越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

山伏修行

2009年08月14日 | 音楽、踊り、祭り
友人のHさんが出羽三山の山伏修行(二泊三日)に行っていたらしいです。今月下旬に予定されている第二回目の案内をいただきましたが、その頃はキューバなので、来年の楽しみにします。朝4時から夜中の12時までびっしりと修行するようですが、Hさんは楽しかったといっていました。本当かな~?

Hさんから送っていただいた詳細は以下の通りです。
■主 催 出羽三山山伏修行体験星野塾
■期 日 (A日程)2009年8月7日(金)13:30集合~同9日(日)14:00~随時解散
(B日程)2009年8月21日(金)13:30集合~同23日(日)14:00~随時解散
■場 所 大聖坊・羽黒山・月山・湯殿山 (大聖坊へは前日入り・最終日の宿泊も可能です。
下記申し込み・問合せ先までご連絡ください)
■参加費 22,000円 (食費・宿泊費・保険料・消費税など全て込み。交通費別途。
参加費は現地にてお支払ください)
■先 達 星野文紘 山伏名 星野尚文
■申し込み・問合せ先 成瀬 正憲 山伏名 成瀬正彗
tel.090-1833-8508
mail.caracol4380@gmail.com
http://50000.in/dewa
■宿坊 大聖坊
address: 〒997-0211山形県鶴岡市羽黒町手向字手向99
tel/fax: 0235-62-2031
■持ち物 下記の持ち物を必ず持参ください。
・ 雨具(雨合羽、雨天時も合羽を着用して歩きます)
・ リュック(月山に登拝の時使用します)
・ 着替え(白い長そでのシャツ)
・ 女性は白いTシャツを二枚(水垢離のため)
・ 足のサイズが28.5センチ以上の方は、白いスニーカーを持参

ギジェルモ・アリアガ

2009年08月07日 | 映画
ギジェルモ・アリアガ
越川芳明

 淡い灰色のつなぎ服の右胸に、黒い数字が長々と並んでいる。ギジェルモ・アリアガは、囚人服を模したシャツを着ていた。頭は短く刈り込み、眼光は鋭く、身長も一八〇センチ近くある。喧嘩したくないタイプの男だ。だが、彼はで久しぶりにあった友人のように、気さくにインタビューに答えてくれた。

 アリアガは一九五八年、メキシコシティに生まれた。南のイスタパラパ地区の中流の家庭に生まれ育ち、父親は日本のブラザーミシンの代理店をしていたという。だから、小さいうちから日本人とも付き合いがあった。日本人のビジネスマンに、お土産で三色ボールペンや、ペンの中をのぞくと裸の女性の絵が見えるペンなどをもらったよ、と冗談まじりに打ち明ける。

 新人俳優の菊地凛子が聾唖の高校生を演じ話題を呼んだアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(二〇〇六)や、メキシコの新鋭俳優だったガエル・ガルシア・ベルナルの衝撃的なデビュー作『アモーレス・ペロス』(一九九九)をはじめとして、アリアガはそのユニークな脚本で独自な世界観を作りあげてきた。

 とりわけ、カンヌ映画祭でアリアガが脚本賞を獲得したトミー・リー・ジョーンズ監督の『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』(二〇〇五)は、米墨国境地帯を舞台にして、北米の物質中心主義を風刺する南(バリオ、メキシコ)の視点が盛り込まれた傑作だった。今秋公開される新作『あの日、欲望の大地で』は、そんなアリアガの初監督作品だ。

「この世界は専門化が進んで、どんどん隙間が少なくなってきている。能力があるのにそれを発揮する隙間がない、というのが現代社会特有の悲劇だが、私はそんな思いをしたくないんだ。作家だけでなく、ほかの仕事にも挑戦したかった。小さい頃になりたかった職業が四つあってね。プロのスポーツ選手、作家、映画監督、俳優。スポーツ選手にだけはなれなかったけど」

 サッカー、バスケットボール、ボクシングが得意だったらしい。選手になるのは今からでも遅くないのでは、と冗談まじりに訊くと、まるで母親に過剰に励まされた少年のように、苦笑しながら、「確かに未来は誰にもわからないね」と、答えた。

 El búfalo de la noche(『夜のバッファロー』)などの小説が世界各国で読まれている作家であり、脚本家であり、『あの日~~』で監督デビューも果たしたアリアガだが、どんな形であれ「人間の物語を語りたい」というのが、彼の一貫したモチベーションのようだ。
 
 「私は、人が生きる状況に取り憑かれている。美的なものよりも、倫理的なものを描きたい。人間の矛盾や複雑さを描きたい。人間の知性と獣性、美と醜の間の緊張感を語りたいんだ」
 
 好きな映画監督と影響を受けた作家について尋ねてみた。
 
 「監督では、まず黒澤明。『デルス・ウザーラ』は素晴らしい。コッポラも好きな監督だ。同時代の映画人もいる。クルド人のバフマン・ゴバディ(『亀も空を飛ぶ』)や、ドイツのトルコ系移民を描くファティ・アキン(『愛より強く』)も好きだ」

「作家では、シェイクスピア、フォークナー、スタンダール、トルストイ、ドストエフスキー、フアン・ルルフォ、大江健三郎、三島由紀夫……。みな人間の状況を書いている。作家の中には言語にこだわる者もいるが、私は人間の生にこだわる作家に惹かれる」
 
 名前の挙がったフアン・ルルフォは、脚本家として映画作りにも深くかかわった、二十世紀のメキシコを代表する作家だ。また彼の作品『金の鶏El gallo de oro』(一九六四)は、映画化されるに当たって、カルロス・フエンテスとガブリエル・ガルシア=マルケスが脚本にかかわっている。メキシコ的運命観に貫かれた名作だ。ルルフォの小説『ペドロ・パラモ』を映画にすることは考えたことはないですか、と訊いてみると──
 
 「それは今まで考えたことはないけれど、でも、私は知らないうちにルルフォにオマージュを捧げていたのかもしれない。『燃える平原The Burning Plain』(『あの日~』の原題)は、ルルフォの小説『燃える平原El llano en llamas』(一九五三)と響きあうから」
 
 『あの日、~』は、「時間」の処理がユニークな映画だ。小説では意識の流れを利用したフォークナーやジョイスなど、モダニズムの文学以降当たり前となった感のある「無意識の語り手法」も、こと映画となると、めずらしい。いまだに、過去/現在/未来へと線的につながる月並みな時間処理の中で、過去は過去としてフラッシュバックで語られることが多い。
 
 『あの日、~』には、三人の女性が登場する。妻子ある男性との恋に溺れるジーナ、母の不倫に憤るその娘マリアナ。マリアナは故郷を捨て、名前をシルビアと変えて、流行の最先端をゆくレストランでマネージャーをしているが、故郷で自分が犯した過ちに今も縛られている。消すことのできない記憶が、シルビアを異常な性行動に走らせるのだ。そこにシルビアの娘を名乗る少女、マリアが現れ……。
 
  映画では、三世代の女性が生きてきた時間は区分けされることなく、同時進行形とでもいうような渾然一体の流れとして扱われる。物理的な時間と、人間の心理を反映した内的時間があるとすると、アリアガは後者にとらわれている作家だ。
 
 「だから、私は時計を持たない(笑)。時計に左右される生活を送りたくないので。人間にとって、時間は均一ではない。十年間の経験を二分間で語れることもあれば、二分間の出来事を語るのに、十年間かかることも人生にはある。シルビアの場合、思いつきでやってしまった二分間の出来事が、他の人物たちに大きな影響を及ぼし、その後の人生を変えてしまうのだ」
 
  この映画は、もともと「四大元素」という仮題がついていたらしい。人類はこの宇宙で特別な存在ではなく,その一部にすぎないという思いが込められている。
 
 「自然の四つの元素――火と土と空気と水――は、映画を進める上での視覚的なメタファーとしてだけでなく、映画により詩的なものをもたらす。だから、ロケ地選びは非常に重要だった。ニュー・メキシコの砂漠を選ぶに当たっては、ロケハンのチームに車で走って砂煙の立たないようなところはダメだといっておいた。見つけるのに二、三週間かかり、会社側からは何を考えているんだ、と苦情をいわれたが、実際にロケ地に行ってみると、やっぱりそこしかないと、わかってもらえたんだ」
 
 四大元素の中でも「火」は人類に文明をもたらす契機になったものであると同時に、破壊的な道具にもなる。そのことがアリアガの映画ではたびたび示唆される。これまでの映画でも、誤ってメキシコ人の牧童を撃ち殺してしまう国境警備員マイク・ノートン(『メルキアデス・エストラーダ~』)や、父親の銃で遊んでいるうちに取り返しのつかない事件を起こしてしまうモロッコの少年(『バベル』)など、たびたび「火」が人生を狂わす発端となってきた。そうした過ちの一瞬から独自の語り構造を持つ「悪夢」の物語が展開し、「悪夢」からの脱却が示唆されるのだった。
 
  本作でも、ジーナの密会場所となるトレーラーハウスが炎上するシーンや、シルビアの元恋人の操縦する農薬散布の飛行機がトウモロコシ畑に落下し炎上するシーンが出てくる。一方が人生の破滅を導き、他方は人生の再生を導くモメントとなっている。そうした自然の元素が俳優のような存在感を示していると同時に、この映画は死と再生を描くという点で、「女性」をより意識した作品となっているようだ。

 「『アモーレス・ペロス』は三世代の男性をめぐる映画だったが、『あの日~』は女性三世代の物語だ。女性には生理があって、毎月、出血と痛みに患わされ、人間としての限界に向き合わなければならない。そのぶん、女性のほうが自然の中に生きていると言えるのかもしれない」

(『すばる』2009年9月号、196-199頁)
 
 なお、映画『ある日、欲望の大地で』は、Bunkamuraル・シネマほかで、9月に公開。