鉄くずと火力発電所 ダニス・タノヴィッチ監督『鉄くず拾いの物語』
越川芳明
二人の幼女が出てくる。利かん坊の妹は、歳のあまり違わない姉とソファでじゃれつきながら、テレビのチャンネルを争う。その部屋に、太った中年の母親が入ってきて、コンロを兼ねるストーブに薪をくべる。彼女の名前はセナダ、その右腕には「ハートを射抜く矢」の刺青があり、彼女が労働者階級であることがさりげなく示される。父親ナジフが帰ってきて、テーブルの前で煙草を取りだして喫う。妻が、薪がなくなったわ、と言うと、夫は無言でうなずく。
この冒頭では、けっして裕福とは言えないが、薪ストーブの暖かさに象徴される愛情豊かな四人家族の、ありふれた日常が提示されている。
だが、そこから、ありふれていない、過酷な物語が始まる。
夫は雪の積もった道路を、のこぎりと鉈を持って森へと向かう。森では適当な木を探し、切り倒して家に持ち帰り、それを斧で細かく割って薪を作る。また、自分を「兄貴」と呼ぶ近所の解体屋のところへ行き、大鉈を手にして、ポンコツ車の解体を手伝い、わずかな日銭を稼ぐ。彼は、いわば日本で言うところの、非熟練の「フリーター」だ。だからと言って、怠け者ではけっしてない。むしろ、勤勉な方だ。
妻のセナダも、夫に劣らず働き者だ。夫が木を切りにいっているあいだは、夕食の準備に余念がないし、夫が寒空の下で解体作業をしているあいだは、小麦粉とチーズでパイ生地を作り、それを薪ストーブのオーブンで焼く。それが終わると、浴室へ行き、家族の汚れた衣類を手で洗い、外のベランダに干す。
問題は、そうした二人の肉体労働に象徴されるものが、この社会では報われないという点だ。彼らが住んでいるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナの山奥の、ポーリャというロマ人たちの集落。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(一九九〇-九四)は、一種の民族紛争で、ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が互いに異民族を排除する「民族浄化(ルビ:ジェノサイド)」が繰り広げられた。紛争後、ボスニア・ヘルツェゴビナは、二つの政体からなる国となったが、政治的にはボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が主流をなし、ナジフたちのようなロマや、ユダヤ人は、国勢調査で「その他」と分類される。そうした「その他」の少数民族は、社会の周縁に置かれ、さまざまな差別に晒される。
たとえば、ナジフは兵士として民族間の戦いに四年間参加したのに、恩給も生活保護も子供手当ももらえない有様だ。旧ユーゴスラビア時代に充実していた医療や社会保障、教育も資本主義市場経済の導入と共に不十分になる。
妻セナダは、三人目の子を身ごもっているが、あるとき腹痛を覚える。夫に連れられて、遠い都市の大病院に診察を受けにいく。その病院で流産との診断がくだされるが、とりあえずの応急処置しかしてもらえず、紹介状を渡される。そこで、二人は別の産婦人科病院へ行くが、その病院では掻爬手術を断られる。
セナダは、少数民族のロマだから手術を拒絶されたのではない。「保険」に入っていかなかったから、死ぬかもしれぬ病態でも手術をしてもらえなかったのだ。看護師は、保険証がなければ、九八〇マルク(約六万五千円)かかると夫に告げる。だが、彼にそんな金があるはずがない。解体屋が車一台つぶしても、一五三マルク(約一万円)にしかならなかったのだから、二人にとって、それがとてつもなく法外な額だということが分かる。それでも、夫は諦めずに、分割にしてほしい、と頼む。
夫婦は再同じ病院を訪れるが、担当医は、院長の意向に背くことはできない。自分も雇われている身だからと言い、ナジフの頼みを断る。このとき、病院は営利目的の会社でしかなく、その資本主義システムの末端で働く看護師や医者は、単なる駒でしかない。その図式は料金の支払いが滞納したという理由で、ナジフの家の電気を止める電力会社にも言える。末端で働く人々は、会社の命令で仕事をするだけだ。
この映画は、実話に基づいて、本人を登場させて、監督自らがハンドカメラで撮った「ドキュドラマ」。素人であるナジフの落ち着いた演技には、ベルリン国際映画祭で「主演男優賞」が与えられているが、それ以上に、この作品が単なる実録もので終わっていないのは、一見物語とは無関係に思える「都市部」の火力発電所の映像に、象徴的な意味を帯びさせることに成功しているからではないだろうか。
ナジフたちは、山奥のロマの村から遠くの都市の病院に出向いては、拒絶されて家路に就く。その際に、カメラは都市近郊の発電所を捕らえる。昼となく夜となく、不気味に煙を吐いている。映画の中で四度も映し出される発電所は、社会の中では経済発展のシンボル、映画の中ではセナダの手術を拒む資本主義の都市の象徴となっている。一方、ナジフは粉雪吹くなか、山奥の集落のはずれにある崖地のゴミ捨て場に出向いて、自転車の車輪や金網など、鉄くずを黙々と拾う。ほんのわずかの金にしかならないことを知りながら。
このような資本主義システムにおける、鉄くず拾い(非生産性)と火力発電所(生産性)の比較映像によって、この映画は、周縁からのメッセージを私たちに伝える。「生産性」だけを追い求めることは、かえって人間を殺すのだというメッセージを。
(『すばる』2014年1月号、334−335ページに、若干手を加えました。)