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書評 西村賢太『芝公園六角堂跡』  

2017年05月09日 | 書評

 

落伍者の流儀  西村賢太『芝公園六角堂跡』  

越川芳明

 

 「落伍者には、落伍者の流儀がある。結句は、行動するより他に取るべき方途はないのである」(72)

 作家が自虐のユーモアを込めて「低能の中卒」(178-79)と称する主人公は、あれこれ悩んだ末に、そう覚悟する。

 表題作「芝公園六角堂跡」から始まり、「終われなかった夜の彼方で」「深更の巡礼」「十二月に泣く」と続く連作集だ。時間的には2015年の、2月から12月までの1年間を扱い、等身大の主人公に仮託して、作家自身の内面を掘り下げる。

 テーマと文体の両面から見ていこう。

 まずは「初心にかえる」という全四作を貫くテーマから。北町貫太は、いま48歳にならんとしている。29歳のとき以来、私小説作家の藤澤清造(ともに旧字体)の「歿後弟子」を自称し、藤澤の作品を唯一の心の支えにして生きてきた。だが、最近は、そのことを忘れがちになっているようだ。

 ちなみに、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の中に、次のような一節がある。

「彼はこの画家の中に誰も知らない彼を発見した。のみならず彼自身も知らずにいた彼の魂を発見した」と。

 「或る阿呆の一生」の主人公と画家の関係は、北町貫太と藤澤清造の関係にそっくり当てはまる。なぜなら、人生の「落伍者」であるのを自覚している北町貫太にとって、藤澤の作品こそが「救いの神」(59)であり、「泉下のその人に認めてもらう為だけに書く意慾」(54)を持ってきたからだ。誰も知らない藤澤の素晴らしさを「発見」して以来、所詮、「死者への虚しいーーあくまでも虚しい押しかけ師事に他ならない」(180)と知りつつ、能登の菩提寺で師匠の月命日の供養を欠かさず続けてきた。

 そんな「落伍者」が、あろうことか、数年前に、最高に栄えある文学賞を受賞。それにより一気に「虚名」があがり、テレビ出演のアルバイトも舞い込むようになる。少年時代にひたすら憧れていた有名歌手とも、親しい付き合いをしてもらえるようになる。

 だが、北町貫太は、何かがおかしいぞ、と自覚する。「自身の出発点たる思いの意識がいつか薄いものになってゆき、頭の片隅ではその不手際を認識しつつも、立ち止まって、つくづく省みるまでには至っていなかったのだ」(79)

 要するに、「何んの為に書いているかと云う、肝心の根本的な部分を見失っていた」(70)と気づき、「野暮な初一念に戻」る(179)決心をくだすのである。

 法哲学者の土屋恵一郎によれば、「初心忘れるべからず」という名言を日本人で最初に吐いたのは、能役者の世阿弥だという(『世阿弥の言葉』)。その意味は、現代とは少し違っていて、世阿弥は私たちが生涯において三度、「初心にかえる」必要性と向き合わねばならないと説いた。私たちは青年期、中年期、老年期にそれぞれに異なる身体的、精神的な課題を突きつけられるからだ。

 土屋は青年期の「初心」について、『風姿花伝』の言葉を引く。

「ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気など、すぐに消えてしまうのに、それも知らないで、いい気になっていることほど、愚かなことはない)(『世阿弥の言葉』112)

 「新しさはいつでも次の新しさに取って代わられる。新しさゆえに注目を集める時は、「初心」の時である」(113)。土屋はそう解説し、続いて中年期、老年期の「初心」について述べるのだが、ここでは割愛する。

 北町貫太は、芝公園のホテルの一角で開かれた人気歌手のライブに「ご招待」される。世間的に見れば、作家先生として順風満帆である。だが、会場に着いて、なぜか彼は近くの公園の方には背を向けている。そこは、かつて敬愛する作家が野垂れ死にした場所であり、見て見ぬふりをしているのだ。

 年齢的には中年期に達しているが、作家としてはまだ「新人」の部類にすぎない。いっときだけの珍しさで花を咲かせても仕方がない。北町貫太はそのことに気づくのだ。

「やはり無意味な交遊、華やかな思いなぞは遠慮なく壊してでも、彼は野暮な初一念に戻りたいのである」(179)。

 西村賢太の文体についても触れておきたい。確かに、偽悪的で自虐的な語り口が目立つ。「彼は所詮、わけの分からぬ五流のゴキブリ作家なのだ。/何しろ性犯罪者の倅(ルビ:せがれ)である。おまけに人並みの努力は何一つできなかった、学歴社会の真の落伍者である上、正規の職歴も持たぬ怠惰な無用の長物である」(70)。

 だが、この調子で突き進むと思いきや、たくさんの異名を有するポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアばりの「多重人格」ぶりを発揮するのである。

 例えば、作家は愚者であり賢者でもあるような両義的なキャラクターとして北町貫太を創造する。性格が病的に誇り高い一方、根の稟性(ひんせい)がかなり下劣であるとか、傲然と行動するくせに根が気弱な後悔体質でできていているとか、陰気な一方、根が目に余る調子こきにもできているとか・・・。そのように、たった一人の北町貫太の中にたくさんの周縁に追いやられた「他者」の声をそそぎ込み、それを文体に反映させる。「私小説」でありながら、ラディカルで斬新な印象を受けるのは、そのせいだ。

 言い換えれば、それは「演技者」としての自覚とも結びつく。北町貫太は、複数の人間を演じる謎の存在なのだ。「五十年前の田舎者」のような、みすぼらしい「ユニフォーム」を身にまとっているが、ただの汚い身なりの浮浪者ではない。田中英光、藤澤清造、川崎長太郎らの、私叔する「私小説書き」たちの心意気に倣いつつ、作品に登場する主人公のダサいイメージを壊さないように、わざと「ダメ人間」を演じているのだ。

 かくして、作家は次なる「初心」のときが来るまで、「私小説」という形式をこの作家でしかできない仕方で鍛え直す。まるでかつてのヒット曲を、声の出し方を工夫して歌い続ける有名歌手のように。それが「落伍者の流儀」なのだ。(了)

 (『新潮』2017年6月号、pp.248-249)

 

 

 

 

 


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