食をモチーフにした映画で、あまり期待しないで、見に行ったが、それがうれしい期待外れで、語りの手法も斬新で、まったく飽きずに最後まで見てしまったのでした。 goo.gl/48v0d
心を解放する食事、心を閉ざす食事
監督/ホルヘ・コイラ『朝食、昼食、そして夕食』
越川芳明
石造りの古く重厚な建物がつづく狭い道路。地元の人々と、はるばる遠くからやってきた観光客が入りまじるレストラン。この街にスーパーマーケットは似合わず、昔ながらの肉屋とかパン屋とか魚屋とかが軒を並べる商店街が生きている。ここは、ヨーロッパの人々から「地の果て」と言われるイベリア半島の北西部、ガリシア地方のサンティアゴ・デ・コンポステーラ。
スペインに属するが、ケルト文化が古層に眠っており、カスティーリャ(スペイン)語と微妙にちがうガリシア語も存在して、独特の世界観や宗教観を培ってきた。たとえば、街はバチカンやエルサレムと並んで、多くの巡礼者たちが訪れるカトリック教会の聖地でもある。
パリ郊外からこの街にいたる二人の男の旅を扱ったルイス・ブニュエルの『銀河』(一九六八年)が、中世から現代にいたる時間軸を自由に行き来して巡礼の旅を語ったのに対して、この信仰の町を舞台にした本作の「語り」の手法も、斬新だ。
友人同士、いとこ同士、恋人同士、老夫婦、ゲイカップル、独身男、夫婦と息子、姉妹など、いろいろな組み合わせの、二十名以上の人々が登場する。主人公は、かれら一人ひとりだ。各自が視点人物になり、ある日の三度の食事が、ほとんど同時並行で展開する。食事や料理が人生のメタファーになっている。それはときに甘かったり、ほろ苦かったり、複雑かつ精妙だったりする……。
第一部から第三部まで三つのパート(朝食、昼食、夕食)に分かれている。原題は、「十八の食事/料理」であり、三つのパートにはそれぞれ六つずつ、合計十八の食事のシーンが組み込まれている。三つのパートすべてに登場するのは、中年男フランとその友人トゥトと、専業主婦のソル、人気俳優のヴラディミル、老夫婦だ。
フランとトゥトの場合、朝からレストランでエビの唐揚げをつまみにしながら、ワインを飲んで談笑している。その後、いとこの俳優の家に遊びにいって、俳優がある女性のために用意した朝食を平らげたり、友達の画家のアトリエに行って宅配ピザを頼んだり、夜にはいとこの誕生パーティに出かけたりする。カロリーに気をつけろ、と互いに言いながら、好きなものを食べて、煙草や酒もやる。悩みはあるかもしれないが、二人でいるかぎり、料理はかれらの心を解放する。
一方、専業主婦のソルの場合は、その名(「太陽」の意味だ)に違わず明るい人生かと言うと、そうではない。六歳の息子や夫を送りだしたあとは、家でじっとしているのに耐えられない。朝からビールを飲み始めて、夫に注意される。同じ朝酒でも、フランやトゥトの場合とは意味が違う。楽しむためではなく、逃避のための酒だから。結婚生活に深い悩みを抱えているのは明らかだ。残ったサラダにスープをぶちまける行為に表れているように、彼女の料理や食事は心を閉ざす役割しか果たさない。
俳優のヴラディミルの場合は、朝早く自ら街に買い出しにいき、お目当ての女性ラウラのために甲斐甲斐しく朝食の準備をする。しかし、女性はやってこない。昼食も用意するが、やはり女性はやってこない。それらの料理は、飼い犬や家に押しかけてきたいとこに食べられる。かれは懲りずに夕食も作り、女性に待っているよと携帯メッセージを遺す。だが、いとこに熱心に誘われて、誕生パーティへ出かけてしまう。しばらくして、ドアのチャイムが鳴る。せっかく女性が訪ねてきたかもしれないのに、かれはそれを知らない。かれの料理には、人生の皮肉が表現されている。
老夫婦の場合は、朝、昼、晩と、妻が差しだすつましい料理を、夫は薄暗い台所で黙々と食べる。だが、その姿は二人のあいだの深い信頼感を伺わせる。こういう心を解放する食事を何十年もしてきたのだろう。結婚生活がぐらついているソル夫婦とは対照的だ。
とはいえ、よく考えてみれば、食事や料理を人生に喩えるのはありふれている。「浮気は人生のスパイス」とか、「酸いも甘いも噛みわけて」とか、言ったりするではないか。
果たして、複数の視点人物を交錯させる語りの手法を取り去ってみても、それでもなおこの映画は面白いのだろうか?
それが面白いのである。というのも、食事がこの映画のメインとなる味付けだとすれば、隠し味にも丁寧な工夫がなされているからだ。主旋律だけだと飽きてしまうが、それに副旋律を加えることで音が複雑に絡み合い、和音を生じる音楽のように。
具体的に言うと、副旋律となっているのは煙草と携帯電話である。とりわけ、食事のシーンに絡めて携帯電話が非常に効果的に使われているのは見逃せない。最も印象深いのは、ゲイであることを兄に隠しているビクトルが恋人セルヒオと住む家で、兄を招いて食事をする際に、セルヒオの携帯電話から「不謹慎な」着信音が鳴ってしまうシーンだ。着信音に「おい、おかま。はやく掘れ」と吹き込んであるので、兄にゲイであると勘づかれてしまう。おかげで、兄弟はほろ苦い口論を経て、和解へと向かう。携帯電話はただのコミュニケーションの道具ではなく、この映画では、食事や料理と同様、人間の無意識の欲求や人生哲学を表現するツールとなっている。
六〇年代のゲイへの抑圧を扱ったキューバ映画『苺とチョコレート』(一九九四年)からの「引用」も差し込まれていて、これはもちろんアレア監督へのオマージュだが、それとともに、これは父親がガリシア地方からの移民であるカストロ、キューバで共産主義という新しい「信仰」を打ち立てたカストロへの皮肉なオマージュかもしれない。
4月24日より、新宿K's シネマほかで上映。
(『すばる』2013年4月号)
米中流家族30年の物語 ジョナサン・フランゼン『フリーダム』
越川芳明
フランゼンは、米国中西部の家族を描くのを得意にしているが、この小説も、中西部ミネソタ州に生まれた一家に属する人々の成長物語だ。
時代はレーガンの八十年代から、ブッシュ・ジュニアが二期目の当選をする二〇〇四年を経て、オバマが大統領に就任するあたりまでの約三十年間にわたる。
たとえば、やがて一家の長になるウォルターは、成績優秀の苦学生で、地元ミネソタの大学で法律を学び、リベラル派の弁護士になる。環境問題や人口問題に関心を持ち、規制を緩めるレーガン政権には反対だ。その一方、新しい世紀に入ると、図らずしてテキサスのネオコンの片棒を担ぐような仕事に就く。
息子ジョーイは、長じて東部のエリート大学に進み、父が毛嫌いする共和党のシンパになり、ブッシュ・ジュニアのはじめたイラク戦争の後始末で儲けようとする怪しい下請け会社に関わり合いを持つ。
興味深いのは、書名にもなっている「自由」だ。ヨーロッパでのしがらみを断ち切って、新大陸で国家を建設した歴史を持つ米国人は、「自由」という理念に憧れ、それに「不自由」なまでに縛られる。富裕層は競争の「自由」を訴え、それが人間の「幸福」であると考え、時の政権が「自由」政策を取ることを望むが、その政策によって不幸になる人が出ても、それは無視する。
そんな保守主義時代に、ウォルターの家族はそれぞれ自分の道を「自由」に選ぶ。だが、互いに勝手に「自由」を求めたときに諍いが起こり、やがて夫婦の心は離れ、家族はばらばらになる。
この小説の真骨頂は、家族内の諍いを戦争に喩えながら、背景にある大きな「戦争」に読者の想像力を向けさせるところにある。
「戦争」がやがて終わるように、家族にも和解が訪れる。日本語訳は、そんな家族の愛憎の機微をそれぞれの視点から巧みに訳し分けており、読んでいて楽しい。
(『北海道新聞』2013年3月24日朝刊)