越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

私の母は「わたり烏(がらす)」と申します

2011年09月11日 | エッセイ
私の母は「わたり烏」と申します(忘れられない本) 
越川芳明

 十数年前のことだが、日本の最果ての島をあちこちうろつきまわっていた。

 まるで宿なしのノラ犬みたいに。
 
 北海道の稚内から船で礼文島や利尻島に渡り、江戸時代末期に一人のアメリカ人がアイヌの地に密入国を企てたことを知った。

 父はスコットランド系だが、母はアメリカ先住民チヌーク族の酋長の娘だったという。

 長崎まで連れて行かれ、のちにペリー提督との交渉で通訳をすることになる侍たちに英会話を教えたらしい。

 数ヶ月後に、南の八重山群島の石垣島に行き、そこから、小型機に乗って西の果ての与那国島に渡った。

 宿に着いて持参した携帯ラジオをつけると台湾の放送が入った。

 橋幸夫や舟木一夫など、昭和の歌謡曲が中国語のお喋りのあいまに流れてきた。
 
 夕食のときに、沖縄本島から護岸工事にやってきた男の人から、宿の近くに一億円の墓があるという話を聞いた。

 翌朝、墓地を見にいった。

 大きい亀甲墓が見晴らしのよい海端に数多く並んでいた。
 
 雑草の生い茂る墓地には、天然記念物の与那国馬が放し飼いになっていて、墓の前のコンクリートに糞を落としていた。

 一億円の墓は、そこから少し離れたところにあった。広大な敷地は米大統領のホワイトハウスみたいに頑丈なフェンスで被われており、おまけにヒンプンと呼ばれる石塀で目隠しされていた。

 戦後の密貿易で荒稼ぎした者が作ったのかもしれない。

 それにしても、フェンスで囲ってしまっては、馬も糞を落としにきてくれないではないか。
 
 数年後、ジェラルド・ヴィズナーという、アメリカ先住民の血を引く作家が来日した。

 戦後日本と現代アメリカを舞台にして、ヒロシマ原爆とアメリカ先住民の大虐殺を文学的な想像力でつないだ『ヒロシマ・ブギ――アトム57』(未訳、二〇〇三年)という小説を出したばかりだった。

 作家と歓談する機会があったが、利尻島に流れ着いたアメリカの混血児のことを知っているかどうかは聞きそびれた。

 だが、後日、私は日米の混血児である主人公が「わたり烏(がらす)」の夢を見る、小説の一節に遭遇して思わずにやりとした。

 「わたり烏」というのは、利尻島に流れ着いたラナルド・マクドナルドという男の母親の名前だったからだ。

 (『週刊朝日』2011年9月9日号、84頁に若干加筆しました)
*なお、「わたり烏」は、英語では「raven(レイヴン)」と呼ばれています。