(訳注:ひきつづきエスチューリンの『ビルダーバーグ倶楽部』からの引用です)
ダニエル・エスチューリン
最後に、著者は8ページ半を自分の祖父の思い出に費やす。
それは、最後に私が見た生きた祖父の姿だった。
ごく当たり前の顔つきで、96歳で、ぼろぼろに古びたソファに腰をおろし、大げさな眼鏡をかけて、私の視線を射貫くように見据えていたが、私が誰なのかほとんど分からない様子だった。
祖父は生きていた。
彼の意識の深奥に書き込まれた活字を順序立てようと、人間とは思えないような努力をしていたからである。
だが、活字たちは意味ある一貫した字列をなすことを拒んでいた。
長い寿命を刻んだ人生の最期の数ヶ月、それまで明晰に自己表現し、ユーモアと弁舌にたけていた祖父は、文字通り、言葉を失った。弱り目に祟り目というべきか、癌が彼から言葉を奪い、命を奪った。
私は片手にスペインに戻る航空券を持って、祖父に別れを告げるために祖父の家に立ち寄った。
最後の訪問では、お互いにほとんど何も言えなかった。
適切な言葉が思いつかなった。
祖父は息をつくことができなかった。
おかげで、私にとっては、息つくことだけで一仕事だった。
生きた祖父を見るのは、これが最後だと分かっていたからだ。
「アディオス(さよなら)」は、あまりに単純すぎる、あまりにむごい言葉だった。
リビングルームのテーブルの上には、私の祖父母の写真が壁に立てかけて飾ってあった。
1983年にカナダにやってきた直後の撮られたものだ。
私の祖母は、一年以上前に亡くなっていた。
祖父はそのとき重病に陥り、40年以上も深く愛し合ってきた人を喪った悲しみから立ち直れなかった。
絶対に泣き崩れまいと思い、私は自分自身に言い続ける。
ここでの文章は残酷さやチャンスを犠牲にして、正直さを擁護することにしよう、と。
主なテーマは、政治でも、全体主義への批判でもなく、むしろ、一人の人間の心臓の鼓動である。
それゆえに、私は祖父に本書を捧げる。そうした理由でこそ、この本は読まれねばならない。
祖父の臨終は、1995年4月18日とされている。
詩人オーデンがアイルランドの詩人イェーツの亡くなった日について「彼は彼自身の礼賛者になった」と言ったように、祖父自身としては、それが最後の午後になったようだ。
祖父は思い出になった。
名前の深奥の中に消え去ったのだ。
それが死というものの謎の一つである。
死は、誰にとっても、少なくとも故人の近親者にとっては、微少な差異を有しているのだ。
私たちと同様、人々は少なくとも二度死ぬ。身体的に、そして概念的に。
心臓が鼓動するのをやめたときに、そして忘却が始まったときに。
最も幸運な者、最も偉大な者は、後者の死がかなりの期間、おそらく無期限に引き延ばされる者である。
(中略)この地球のあらゆる国々、思いつく隅っこから弔いの電話がかかってきた。
それはいわば、私の祖父、すなわちKGB(旧ソ連国家保安委員会)のカウンタースパイ活動の元工作員が、その人生に影響を与えた人々に捧げた限りない賞賛に対する彼らからの感謝のしるしだった。
私の祖父の祖父は、兵士の中の兵士だった。
ロシア帝国を、アレキサンダー2世と3世を護るために25年間戦った。
私の祖父も一家の軍事的伝統を守った。
ロシア革命、内戦、二つの大戦に参加した。
第二次大戦の最初の数週間、ミンスク[現在、ベラルーシ共和国の首都。第二次大戦では、ナチス・ドイツによる激しい空爆を受けた]の防衛に参加していたとき、十一人の兄弟姉妹、彼の父と母、104歳の祖母がクリミア半島のカラシー・バザールの収容所でナチスによって毒殺された。
祖父は真に人生を生きた人だった。ただ単に生存だけに人生を限った訳ではなかった。
私の祖父は、1930年に一度結婚したことがある。
子供は三人もうけた。
それから、戦争になり、ベラルーシで戦い、ブレスト防衛に尽くした。
だが、ドイツ軍の進軍により、残りの赤軍の兵と共に撤退を余儀なくされた。
ある地点で、混乱の中で、家族とはぐれてしまった。
母と8歳、5歳、3歳の三人の子供は、赤軍やナチスの兵隊のようには、すばやく移動できなかった。
強制収容所に送られて、毒殺されたのだ。
この本で証明し、ビルダーバーグ倶楽部をめぐる最初の本でも大々的に暴露したように、第二次大戦は、ロックフェラー家、ローブ家、ウォーバーグ家)によって抜け目なく資金提供を受けたのである。
ビルダーバーグ倶楽部の創設メンバーの一人であるベルンハルト[オランダ王国]王子も関わり合いがあった。
彼はナチだった。
英国の王家の大半は、ナチスに共感を抱いていた。
アメリカ合衆国の東海岸の「リベラル」派の連中の大半も同様だった。
その国の経済的、政治的、社会的生活を支配する大富豪のネットワークである。
獣としてのヒットラーは、こんにち、ビルダーバーグ倶楽部の会合に密かに参加する人々、外交問題評議会)や三極委員会によって生み出されたのである。
これらの人々にとって、歴史とは何も書かれていないチョークボードであり、そこで他者の苦痛に向かって排便するのである。
ビルダーバーグ倶楽部とその仲間に対してこれほどの軽蔑を投げかけたことで、私は責めを負わねばならないだろうか。
私の場合、祖父が礎(いしずえ)になってくれている。
死後もずっと、旅の道連れである。存在していると同時に不在でもある。
時間と空間、いたるところで挫折した世界の罠、私たちが歴史と呼ぶゴミの山、それらもまた祖父の成功を意味していた。それらは祖父の成功の証だった。時と同じように、それらは、彼を消す魔法を含んでいた。
私は、とりわけ彼の誕生日が近づいてきたときに、祖父を思い出す。
だが、私にとって、今年は違う。
年齢は生命の積み重ねであり、喪失の積み重ねである。
大人になるというのは、線という線をことごとく打ち消されることに他ならない。
私は敷居を跨いだ。いまからは、一人ぼっちなのだ・・・。
このコラムの第二部では、この本の最後の部分をたくさん引用した。それらがビルダーバーグ倶楽部という忌まわしい組織への著者の軽蔑を物語っているからだ。
アメリカ合衆国の青年子女たちの知性や感情がそんな風に台無しにされるのは、考えるだけで耐えられない。
こんにち、私たちは核兵器によるホロコーストに突入するのを避けるべく戦わねばならない。
心身共にできる限り健康を保持するために、また人類がそうしたひどい運命から解放される方法を考えだすために、戦わなければならない。
2010年8月18日 午後5時54分
ダニエル・エスチューリン
最後に、著者は8ページ半を自分の祖父の思い出に費やす。
それは、最後に私が見た生きた祖父の姿だった。
ごく当たり前の顔つきで、96歳で、ぼろぼろに古びたソファに腰をおろし、大げさな眼鏡をかけて、私の視線を射貫くように見据えていたが、私が誰なのかほとんど分からない様子だった。
祖父は生きていた。
彼の意識の深奥に書き込まれた活字を順序立てようと、人間とは思えないような努力をしていたからである。
だが、活字たちは意味ある一貫した字列をなすことを拒んでいた。
長い寿命を刻んだ人生の最期の数ヶ月、それまで明晰に自己表現し、ユーモアと弁舌にたけていた祖父は、文字通り、言葉を失った。弱り目に祟り目というべきか、癌が彼から言葉を奪い、命を奪った。
私は片手にスペインに戻る航空券を持って、祖父に別れを告げるために祖父の家に立ち寄った。
最後の訪問では、お互いにほとんど何も言えなかった。
適切な言葉が思いつかなった。
祖父は息をつくことができなかった。
おかげで、私にとっては、息つくことだけで一仕事だった。
生きた祖父を見るのは、これが最後だと分かっていたからだ。
「アディオス(さよなら)」は、あまりに単純すぎる、あまりにむごい言葉だった。
リビングルームのテーブルの上には、私の祖父母の写真が壁に立てかけて飾ってあった。
1983年にカナダにやってきた直後の撮られたものだ。
私の祖母は、一年以上前に亡くなっていた。
祖父はそのとき重病に陥り、40年以上も深く愛し合ってきた人を喪った悲しみから立ち直れなかった。
絶対に泣き崩れまいと思い、私は自分自身に言い続ける。
ここでの文章は残酷さやチャンスを犠牲にして、正直さを擁護することにしよう、と。
主なテーマは、政治でも、全体主義への批判でもなく、むしろ、一人の人間の心臓の鼓動である。
それゆえに、私は祖父に本書を捧げる。そうした理由でこそ、この本は読まれねばならない。
祖父の臨終は、1995年4月18日とされている。
詩人オーデンがアイルランドの詩人イェーツの亡くなった日について「彼は彼自身の礼賛者になった」と言ったように、祖父自身としては、それが最後の午後になったようだ。
祖父は思い出になった。
名前の深奥の中に消え去ったのだ。
それが死というものの謎の一つである。
死は、誰にとっても、少なくとも故人の近親者にとっては、微少な差異を有しているのだ。
私たちと同様、人々は少なくとも二度死ぬ。身体的に、そして概念的に。
心臓が鼓動するのをやめたときに、そして忘却が始まったときに。
最も幸運な者、最も偉大な者は、後者の死がかなりの期間、おそらく無期限に引き延ばされる者である。
(中略)この地球のあらゆる国々、思いつく隅っこから弔いの電話がかかってきた。
それはいわば、私の祖父、すなわちKGB(旧ソ連国家保安委員会)のカウンタースパイ活動の元工作員が、その人生に影響を与えた人々に捧げた限りない賞賛に対する彼らからの感謝のしるしだった。
私の祖父の祖父は、兵士の中の兵士だった。
ロシア帝国を、アレキサンダー2世と3世を護るために25年間戦った。
私の祖父も一家の軍事的伝統を守った。
ロシア革命、内戦、二つの大戦に参加した。
第二次大戦の最初の数週間、ミンスク[現在、ベラルーシ共和国の首都。第二次大戦では、ナチス・ドイツによる激しい空爆を受けた]の防衛に参加していたとき、十一人の兄弟姉妹、彼の父と母、104歳の祖母がクリミア半島のカラシー・バザールの収容所でナチスによって毒殺された。
祖父は真に人生を生きた人だった。ただ単に生存だけに人生を限った訳ではなかった。
私の祖父は、1930年に一度結婚したことがある。
子供は三人もうけた。
それから、戦争になり、ベラルーシで戦い、ブレスト防衛に尽くした。
だが、ドイツ軍の進軍により、残りの赤軍の兵と共に撤退を余儀なくされた。
ある地点で、混乱の中で、家族とはぐれてしまった。
母と8歳、5歳、3歳の三人の子供は、赤軍やナチスの兵隊のようには、すばやく移動できなかった。
強制収容所に送られて、毒殺されたのだ。
この本で証明し、ビルダーバーグ倶楽部をめぐる最初の本でも大々的に暴露したように、第二次大戦は、ロックフェラー家、ローブ家、ウォーバーグ家)によって抜け目なく資金提供を受けたのである。
ビルダーバーグ倶楽部の創設メンバーの一人であるベルンハルト[オランダ王国]王子も関わり合いがあった。
彼はナチだった。
英国の王家の大半は、ナチスに共感を抱いていた。
アメリカ合衆国の東海岸の「リベラル」派の連中の大半も同様だった。
その国の経済的、政治的、社会的生活を支配する大富豪のネットワークである。
獣としてのヒットラーは、こんにち、ビルダーバーグ倶楽部の会合に密かに参加する人々、外交問題評議会)や三極委員会によって生み出されたのである。
これらの人々にとって、歴史とは何も書かれていないチョークボードであり、そこで他者の苦痛に向かって排便するのである。
ビルダーバーグ倶楽部とその仲間に対してこれほどの軽蔑を投げかけたことで、私は責めを負わねばならないだろうか。
私の場合、祖父が礎(いしずえ)になってくれている。
死後もずっと、旅の道連れである。存在していると同時に不在でもある。
時間と空間、いたるところで挫折した世界の罠、私たちが歴史と呼ぶゴミの山、それらもまた祖父の成功を意味していた。それらは祖父の成功の証だった。時と同じように、それらは、彼を消す魔法を含んでいた。
私は、とりわけ彼の誕生日が近づいてきたときに、祖父を思い出す。
だが、私にとって、今年は違う。
年齢は生命の積み重ねであり、喪失の積み重ねである。
大人になるというのは、線という線をことごとく打ち消されることに他ならない。
私は敷居を跨いだ。いまからは、一人ぼっちなのだ・・・。
このコラムの第二部では、この本の最後の部分をたくさん引用した。それらがビルダーバーグ倶楽部という忌まわしい組織への著者の軽蔑を物語っているからだ。
アメリカ合衆国の青年子女たちの知性や感情がそんな風に台無しにされるのは、考えるだけで耐えられない。
こんにち、私たちは核兵器によるホロコーストに突入するのを避けるべく戦わねばならない。
心身共にできる限り健康を保持するために、また人類がそうしたひどい運命から解放される方法を考えだすために、戦わなければならない。
2010年8月18日 午後5時54分