越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評  ダニス・タノヴィッチ監督『鉄くず拾いの物語』

2013年12月19日 | 映画

鉄くずと火力発電所  ダニス・タノヴィッチ監督『鉄くず拾いの物語』

 越川芳明

 二人の幼女が出てくる。利かん坊の妹は、歳のあまり違わない姉とソファでじゃれつきながら、テレビのチャンネルを争う。その部屋に、太った中年の母親が入ってきて、コンロを兼ねるストーブに薪をくべる。彼女の名前はセナダ、その右腕には「ハートを射抜く矢」の刺青があり、彼女が労働者階級であることがさりげなく示される。父親ナジフが帰ってきて、テーブルの前で煙草を取りだして喫う。妻が、薪がなくなったわ、と言うと、夫は無言でうなずく。

 この冒頭では、けっして裕福とは言えないが、薪ストーブの暖かさに象徴される愛情豊かな四人家族の、ありふれた日常が提示されている。

 だが、そこから、ありふれていない、過酷な物語が始まる。

 夫は雪の積もった道路を、のこぎりと鉈を持って森へと向かう。森では適当な木を探し、切り倒して家に持ち帰り、それを斧で細かく割って薪を作る。また、自分を「兄貴」と呼ぶ近所の解体屋のところへ行き、大鉈を手にして、ポンコツ車の解体を手伝い、わずかな日銭を稼ぐ。彼は、いわば日本で言うところの、非熟練の「フリーター」だ。だからと言って、怠け者ではけっしてない。むしろ、勤勉な方だ。

 妻のセナダも、夫に劣らず働き者だ。夫が木を切りにいっているあいだは、夕食の準備に余念がないし、夫が寒空の下で解体作業をしているあいだは、小麦粉とチーズでパイ生地を作り、それを薪ストーブのオーブンで焼く。それが終わると、浴室へ行き、家族の汚れた衣類を手で洗い、外のベランダに干す。

 問題は、そうした二人の肉体労働に象徴されるものが、この社会では報われないという点だ。彼らが住んでいるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナの山奥の、ポーリャというロマ人たちの集落。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(一九九〇-九四)は、一種の民族紛争で、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が互いに異民族を排除する「民族浄化(ルビ:ジェノサイド)」が繰り広げられた。紛争後、ボスニア・ヘルツェゴビナは、二つの政体からなる国となったが、政治的にはボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が主流をなし、ナジフたちのようなロマや、ユダヤ人は、国勢調査で「その他」と分類される。そうした「その他」の少数民族は、社会の周縁に置かれ、さまざまな差別に晒される。

 たとえば、ナジフは兵士として民族間の戦いに四年間参加したのに、恩給も生活保護も子供手当ももらえない有様だ。旧ユーゴスラビア時代に充実していた医療や社会保障、教育も資本主義市場経済の導入と共に不十分になる。

 妻セナダは、三人目の子を身ごもっているが、あるとき腹痛を覚える。夫に連れられて、遠い都市の大病院に診察を受けにいく。その病院で流産との診断がくだされるが、とりあえずの応急処置しかしてもらえず、紹介状を渡される。そこで、二人は別の産婦人科病院へ行くが、その病院では掻爬手術を断られる。

 セナダは、少数民族のロマだから手術を拒絶されたのではない。「保険」に入っていかなかったから、死ぬかもしれぬ病態でも手術をしてもらえなかったのだ。看護師は、保険証がなければ、九八〇マルク(約六万五千円)かかると夫に告げる。だが、彼にそんな金があるはずがない。解体屋が車一台つぶしても、一五三マルク(約一万円)にしかならなかったのだから、二人にとって、それがとてつもなく法外な額だということが分かる。それでも、夫は諦めずに、分割にしてほしい、と頼む。

 夫婦は再同じ病院を訪れるが、担当医は、院長の意向に背くことはできない。自分も雇われている身だからと言い、ナジフの頼みを断る。このとき、病院は営利目的の会社でしかなく、その資本主義システムの末端で働く看護師や医者は、単なる駒でしかない。その図式は料金の支払いが滞納したという理由で、ナジフの家の電気を止める電力会社にも言える。末端で働く人々は、会社の命令で仕事をするだけだ。

 この映画は、実話に基づいて、本人を登場させて、監督自らがハンドカメラで撮った「ドキュドラマ」。素人であるナジフの落ち着いた演技には、ベルリン国際映画祭で「主演男優賞」が与えられているが、それ以上に、この作品が単なる実録もので終わっていないのは、一見物語とは無関係に思える「都市部」の火力発電所の映像に、象徴的な意味を帯びさせることに成功しているからではないだろうか。

 ナジフたちは、山奥のロマの村から遠くの都市の病院に出向いては、拒絶されて家路に就く。その際に、カメラは都市近郊の発電所を捕らえる。昼となく夜となく、不気味に煙を吐いている。映画の中で四度も映し出される発電所は、社会の中では経済発展のシンボル、映画の中ではセナダの手術を拒む資本主義の都市の象徴となっている。一方、ナジフは粉雪吹くなか、山奥の集落のはずれにある崖地のゴミ捨て場に出向いて、自転車の車輪や金網など、鉄くずを黙々と拾う。ほんのわずかの金にしかならないことを知りながら。

 このような資本主義システムにおける、鉄くず拾い(非生産性)と火力発電所(生産性)の比較映像によって、この映画は、周縁からのメッセージを私たちに伝える。「生産性」だけを追い求めることは、かえって人間を殺すのだというメッセージを。

(『すばる』2014年1月号、334−335ページに、若干手を加えました。)

 


書評 田中慎弥『燃える家』

2013年12月16日 | 書評

「源平合戦」は、いまも続いている  田中慎弥『燃える家』

越川芳明

 

「源平合戦」は、いまも続いている。だが、もちろん形と名前を変えて。それが、本書の隠されたテーマだ。

 思えば、これまでの田中慎弥の小説も、壇ノ浦の近くの赤間関を舞台に、障害者や在日など周縁に置かれた者の視座から「勝ち組」の価値観を問うものであった。言い換えれば、負け組の「平家」に与するものだった。

 確かに、これは歴史小説ではない。扱われているのは、九〇年代初めからゼロ年代という近過去であり、れっきとした現代小説である。世界的には、父ブッシュ大統領のもとでの湾岸戦争で始まり、子ブッシュ政権時のニューヨークでの同時テロ事件へと到る、アメリカ主導の「世界秩序」の時代。日本国内では、平成の時代になり海部政権下の自衛隊のペルシャ湾派遣から、第一次小泉内閣のあたりまで、アメリカに与する形でナショナリズムの高まりが見られた時代。

 だが、小説の中ではしばしば、八百年以上前に壇ノ浦に入水崩御した安徳天皇への言及がなされ、しかも、後半では、安徳天皇を祀った赤間神宮が舞台となる。赤間神宮では、毎年、亡くなった天皇や平家一門の武士たちの回向(ルビ:えこう)のために先帝祭が催されるが、小説はその祭を大胆に脚色している。

 視点人物が、三人登場する。滝本徹という高校生と、山根忍という、徹の通う高校の女教師、それと徹の父親ちがいの弟、光日古である。

 徹は、学校でも目立たぬ生徒で、同級生からまったく関心を持たれていない。唯一、友達と言えるのが、皮膚が「何度も蝋(旧字)に潜らせて仕上げた人形」(11)のように艶のある相沢良男である。この「蝋(旧字)人形」のような相沢は、風変わりなことを言って、同級生たちにうす気味悪がられるが、人生の意味を模索する思春期の徹は、極端な思想の持ち主である相沢に感化される。

 相沢は、小学二年のときに真っ白な鳩の死骸を葬った小さな墓を作ったり、高校生になってからも、自分の祖母「白粉ババア」を海の中に突き落としたりするが、ついには、この世の「無意味」を追求するために、徹や同級生の女子二人を巻き込んで、女教師山根のレイプを計画するほど過激になる。

 この世界の意味は、いったい誰が決めるのか。

 『平家物語』に窺われる世界観は、言うまでもなく「諸行無常」だ。この世の一切は、絶えず生じて滅び、変化する。永遠不変のものはない。人間や動物だけでなく、政体や制度もまた滅びや変化を免れない。

 それに対して、仏教には「常住不滅」という考え方があるようだ。生滅変化することなく、未来永劫に存在すること。それは、この小説の表現を借りれば、『ジャックと豆の木』の巨人に象徴される絶対的な「力」である。そうした「力」に対峙するのは、山根忍や徹だ。

 山根は、小学生のとき、昼食の時間に十字を切る同級生の男の子に引かれて、キリスト教に興味を抱く。実家の近くのサビエル記念聖堂で入信するが、その信仰はあやふやだ。彼女にとって、絶対的な「力」は、なぜか髭の男を連想させる。イエス、ビンラディン。しかし、彼女自身がレイプ事件に巻き込まれたとき、「神」はなぜ黙って見ているのか、と不信を抱く。

 一方、徹にとって、絶対的な「力」とは、中央政界で活躍する実父、倉田正司の存在であり、その「血」である。倉田の考えは勝ち組のそれに他ならず、中央集権主義だ。倉田によれば、日本は「天皇を中心とする神の国」であり、軍隊を否定する憲法を改正して、偽ものの国から本物の国へと変化を遂げねばならないという。「国民は権力者によって飼育されるだけ」だから、お前は赤間関などにくすぶっていないで、天皇のいる首都にきて、権力者の側に立たねばならない。そう倉田は徹を諭す。

 徹は自分の中の「血脈」を自覚したときから自らの内なる「力」を知ることとなり、倉田を倒す方向に進む。それは、単なる青年期における父親殺しの儀式ではない。日本の政争史における、「権力者(天皇)」打倒という、メタレベルの儀式が重ね合わされていることを忘れてはならない。それが小説のクライマックスでの、徹と倉田の一騎打ちの意味だ。

 さて、この小説には、水と火というモチーフが見られ、それが赤色のモチーフと絡まって、徹や山根を主人公とする、この現代版「源平合戦」を彩る。まず水のモチーフは、海峡の廃船や蟹の大量発生という変奏となり、赤い色を伴って「平家」側の逆襲に加担する。「赤間関の海は名前の通り赤い、と徹には思えるのだった」(8)

 一方、火のモチーフは、本書のタイトル『燃える家』に示唆されるように、サビエル記念聖堂の火事、先帝祭のときの稲妻、という変奏をかなで、赤間神宮の水天門の赤色を伴い、山根や守園、白粉ババアなど、女性たちの「力」の源泉となり、「権力者」の滅亡を象徴する。「世界は娼婦の着物になった」と、徹は言う。つまり、大夫役の守園の(金の縫取りに飾られた)赤い着物が、世界を描いているように見えるのだ。「糸の描く世界は、空では星座のようで、地面に近いところでは戦争のようだった。糸は金色にふさわしく、城や王冠や、またそれらを滅ぼす炎を描き出した」(561)と。

 最後に、徹の父ちがいの弟、光日古に触れておこう。『平家物語』によれば、安徳天皇が天子の位を受け継いだ「受禅」の日に、様々な「怪異」があり、その一つに、夜の御殿の仕切りの内側に、山鳩が入り籠ったという。また、平清盛の妻、二位の尼平時子は、安徳天皇の祖母にあたるが、現世における平家の滅亡を自覚して、「山鳩色の御衣」をまとった八歳の孫を抱き、壇ノ浦に飛び込む。飛び込む際に「浪のしたにも都のさぶらふぞ(波の下にも都はございます)」と、「もう一つの現実世界」を不気味に示唆する言葉を吐いて、幼い天皇を慰めたという。

 父と対決すべく、先帝祭の舞台に登った徹は、ある幻を見る。「空中をついてきていたババアたちの一団は水天門の上に腰をかけ、鳩に乗った天皇は、馬の首に似た金色の飾りに止まって、自らの追悼のために集まった人間たちを見下ろしている」と。(546)。相沢の祖母、白粉ババアは、平時子の再来ともいうべき存在であり、小学二年生の光日古も入水する安徳天皇と同じ八歳だ。やがて、徹の眼には、「鳩に乗った光日古」(558)が見えてくる。

 かくして、徹は「負け組」の死者たちを味方につけながら、体制をコントロールする「権力者」に挑戦する。たとえ、この徹が敗れても、次の徹が登場するだろう。それが、現代の「源平合戦」の意味だ。 (初出『文學界』2014年1月号、288−289ページ)