失われた「時」を探索(もと)めて
クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太
『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房、2008年)
越川芳明
とても贅沢な本だ。まるで西洋音楽とアフリカ音楽が一度に楽しめるサンバのように、本来二冊になるはずの本が一冊に纏められているのだから。
さらに、そこに写真と活字からなる重層的なテクストという贅沢が加わる。
タイトルにもある「サウダージ」という言葉は、レヴィ=ストロースにいわせると、日本語の「あわれ」に似て、「ノスタルジー」に近い意味を持つという。
ただし、過ぎ去ったものを懐かしむというのではなく、今という時間のはかなさを懐かしむ気持ちのことだ。
今福もそれを受けて、「私はたえず「いま」という時の瞬間的な充満と喪失に配慮するこの特異なブラジル的悲嘆のあり方を、「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった」と、共鳴している。
本書の前半は、レヴィ=ストロースの写真集(今福による活字テクストの翻訳を含む)。
オリジナル版は一九九六年に刊行されているが、写真はすべて彼が一九三五年から四年にわたってサンパウロに滞在した時に撮ったものだ。
レヴィ=ストロースは「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっているのか見えなくなり、それだけ事態が把握できなくなる」と、写真を撮ることの逆説を説いている。
おそらく撮る前に、なんども都市を歩き回り、撮ることを逡巡したに違いない。
現在、人口が二千万人と南米一のメガロポリスと化したサンパウロは、一九三〇年代はまだ百万人の新興都市であり、植民地の名残をとどめていた。
レヴィ=ストロースの写真集でも富裕層の街区のそばに貧困層の街区が隣接し、近代的な路面電車のそばを家畜が通るなど、街の多様性を窺うことができる。
さらに、「無秩序な都市化」の様相もかいま見ることができる。
象徴的なのは、当時唯一の摩天楼として屹立していたマルティネッリ・ビルの写真であり、今福が六十五年後に同じ構図で撮った同ビルのまわりには高層ビルが乱立している。
ビルは存在しても、現在の文脈では意味が変わっている。
レヴィ=ストロースの写真集の中の、洗濯物がはためくイトロロの谷とか、サンパウロ初の近代的なアパートビルのコロンブス・ビルなどはすでにない。
ここに収められた写真は、未来を幻視する「消失のヴィジョン」で撮られたに違いない。
本書の後半は、「時の地峡をわたって」というタイトルの、今福龍太による刺激的なエッセイと写真集からなる。
今福自身、レヴィ=ストロースの写真集に触発された再撮影の旅を「時の微細な痕跡をさがす彷徨」と名づけ、敢えて時間をかけて自分の足でかつてレヴィ=ストロースが歩いた場所を歩く。
その足の下に、時の重層的な重ね書きを感じ、「時の回廊」を発見するために。
実際、リベルダージ大通りの、屋根の石像をはじめ、今福の写真集のあちこちにその小さな、しかし重要な「発見」を見つけることができる。
今福のエッセイの中で圧巻なのは、植民地主義的暴力と遠く繋がる民族学における写真撮影の意味を問い直している点である。
ブラジルの学者から『悲しき熱帯』を、民俗誌的データの収集にもとづく体系的な記述でないと批判する声があり、今福はその限界こそ可能性だと切り返す。
それは「力の探求」としての民族学が破綻する試みだったからだ、と。
学問が植民地主義的暴力を助長しているケースはいまなおあり、学問の対象とされる「他者」からの眼差しを限りなく意識した本書の意義はとても大きい
(『STUDIO VOICE』2009年2月号、86頁)
クロード・レヴィ=ストロース+今福龍太
『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房、2008年)
越川芳明
とても贅沢な本だ。まるで西洋音楽とアフリカ音楽が一度に楽しめるサンバのように、本来二冊になるはずの本が一冊に纏められているのだから。
さらに、そこに写真と活字からなる重層的なテクストという贅沢が加わる。
タイトルにもある「サウダージ」という言葉は、レヴィ=ストロースにいわせると、日本語の「あわれ」に似て、「ノスタルジー」に近い意味を持つという。
ただし、過ぎ去ったものを懐かしむというのではなく、今という時間のはかなさを懐かしむ気持ちのことだ。
今福もそれを受けて、「私はたえず「いま」という時の瞬間的な充満と喪失に配慮するこの特異なブラジル的悲嘆のあり方を、「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった」と、共鳴している。
本書の前半は、レヴィ=ストロースの写真集(今福による活字テクストの翻訳を含む)。
オリジナル版は一九九六年に刊行されているが、写真はすべて彼が一九三五年から四年にわたってサンパウロに滞在した時に撮ったものだ。
レヴィ=ストロースは「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっているのか見えなくなり、それだけ事態が把握できなくなる」と、写真を撮ることの逆説を説いている。
おそらく撮る前に、なんども都市を歩き回り、撮ることを逡巡したに違いない。
現在、人口が二千万人と南米一のメガロポリスと化したサンパウロは、一九三〇年代はまだ百万人の新興都市であり、植民地の名残をとどめていた。
レヴィ=ストロースの写真集でも富裕層の街区のそばに貧困層の街区が隣接し、近代的な路面電車のそばを家畜が通るなど、街の多様性を窺うことができる。
さらに、「無秩序な都市化」の様相もかいま見ることができる。
象徴的なのは、当時唯一の摩天楼として屹立していたマルティネッリ・ビルの写真であり、今福が六十五年後に同じ構図で撮った同ビルのまわりには高層ビルが乱立している。
ビルは存在しても、現在の文脈では意味が変わっている。
レヴィ=ストロースの写真集の中の、洗濯物がはためくイトロロの谷とか、サンパウロ初の近代的なアパートビルのコロンブス・ビルなどはすでにない。
ここに収められた写真は、未来を幻視する「消失のヴィジョン」で撮られたに違いない。
本書の後半は、「時の地峡をわたって」というタイトルの、今福龍太による刺激的なエッセイと写真集からなる。
今福自身、レヴィ=ストロースの写真集に触発された再撮影の旅を「時の微細な痕跡をさがす彷徨」と名づけ、敢えて時間をかけて自分の足でかつてレヴィ=ストロースが歩いた場所を歩く。
その足の下に、時の重層的な重ね書きを感じ、「時の回廊」を発見するために。
実際、リベルダージ大通りの、屋根の石像をはじめ、今福の写真集のあちこちにその小さな、しかし重要な「発見」を見つけることができる。
今福のエッセイの中で圧巻なのは、植民地主義的暴力と遠く繋がる民族学における写真撮影の意味を問い直している点である。
ブラジルの学者から『悲しき熱帯』を、民俗誌的データの収集にもとづく体系的な記述でないと批判する声があり、今福はその限界こそ可能性だと切り返す。
それは「力の探求」としての民族学が破綻する試みだったからだ、と。
学問が植民地主義的暴力を助長しているケースはいまなおあり、学問の対象とされる「他者」からの眼差しを限りなく意識した本書の意義はとても大きい
(『STUDIO VOICE』2009年2月号、86頁)