越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

カリブの黒人文化をめぐるシンポジウム

2009年11月25日 | 小説
ちょっと先のことになりますが、多民族研究学会に招待されて、シンポジウムを開くことになりました。
内容は、次の通りです。カリブ海の非英語圏の黒人文化をとくに信仰に光を当てて、画像/映像つきで語り合います。
(写真は、佐藤文則氏による「ハイチのヴードゥ教のお寺」 著書『ダンシングヴードゥ』より)

日時:2009年12月19日(土)午後3時05分~5時半
   
場所:青山学院女子短期大学 N202教室
(東京都渋谷区渋谷4-4-25、http://www.luce.aoyama.ac.jp/access/map.html)

□シンポジウム
「カリブ海とアフリカをつなぐーー神霊、民間伝承、そして文学」

越川芳明(兼司会:明治大学) キューバ映画にみる奴隷制とサンテリア
工藤多香子(慶応義塾大学)「黒い」キューバを追い求めて――リディア・カブレーラと黒人(ネグロ)の 信仰
佐藤文則(フォトジャーナリスト) スヴェナンスの村からーーハイチの生活とヴードゥ教

カリブ海域の黒人の生活と芸術を論じる。とりわけ、ハイチのヴードゥー教やキューバのサンテリアなど、カリブ海域の黒人奴隷たちが伝えてきた信仰を論点 の中心に据えて、それが生活や民話や芸術(文学や映画)の中でどのような影響 を与えてきたのかを検証する。


ハシムラ東郷の劇

2009年11月22日 | 小説
少し前に紹介した宇沢美子の労作『ハシムラ東郷』が劇になったようです。
坂手洋二作/演出で、「燐光群」が演じます。
20世紀前半、アメリカで人気を博したニセ日系作家による新聞コラム「ハシムラ東郷」です。
コラムに添えられたイラストが、アメリカにおける日本人のイメージの形成に寄与したといわれています。

来週、高円寺の「座高円寺」に見に行きます。
24日には、坂出氏と宇沢氏のトークがあるようです。


書評 中村文則『掏摸(スリ)』 

2009年11月04日 | 小説
「父親」のいない「犯罪小説」
ーー中村文則『掏摸(スリ)』(河出書房新社、2009年11月)

越川芳明

 犯罪者の視点から現代日本を見るという、実に小説家ならではの倒錯的な試みに挑戦した作品だ。

 ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』が、高利貸しの老女殺しを行なう男を主人公にして、貧富の格差の激しいロシア社会を見据えたように。

 語り手の「僕」は中年の掏摸(スリ)だ。裕福そうな人間に狙いをつけて、電車の中や雑踏で財布を抜き取るのを生業とする。
 
 そんな「僕」は、子供の頃から塔を幻視してきた。
 
 それは彼方にありながらも、絶えず「僕」を見張っている。

「どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった」(144頁)

 「僕」にとって、塔とは何なのか。

 一人称の語り手が読者に隠している情報もあるはずで、家族についてまったく言及しないことから推測するに、もしかすると、「僕」の父親のことかもしれない。

 とはいえ、「僕」にとって、象徴としての抑圧的な父親は別に存在する。

 チェスのコマのように他人の運命を弄ぶのが趣味という、木崎という名の不気味な男だ。

 この男は、スリのようなせこい犯罪はせこい人間のやることだと言う。

 闇社会に生きる彼は大物の政治家や投資家を狙うだけでなく、実行犯として参加させる「僕」やその仲間を犯行後、虫けらみたいに消すことも躊躇しない。

 木崎のように絶大な権力を有する者が、塔によって象徴される屹立するペニス(男性中心的)だとすれば、「僕」がスリのターゲットとするポケットや鞄は、いわばヴァギナや子宮の象徴である。

 母親や妻によって示される女性的価値が、家族のいない「僕」の前には、四年前に自殺してしまった人妻の佐江子や、スーパーで万引きする女性の姿をとって現われるが、彼女らはともに男性の犠牲となっている。

 「僕」は、塔=木崎=権力者に圧倒され、追いつめられながら、ポケット=万引きの女=スリといった「せこい」が、女性的な行為/価値観によって救われる。

 「僕」はひょんなことから「父親」となる。

 万引きする女の息子に慕われて、木崎とは違う、抑圧しない女性的な父親の役割を果たす。

 万引きの手口を少年に教える一方、万引きはやめるように諭し、母親の男の暴力に悩む少年を守るため、施設に入れようとする。

 「犯罪小説」という形を取りながら、新しい父親のあり方を示唆した「家族小説」として読めるところが面白い。

(『すばる』2009年12月号、314頁)

島田雅彦氏絶賛、エリクソンの新作(翻訳)『エクスタシーの湖』

2009年11月02日 | 小説
手前味噌で恐縮ですが、スティーヴ・エリクソンの新作(拙訳)がまもなく刊行されます。

『エクスタシーの湖』(筑摩書房)です。エクスタシーから何を想像するかは、各自まちまちでしょうが、すぐにシャーマニズムの神がかりや憑依を連想する人はするどいです。

 小説家の島田雅彦氏が帯び文を寄せてくださいました。

 「パラノイア? いやシャーマンだ。他人の夢を奪う現代に夢見る力の点滴を行うエリクソンは21世紀のカウンターカルチャーの導師だ。」

 でも、この本はシャーマニズムに関する本ではありません。小説です。SFとミステリーとSMとがごった煮のごとく、駆使されまくります。過去の歴史と未来を取り込みながら、「アメリカとは何か?」と問うジャンル横断型の純文学です。形式が斬新で、二つの語りが同時併行します。最後に、そられが内容的にも語り形式の上でも見事にドッキングするのですが、どのようにドッキングさせるか、訳者冥利につきます。

以下の文章は、「訳者あとがき」の一部です。

巫女(ふじょ)の予言
 前作『真夜中に海がやってきた』では、主人公のクリスティンは、ダブンホール島のチャイナタウンで叔父によって育てられた「孤児」だった。

 十七世紀以降、親としてのヨーロッパから独立を果たし、新大陸で独自のアイデンティティを確立してきたアメリカ合衆国を「孤児」のメタファーで捉えるのはかならずしも突飛ではない。

 夢を見ない少女時代のクリスティンは、ホテルに泊まる男たちの寝込みを襲ってレイプを行なって、かれらの夢を奪おうとする。それは他者のヴィジョンの強奪という意味で、さしずめアメリカ史における先住民の迫害と虐殺を意味するのだろうか。
 
 さらに、本作ではクリスティンの名前の多様さが注目に値する。クリスティンは、息子を失って五年後にはルル・ブルーと称して別人の人生を歩んでいる。

 さらに、<赤いドレスの狂女>として野次馬たち興味の対象になるかと思えば、<聖クリスティン>として、シャトーXを根城に、怪しいカルト宗教をおこし、<ルル女王様>、<湖上の神託女王>、<ゼットナイトの女王>などとも呼ばれて、経血による占いやSM的行為を繰りひろげる。
 
 ルルになったクリスティンは、神がかり的なエクスタシー(脱魂)の技術によって、巫女(ふじょ)のごとくあの世とこの世の間を行き来する。
 
 小説はそうしたシャーマニズム的様相を帯びる一方、クリスティン=ルルの無意識(子どもを失う恐怖)が米国に民族的・階級的な対立から来る内乱や戦争を引き起こすかもしれないと示唆している。

 つまり、この小説自体が予言者としての巫女の機能を果たしている。
 
 その点で、興味深いのは小説の近未来的設定であり、アメリカ合衆国の各地で武装蜂起があり、内戦が勃発している雰囲気が仄(ほの)めかされていることだ。たとえば、2017(2016)年には、中国人ワンがカリフォルニアの軍事基地で特権的な地位にあり、湖上に人知れず流れてくる音楽が敵によるどのようなメッセージなのか、識者たちと検討しているシーンがある。
 
 2029年には、ブロンテとルルの二人が汽車に乗ってシカゴへ向かうシーンが出てくるが、アルバカーキより西に300キロの北アリゾナの先住民の村プエブロで、二人の旅は頓挫してしまう。それより先は戦時非常事態にあるためだ。
 
 米国における民族的対立のメタファーとして示されるのは、プエブロの隠れた歴史として開示される、スペイン系(白人)大農園主の末裔の男性による先住民女性に産ませた子どもの放棄(それは、ナバホの少女バルブラシタの出産でも繰り返される)である。

 そうした裏切り行為は先住民の虐殺というアメリカ史の禍根を象徴し、内乱はそうした行為への反逆といえる。
 
 そうした禍根の犠牲者で自殺したバルブラシタの幼子を引き取るクリスティンの行為は、負の歴史を引き受けるものであり、贖罪の行為と見なすことができよう。(以下省略)