小黒昌一『たんぽぽの詩(うた)』校倉書房、2008年
立ち込める靄(もや)。暁の兆しもない夜明け前の闇。
と、浅草は新谷町の一角にある二階家の裏窓辺の闇から小さな影が抜けでた・・・。
猿(ましら)か? 影は、両足でトタン屋根を軽く蹴ったかと思ったら、表通りの電信柱にピョイと跳びつき、スルスルッとすべって大地に下り立ち、首をすくめ腰をかがめ、辺りを見回した。そしてそのままの姿勢で走りだした。速い、速い。風を巻いて走るどころではない。疾風そのものだ。
浅草から上野まで、アッという間の韋駄天ひとっ走りで、猿は上野駅にいた。暗い構内におかれた長椅子の下に身をひそめ、息をころし、始発電車の改札を待っていた。(以下略)
小黒昌一先生から、できたての著書を送っていただいた。大半は『読売新聞』に連載されていた随筆コラムからなる。随筆は師と仰ぐ小沼丹同様、字句表現に砕身の注意を払いながらもそれと感じさせない飄々とした味わいが特徴。
なかに表題作の小説が一編があり、異彩を放つ。上に引用したのは、小説の冒頭。のちに古式泳法の師範になるカトリ栄一少年が、戦時中に就職先の東京・浅草から新潟に逃げ帰るシーン。
新潟で薬剤師としての修行、終戦直前に招集されてシベリアでの抑留生活、戦後、故郷に帰り薬屋を開業、八十歳での隠居。隠居後のたのしみは、厳冬の日本海のテトラポッドの岩のりでつくった自家製「荒海苔」をあぶりながらの燗酒。小説の最後は・・・
ーーこうして長い年月を生きておりますと、さすがに眠くなることもありますてバ・・・。これまた楽しからずやですて。
と、栄一翁。「熱い(あちち)、熱い(あちち)」と言いながら、お銚子の酒を愛用の猪口に移し、ゆっくりと口にはこび目を閉じると、たんぽぽの花が見えた。果てしなく広がる空間を黄色い花が埋め尽くして、遠く地平線の果てまでつづいている。風が吹くと、その花々が波のように揺れて、サワサワと、サワサワと、うねりながら囁きながら、荒野の彼方に消えていった。
参考:早稲田大学新聞のHPで、「たんぽぽの詩」の全文が読める。http://grello.net/grello/oguro/tanpopo.htm
THE ALFEE作「タンポポの詩」(『どらエモン』のエンディング・テーマ)