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映画評 スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

2019年09月10日 | 映画

インディアンになった騎兵隊の兵士たち 
スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

越川芳明

十九世紀末のアメリカ西部の旅を描くロード・ムービーだ。

この時代設定には、意味がある。合衆国国勢調査局によれば、フロンティア(辺境)とは、一平方マイルにつき人口が二人以上六人以下の地域をいい、その地域を結んだ南北の線を「フロンティア・ライン」と呼ぶが、一八九〇年の国勢調査で、フロンティア・ラインの消滅が明らかになったからだ。一八三〇年の「強制移住法」をはじめとして、アメリカ政府がインディアンの土地の収奪をおこなってきたのがその理由である。この時点で、この大陸からインディアンが自由に移動できる土地はなくなったことを意味する。

主人公は騎兵隊大尉ジョー・ブロッカーだ。かれはニューメキシコから、コロラド、ワイオミングを経て、カナダと国境を接する北のモンタナまで約千五百キロの大移動をすることになる。

ブロッカー大尉は、「ウーンデッド・ニーの虐殺」にかかわった経歴をもつらしい。その虐殺事件とは、一八九〇年の年末に、サウスダコタ州の辺境ウーンデッド・ニーでおこった。合衆国第七騎兵隊がミネコンジュー族の長ビッグ・フットや、そこに身を寄せていたスー族の者(ほとんどが子供や老人、そして非武装の男女だった)に対して民族浄化をおこなったのだ。四百人ほどいた中でインディアンの戦士は、百人足らずだったという。

そんな筋金いりの「インディアン・ヘイター」である大尉が、上官からとうてい受け入れがたいようなミッションを与えられる。長年、捕虜になっているシャイアン族の長とその家族を故郷に送り届けるよう、命じられるのだ。銃の名手であり、荒野の地理に通じていて、部族語も流暢に話せる点が起用の理由だった。

ところで、映画が始まる前に、あるイギリス作家の言葉が引用されている。“The essential American soul is hard, isolate, stoic, and a killer. It has never yet melted.”(本質的なアメリカの魂は硬直して、孤立して、禁欲的で、殺し屋である。それは未だに硬直したままだ)。一九二〇年代に二年ほどニューメキシコのタオスに移り住んだD・H・ロレンスだ。ロレンスは当地で『アメリカ古典文学研究』という独自の文学論を上梓し、ジェイムズ・フェニモア・クーパーの、無学だが、インディアンさながらに大自然で生きる知恵をもつ白人猟師ナッティー・バンポーをめぐる、植民地時代から建国時代にかけての年代記(五部作の「革脚絆物語」シリーズ)を高く評価している。

またケビン・コスナーが監督・主演した画期的な西部劇『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』(一九九〇年)は、南北戦争時代の西部を舞台にした、北軍の中尉ジョン・ダンバーが「失われる前に辺境を見ておきたい」と、サウスダコタの砦へと赴任する物語だ。荒れ果てた砦で自給自足の生活を始めるが、近隣のスー族とのつき合いなかで、「シュンカマニトゥタンカ・オブワチ(狼と踊る男)」という名前をもらうまでにインディアンの心をつかむ。

本作のジョー大尉の造型に、ナッティー・バンポーやジョン・ダンバーといった、荒野に生きる白人という、神話的なヒーローが関与しているのはまちがいない。というのも、この大尉の場合も、旅の最後には、シャイアン族の長の埋葬をめぐって、部族の儀式を尊重するまでに、精神的な覚醒がもたらされるからだ。

 また、十四歳のときから軍隊に入ったというメッツ曹長は、これまで二十年もインディアン討伐にかかわり、「動くものは何でも殺した。男も女も、子供も」と、部下に述懐する。だが、かれもまたコマンチ族の兵士の襲撃から、シャイアン族が守ってくれた事件をきっかけに、大きく内面の変化を見せる。かれは「シャイアン族のかれらにも、殺す権利はある」と、クロッカー大尉にいう。シャイアン族の長には、部族語で「インディアンの扱いをめぐっては、自分たちがまちがっていた」と、謝罪すらする。

先コロンブス期には数百万人はいたと推測されるインディアンも、一八九〇年代には二、三十万人ぐらいに激減していた。白人によるジェノサイドや、外から持ち込まれた伝染病の蔓延などが原因である。それに伴い、三百はあったといわれる部族語も、いまでは二十まで減少しているという。十九世紀末から連邦政府が「同化政策」を推進し、インディアンの子供たちにキリスト教と英語を強制したからだ。

そうした負の歴史を振り返り、白人がインディアンの部族語に敬意を払うハリウッド映画が出てきたことは、文化の多様性を声高に否定するトランプ政権下のアメリカにあって、大変意味あることだ。

ただし、この映画は白人の視点で描かれており、ここが到達点ではないだろう。インディアンの視点で、インディアンの部族語で作られる次世代の映画が期待される。

実は、そうした試みはすでに文学の世界では始まっており、余田真也によれば、部族語と英語のバイリンガルの作家が登場しているという。英語にメスクワキ語を交ぜた詩を書くレイ・ヤング・ベアという作家をとりあげて、余田はこう述べる。「高度な言語意識を武器に、複数の視点や多様な声で作品の輪郭を曖昧にし、主流言語(英語)の安定を脅かし、紋切型とはまるで違う先住民の姿を浮かびあがらせる」(「アメリカ先住民の文学」阿部珠理編『アメリカ先住民を知るための62章』明石書店」289-293)と。

(初出『すばる』2019年10月号、340−341頁)