越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太『サンパウロへのサウダージ』

2008年12月31日 | 小説
失われた「時」を探索(もと)めて
クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太
『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房、2008年)
越川芳明

 とても贅沢な本だ。まるで西洋音楽とアフリカ音楽が一度に楽しめるサンバのように、本来二冊になるはずの本が一冊に纏められているのだから。

 さらに、そこに写真と活字からなる重層的なテクストという贅沢が加わる。

 タイトルにもある「サウダージ」という言葉は、レヴィ=ストロースにいわせると、日本語の「あわれ」に似て、「ノスタルジー」に近い意味を持つという。

 ただし、過ぎ去ったものを懐かしむというのではなく、今という時間のはかなさを懐かしむ気持ちのことだ。

 今福もそれを受けて、「私はたえず「いま」という時の瞬間的な充満と喪失に配慮するこの特異なブラジル的悲嘆のあり方を、「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった」と、共鳴している。
 
 本書の前半は、レヴィ=ストロースの写真集(今福による活字テクストの翻訳を含む)。

 オリジナル版は一九九六年に刊行されているが、写真はすべて彼が一九三五年から四年にわたってサンパウロに滞在した時に撮ったものだ。

 レヴィ=ストロースは「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっているのか見えなくなり、それだけ事態が把握できなくなる」と、写真を撮ることの逆説を説いている。

 おそらく撮る前に、なんども都市を歩き回り、撮ることを逡巡したに違いない。
 
 現在、人口が二千万人と南米一のメガロポリスと化したサンパウロは、一九三〇年代はまだ百万人の新興都市であり、植民地の名残をとどめていた。

 レヴィ=ストロースの写真集でも富裕層の街区のそばに貧困層の街区が隣接し、近代的な路面電車のそばを家畜が通るなど、街の多様性を窺うことができる。

 さらに、「無秩序な都市化」の様相もかいま見ることができる。

 象徴的なのは、当時唯一の摩天楼として屹立していたマルティネッリ・ビルの写真であり、今福が六十五年後に同じ構図で撮った同ビルのまわりには高層ビルが乱立している。

 ビルは存在しても、現在の文脈では意味が変わっている。

 レヴィ=ストロースの写真集の中の、洗濯物がはためくイトロロの谷とか、サンパウロ初の近代的なアパートビルのコロンブス・ビルなどはすでにない。

 ここに収められた写真は、未来を幻視する「消失のヴィジョン」で撮られたに違いない。
 
 本書の後半は、「時の地峡をわたって」というタイトルの、今福龍太による刺激的なエッセイと写真集からなる。

 今福自身、レヴィ=ストロースの写真集に触発された再撮影の旅を「時の微細な痕跡をさがす彷徨」と名づけ、敢えて時間をかけて自分の足でかつてレヴィ=ストロースが歩いた場所を歩く。

 その足の下に、時の重層的な重ね書きを感じ、「時の回廊」を発見するために。

 実際、リベルダージ大通りの、屋根の石像をはじめ、今福の写真集のあちこちにその小さな、しかし重要な「発見」を見つけることができる。
 
 今福のエッセイの中で圧巻なのは、植民地主義的暴力と遠く繋がる民族学における写真撮影の意味を問い直している点である。

 ブラジルの学者から『悲しき熱帯』を、民俗誌的データの収集にもとづく体系的な記述でないと批判する声があり、今福はその限界こそ可能性だと切り返す。

 それは「力の探求」としての民族学が破綻する試みだったからだ、と。

 学問が植民地主義的暴力を助長しているケースはいまなおあり、学問の対象とされる「他者」からの眼差しを限りなく意識した本書の意義はとても大きい

(『STUDIO VOICE』2009年2月号、86頁)


チアパスの詩人

2008年12月29日 | 小説
ペンクラブ主催の、アンバル・パストさんを「囲む会」が24日(水)にあった。パストさんは、チアパスのサンクリストバル在住の女性詩人。もともとは米国のノースカロライナ生まれだが、いまはメキシコ国籍をとり、先住民の言語ツォツィル語やスペイン語で詩を書く。

民話調の、ユーモアのある、ときにセクシャルな詩である。土曜美術社の『現代メキシコ詩集』に、細野豊氏の翻訳がある。会場で、彼女の詩集を二冊買い求めた。

会のあと、久しぶりにお会いした野谷文昭さんと喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら雑談した。野谷さんは、某社の翻訳で缶詰になっているとのこと。岩波書店から今年の初春に出されたコルタサルの翻訳の話や、キューバやメキシコの話をうかがった。




演劇「人類館」

2008年12月23日 | 音楽、踊り、祭り
16日(火)夜、早稲田大学大隈講堂で、1978年に岸田戯曲賞を受賞した「人類館」を見る。今回は、これ一回限りということで、貴重な体験だった。http://ja.wikipedia.org/wiki/人類館事件

早稲田大の沖縄研究所所長の勝方=稲福恵子先生のご尽力によるところ大きい。劇団<創造>の俳優たちの演技もすばらしい。ウチナー口と日本語を縦横無尽に使いこなし、ブラックユーモアの風刺をつかって、本土から沖縄への<抑圧>の構造を浮かび上がらせる。

ゼミ三年生15名も観劇。オフキャンパスの課外活動の一環として。閉演後、高田馬場のお好み焼き屋で夕食。予定外の楽しいゼミの忘年会になった。三年生ゼミは、1月にまた新年会(沖縄料理)が予定されている。

チェ・ゲバラの映画

2008年12月06日 | 映画
事実にもとづく革命ドラマ
『チェ  28歳の革命』『チェ39歳  別れの手紙』
越川芳明

 唯一外国人(アルゼンチン人)でありながら、グランマ号に乗ってバチスタ独裁政権との戦いに加わることを許され、戦いに勝利してからはキューバ革命のヒーローとして、また若くして志半ばで斃(たお)れてからは、理不尽な圧政と戦う世界中の抑圧された人々から<正義の戦い>のイコンとして崇められてきたエルネスト・ゲバラ。

 その<正義の戦い>のヒーローをめぐるこの映画、奇しくもキューバ革命五十周年にあたる二〇〇九年一月に公開される。

 映画は、第一部『28歳の革命』と第二部『39歳 別れの手紙』からなる。

 聞くところによれば、もともと製作サイドはボリビアの山中で負け戦を強いられたゲバラの映画(第二部にあたる)を作りたかったようであるが、なぜチェがボリビアに出向くのか、その説明が必要なのでキューバ革命を扱った第一部を作る必要が生じたという。

 しかし、皮肉なことに、映画としては第一部のほうが断然素晴らしい。

 それというのも、第一部ではソダーバーグの手腕がいかんなく発揮されているからだ。そこでは語りの構造が複雑であり、直線的な時間軸にそって物語が進行しない。

 一方、第二部は、ゲバラの『ボリビア日記』にもとづいて退屈にほかならない直線的な時間軸で語られており、作り手の側に安易なところが見られる。

 ソダーバーグ監督自身も、インタビューで、「膨大なリサーチから集めたエピソードを、どのように編集し、組み立てるかが問題だった」と、述べている。

 逆にいえば、「編集や組み立て」というのは監督による「ゲバラ解釈」に他ならず、第一部では十分に行なわれているが、第二部ではその解釈を、チェを演じたベニチオ・デル・トロに委ねてしまっている。

 第一部『28歳の革命』を見てみよう。

 ここでは一九五二年から一九六四年までを扱っているが、まず二つの外枠の時間(一九五二年と一九六四年)をモノクロでしめし、外枠で括られたその間の時間帯をカラーで映し出し、モノクロとカラーの二つの映像を交互に繋ぎあわせている。

 冒頭は、一九六四年に国連でのスピーチのためにゲバラがニューヨークを訪れた時に行なわれたテレビインタビューのシーンだ。

 真っ暗な中でマイクチェックスをしているチェの声だけが聞こえてくる。

 すぐに、「1952年3月」のクレジットと共に、バチスタ軍事独裁政権が発足し、巨大な船から大挙してアメリカ兵がキューバに上陸し、首都ハバナでカジノやナイトクラブが隆盛を見せる光景がモノクロで示される。

 基本的に、モノクロ映像は、親米時代(キューバの上流階級や指導者が米国の資本家やマフィアと結託していた)から反米時代へと移行したキューバの政治的ベクトルを示唆している。

 そうしたモノクロ映像の中に、いわゆる「チェ語録」なるものが数多く挿入されている。

 とりわけ、米国による中南米の国々への政治的、軍事的介入を批判したり、資本主義の矛盾をついたりする名セリフは皮肉とエッジが利いている。

 第一部『28歳の革命』がもし大々的にアメリカで公開されるならば、小国の歴史などに無関心な大多数のアメリカ国民にとって批判ともとれる衝撃的な映画になるはずだ。

 第一部のそうしたモノクロ映像の間に差し挟まれるのは、一九五五年のメキシコシティにおけるカストロとチェの出会い、五六年十一月のグランマ号でのキューバへの出発、五六年から五九年一月までつづくシエラ・マエストラやサンタ・クララでの戦いのシーンだ。

 だが、強調されるのは、ゲバラが真の革命家になったのが戦いそのものによってというより、負傷したゲリラ兵士を移送する地味な役を負わされたことによってであるという点だ。

 つまり、ここでは、ゲリラ兵士としてよりも、医師としてのゲバラがつよく印象づけられる。第一部では、ゲバラが真の革命家として目覚めていく、その進化のプロセスに重点があり、そこにソダーバーグの解釈が色濃く現われている。

 しかし、ゲバラには軍人としての要素もあり、それは第二部『39歳 別れの手紙』で強調される。

 というのも、こちらでは一九六六年から六七年にかけてボリビアの山地で展開したゲリラ戦が題材になっているからだ。

 ゲバラはカストロに「別れの手紙」を書いて、ラモンという偽名でボリビアに潜入し、キューバから隠密裏に入国した部下のゲリラたちと合流した。

 キューバ革命と同じように山間地からゲリラ戦を展開しようとするが、ボリビア共産党からの支持(ゲリラ兵と物資の供給)を絶たれ、ボリビア軍によっておどされた地元の農民たちの協力も得られず、次第に孤立していく。

 ゲバラと部下たちは、米国の特殊部隊による訓練を受けたボリビア政府軍の掃討作戦に遭ってあえなく敗れ去る。

 では、なぜ圧倒的な軍事力(人員と武器)を前に負け戦を強いられるゲバラを描いたのだろうか。

 第二部は、グランマ号でキューバに向かうゲバラの十一年前のシーンで終わっている。

 革命の始まりに戻るという、そうした円環構造から読み取れるメッセージは、「革命は終わらない」ということだろう。

 ゲバラは処刑される前に、ボリビア軍の士官に「ボリビアの農民は君たちを裏切ったではないか」と問われて、「彼らはわれわれの失敗で目覚めるかもしれない」と答える。

 これは非常に意味深長な言葉だ。

 二〇〇六年には、先住民出身のモラレスが大統領に就任して、左派政権が誕生したからである。

 ボリビアのモラレス大統領は、就任演説で自分のなすべき任務がゲバラの戦いにつづくものであることを表明した。

 もし第二部に、そうしたゲバラの予言性にまで言及する意図があったとすれば、別の構造を取っていたに違いないし、第一部を凌ぐ映画になっていたはずだ。

(『すばる』2009年1月号、310ー11頁)