越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(8)

2011年09月25日 | 小説

 フランゼンより一世代上のポストモダン作家、ロバート・クーヴァーはやはり中西部のスモールタウンを舞台にした『ブルーニストの起源』(未訳、一九六六年)を書いている。

 黙示録的世界の到来を待つ狂信的なキリスト教徒、それを迫害しようとする地元民など、登場人物の一人ひとりに焦点をあて、その心の内側からアメリカ的価値観の対立を風刺的に描きだす。

 フランゼンもまた、もっとも保守的だと言われる中西部を基点にして、そのステレオタイプなイメージの背後に潜む矛盾や病理を登場人物の人格(パーソナリティ)を通じて風刺的に描く傑作小説『コレクションズ』を書きあげた。

 フランゼンは現代小説の登場人物に関して、面白いことを語っている。
 
 「リルケは人格が存在しない、あるのは交差する様々な領域であるという、ポストモダン的な洞察を予見していた。

 すなわち、人格というのは社会的に構成されるものであり、遺伝子によって構成されるものであり、言語的に構成されるものであり、後天的に子育てによって構成されるものなのである。

(中略)それは生々しく、恐ろしく、底なしの何ものかなのだ。

 それは村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』の井戸でさがしているものだ。

 それを無視することは人間性を否定することに他ならない」と(『パリス・レビュー』二〇一〇年冬号)。(了)
 
ジョナサン・フランゼン(黒原敏行訳)『コレクションズ』(早川文庫、2011年8月刊)の解説 


ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(7)

2011年09月21日 | 小説
  後期資本主義社会でいちばんの悩みは、ゴミ問題だ。

 「もったいない」文化とは対極にある「使い捨て」文化の産物。

 便利さや快適さを最優先する「先進国」の消費主義は、大量のプラスティック商品(ペットボトルや包装袋やCDやケータイ)を開発してきた。

 その結果、それに比例するだけの廃棄物がうまれるようになった。

 現代において最悪のゴミは、原子力発電所の「核廃棄物」プルトニウムをおいて他にない。

 ドン・デリーロは『アンダーワールド』(一九九七年)でこうした核廃棄物処理の際に現われる「強者」のエゴイズムを描いて消費主義社会を風刺した。

 一方、フランゼンの『コレクションズ』には核廃棄処理の問題は出てこないが、デニースの雇い主ブライアンの妻で、デニースがレスビアン関係を結ぶロビンという女性に、消費主義に甘んじない生き方を体現させている。

 彼女は貧民地区の子どもたちを雇って、有機菜園の実験農場を行ない、その収益を分配しようとする。

 それは、平等主義のユートピアの創造であり、エコロジカルな「リサイクリング(再利用)」の思想の実現である。

 カトリックのロビンは「聖ユダ」(ランバート家の故郷「セント・ジュード」の名前の由来)に惹かれるという。

 見込みのない目標(理想)に打ち込む人を守護する聖人だから。

(つづく)
 
 

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(6)

2011年09月20日 | 小説
2 <後期資本主義>

 戦争とならんで、この小説が焦点を当てるのは、九〇年代後期資本主義(ハイパー消費主義)の行き過ぎた様相だ。

 ブライアン・キャラハンは、フィラデルフィアでこれまでにないクールなレストランを作ろうと、その主任シェフとしてデニースに白矢を立てる。

 ブライアンは、生来の勝ち組で「生まれたときから有力者たちの世界の内側にいる」男で、温厚な良識人として、「ゴールデン・レトリバーのように世間を渡ってきた」という。

 一方、デニースは、ブライアンの妻ロビンから「人間はなんのために生きるの?」という問いを突きつけられるまで、自分が生きているのは「人に(とりわけ男に)勝つためだ」ということを疑わなかった。

 年上の男たちを踏み台にして、もちろん本人の涙ぐましい努力の成果もあって、地方都市のセレブたちと肩を並べるまで登り詰める。

 出自の違う二人、ブライアンとデニースに共通するのは、ともに「成功」するためであれば、手段を選ばない生き方だ。

 あるいは、ニューヨーク市ソーホーやトライベカに暮らす新興成金(スーパーリッチ族)が行くグランド通りの高級スーパー「消費の悪夢(ナトメア・オブ・コンサンプション)」が登場する。

 消費することが「善」であり、「金がなければ人間とはいえない」とまで感じさせられるハイパー消費主義時代の象徴のような存在だ。

 (つづく)

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(5)

2011年09月19日 | 小説
 フランゼンもまた五人の視点人物に憑依して、より大きなアメリカ的価値観を問い直す、新しいタイプのメガノヴェルを志向している。

 フランゼンが夫婦の争いを「戦争」のメタファーで描くのは、そうすることによって誇張による滑稽味が出ることもあるが、より重要なことは、アメリカの外の世界で実際に起こっている「戦争」に対して読者の連想を誘うことができるからだ。

 小説の「語りの現在」とされている九〇年代の後半、アメリカは東アジアや南米の経済危機を尻目に、チップに「金儲けをしないことが不可能だ」とまで言わせるほどの経済的な好況を呈していた。

 そのチップは、ソ連から独立を果たすバルト海のリトアニアで、ネット詐欺まがいの事業に手を貸し、旧東欧の急激な資本主義化のなかで、マフィアと手を組んだ新興財閥(ルビ:オルガイヒ)による利権争いに巻き込まれる。

 チップがかかわるのは、ネット情報を武器にしたグローバル時代の経済戦争だ。

 勝ち取るのは領土ではなく、金だ。世界銀行やIMF(国際通貨基金)などが小国の産業を民営化させようとして、融資の条件をつり上げる。

 「世界銀行に融資を申しこむと、彼らは産業を民営化しろと命じた。そこで政府は港を売りだした。航空システムを売りだし、電話網を売りだした。いちばん高い値段をつけたのはたいていアメリカ企業で、たまに西ヨーロッパの企業のこともあった」

 経済危機に陥った小国が資金力のある多国籍企業に乗っ取られてしまう事態が生じる。

 中西部の家族の小さな争いの向こうには、アメリカ的世界観によって引き起こされた軍事的、経済的な戦争がある。

 フランゼンの笑いをもたらす風刺小説には、そんなアクチュアリティが潜んでいる。

(つづく)

 

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(4)

2011年09月18日 | 小説
 同じ家族の問題を描くのでも、たとえば、八〇年代以降に流行したレイモンド・カーヴァーをはじめとするミニマリズム小説とはベクトルが違う。

 というのも、ミニマリズム小説では、台所のような小さい世界を一枚の写真のようにミニマルに写しとり、背景にあるより大きな世界を読者に想像させる「俳句」的な手法をとるからだ。

 ミニマリズムの小説では、台所の争いを「戦争」のメタファーなどを使って描いたりしない。
 
 また、一世代前のポストモダンのメガノヴェルの書き手たち、トマス・ピンチョンやウィリアム・ギャディスやドン・デリーロなどの全体主義的な「歴史小説」とも違う。

 ジョナサン・フランゼンはウィリアム・T・ヴォルマンと同世代だという。そこにひとつのヒントがうかがわれる。

 ヴォルマンは太古からのアメリカ大陸の歴史、北からのアメリカ大陸「発見」の旅に興味をいだき、みずからの北極生活をフラグメンタルな「歴史小説」のなかに溶け込ます。

 たとえば、『ザ・ライフルズ』(一九九四年)は、十九世紀半ば、ジョン・フランクリン卿に率いられ、氷の北極圏に閉じ込められたイギリス艦隊による北極探検をあつかっているが、ヴォルマンはシャーマンのごとくフランクリン卿に憑依して、十九世紀と二十世紀を自在に往復するアクロバティックな語りを展開する。

 過去の歴史と現在の自分(サブゼロという化身を通して)を想像力で強引につなげることで、歴史小説に、現代の語り部としての血を、内的な動機を与えている。
(つづく)

 

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(3)

2011年09月17日 | 小説
 戦いのメタファーは、老夫婦ばかりに適用されるのではない。

 長男ゲイリーの家庭でも同じだ。

 ゲイリーとその妻、富裕なクエーカー教徒の家柄を誇るキャロラインは、フィラデルフィアの高級住宅地に住む。

 「最後のクリスマス」を、子どもたちはむろん、嫁や孫たちも全員招いて、中西部の自宅で祝いたいという姑の「気違いじみた執着」(嫁キャロラインの言葉)をめぐって、内戦が勃発。

 彼らの場合は、寝室が戦場となり、故郷でのクリスマスに固執するゲイリーと、彼を「鬱病」と決めつける妻とのあいだで戦いが引き起こされる。

 「キャロラインは今や夫への敵意を夫の“健康”への“気遣い”に偽装する技を身につけている。

 この生物兵器に、彼が使用している家庭争議用の通常兵器は太刀打ちできないのだ。

 彼が意地悪く彼女の人格を攻撃するのに対して、彼女は高潔に彼の病気を攻撃する、という構図になっている」

 そうした夫婦の諍い、嫁姑の確執など家庭内の争いを、フランゼンはなぜ「戦争」のメタファーによって描くのか。

(つづく)

 

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(2)

2011年09月16日 | 小説
 小説の主たる舞台は、家の中だ。

 たとえば、アルフレッドとイーニッドの老夫妻の場合は、家の地下室だ。

 なぜ地下室なのか? 

 そこに卓球台があるからである。

 作家は、夫婦の諍(いさか)いをただの激情の発露とみなさず、個人を内側から縛っている価値観の争いとみて、「戦争」のメタファーで描く。

 それぞれの価値観をぶつけ合う場として、地下室の卓球台が「戦場」として描かれる。

 「卓球台は内戦が公然と戦われる場の一つなのだ。戦場の東端では、アルフレッドの計算器が、花柄の鍋つかみや、ディズニーワールドのエプコット・センターで買ったコースターや、イーニッドが三十年前前に買ってから一度も使っていないサクランボの種をぬく道具などに襲撃される。一方、西端ではアルフレッドが、イーニッドに言わせればなんの理由もなく、松毬(ルビ:まつかさ)とスプレーで着色した榛(ルビ:はしばみ)の実とブラジル・ナッツでこしらえたクリスマス・リースを引き裂いたりする」 

(つづく)

ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(1)

2011年09月15日 | 小説
コミカルなポストモダンの「家族小説」 
 解説 ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』
越川芳明

1<小さな戦争>
 
 これは、コミカルな風刺をまぶしたポストモダンの「家族小説」だ。

 ポストモダンというわけは、従来のリアリズム小説とは違って、作者の特権的な立場(全知の立場)を前提にしない書き方で書かれているからだ。

 すなわち、この小説では、比較的短い一番目の章「セント・ジュード」と最後の章「修正」のあいだに、それ自体が中篇小説といってもよい五つの章、「失敗」、「考えれば考えるほど腹がたつ」、「洋上で」、「発電機」、「最後のクリスマス」が挟まれているが、それらの章がひとつの家族を構成する五人の視点人物によって語られている。

 まず、アメリカの心臓地帯、中西部の架空のスモールタウン、セント・ジュードに暮らす老夫婦がいる。

 ミッドランド・パシフィック鉄道の技術部長の職を辞したアルフレッド・ランバートと、世間体を非常に気にする妻イーニッド。

 そして、その老夫婦の三人の子どもたちがいる。

 長男で、いまは東部の都市フィラデルフィアで地元銀行の投資部門の部長になっているゲイリー。

 次男で、若い女子学生とトラブルを起こし東部の大学を解職されたチップ。

 さらにフィラデルフィアの資産家に認められて新たに開店する超一流レストランのシェフを任される末っ子のデニース。

 これらの五人が視点人物となり、彼らと関わりを持つ近隣の人々、恋人、会社の同僚、仕事仲間、そしてもちろん家族の他のメンバーと織りなす悲喜劇を互いの立場から語り起こす。

 それゆえに小説で描かれる世界は、絶対的な真実というよりは、相対的な世界観の寄せ集めにならざるを得ない。

(つづく) 

旦敬介『ライティング・マシーン──ウィリアム・S・バロウズ』(インスクリプト)

2011年04月20日 | 小説
旦敬介『ライティング・マシーン──ウィリアム・S・バロウズ』
 
 これはただの作家論ではない。

 小説のように簡潔で読みやすい文体、奇人の評伝のようにぶっ飛んだエピソードの数々、文学研究としての精緻な分析が相まって、酒で言えば超レアな吟醸酒の味わいと言えばいいのだろうか。

 一見淡々と語られているようだが、実は完成までに十年以上の時を要したという熟成された文章は、僕の知的好奇心をくすぐらずにはおかなかった。

 バロウズの「逃亡」の旅(ニューヨーク、米南部、メキシコ、ペルー、タンジール、コペンハーゲンなど)が「ジャンキー」で「クィア」な異形の「作家」を誕生させる。

 その誕生のプロセスを丹念にたどりながら、旦敬介自身の個人的な世界放浪が差し挟まれる「一種同時進行的な私小説」(「あとがき」より)である。

 面白くないはずがない。
 
 とりわけ、同じようにドラッグと旅を肯定したケルアックとバロウズの創作観の違いに対する鮮やかな分析が光る。
 
 なぜ僕がバロウズに比べて、ケルアックにあまり魅力を感じないのかが分かった。

 後期バロウズに関する執筆が予告されている。

 楽しみだ。

辺野古(5)

2010年07月30日 | 小説
雨が止む気配はありません。

夕方5時半から、那覇で比嘉豊光さんのシンポジウムがあります。

ゆっくりできません。

このまま帰るか、「テント村」に寄っていくか。

自動販売機で、サンピン茶のロング缶を二本買いました。

「テント村」に行って、サンピン茶を差し入れしてから、帰ろう。


「テント村」には、女性が2人しかいませんでした。

サンピン茶を差し入れです、どうぞ。

ビラなどが載っている背の低いテーブルの上に置くと、あら~、と手前にいた年上の女性が応えてくれました。


「テント村」といっても、村ではありません。ただのテントがふたつ並んでいるだけです。運動会のようなテントです。

ただ雨が吹き込まないように、背後にも雨よけがあります。

その手前に、米軍基地の写真などが展示してありました。



女性の一人、篠原孝子さんがチラシをくれて、説明を始めました。

普天間基地と辺野古案がまったく関係であること、

米軍はすでにグアム統合案を実行に移しているので、辺野古の滑走路を真剣に必要とはしていないこと、

民主党の提案しているV字型滑走路を一番喜んでいるのは自衛隊であること、

座り込みをはじめて丸6年経つこと、

地元の住民は近所付き合いの上から、声高に反対を叫びにくいこと、

そういったことを丁寧に説明していただいた。

詳しくは、ウェブでも。→「辺野古浜通信」http://henoko.ti-da.net/


その後、もう一人の女性、顔が真っ黒で、いかにもダイバーといった感じの「みっちゃん」と少し話しました。

その間にも、雨はやまず、かえって本降りになってきました。

と、「みっちゃん」がボート乗ります? と聞いてきました。湾内から米軍基地を見てみますか、と聞いているのだと解釈しました。

時間がないからね、と一度は断りました。でも、少し考えてーー

せっかくだから、お願いします、でも、5時半には那覇に帰らなきゃならないのでちょっとだけ、と念を押しました。

「みっちゃん」は、僕のために別の小屋にカッパを取りにいき、戻ってきました。

それから、雨で滑る岩場を歩いて、テント村から100メートルほど離れたところにつないであるボートまで先導しました。

ボートに乗ると、ドックの中も外もまったく波がなく平穏そのものでした。

ドックを出て行くとき、さっき見えた神社の森のそばを通りました。

沿岸沿いを走らせながら、みっちゃんが説明してくれたのは、

V字型滑走路を作る前に、すでに米兵の新しい宿舎が作られているということでした。

遠くからでも、大型のクレーンが見えました。

国や国際政治という怪物のような圧倒的な力に対して、住民の力は虫けらのような印象を受けるかもしれません。

でも、イナゴの大集団には、さすがの人間もかなわないように、虫でも負けないことがあります。

そんなこと感じながら、那覇に向かって50CCを走らせました。




ジム・クレイス『隔離小屋』

2010年07月28日 | 小説
楽天的なディストピア小説
ジム・クレイス『隔離小屋』渡辺佐智江訳(白水社)
越川芳明

 
 最初の数ページを読んだとき、ただちにコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(原作は、二〇〇六年刊)を思い出した。
 
 父子が核によって廃墟と化した厳冬の「アメリカ」を南に向かって旅する物語である。

 この小説では、登場人物に名前がつけられていなかった。

 無名性の物語によって、マッカーシーはこの小説を万人に当てはまる寓話となるよう発想したのだ。
 
 一方、イギリス作家ジム・クレイスの九作目になる『隔離小屋』(原作は、二〇〇七年刊)もまた、荒廃した「アメリカ」を舞台にした「ディストピア小説」だ。

 だが、主人公には名前がつけられている。

 マーガレット(なぜかファミリーネームは不明)とフランクリン・ロペスである。

 ディストピア小説は、近未来SFの装いをとりながらも、現実の政治・社会的な要素を取り入れて、あるメッセージを伝えようとする。

 この小説の場合、それは裸の王様である「アメリカ」への警告ではないか。
 
 マーガレットとフランクリンは、終末論的な風景の中をーー人々が飢饉ゆえに故郷を離れざるを得なかったり地殻変動による毒ガスに襲われたりするだけでなく、旅の途中で盗賊団に狙われて、金品のものを奪われたり人身売買のために囚虜となったりするような悪夢的な世界をーー旅する。
 
 とはいえ、この悪夢はあまり怖くない。

 作者が舞台や主人公たちに距離をおいて書いているからだ。

 言い換えれば、「アイロニー」がこの作品の隠し味となっている。

 作者は、まるでシェフが料理の味を複雑にするかのように、秘伝の「アイロニー」のスパイスをふんだんにまぶす。
 
「ここはかつてアメリカだった。・・・それはかつて、地上で最も安全な場所だった」(10)と、作者はプロローグで宣言する。

  いま「アメリカ」は、外套を手縫いで作ったり、弓と矢による狩猟で肉を確保したりしなければならない中世のような荒野に逆戻りしている。

 人々がそこからの脱出に「希望」を見いだすといった設定からして、米国への風刺が明らかだ 。
 
 かつて米国がよそ者に差し出していたのは、「温暖な気候、肥沃な土地、健康によい空気と水、豊富な食料、高い賃金、親切な隣人、整備された法律、自由主義の政府、暖かいもてなし」(41)だった。

 だが、いまそれらはなく、「夢の国」などではない。
 
 他人に不幸をもたらすといわれる赤毛の持ち主のマーガレットは、伝染病の疑いをかけられて、丘の上の「隔離小屋(ペストハウス)」に幽閉される。

 その間に、湖の底が激しく震動して毒ガスが発生。それが風に乗って彼女の住む街「フェリータウン」を襲う。

 街の中心から離れた場所に排除・隔離されたマーガレットだけが唯一命拾いし、伝染病を逃れようとした住民たちのほうが予期もしなかった別の脅威にさらされるという皮肉が見られる。
 
 もう一人の主人公フランクリン・ロペスは兄ジャクソンと一緒に、「フェリータウン」よりずっと西の故郷に母親だけを残し、新天地に向かう船に乗るべく東海岸をめざす。

 六十日以上もかかってようやく「フェリータウン」にたどり着つくが、そこで兄とはぐれて、マーガレットが幽閉されている小屋を発見する。

 彼もまた毒ガスによる死を免れる。

 皮肉なのは、勇敢であることがアダになる兄と違って、フランクリンは大柄なのに臆病で、恥ずかしがり屋とくる。足腰もそれほど強くない。

 彼の「足首から太腿にかけての肉は、足を踏み出すたびに、腸詰めのように、ぐにゃりとなった」(13)
 
 大胆なマーガレットと臆病なフランクリンは一見不釣り合いなカップルだが、通常は弱点とされる互いの性格で互いを補いあって逆境を生き延びることができる。
 
 二〇世紀アメリカ作家のジョン・スタインベックは、十六世紀に到来したヨーロッパ人が新大陸の帝国(メキシコのアステカ)を滅ぼすさいに三つの武器を持っていたと語ったことがある。

 すなわち、「銃器」と「天然痘」と「宗教」だ。
 
 この小説の舞台でも、「天然痘」ではないが、「フラックス」と呼ばれる新しい伝染病が蔓延している。

 「宗教」にかんしても、フィンガー・バプテストというキリスト教原理主義のカルト集団が出てくる。

 マーガレットをはじめとする旅人たちは、「聖なる箱船(アーク)」と名づけられたこのカルト集団のコミューンで、自らの労働と引き替えに住居と食料を与えられる。

 集団の思想の根幹には、鉄への嫌悪があり、鉄がこの世に不幸をもたらすという信念がある。

 手を使った工芸、芸術、料理なども、鉄と同様に「悪」であり、十一人の「無力な紳士」と呼ばれる高潔の士たちは、「水や空気のように生きる」ことを「善」として、手をつかうことすらも忌避して、労働者たちに食事から自慰行為まですべて面倒を見てもらう。

 この小説は、9/11以後の「アメリカの崩壊」(ギンズバーグ)を題材にした寓話だ。

 『ザ・ロード』には救いはなかった。絶望的なまでに荒んだ風景の中を旅する父子にあるのは明日への夢ではなかった。

 むしろ、今を生き抜くという、ある意味で動物本能的な意志だった。

 だが、他の移民の流れに逆らって故郷に舞い戻ろうとする『隔離小屋』の男女には、なぜか明日に対する妙に楽天的な希望がある。
 
 もっとも、その希望がどこから湧いてくるのか、読者には知らされないのだが・・・。

(『週刊読書人』2010年7月23日)


ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』

2010年07月27日 | 小説
放浪詩人の書いた「21世紀文学」
ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』
越川芳明


 今年の春、ふらっと立ち寄ったトロントの書店で購入したのがロベルト・ボラーニョのスーパー・メガノベル『2666』の英訳本ペーパーバック(2009年刊)だった。

 著者紹介の欄を覗いてみれば、2003年に50才の若さで亡くなっているが、すでに何冊もの英訳本が出ているではないか。

 このたび見事な日本語訳が出た『野生の探偵たち』は、ガルシア=マルケスやコルタサルなど、中南米の一流の作家たちに贈られるロムロ・ガジェゴス賞を受賞している。日本語版は、上下二巻で900頁を超す大作だ。

 ボラーニョは1953年に南米のチリで生まれた。思春期に家族と共にメキシコに移住し、世界各地を放浪したあと、居を定めたスペインのバルセロナ郊外で亡くなっている。そうした遍歴から窺われるのは、「根なし草」の放浪癖だ。

 放浪は何かを発見するための手段というより、それ自体が人生の目的と化している。ボラーニョにとって、放浪とは詩であり、詩は放浪である。
 
 『野生の探偵たち』にも、放浪詩人ランボーに端を発し、1920年代にメキシコで起こったシュールレアリスムの前衛詩運動に愚直なまでに入れ込むグループ<はらわたリアリスト>が登場する。いわば、メキシコの「ビート世代」(アレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダー、ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズなど)ともいうべき若者たちだ。
 
 なかでも、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマの二人はその中心をなす。作家ボラーニョの分身ともいうべきベラーノは彼と同じチリ出身で、70年に誕生したアジェンデ民主政権を支持すべく、メキシコから自発的に革命家として赴くが、ピノチェトの軍事クーデターに遭い警察に逮捕される。たまたまピノチェトの体制に入っていたかつての級友の手引き九死に一生を得る。その後も、メキシコ北部からヨーロッパ、アフリカ各地を放浪し、ドラッグや無頼の生活のせいで、すい臓炎をはじめいくつもの内臓を患いながら、最後はアフリカで消息を絶つ。
 
 一方、相棒のウリセス・リマも、パリ、ウィーン、バルセロナ、イスラエルを放浪しているが、面白いのは、ニカラグアにメキシコ詩人の使節団の一員として出かけたときに失踪したエピソード。メキシコと中央アメリカをつなぐ川を端から端まで歩いていたらしい。彼はそのとき数え切れないほどの島を見つけたが、中でも二つの島が印象的だったという。一つは「過去の島」で、そこは退屈そのもので、想像の重みで沈みそうだった。もう一つは「未来の島」で、島人たちは攻撃的で、共食いしていた。ボラーニョの小説では、ブルース・チャトウィンを思い起こさせるそうした放浪者による<世界ヴィジョン>が、まるで熟練の手品師の妙技のように、惜しげもなく披露される。
 
 この小説は、語りの構造に特徴がある。単純に言ってしまえば、ABAのサンドイッチ形式だ。パンの部分にあたるAは「青春小説」、中身にあたるBは「政治小説」とも読める「青春小説」。二種類の小説が解け合うポストモダンのハイブリッド性が、21世紀文学の先端をゆくこの小説の妙味だ。
 
 具体的には、第一部と第三部は、フアン・ガルシア=マデーロという十七才の大学生一年生の日記形式。1975年の12月から翌年の1月の約2ヶ月にわたって、大学をサボってのメキシコ・シティの喫茶店めぐりや性のイニシエーションなどが語られるが、いわば、メキシコ版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ともいえる様相を呈する。
 
 貧乏学生フアンが古本屋めぐりをして、世界の文学作品を万引きするくだりが出てくる。面白いのは、盲目の女性店主に、万引きはだめよ、と釘を刺されたり、また別の店では、金がないので古本屋をまわって万引きをしていると正直に告げると、同性愛者の老店主に詩集を贈られたりする。このようなエピソードが示唆するように、ボラーニョはおそらく独学で、広範な文学的教養を獲得したのだ。
 
 一方、第二部では50人を超す証言者が登場し、それぞれの観点から自分の身の上を絡めて、二人の詩人ベラーノとリマについての情報を語る。ここの部分がこの小説の白眉だが、1976年から約20年にわたって、メキシコ、カリフォルニア、ヨーロッパ(フランス、スペイン)、中東、アフリカなどで、さまざまな階層の、さまざまな思想の持ち主による証言がなされる。オクタビオ・パスやレイナルド・アレナスをはじめ、実在・架空の詩人や作家が実名や偽名で大勢登場する。ソル・フアナを師と仰ぐフェミニスト詩人たちがマッチョな<はらわたリアリスト>に冷水を浴びせる。自己満足のロマン主義に陥らないそうしたパロディの才能が、まるで真っ暗な闇に輝く星の光のように、まぶしくきらめく。
 
 同時に、チリやニカラグアなど中南米へのアメリカ合衆国の軍事介入とか、独裁政権によって抹殺される知識人たちといったラテンアメリカ特有の問題とか、1968年のメキシコ警察・軍隊による弾圧事件(トラテルコ事件)の中で、大学のトイレに閉じこもったウルグアイ人の女性詩人のエピソードなど、中南米の「政治」のモチーフがちりばめられている。
 
 ロベルト・ボラーニョは、オクタビオ・パスなどに象徴される「権威」からは意識的に距離をおいていたので欲しがったかどうか分からないが、もし生きていれば、ノーベル文学賞の最有力候補間違いなしの文学者だ。
 
 本書は、遺作『2666』(2002年)と共に、移民が常態と化し、国境がゆらぐ21世紀の現状を扱うこれからの若い日本の作家たちが目指さねばならない作品である。村上春樹の『1Q84』などで大衆を煽ってマスターべーションをしている日本の御用学者たちが読んだら、世界の水準を知ったほうがいい。

(『図書新聞』2010年7月31日)

「死者」のいる風景(第二話)

2010年07月21日 | 小説
「死者」のいる風景(第二話)メキシコ・パッツクアロ
越川芳明   

 メキシコシティから北西に長距離バスで七、八時間ほどいったミチョアカン州に、おびただしい数の蝶が冬の寒い時期に木にへばりついて越冬するする森があるという。

 渡り鳥ではない、蝶である。

 帝王(モナーク)と名付けられたマダラ蝶たちは、毎年春になると、中央メキシコの森の中から旅立ち、国境地帯のサンディエゴの上空を通りすぎて、北のカナダのほうまで何千キロにもわたって旅をする。

 彼らの寿命はたったの三、四週間と短い。だから、旅をしながら空中で交尾して、葉の上に卵を産む。

 生をうけた子供たちは陸上競技のリレー選手のように、血族のバトンをつないで旅をつづける。

 秋になると、今度は三、四世代若い蝶たちが祖先の越冬した森の木のもとへと戻ってくる。
 
 そんな渡り蝶たちの故郷の近くに、パッツクアロという小さな町がある。

 両脇にぎっしりと小さな家がたち並び、車が一台通れるかどうかの狭い坂道が迷路のように入り組んでいる。

 丘の頂上に修道院を改造したホテルがあり、レストランの大きな窓から下のほうを見ると、家々の日干しレンガ造りの屋根が、まるでイタリアのフィレンツェのそれのように、鮮やかなピンク色に栄える。

 僕は、ある夏に訪れて、町の素朴な雰囲気が気に入った。

 その町で知り合ったプロの観光ガイドのロドリゴが、秋風の吹く頃に祝うと教えてくれた「死者の日」の祭りにも出かけてみた。(つづく)
 
 

辺野古(4)

2010年07月17日 | 小説
辺野古崎につくと、ドックの近くにバイクを停めました。

ドックには、ちいさな漁船が数艘、まるで飼い犬みたいにおとなしく、つないでありました。

漁船のわきで、祝日で学校が休みの少年たちが、まるで曲芸師みたいに巧みに水の中に飛び込んでいました。

その向こうに、座り込みのテント村が見えましたが、なぜか怖じ気づいてしまいました。

ただの「観光客」が物見遊山で、訪ねていいものかどうか。

逡巡しました。



反対側を見ると、ドックを囲っている遠くのコンクリート壁の先端に、海の神様をまつった神社が見えました。

船が出ていくたびに、それを見守る位置にあります。

そちらのほうにも、別の少年の一団が歩いて行きます。

神社の裏のほうにも、きっとダイブに格好の場所があるに違いありません。

そのうち、雨が強くなってきました。



漁協の建物の空洞になった一階部分に逃げ込んで、雨宿りをすることにしました。

自動販売機でジュースを買って、乾いたのどを潤しました。

考えていましたーーー。

テント村に行っては失礼なのではないか。



その場には、ビーチカウチに座って海を眺めている老人が一人いました。

天気悪いですね。そう話しかけました、が・・・

会話が弾むような返事はありません。









田中慎弥『実験』

2010年07月11日 | 小説
「海峡の街」のグロテスクな寓話
 田中慎弥『実験』
越川芳明     


 三編の中・短編からなるこの作品集は、三島由紀夫賞を受賞した作品集『切れた鎖』と同様、海峡の街を舞台にしている。

 小説の中の海峡は、両義的に描かれている。住民を閉じ込める檻のような装置であると同時に、解放への道にもなりうるというように。
 
 表題作「実験」は、三十代後半の、ややマンネリに陥っている「小説家」を語り手にした一人称小説。

「赤間関」という「海峡の街」は、丘によって南北に仕切られ、その間にトンネルがある。

 丘の南側の「海辺の街」のほうは明るく、戦前から漁業と海運業が盛んだったが、いまは下火で人口も減る一方だ。

「私」は、こちら側に住んでいる。

 一方、トンネルをくぐった丘の北側は、いわば新興住宅地だが、「私」にとって、「なんとなく息苦しくなる」ところである。

 「人間が暮しているという理由で暗く沈み込んでゆくかのような風景に、いつまでも違和感がある」(22)

 事件は「赤茶色の屋根瓦」に象徴される新興住宅地で起きる。

 「事件」といっても、家庭内のことだから、他人にはなかなか分からない。

 それを、この小説は追求している。

 「私」には、小学生の頃から、母親同士が親しいということで、ただ惰性で付き合ってきた三田春男という二歳年下の男がいたが、先頃、この男がうつ病で精神科に通院するようになり、面会に行ってほしい、と頼まれる。

 春男は小さい頃から図体が大きく、「巨大なコロッケを首に突き刺した感じ」であり、彼の両親は、めんどうを押しつける「怪物」に映る。

 これは、まるでお化け屋敷にある凹凸がゆがんだ鏡みたいに、微細な部分を過度に誇張して大きくふくらました「グロテスクなユーモア」の一例だ。
 
 春男が両親の性の営みを見てしまったと打ち明けるシーンも何やら怪しい。

 春男によれば、彼が階段を下りてきたとき、外から選挙カーで、立候補者が(舞台が山口県なので地元長州の先人)吉田松陰や高杉晋作の名前を連呼しているのが聞こえ、また一階の居間からは「豚の鳴き声」が聞こえてきたという。

 春男はいうーー
 「ドアを開けた。ソファーの上で吉田松陰と高杉晋作が重なってた。二人の体は複雑に絡まり合ってて、服は着たままだけど、手とか足とか頭が相手の体の奥までめり込んでる感じだった。下になってた高杉が先に気づいて、促された松陰も振り返った。豚の声はやんでた」(69)
 
 エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」みたいに、「私」自身が「信頼できない語り手」であるだけでなく、春男やその両親もそうなので、とくに会話の場面では、読者はそこら中にゆがんだ鏡を張りめぐらされた部屋にいるかのように、グロテスクな気味の悪さを楽しむことができる。
 
 しかし、本当に気味が悪いのは、「私」の創作への執着である。

 「手応え」のある小説を書くためには人間の生命を「殺めて」も仕方ないという、倒錯した「悪意」が見られる。

 うつ病の男を主人公にした新しい小説のために、春男を「実験」材料にする覚悟を決め、自殺をふせぐためにいってはいけない言葉をあえていうなど、「四肢を固定した鼠に通電する気分」(58)で、次々と実験を試みるのだ。
 
 

 もう一つの中編「週末の葬儀」もまた「赤間関」のニュータウンを舞台にしている。

 主人公の飯田公蔵は、長引く不況のせいでデパートの外商を五十五歳で辞めさせられ、一週間ほどぶらぶらしている。

 妻とは五年前に離婚していて、二人いる子供は妻が連れて行き、いま妻子は対岸の北九州に住む。ニュータウンは安らぎの場所ではない。

 「住んでみると、海といっても海峡だから、望洋とした眺めとはゆかなかった。海を挟んで北九州の海岸が、柵のようにめぐっていた」(126)
 
 これは、会社勤めを辞めて非日常的な生活をするようになって初めて、主人公がいままでの日常生活の異常さに気づき、精神に失調をきたしてくるという寓話だ。

 カフカふうの「グロテスクなユーモア」が、「海峡」の自然現象の描写によってしめされる。

 つまり、海風がすさまじく、雨は斜めに降る。とりわけ、砂と錆(塩分)に象徴される「外敵」によって、飯田公蔵の精神と生活は次第に崩壊しかける。
 
 朝に作ったおかずの中に砂のジャリッとした感触を感じたのがはじめだった。「一口一口用心しながら、砂がないかと恐れているのに、まるで砂を望んでいるみたいにじっくりと噛んでいった」(142)

 畳の部屋を掃除すれば、「埃と一緒に砂が、ホースの内側にパチパチとぶつかりながら吸い込まれた」(148)

 車を車庫から出そうとすれば、「砂粒のうちの大きいものが押し潰されたり弾き飛ばされたりする音がした。

 走り始めると、細かい砂粒の上をタイヤが転がってゆくめりめりという響きが続いた。砂埃が舞い上がった」(156)
 
 
 
 二年前に川端康成賞を受賞した「蛹」は、母の死骸に涙し、集団ですばしこく動く蟻や、地鳴りを起こしながら動く蛇にびくびくするかぶと虫の幼虫の視点で描かれたユニークな小説だったが、同様に異色なのは「汽笛」という短編である。
 
 この小説で、「海峡」は、どうやらこの世とあの世の狭間を意味している。

 「私」は、波止場に係留中の大きな貨物船に乗り込むが、それは亡くなった者たちをあの世へと運ぶための船である。

 「私」はマンションから飛び降りたようだが、他に、紫色のワンピースを着た、特急電車に飛び込んだという六十代の女性や、首つり自殺をしたという中学生ぐらいの女の子二人などが一緒に船に乗り込む。

 五十代ぐらいのスーツを着た男も搭乗しようとするが、生者なので断られる。「生者」から「死者」へ移行中の魂の浮遊を記述しようとした寓話だといえよう。
 
 田中慎弥は、大江健三郎の「森」や中上健次の「路地」のみならず、遠くガルシア=マルケスの「マコンドの村」やフォークナーの「ヨクナパトーファ郡」などに匹敵するような小説のトポスとしての「海峡の街」を、この作品集でさらに強靱に築きあげつつある。

 注目すべき作家だ。

(『文学界』2010年8月号234-235頁)