越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

研究/創作の境界線(ボーダー)を侵犯する「未来の学」

2009年06月27日 | 小説
研究/創作の境界線(ボーダー)を侵犯する「未来の学」
安藤礼二『霊獣 「死者の書」完結編』
越川芳明 


 (感想)僕にとって、この本は今年一番の収穫かもしれない。巷では、村上春樹の『1Q84』が話題だが、こちらの本はたった150頁なのに、村上の小説の3倍中身が濃かった。書評には書ききれないことがいっぱいありました。

 (書評)
  安藤礼二は、「『死者の書』の謎を解く」という講演録の中で、学術研究の中で自らの主体性を問うた折口信夫の姿勢を高く評価している。

 昨今の科学分野でも、科学者自身の立ち位置と研究結果とは切り離せなくなっているとして、「折口学は、未来の学になる」と断言する。いうまでもなく、それは思想家であり創作家でもある安藤自身の表明に他ならない。

 タイトルにある「霊獣」とは、折口が英語やフランス語に通じたハイブリッドな表現者、岩野泡鳴の「神秘的半獣主義」の「半獣半霊の神体」からヒントを得たヴィジョンだ。

「獣と霊は分離することができない」という発想は、肉体的な愛と精神的な愛はひとつであるという、折口のプラトニズム(同性愛)に繋がるだけでなく、神の声を聴く神懸かりの吟遊詩人の登場が文学の始まりとする、折口の古代文学論とも繋がり、さらに、本書で探求される折口の未完の書『死者の書 続篇』の、空海の世界観の解釈へも繋がる。

 一応批評書と呼びうる本書は、しかし、小説を読むようなスリリングな瞬間を味わえる書物である。折口の未完の書を手がかりにして、論理のアクロバティックな飛翔が何度も見られるからだ。とりわけ、藤無染とゴルドン夫人の邂逅が語られるシーンは恐ろしく興味深い。

 無染は折口の同性愛の最初の相手であったとされる九歳年上の、浄土真宗本願寺派の僧侶だが、三十歳で没した。英語のできる僧侶として、キリストと仏陀の生涯の共通点を検討したり、キリスト教と仏教の教義(聖訓)の共通点を見いだしたりして、仏教とキリスト教の「習合」の研究をしていたのだ。

 さらに面白い存在はゴルドン夫人のほうで、彼女はシリアで生まれたキリスト教異端ネストリウス派の神秘主義思想に魅了され来日した。キリスト教の救世主(メシア)として弥勒をとらえる研究をして、『弘法大師と景教』という論考を物したという。
 安藤によれば、ゴルドン夫人は藤無染に会っていなければならないという。夫人は無染に会い、弥勒こそが仏教とキリスト教を繋ぐ鍵であり、そのことを最も良く理解していたのは空海であると伝えていた。折口は生前の無染からそのことを聴いていて、空海を主人公にした『死者の書 続篇』を書こうとしたのだ、と。

 安藤は後記において「研究は創作に、創作は研究に近づき、一体とならなければならない」と語るが、まさに本書は、そうした境界線の侵犯をみごとに実践してみせた「未来の学」といえるだろう。

(『すばる』集英社、2009年8月号、313頁)


四ノ宮浩監督『BASURA バスーラ』

2009年06月26日 | 映画
「スカベンジャー」から世界を見る
四ノ宮浩監督『BASURA バスーラ』
越川芳明

 四ノ宮浩監督は、フィリピンのマニラ首都圏の「スカベンジャー」を二十年以上も追い続けている。「スカベンジャー」とは、ゴミ集積場で再生可能なゴミ(瓶や空き缶、青銅、プラスティック、ビニール袋、段ボールなど)を拾い集め、それを廃品回収のジャンクショップで換金してもらって生活する人々のこと。ちなみに、このドキュメンタリーのタイトル『バスーラ』は「ゴミ」という意味だ。

 フィリピンの「スカベンジャー」の映像からは、子供たちをめぐる別の問題が見えてくる。すなわち、児童労働とそれによって失われる教育の機会、ストリートチルドレンの売春やドラッグ中毒、犯罪、病気といった一連の社会問題が。

 ゴミ集積場では、五、六歳の子供が大人にまじってゴミ拾いをしている。学校に通うこともできず、栄養失調や皮膚病、結核などの病気にかかる。スラムでの生活に嫌気がさした子供たちは、都市のストリートチルドレンと化し、金のために売春や犯罪に手をそめ、シンナーを吸って現実を忘れようとする。

 本作は「スカベンジャー」三部作と称すべきものの掉尾を飾るものだが、注目すべきは二度にわたって差し挟まれるモノクロ映像だ。一つは十三分すぎから、もう一つは四十三分すぎから、デビュー作『忘れられた子どもたち スカベンジャー』(一九九五年)の一部が引用される。

 『忘れられた子どもたち』は、四ノ宮監督がマニラ最大のゴミ捨て場だったスモーキーマウンテンの子供たちを追い、六年をかけて完成させた渾身の作だが、一九八九年暮れに撮影を開始したとき、スモーキーマウンテンのゴミ捨て場のそばに出来たスラムには三千世帯(二万一千人)が暮らしていたという。

 引用の一つめは、スラムに住む十八歳のJRと十六歳のクリスティーナの家族に焦点を当てたものだ。二人は一九九〇年に結婚し、クリスティーナが長男クリストファーを出産する映像が出てくる。

 本作は、クリスティーナとJRを二十年後に再訪。クリスティーナは第五子を妊娠中で、夫婦のあいだには、すでに十七歳になった長男と三人の娘がいる。二人がゴミ拾いをしていたスモーキーマウンテンは一九九五年にラモス政権によって閉鎖されていた。クリスティーナの家族は、二〇〇二年に永住住宅「パラダイス・ハイツ」へ移住。

 いま、かれらの部屋には、冷蔵庫はもちろん、テレビやステレオコンポなど娯楽用の家電製品が揃っている。スモーキーマウンテン時代と比べるならば、月とスッポンの生活だ。一家はゴミ拾いを辞めている。JRはジャンクショップのマネージャーの職についており、長男もそこで働き、さらに水道からポリバケツに詰めた水を売っているので安定した収入が得られる。家賃はタダなので、娘たちの教育費も払える。

 だが、第五子に出産をきっかけに一家にふたたび暗雲が立ち込める。出産したばかりの乳児が感染症にかかり薬代がかさみ、JRはマネージャーの職を失う。
 
 そして、本作で引用されるもう一つのモノクロ映像は、四十三歳のイルミナダの家族だ。彼女には三人の子供がいるが、三年前に夫が病死。十三歳の長男のエモンは学校をやめて、父親の代わりに稼ぎはじめる。夜になると、自分の身長の二倍もある、カリトンと呼ばれる大きな台車を押して町中でゴミを拾う。深夜一、二時頃に台車の中で寝て、早朝に起きてゴミを拾い、ジャンクショップに売りにいく。

 しかし、そうした毎日に疲れたエモンは家出をしてしまう。「僕はほんとうに家族を金持ちにしたかった。でも無理だよ。僕の夢は壊れてしまった」と蚊の鳴くような声で呟く。だが、「母さんのためだよ」といいながら、木の貯金箱にコインを入れるエモン少年のはにかんだ顔をカメラは見逃さない。
 
 本作では、その後のエモンを追うが、エモンは窃盗容疑で捕まり、留置場で自殺を遂げたという。まだ二十六歳だった。その死には拷問を含めた警察の関与が疑われるという。
 
 かくして、挿入された二十年前の二つのモノクロ映像は、フィリピンの貧困の「現在」に焦点を当てるこのドキュメンタリー作品に歴史的なパースペクティヴを与える役割を果たしている。この映画が言いたいことは、今のマニラは二十年前と何も変わらないということだ。
 
 東南アジア現代史の専門家である鈴木静夫によれば、フィリピンの社会問題に根底には、大地主に独占された土地と、たびたび災害で壊滅する農業に対する政府の無策があるという。それはスペインやアメリカの植民地として蹂躙されてきた南米の国々が抱える問題と共通する。
 
 国民の七十五パーセントが農業労働者でありながら、かれらは冷遇されている。農業で食えない人々がマニラ首都圏にやってきて、その数が人口の三割にもなる。国民の一パーセントの地主や一パーセントの都市ブルジョワによるオリガキー(少数のエリートによる経済支配)が最大の問題なのだ、と。(『物語 フィリピンの歴史』一九九七年)。
 
 本作は、そうした社会問題の犠牲者である「スカベンジャー」一人ひとりの顔に浮かんだ喜怒哀楽の表情を丹念に撮っており、そこに四ノ宮監督の、すぐれた「越境者」としての魂の共鳴と眼差しが窺われる。

 2009年6月27日より、東京都写真美術館ホールにてロードショー。

(『すばる』集英社、2009年7月号、308-309頁)