越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 今福龍太『群島ー世界論』

2009年02月26日 | 小説
世界の死者たちの声をつなぐ。
今福龍太『群島–世界論』(岩波書店、2008年)
越川芳明

 原稿用紙にして千枚を超える、おそらく今福龍太の代表作になるはずの大著だ。

 だけど、そう言いきってしまうことは、著者の企図に反するかもしれない。

 なぜなら、本書で、今福はシャーマン(語り部)のごとく、おびただしい数の死者(詩人、映像作家、思想家、ミュージシャン)の霊を呼び出し、その声を引き出しているからだ。

 今福が死者の声に拘泥するのは訳がある。

 一つには、「自分たちが生きていると感じるためにこそ、私たちは死者を必要とする」(ルーマニアからの亡命詩人コドレスク)からである。
 
 そして、奴隷船から大西洋やカリブの海に投げ捨てられた無数の黒人奴隷をはじめとして、「歴史」から見捨てられた人々の「救われなかった舌=ことば」をかり出し、それらを世界規模で繋ぎあわせることによって、従来のヨーロッパ中心の、「他者」を疎外する世界像を反転させられると信じるからだ。

 本書は全二十章からなるが、それぞれの章が海に浮かぶ群島のごとく、独立していながら隣り合う章とゆるやかにつながる。

 整然と書かれた「歴史」とは対極にあり、国家が推奨する国家語や国語に対して、ダイアレクト(方言)やクレオール語で語られたり書かれたりしたことばの響きや霊気に重きを置く。

 ウラ(心、浦、裏)や、シマ(島、集落、縞)など、ことばの類推(アナロジー)に誘われて、北米ミシシッピデルタ、カリブ海、アイルランド、奄美、済州島、ブラジル、ガイアナなど、従来の世界地図の上に、コロンブスの航海に始まる植民地主義、その近現代版ともいうべき資本主義的国家主義の「征服」と「収奪」の犠牲になった者たちの抵抗と連帯の糸線を縦横無尽に引きながら、群島の縞模様を織りなす。

 特質すべきは、新しい世界ヴィジョンのために採用されたユニークな叙述法である。

 それは、例えば、この地球の「本質」は「水」にあると捉える思考に導かれて、十九世紀北米のソローや古代ギリシャの哲学者タレース、折口信夫、島尾敏雄、ダーウィンなどを「島」と見立てて渡り歩くような、通常はあり得ない空間錯誤(アナロキスム)と時間錯誤(アナクロニスム)を意図的に採用する「誤読」の方法論だ。

 本書は、近年に刊行された人文学・思想系の書物でこれを凌ぐものはないと断言できるほど重要な作品であり、私は大いなる知的な刺激を受け、かつ読書の興奮を覚えた。

(『エスクァイア』2009年4月号31頁を改訂)


書評 半沢隆実『銃に恋して 武装するアメリカ市民』

2009年02月21日 | 小説
なぜアメリカ市民は銃規制に積極的にならないのか?
半沢隆実『銃に恋して 武装するアメリカ市民』(集英社新書、2009年)
越川芳明

 二〇〇七年のバージニア工科大学での乱射事件など、米国では銃犯罪が頻発しながら、銃規制の運動はなかなか盛りあがらない。

 そんな武器依存症のアメリカの実態に迫った本書が採用するのは、映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でM・ムーアが採った銃=悪といった単純な図式ではなく、現場主義者のクールな文体だ。

 イラク戦争やロス暴動も取材したことがある新聞記者の著書だけに、統計的な数字とインタビュー取材に特徴がある。

 著者自らロサンジェルスの射撃訓練場で銃を撃ってみたりさえする。
 
 数多く挙げられた統計の中で驚かされるのは、アメリカ市民が二億二千三百丁の銃器を所持しているという事実である。

 それは国民の七五パーセントが銃を持っていることを意味する。

 さらに、銃犯罪による経済的損失を計算すれば、年間で一千億~一千二百億ドルになり、それは二〇〇五年夏にルイジアナ州などを襲ったハリケーン・カトリーナの被害額に匹敵するという。
 
 銃規制に反対する団体に全米ライフル協会(NRA)と米銃所有者協会(GOA)がある。

 著者は彼ら銃愛好者への取材からある「理屈」を引き出してくる。

 彼らが「革命権」なるものを信じている、と。

 銃は圧政(たとえば、かつて自分たちの独立を阻もうとしたイギリス政府)に立ち向かう道具であるという考えだ。

 そこでは、銃は民主主義のシンボルともなり、銃で武装することは神が与えてくださった基本的人権とさえなる。

 しかし、十九世紀末以来、米国政府が中南米の農民革命を軍事力で潰してきたのは歴史的事実であり、銃愛好者たちがそれに異論を唱えたことはない。

 著者が指摘するように、最大のアイロニーは、テロリストに射撃訓練場をつかう機会を与えたり武器を流出させたりして、現代アメリカははからずも「テロの支援国家」になってしまっているということだ。

 銃による犯罪が絶えることがないのに、なぜアメリカ市民は銃規制に積極的にならないのか? 

 本書は、オバマ大統領の暗殺計画説が巷に燻るキナ臭いアメリカ社会の真相を知る絶好の書だ。

(『青春と読書』(集英社)2009年3月号、74頁)


国境の南、メキシコのボーダーを歩く

2009年02月15日 | 音楽、踊り、祭り
すべてを欲しがるものは、すべてを失う
ーー国境の南、メキシコのボーダーを歩く 
越川芳明

 テキサス州エル・パソから国境のサンタフェ橋を歩いて渡り、メキシコのフアレス市に入ると、白塗りのシボレーが待っていた。

 テンガロンハットを被った中年の運転手が車に乗っていたが、まるで非情なハンターみたいにめざとく私の姿を認めると、外に出てきて、左手でこっちへ来いと合図を送ってきた。

 なんだか私は地理の不案内のこの町で、ハンターに言いなりになる猟犬みたいな気持ちになった。

 フェデリコ・デ・ラ・ベガ氏はフアレスの大富豪だということだったが、私には面識がなかった。

 「ハポネス(日本人)?」と、私が後部座席に乗り込むと、ベガ氏のお抱え運転手が訊いた。

 「そう」

 「フアレスは初めてかい? なんでまた?」

 「まあ、いろいろと。『ボーダータウン』(1)という映画、見ましたか? この町の連続女性殺人事件を扱ったものだけど」

 運転手はなぜか、しばらく無言のままだった。「その映画、アメリカじゃ公開されてないらしいよ」

 「当局から圧力がかかったってこと?」

 「そんなこと、わかるものか」運転手は急に怒ったようにそっけなくいうと、黙ってしまった。

 この運転手は、被害者の女性の側に立っているのか、それともモラルのない娘たちが夜遊びして犯罪に巻き込まれただけだとうそぶく警察署長や地元政治家たちの側に立っているのか。

 シボレーはフアレス市の東部のほうへ向かっていた。

 外の風景も、いつの間にか商店やレストランのはいったビルなどが立ち並ぶダウンタウンから、落ち着いた住宅街へと変化していた。

 家という家は防犯のために、まるで動物園の檻のような鉄格子を張り巡らしていた。

 フアレスは、サンディエゴの対岸の町ティファナと並ぶ、巨大なメキシカンマフィアの暗躍する町だ。

 フェデリコ・デ・ラ・ベガ氏の屋敷の前に着くと、運転手はリモコンを取り出して、扉をあけた。

 まるで刑務所みたいに高い白壁に取り囲まれて、中は建物の屋根さえも、まったく見えない。

 扉も壁と同じ白ぬりの塀で、どこからどこまで扉なのか、部外者には分からない。
 
 八〇歳に手が届くかと思えるベガ氏は、居間で私を待っていた。

 喉をうるおす冷たい水のペットボトルを給仕に持ってこさせると、裏の庭を案内しようといった。

 咽頭癌を患っているために首に包帯を巻いて、声が聞き取りにくかった。

 若い頃、米国に留学して、マサチューセッツ工科大学で化学を専攻したといった。

 英語が堪能だった。
 
 大きな開きガラス窓を抜けて、居間の外に出ると、石のタイルを敷き詰めた二十五メートルプール大のベランダがあり、そのまわりをアリゾナ砂漠で見かける、人間が両手を広げたような巨大サグアロ・サボテンが植わっていた。

 テキーラの原料となるアガベ(竜舌蘭)や、雨期に一度だけピンクや黄色など、鮮やかな花を咲かせるウチワサボテンなども品よく配置されていた。

 私とベガ氏は、ベランダから石段を降りて、芝生の植わった広大な庭園の細道を歩いた。

 道の脇の大石の上を緑色のトカゲが駆けおりて、石の割れ目に逃げ込んだ。

 空を見上げると、首から頭部にかけての部分が白色の禿鷲が大きく黒々とした両翼を広げて悠然と旋回していた。
 
 「立派なサボテンですね」
 
 「ありがとう。砂地のどこかにガラガラ蛇にいて、噛まれた使用人もいるよ」ベガ氏はこともなげにいった。
 
 「もうちょっと奥にいってみよう」
 
 そういうと、ベガ氏は私を屋敷から一番遠い、高いチワワ松に囲まれた、薄暗い雑草の生い茂った一角に案内した。

 私はまるで、死者の霊が宿っているような不気味な雰囲気を感じた。

 スペイン系の大農場主だったに違いないベガ氏の先祖が、謀反を起こした使用人をここで処刑したのだろうか。

 「ここはサッカーの練習場だった。十年前までプロチームを持ってたんだ」と、ベガ氏は、まるでプロの料理人が上客に秘密のレシピを教えるみたいに、こっそり小声でいった。

 それから昔、ゴールポストがあったはずの、奥まった雑草に覆われたあたりを指差した。

 その向こうの松林の中で、キジが甲高く啼いた。
 
 「サッカーチームを?」
 
 「ああ、すでに手放してしまったがね」

  私はしばらく口が利けなかった。
 
 「メキシコの諺を教えてあげましょう。El que todo lo quiere todo lo pierde.(すべてを欲しがる者はすべてを失う)。

 君は『ペドロ・パラモ』(2)という有名な小説を知っているはずだね。

 貪欲に土地や富を手にいれまくって、すべてを失った男の話だよ」
 
 「ええ。フアン・ルルフォの原作の『金の鶏』(3)という映画も見たことがあります」

 「メキシコ的な無常観とでもいえばいいのかな。 裸一貫で築きあげた富も権力も最後にはすべてゼロになってしまう」

 「『黄金』(4)という映画も、タンピコのあたりの山奥で砂金を探り当てたアメリカ人が、自分たちの強欲のために最後は無一文になってしまう話でしたね」

 ベガ氏の屋敷を後にして、数カ月後、私はフアレス市の女性殺人をめぐる原稿を書く必要があって、それまでに何度も見たロールデス・ポルティージョ監督のドキュメンタリー作品『セニョリタ・エクトラビアダ(消えた少女)』(二〇〇二年)を見直して驚いた。

 あのベガ氏のお抱え運転手が、殺された女性の父親の一人としてインタビューを受けていたからだ。


(1)グレゴリー・ナヴァ監督、ジェニファー・ロペス主演。二〇〇八年。
(2)メキシコ二〇世紀最大の作家の代表作。
(3)ロベルト・ガバルドン監督、一九六四年。
(4)ジョン・ヒューストン監督、一九四八年。

(『スタジオ・ボイス』2009年3月号ラテンアメリカ特集号 63頁に若干手を加えました)

書評 清水良典『文学の未来』

2009年02月06日 | 小説
文学の未来は外部からやってくる
清水良典『文学の未来』(風媒社、2008年) 

越川芳明

 冒頭に、純粋文章(それを短くした形で純文章)という語が出てくる。「純粋」とか「純」なんて、右翼っぽいなと思うかもしれないが、これは反語である。

 というのも、「純文章」とは、「雑文」と等価といえる概念だから。「雑文」より上にある小説――そんな文壇の常識を覆すという大胆な意図があり、誤解を避けて「雑文主義」といっていないだけだ。著者の心意気は在野精神にある。なぜなら・・・

 「純文章」とは、著者によれば、(一)既成のジャンルに属さない。(二)名づけられない種類の「文」をカテゴライズする名称である。(三)ジャンル横断的な文章を評価する方法である、からだ。

 たとえば、著者はともすれば批評家から見過ごされがちな作家を高く評価している。谷崎松子、幸田文、武田花、島尾伸三、青木奈緒ら、「文学者の縁者」の「雑記」や「作文」を取りあげ、かれらの文章が「小説」や「随筆」といった既成のジャンルに収まりきらない野性の力を秘めているという。

 著者のいわんとするところは、誤解を恐れずに一言でいえば、日本の近現代文学自体も、そういった「純文章」の担い手たちによって形成されてきたということだ。

 正岡子規の「写生文」にしても、夏目漱石の『吾輩は猫である』にしても、当時としては小説とも随筆とも名づけられない「純文章」だったのであり、硯友社の尾崎紅葉の装飾的な文章への対抗として生まれてきた。

 二葉亭四迷をはじめ、泉鏡花にしろ永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、内田百﨤にしろ、前世代の慣習的な様式の外部に立ち、「異形」や「異物」と見える新文章の創出によって次世代の作家が登場してくるのが日本文学の伝統なのだ、と。
 
 その点は、有島武郎と同様、英語で書いたものを日本語に翻訳することでデビュー作『風の歌を聴け』の文体を創出したという村上春樹でも、「みすぼらしい」を「偉大な」と言い換えるなど、文章の一切を反語法で書き換えた『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎でも同じであり、さらには笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、小川洋子、柳美里ら現代作家にも当てはまる。
 
 著者は一世を風靡した『高校生のための文章読本』の編者の一人でもあった。本書でも、これ以上はない適切な例文を引き合いに出しながら、畳み掛けるように説得力をもって語りかけるが、その内容は挑発的だ。

 書店の「小説」という棚に置かれているもので、どれだけ「純文章」を実現しているものがあるだろうか、と。

 『すばる』2009年3月号