越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

「羽賀研二」という存在

2008年01月31日 | 小説
ネットの『 共同通信』に「 羽賀、渡辺両被告が否認 詐欺や恐喝未遂の初公判 」という記事が載っている。 [ 01月31日 11時02分 ]

 「3億7000万円の詐欺と恐喝未遂の罪に問われたタレント羽賀研二(本名・当真美喜男)被告(46)と、恐喝未遂の共犯とされるプロボクシング元世界王者渡辺二郎被告(52)の初公判が31日、大阪地裁であり、いずれも起訴事実を否認した。恐喝未遂について羽賀被告は「事実ではない」、渡辺被告は「全然違う」と述べた。以下略」

 沖縄在住の本浜秀彦(メディア表象論)が「『羽賀研二』という皮膚 『ワルの物語』について」という刺激的なエッセイを、文芸誌『すばる』(集英社)2月号に寄せている。

 沖縄生まれのハーフである「羽賀研二」という存在は、本土の日本人の沖縄に対する視線を映し出す鏡じゃないだろうか。本土にいるわれわれは沖縄に押しつけた基地を忘れ、観光にうつつを抜かす。「羽賀研二」という存在は、はからずもグローバリゼーションに被われたわれわれの価値観(拝金主義)を映しだしている。

 「ジュエリーデザイナーの「羽賀」は、いかにも成金的であり、しかも沖縄の戦後イメージがまだつきまとっている」と、本浜はいう。日本人は「羽賀研二」を毛嫌いする。あたかも自分自身の汚点を見せられたかのように。

「ハワイ、グアム、サイパン、沖縄。DFS(Duty Free Shop)がある場所は、実は観光と軍事が重なる南の島々である。しかし、そこを訪れる日本の観光客が、それを意識することは少ない。それらの島々では、日本からの観光客に対しては、過去の戦争と現在存在している米軍基地が徹底的に隠蔽(いんぺい)されているからだ」







 

 




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メキシコのインディアン・キャンプ

2008年01月29日 | 小説
 岩波書店の『図書』3月号に、メキシコボーダーの「逃亡奴隷」の村のことを書いた。19世紀の前半、フロリダにいたインディアンや黒人は、自由と平等を旗印にしながら奴隷制を維持していたアメリカを離れて、メキシコに逃げた。
 
 2月17日(日)にNHKBS2の「週刊ブックレビュー」で、『ギターを抱いた渡り鳥』を扱ってくれるという情報が入った。『英語青年』(研究社)2月号でも、長い書評を載せてくれている。そろそろ『図書新聞』も論じてくださるということなので、それが出たら、まとめてさわりのところだけ紹介しよう。




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翻訳詩のポエトリー・リーディング

2008年01月28日 | 小説
翻訳詩の朗読に感じた面白さ
――日中現代詩シンポジウム(朗読会)に出席して
越川芳明

 まずある詩人が自分の詩を朗読する。それから、外国語に翻訳された同じ詩が、外国の詩人によって朗読される。互いに自分の詩を自分の言葉と外国語で朗読しあう。

 そうしたやり取りがそんなに面白いのか、と訝しがる方もいらっしゃるだろう。実は、僕もそんな訝しがる側の人間だったのだ。ほんの少し前までは。

 たとえば、ある曲をだれかがピアノで弾いたあと、別の人がオーボエで演奏してみたと想像してみてほしい。同じメロディーでもずいぶん違って聴こえるはずだ。

 詩の朗読もまた、日本語と外国語ではずいぶん違って聴こえてくる。そういう意味では、単独の言語で行われる朗読会よりも楽しい。

 真冬にしては暖かいある昼下がりに、僕は上野の東京藝大で開かれた日中の詩人たちの朗読会をのぞいてみた。日本からは佐々木幹郎、高橋睦郎、井坂洋子、平田俊子の四氏。中国からは駱英、陳東東、唐暁渡、西川の四氏。

 僕には中国語がわからない。だから、冒頭に立った中国人の駱英さんが「経済学批判」という詩を朗読しているときは、音しか聴くことができない。それから、日本語に訳したものを、高橋睦郎さんが自分なりの解釈を交えて日本語の詩として朗読するとき、意味を伴って聴こえてくる。僕はそこで初めて、なるほどこういう詩だったのか、という確認をしながら詩人の音に耳を澄ます。

 日本語に翻訳された時点ですでに、中国語の詩は大きく変容したり何かを失っていたりするはずだし、日本語の詩でも同じことはいえるだろう。

 しかし、外国人同士の朗読会は、変容したり失ったりしても、なおそれ以上に多くの伝わるものを共有する試みだったといえる。ある詩が外国語で発音されるときの新鮮な驚きを、詩人と聴衆が共有できるライブ感覚あふれる場だった。

 



 司会を担当した、日本語の得意な中国人の田原(でんげん)さんが、ご自身が翻訳にかかわったらしい平田俊子さんの「うらら」という詩の一部にある「足紙」という語を取りあげて、翻訳に苦労したと「文句」をいっていたのが印象的だった。

 平田さんは「手紙がきても春は楽しい」という行のあとにつづけて、「足紙がきても春はうれしい」と歌うのだが、中国語には「足紙」はないという。おそらくどこの国にもそんな言葉はない。平田さんの造語だから。

 そんな場合、積極的に誤読や誤訳を行なって、自分の言葉で作るしかない。田原さんもそうしたように。

 日中の現代詩人たちによる朗読会には、そういう際どいスリリングな局面がひそんでおり、それをとても面白いと感じた。
(『現代詩手帖』思潮社、2008年2月号、134頁)


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フィリピンのネグロス島

2008年01月18日 | 小説
 良質のドキュメンタリー『死の季節』を見た。フィリピンのネグロス島の農民を扱った映画だ。

 大農園の小作人としてサトウキビ栽培に従事するも、不況や搾取に遭い、大地主だけがうるおう。世界市場のサトウの暴落の影響をもろにうけ、しかもマルコス政権下では餓死にまで追い込まれ、抗議行動をおこして軍隊に殺される。

 三十分たらずの短い映画のなかに、底辺の農民から見たこの島の現代史をコンパクトに折り込み、現代のフェアなオルタートレードの可能性を訴える。「第三世界」にどう「第一世界」が関与できるのか、ヒントをもらった。

 この映画の関連サイトとして、つぎのサイトがある。
http://www.earth-vision.jp/top-j.htm

 なお、英語版「wikipedia」の http://en.wikipedia.org/wiki/Negrosに載っているが、アメリカ合衆国の政治軍事的バックアップを受けて、19世紀末に3年だけ存在した「ネグロス共和国」Republic of Negrosがあったらしい。せっかくスペインから独立を果たしたのに、3年後に米国の手で壊滅させられた。

 伊藤千尋さんは、南米の歴史を見れば、米国のやり口がわかるとおっしゃっている。おそらくアジアの小国(日本の沖縄をふくめて)たちをみれば、同じことがいえるかもしれない。


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下北沢の洋食屋ヴァリエ

2008年01月17日 | 小説
来週以降、しばらくシモキタへ行く用事もないので、ソーベイさんのところで髪をきってもらった。その後、ビールと泡盛をごちそうになり、腹がすいたので、茶沢通りの洋食や<ヴァリエ>に1年ぶりにいった。

ほかに、中年のカップルや、5、6人の家族づれがいた。総じて、客の年齢層は高いようだ。

接待するのは、気さくな奥さん。旦那さんがシェフで、腕は確かです。昔、ホテルオオクラで働いていたらしい。ビーフシチューやハンバーグも美味しいという噂だが、僕はここへきたら、もっぱらタンシチューである。よく煮込んだとろけるようなタンに、スープとサラダとご飯がついて、1500円。ちょっと小金がはいったときに、行ってみるのはわるくない。ランチもやっているようだ。

帰り際、奥さんがどうでしたか? と訊くので、いつもすごく美味しいです! と答えた。よっぽど味に自信があるのだろうね。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000894012/0002869390/
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山形の番楽

2008年01月16日 | 小説
この連休中に、明治大学の主催で、「番楽」を紹介する公開文化講座を山形市で開いた。人文科学研究所の委員をしている関係で、公開講座の企画をたてねばならず、所長の居駒永幸先生(経営学部教授、民俗学)に講師になってもらうことにして、先生のご専門の「番楽」の紹介にあいなった。

番楽は、山形では北部の6カ所でしか伝承されていない民族芸能であるため、おなじ山形でも南のほうでは知られていない。600年以上前に、山伏によって里の農民に伝えられたという歴史を持つが、近年の農業の衰退で、踊り手も大幅に減少ぎみ。

コメンテーターをしてくださった東北芸術工科大学の菊地和博先生によれば、青森の東通村の能舞や岩手のはやちね神楽なども、山形の番楽と同類と見るべきであり(とりわけ、魔除けの「獅子舞」という演目に共通性があり)、それらはみな紀州の熊野系の山伏の伝えた芸能だという。

公開講座では、山形県金山町の稲沢番楽保存会による実演もあった。子宝と子孫繁栄を祈願するために、仮面をつけた男の踊り手がペニスに似せた巨大な棒(ヘンゾボ)を持って、それを若い女性たちに握らせる「おかし舞」や、能や歌舞伎の「道成寺」に通じる「鐘巻き」など、普段見られない舞台を楽しんだ。雪深い山里だからこそ、こういう民俗芸能がいまなお息づいているのだろう。


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シネマブック

2008年01月06日 | 小説
シネマブック(現代アメリカ文学編)

コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』(扶桑社ミステリー)
トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫)

『血と暴力の国』は、米墨国境地帯を舞台にしたポストモダン小説。テーマは「暴力」だが、アメリカの建国さえもキリスト教徒による先住民への「暴力」の発露と見なす発想につながる。小説の構成はとても凝っていて、ポストモダンのフラグメンタルな語りと複数の視点人物から見られた謎の多い世界像を提示。いわば「薮の中」方式だ。これをコーエン兄弟の映画『ノー・カントリー』がどのように処理するのか、興味深い。

 一方、『冷血』は、カンザスの片田舎での一家惨殺事件というスキャンダラスな題材を扱い、読者の覗き見趣味に訴える。作家自身が<ノンフィクション・ノベル>と呼んだ形式をとり、作家自身の主観もまじて、殺人事件を描いた点が斬新だった。J・ミラー監督の映画『カポーティ』は、『冷血』の取材と執筆にあたる作家の分裂症ぶりを巧みに映像化している。

(『エスクァイア』2008年2月号)
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書評 アラスター・グレイ『ラナーク』

2008年01月01日 | 小説
壮大なポストモダン、アンチ=ケータイ小説
書評 アラスター・グレイ『ラナーク』(国書刊行会、2007年)
越川芳明

 ケータイ小説全盛のこの時代に、スコットランド随一の現代作家の、アンチ=ケータイ小説めいた作品が、みごとな翻訳によって日本の読者の前に届けられたことを率直に慶びたい。

 それにしても、ギガレベルの大作である。原書は六百頁、翻訳でも原稿用紙四百字詰めにして二千枚をくだらない。一九五〇年代から二十年以上にわたって書きついで、八〇年代初頭にようやく出版にこぎつけたのだという。これが著者四十五才のときのデビュー作というのだから、さらに驚きだ。

 副題にあるとおり、4巻からなる、あるスコットランド人の伝記である。第1巻と第2巻は、ダンカン・ソーという冴えない美術学生について、作家の自伝的な事実にほぼ忠実にもとづいて描かれたリアリズム小説。一方、第3巻と第4巻は、ラナークという男の精神の彷徨を描くSFファンタジーだ。

 ラナ―クの物語の中に、ダンカン・ソーの物語が内包されるという、ポストモダンのメタフィクションとしての仕掛けがある(第3巻から始まるのはその理由による)だけでなく、この作品はさまざまな奇想に富む。最後のほうの「エピローグ」で、作家自身が登場し、主人公ラナークと会話をしながら、作品の中身について、手の内を明かす自己言及的な章があったり、本作に直接あるいは間接に引用された過去の文学作品のリストやパクリの手口の数々を披露する「盗作索引」があったり・・・。二十世紀前半のエリオットやジョイスなどのモダニストがまじめにやっていた引用行為を博学ひけらかしのおふざけに転嫁してしまうのだ。

 細かく見ていくことにしよう。第1部はダンカン・ソーの少年時代を扱っている。少年はグラスゴーに住んでいるが、第二次大戦で空襲があり、母と妹と疎開する。戦後はグラスゴーに戻り中高等学校に入るが、空想の世界にひたってばかりで、おまけに喘息の持病を抱えて学校の成績は伸び悩む。そのうち母が肝臓を患って亡くなる。

 第2巻は、運よく奨学金がもらえて美術学校に入ることになるが、初日になけなしの金で買った画材一式を盗まれるというヘマをしでかす。美術学校の奇人変人たちと付き合いながら、一方で、教授の娘のマージョリーと身分違いの色恋ざたに憂き身をやつす。彼女にふられ、喘息と気管支感染症がひどくなり病院に入院し、たまたま隣のベッドにいた牧師に教会の内壁に壁画を描かないか、と打診される。壮大な壁画に着手し、大幅に遅れながらも完成するが、あえなく教会は取り壊しの運命に。街で拾った娼婦にも、体の湿疹で敬遠され、ついに殺人行為の幻覚まで見るようになり病院に入院することになる。

 第3巻と第4巻の二巻は、精神を病んだソーの見た夢の世界という風に解釈することもできるが、その世界は、まさにダンテの「神曲」の地獄篇に近い。人間が人間を犠牲にすることに貪欲になっている現代の「地獄」だ。主人公は、ダンカン・ソーがあの世で転生したような、ラナークという名の男だ。

 逆にいえば、作家グレイのグロテスクな想像力が壮大に展開するのが小説のこの部分である。とりわけ、ラナークがほとんど太陽の照らない都市アンサンクから一種の自殺行為を経て堕ちていく「施設」と呼ばれる「地下世界」は地獄絵のようにヴィヴィドに描かれる。というのも、この施設では、人間が「火蜥蜴」となって発する熱をエネルギーとして利用したり、人の一部を人工食料として活用したりしているのだから。

 ここに作家のキリスト教への不審と反戦思想が読み取れる。大航海の時代以降、他民族を殺戮したり搾取することでしか繁栄を築いてこなかったヨーロッパのキリスト教諸国への批判が見られる。グレイは、エピグラフで人類を「残虐で恐ろしい怪物」として捉えたダ・ヴィンチの言葉を引きながら、作中でも一登場人物の言葉を借りて、「人間ってのは、自分で自分を焼いては食べるパイみたいなもの」だといっている。

(『スタジオ・ボイス』2008年2月号100頁)
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