほぼ永遠の服従の状態におき、少数のエリートの外側で隷属を愛する科学的方法論に焦点を当てている。

 こうした状態を作りだす主な道具は、脳機能を変えるワクチンであり、国家が国民に対して飲むことを強要する薬物である。

 ウェルズに言わせれば、これは陰謀ではなく、むしろ『精神警察として機能する世界頭脳』なのだ。
 
 1937年に、ハックスリーはカリフォルニアに移住してロサンジェルスの縁故(こね)の一人ジェイコブ・ザイトリンのおかげで、ハリウッド(MGM、ワーナー・ブラザーズ、ウォルト・ディズニー社など)で脚本家として働いた。(中略)

 「メイヤー・ランスキー[<ギャンブル帝国>の創始者]によるマフィア組織の米西海岸におけるボス、バッグズビー・シーゲルは、ワーナー・ブラザーズやMGM社と長期にわたる絆を築いていた」。

 事実、ショービジネス(製作、配給、マーケティング、広告)などは、組織犯罪の連合やウォールストリートの高級詐欺師たちからなるマフィアの支配下にある。

 もっとも、それも、究極的には、全能のビルダーバーグの支配下におかれているのだが。

 ショービジネスは、ビルダーバーグとその手下によるその他の『商売』と同じように営まれる


ハックスリーの仕事

 ハックスリーは、1954年に『近くの扉』と題された、幻覚剤メスカリンを用いた意識拡張について影響力のある研究書を発表した。

 サイケデリックなドラッグ文化の最初のマニフェストだ。

 1958年に、ハックスリーは『ニューズデイ』に書き続けていたエッセイを、『素晴らしい新世界再訪記』というタイトルのもとにまとめた。

 その中で、彼は「支配層の主たる目的が、被支配層が問題を作りだすことを何としても回避することである」社会を描き出している。

 ハックスリーは、民主主義がその本質を変えるだろうと予告した。

 旧弊な奇妙な伝統――選挙、国会、最高裁判所などは残るが、その下の基層は、非暴力の全体主義になるだろう。

 すなわち、少数の独裁政治家と熟練のエリート兵士や警察、思想形成者、精神操縦者などが思いのままに世界を冷静に統率するというのだ。

 実際、このハックスリーの描いた構図は、現在の状況に完璧にマッチしている。

 1960年9月、ハックスリーは、ボストンにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)の創立百周年カーネギー招聘教授に任命された。

 彼は一学期だけ教えただけで、その後、解雇された。

 「ボストンにいるあいだに、ハックスリーはハーヴァード大学でサークルを作った」

 そのサークルというかセミナーの公開トピックは、宗教とその現代世界における意義というものだった。

 (中略)1974年4月発行の『キャンペイナー(運動家)』誌で、マイケル・ミニチーノはこう述べている。

 「ハーヴァード大学にいたころ、ハックスリーはサンドズ社の社長と接触したが、この社長はCIAの依頼を受けて大量のLSDや、MKウルトラ計画のためのサイロサイビン(メキシコのキノコから作られた幻覚剤)を作った。

 MKウルトラ計画とは、化学兵器をめぐるCIAの公開実験だった」。

 それはLSDを使用したしばしば死にいたる実験であり、人類をモルモットとして使っていた。

(中略)さらには、ビルダーバーグと結びついた高等教育機関カナダのモントリオール市のマッギル大学も、タヴィストック出身の退廃的なファシスト、ジョン・リーズが発起したMKウルトラ計画の中で、国立孤児院の子供たちを被験者として使って、拷問をおこなったり、LSDを服用させていた。

(中略)「情報の自由」法案のおかげで、最近CIAが機密種別からはずした文書によれば、アレン・ダレス(当時CIA長官だった)は、1億錠ものLSDを購入していたという。

 ミニチーノの上記の記事によれば、

「その多くが1960年末に、合衆国の街中に流れたという。

(中略)何千人もの大学生がモルモットになった。学生たちは直ちに自分たちの「アシッド」を合成し始めた。

 ヴェトナム戦争の状況に怒りを覚えて戦争反対のデモを行なった大多数の者は、SDS[民主的な社会をもとめる学生]の組織に入った。

 だが、若者たちがひとたびタヴィストック研究所の心理戦争専門家によって作りだされた環境に囚われ、享楽主義と国防が「非道徳な」戦争の正当な代替物であるというメッセージが巷にあふれると、若者たちの価値観と創造力は、ハシシの煙の中に消え散った」

 そう著者ミニチーノは述べる。
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フィデル・カストロ「世界政府」(その1)第一回目

2010年12月25日 | 翻訳
フィデル・カストロのコラム集『カストロは語る』(青土社)を翻訳刊行しました。同書に収録できなかったコラムを何回かに分けて、ここに収録します。世界を自分たちの思いのままにコントロールする集団(ビルダーバーグ倶楽部)をめぐる「陰謀説」を展開する著書の引用からなりますが、SF小説を読んだように、世界の見方が変わること請け合いです。 それでは

世界政府(その1)

  二日前、すなわち[2010年]8月15日のこのコラムで、私はキューバ人ジャーナリストで、国営放送の『円卓(メサ・レドンダ)』という番組のホストをしているランディ・アロンソの書いた記事について触れながら、彼が「世界政府」と言い表すものに関してバルセロナのドルチェ・ホテルで開かれた会議について書いた。

 コラムを引用すると

 「彼のように正直な作家たちが一様にそのような奇妙な会議から漏れてくるニュースをフォローしている。彼らよりずっと情報通で、この出来事を何年も追いかけている者がいる」

 私は、ダニエル・エスチューリンという作家に触れた。

 この著者による1ページ20行からなる合計475ページの著書が私の批評を待っている。
 
 たとえその会議の参加者の誰かが会議への参加を否定したり、その著書の中で述べられた出来事への関与を否定したとしても、素晴らしい本であることは変わらない。

 このコラムで引用できる大半は、私はそれを二つに分けるので、長すぎることにはならないはずだが、

 『ビルダーバーグ倶楽部』というタイトルの、この見事な著書がどんな感じか示すために私が選んだ数多くのものを含んでいる。

 その著書の中で、エスチューリンは大立て者たちをずたずたに切り裂いている。

 すなわち、ヘンリー・キッシンジャー[ニクソン政権やフォード政権の大統領補佐官、国務長官]、

 ジョージ・オズボーン[英国のキャメロン政権の財務相]、

 ゴールドマン・サックス証券の重役たち、

 ロバート・ゼーリック[ブッシュ政権の国務次官]、

 ドミニーク・シュトラウス=カーン[国際通貨基金の理事長]、

 パスカル・ラミー[世界貿易機関事務局長]、

 ジャン・クロード・トリチェット[欧州中央銀行総裁]、

 アナ・パトリシア・ボティン[スペイン、バネスト銀行会長]、

 コカコーラのCEOたち、

 フランス・テレコム、

 テレフォニカ・デ・エスパーニャ、

 スエス[パリに本社をおき、水道事業や電力事業、ガス事業を手がける]、シーメンズ[ミュンヘンに本社を置く多国籍企業]、

 シェル[米国のエネルギー関連事業]、

 BP([国のエネルギー関連企業]、その他の似たような政済界の大物。
 
 
 エスチューリンは、その起源から説明を始める。
 
  ドナルド・ポーの『ロックの悪魔的ルーツ』で語られたように、前例のない二つの日曜日をまたにか
  
  けたエド・サリバン・ショーでは、7500万人のアメリカ人が、ビートルズが顔を振り、体を揺らす仕草

  を見た。すぐにそれは未来の何百ものロックグループが真似するところとなった。
 

  アメリカの大衆にビートルズを『気に入らせる』ように仕掛けたのは、ウォルター・リップマン[政治ジャーナリスト]という男だった。

  音楽史上最も真似をされ最も演奏されたビートルズは、アメリカの大衆の前に、あたかも発見されるように、差し出されたのである。
 
『テオ・アドルノの登場』というのは、最初に出てくる小見出しの一つだ。
 
  ロックンロールの社会理論を考案した責任は、ドイツの社会学者であり音楽学者で作曲家であるテオドール・アドルノにある。

  フランクフルト社会研究所の指導的哲学者であるアドルノは、1939年にプリンストン大学ラジオ放送研究プロジェクトを指揮するために合衆国に派遣された。

  それは、大衆操作を目的にしたタヴィストック研究所とフランクフルト研究所との共同研究だった。

  資金はロックフェラー財団[石油王ジョン・ロックフェラーの遺志で1913年に設立]から提供され、創設はデイヴィッド・ロックフェラーの右腕   
  の一人、ハドリー・カントリル[プリンストン大学心理学教室主任]によるものだった。
 
  事実、ナチスはラジオ放送による集中的な宣伝活動を大衆洗脳の道具として使い、ファシスト国家の欠くべからざる一部に組み込んでいた。

  この事実はタヴィストック研究所のテレビ網によって真剣に研究され、みずからの番組で幅広く実験された。

  このプロジェクトの目的は、アドルノの『音楽社会学序説』によれば、「大衆の『音楽の』文化を社会的な大衆操作の一形式としてプログラミングすること」だった。
 
  「ラジオの放送網は、一日24時間トップ40の人気曲を繰り返し流すマシーンに変えられた」。
 
  ビートルズが1964年2月にアメリカ合衆国にやってきたとき、市民権運動はピークに達していた。
 
  この国は、ジョン・F・ケネディー大統領の残虐な暗殺による深い国民的なトラウマに陥っていたが、ようやく回復しようとしていた。

 (中略)首都の街中では、マーティン・ルーサー・キング牧師に導かれた市民権運動がデモを組織して、50万以上の人々がそれに参加した。

  1964年から1966年までに、いわゆる『英国侵略』で、次々と英国のロック歌手やロックグループがアメリカ合衆国に到来し、彼らはことごとく人気者になり、アメリカ文化を包囲した。

 (中略)1964年の暮れにかけて、この『英国侵略』が巧みに仕組まれたものであったことが判明する。
 
  このような最近作られたグループや彼らのライフスタイルは、(中略)新しい可視的な「タイプ」[タヴィストック研究所の用語]となった。

  ほどなくしてその新しいスタイル(服装、髪型、言葉づかい)は、何百万ものアメリカの若者をのみ込み、一気に新しいカルトになった。

  合衆国の若者たちはそれに気づかずにラディカルな内的革命を経験し、(中略)そうした危機に対して間違った対処をした。

  すなわち、あらゆるドラッグ――最初はマリファナ、つづいて、人の意識を変える強力なドラッグLSDを用いたのである。

 (中略)英国の諜報機関やその手先や、アメリカ合衆国の国家戦略機関がかつて人間の行動を操作する秘密調査に直接関与していたというのは、ロンドンのMI6[英国情報局秘密情報部の旧称]本部やヴァージニア州ラングリーのCIA(中央情報局)本部で事実として受けとめられている。

  CIAがMKウルトラ計画[CIAの科学技術本部が極秘裏に実施していた洗脳実験のコードネーム]に着手したとき、アレン・ダレスCIA長官[長官期は1953年~1961年]は、医療会社サンドズ社の調査を開始したばかりの、スイス・ベルンにあったOSS[CIAの前身「戦略事務局」]の局長を勤めていた。
 
  (中略)合衆国とヨーロッパでは、国民の募る不満を抑えるために、自由な雰囲気を感じさせる野外ロックコンサートが用いられた。

   ビルダーバーグ=タヴィストック連合が開始した攻撃は、若者世代全体をLSDとマリファナからなる黄色い舗装道路へと導ことになった」
(つづく)
 
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クレオール、ディアスポラ、ボーダーと文学

2010年12月19日 | シンポジウム・講義・講演
暮れも押し詰まり、忘年会の連続で、皆さんお忙しくお疲れと思いますが、公開シンポジウムをおこないます。入場無料・予約不要です。
ドイツのトルコ人作家、フランスの中国人作家などから、キューバのディアスポラの黒人詩人、英語・フランス語で書くバイリンガル作家など、21世紀の文学を考えるために、「国家」の枠組みが流動的な時代の文学を考えるために。


文学研究科共同研究プロジェクト 
シンポジウム「文学と境界のダイナミックス 離散、越境、混淆」

日時:2010年12月22日午後5時半~午後8時45分
場所:明治大学駿河台キャンパス リバティタワー119HI教室(19階)
(入場無料・学外者歓迎)

講師 土屋 勝彦(名古屋市立大学教授)「ドイツ語圏作家における離散、越境、混淆」
講師 新島 進(慶応大学准教授)「在仏中国人作家ダイ・シージエ、語り部の誕生と語り」
講師 越川 芳明(明治大学教授)「キューバの離散文学(仮題)」
講師 合田 正人(明治大学教授)「「パラタクシス」のエクリチュール―ベケット・サリヴァン・アドルノ」
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沼野充義(東大教授)さんの講演会(明大リバティタワー)

2010年12月08日 | シンポジウム・講義・講演
沼野充義(東京大学教授・ロシア・東欧文学)さんの講演会をおこないます。

演題:文学にとって言語とは何か。ナボコフの翻訳をめぐって
日時:2010年12月10日(金) 19時~20時半
場所:明治大学駿河台キャンパス(お茶の水)リバティタワー19階(119HI教室)

入場無料・直接会場へお越しください。学外者も歓迎。

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映画評『ノルウェイの森』

2010年12月06日 | 映画
「他者」のいない映画--トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』
越川芳明

 たとえグロテスクなシーンでさえも、美的なコーティングを施すことによって耽美的で叙情的なシーンに転化するのは、トラン・アン・ユン監督の得意とする手法だ。

 ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞作の『シクロ』(1995年)は、社会の底辺で生きている姉弟を視点に据えながらも、戦後ヴェトナム社会に特有の階級やジェンダーの問題を脱色することで、社会批評の精神を失った作品だった。

 社会の周縁に追いやられた「他者」の視点からのエッジの効いた社会批評がまったく見られない。
 
 最新作『ノルウェイの森』でも、冗漫といえるほどに「叙情」に流れるそのスタイルは変わらない。

 二時間以上もオリエンタリズム(一種のジャポニズム)に毒された独りよがりの「饒舌」に付き合わされるのは、たまらない。

 一見物語とは関係のない叙情的なショットがよく出てくる。

 たとえば、風に揺らぐ草原の風景、公園の中の泥水の池の中を泳ぐ鯉の姿、直子が療養のためにとどまる京都山奥の四季の風景など。そうした叙情的なショットを「喪失」というこの映画の主題に関連させて解釈することはできるだろう。

 だからといって、どうなのだろうか。

 なるほど、「僕」がアルバイトで肉体労働をしていたり、学生運動のために大学の授業が途中から討論の場に変わったりするなど、冒頭で示される「1967年」という時代性を反映するショットも出てくる。

 だが、それらも、美しい遠景にすぎない。主人公の「僕」の内面に深く刻印を残すようなものではない。
 
 精神病を病んだ直子は、『シクロ』の自転車タクシーの青年と同様、社会で周縁に置かれた「他者」である。

 そうした「他者」を配しながら、高度成長期の日本社会のひずみに関する何の啓示も見られない。

 これはこの映画がいみじくも露呈させた村上春樹の小説の本質だ。

 実は、「僕」にとって最大の喪失とは、直子の死でもなければ、キズキやハツミの死でもない。

 僕自身の「青春」である。

 「僕」は、キズキや直子の喪失を経て、大人になってゆく。

 喪失した大切な人の記憶を抱えて生きてゆくことを選ぶ。

 言い換えれば、小説や映画で描かれる「喪失」のプロセスは、「僕」が大人になるための通過儀礼(イニシエーション)なのだ。
 
 だから、直子という精神病患者は、生きた「他者」というより、「僕」の通過儀礼に欠かすことのできない、「他者」の顔をした「舞台装置」でしかない。

 直子は一人の男の大人への通過儀礼といった「寓話」にとって有効な「装置」として使われているだけなのだ。

 やがて自殺を選ぶ直子が予め「僕」に「人生が18歳と19歳を行ったり来たりしていたらいいのに」といったようなことを述べているが、それは生きてゆくことを選ぶ「僕」の人生観とは対照的なスタンスだ。

 まさに、直子が生きた人間と言うより、「装置」である所以(ゆえん)である。

 「喪失と再生」という青春小説特有のテーマを扱った村上春樹の小説『ノルウェイの森』を社会性の欠如したトラン・アン・ユン監督が選んだというのも、不思議ではない。

 だから、この映画は何も知らない若者にとっては人生を学ぶためにちょうどいい教材になり得ても、大きな喪失を経験したことがある大人の鑑賞には値しない。

(『キネマ旬報』2010年12月号、30ページ)
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映画評『サラエボ 希望の街角』

2010年12月05日 | 映画
ヤスエラ・ジュバニッチ『サラエボ 希望の街角』
越川芳明

 冒頭に、一人の女性がケータイを使って自分の身体をなめるように動画撮影するシーンが出てくる。

 中程でも、ベッドの隣で鼾をかいて眠っている恋人の寝顔をケータイで撮る。

 なぜ彼女──主人公のルナ──は、変態と見まがうほどに念入りに、そんな撮影を行うのだろうか。

 ルナは国営航空のキャビンアテンダント。恋人のアマルも空港の管制室で働いている。

 一見華やかな職場で働くエリートの二人だが、太陽を覆い隠す黒雲のように、ある過去が彼らの暮らしに影響を及ぼしている。

 ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した前作『サラエボの花』(2006年)と同様、主人公の内面に深い傷を負わせているのは、過去にあった戦争だ。

 1992年4月から数年間つづいたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、この映画の舞台となるボスニアでは人口の半数近い約200万人の難民や避難民が出たという。主人公のルナはその避難民の一人であることがほのめかされる。
 
 セルビア人共和国のビエリナに生まれ育ったという設定だ。

 紛争直後にセルビア人の準軍事組織がビエリナに侵攻して、ムスリムの「民族浄化」を実施した。

 ルナはそのとき両親を殺され首都サラエボに逃げてきたらしい。

 一方、恋人アマルはかつて勇敢な兵士として戦いながらも、弟を喪い、戦後もアルコール依存症を病んでいる。
 
 ガラス越しに女性の顔を撮ることによってその女性の心の闇を表現するのが監督のヤスミラ・ジュバニッチの得意とする手法だ。

 前作『サラエボの花』でも、シングルマザーの主人公エスマが付き合い始めた男と一緒にカフェに行き、外の広場に群がり飛び散る鳩たちの姿を眺めているところを窓の外から撮ったショットが印象的だった。

 窓ガラスに、鳩の群れの様子とエスマの顔が二重写しになり、本人も言葉にすることができないトラウマを巧みに表現していた。
 
 本作でも、恋人のアマルが勤務中に酒を飲んで停職になり、仕事帰りのルナを迎えに行って、一緒に車で帰る道すがら、無言の二人をフロントガラス越しにカメラは捉える。

 同様に、ルナが黒装束に身を包んだ女性の運転する車で、遠い山間のムスリム・コミューン(集団キャンプ場)にアマルを訪ねるときにも、助手席の窓ガラス越しに彼女の顔を捉える。

 いずれのシーンでも、我々はイスラムの原理主義にのめり込む恋人に対して不安や不信を抱く穏健なムスリム、ルナの心のうちを窓ガラス越しに覗き込む。
 
 イタリアの学者リディア・クルティによれば、通俗的なテレビドラマでは、女性が家の中に幽閉されて社会参加できないことを表象するイメージとして「窓」が使われるという。

 「窓」は、女性にとっての抑圧装置としての「家」の換喩表現なのだ。

 撮影監督のクリスティーン・マイヤーは、陳腐になりかねないそうした映像メディアの常套手段を使い、主人公の憂いを含んだ表情を窓ガラス越しの二重写しのショットによって強調する。
 
 とはいえ、本作には唯一例外的なシーンが存在する。

 かつて目の前で両親を殺されたという故郷ビエリナの家をルナが幼友達と訪れた後、帰ってきたサラエボの街では折からの犠牲祭のために、女性たちが手をつないで踊っている。

 窓ガラス越しの映像は、ルナがその目に浮かべる決然とした表情を捉える。そのショットは、女性同士のホモソーシャルな連帯を暗示し、窓ガラスはルナと外の女性たちとを結びつける解放装置として働く。 
 
 アマルは戦争後遺症の克服をイスラムの信仰に求めるのに対して、ルナは恐ろしい過去(故郷の家)を直視することで克服しようとする。

 アマルが極端に原理主義的な信仰に頼ることで、報復や暴力への道を示唆するのに対して、ルナは許しと共存の道を選ぶ。

 かつてルナのものだった家に住んでいる幼い女の子に「どうして出て行ったの?」と訊かれ、「あなたたちに追い出されたのよ」と答えることはしない。

 女の子の頭を片手でそっと撫でるだけだ。

 そのシーンにはルナの精神の成長が見て取れる。

 ルナは、距離を持って自分自身を見つめることができているからだ。
 
 冒頭で使われる音楽も印象的だ。

 民族主義や戦争に反対しているというボスニアの人気ムスリム・レゲエバンド「Dubioza Kolektiv」が歌う「Blam」。

 2008年にリリースしたアルバム『Firma Ilegal(違法企業)』の中の、ヒップホップ風の曲だ。

 刹那的に高級車を乗り回す金持ちのドラ息子。だけど車をカッ飛ばす道は、お粗末な砂利道で……そんな情景が自虐的に歌われる。

 この国のインフラへの批評だけでなく、ルナと同様、距離を持って自己を見つめ、自分自身を風刺と笑いのネタに転化している。
 
 ルナは、大事なものや人を喪うことを恐れて、自らの形見として残しておくかのようにケータイでビデオを撮影していたが、もはやそうした行為に頼ることはないだろう。

 ラスト近く、彼女は恋人に「戻ってきてくれ」と言われ、こう答える。「あなたが戻ってきて」

 戦争後遺症に苦しみながらも、少しずつ「自分」を回復してゆく姿が心を打つ。

(2010年2月19日(土)より、岩波ホールほか、全国で順次ロードショー)

『すばる』2011年1月号 pp.302-302.
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