越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

10月9日(水)のつぶやき

2013年10月10日 | コラム

書評 コラム・マッキャン『世界を回せ』  goo.gl/nUrxhZ

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書評 ハリー・マシューズ『シガレット』 goo.gl/VDfZWY

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書評 ハリー・マシューズ『シガレット』 goo.gl/kOoXoN

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映画評  青山真治監督『共喰い』 goo.gl/ZD6sd1

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映画評  青山真治監督『共喰い』

2013年10月09日 | 映画

「西」からの逆襲

青山真治監督『共喰い』

越川芳明

  西日本の海峡の街を舞台にした小説を書き続ける田中慎弥の芥川賞受賞作『共喰い』(二〇一一年)を、映画化したものである。

 もし他の映画監督が撮ったなら、見る気など起こらなかったかもしれない。田中慎弥の言語魔術の世界、土地や風土にこだわる精緻な描写を堪能してしまった者にとって、物語をなぞるだけの映画は不要だから。

 だが、監督は、あの『EUREKA ユリイカ』(二〇〇〇年)の青山真治である。『路地へ 中上健次の残したフィルム』(二〇〇一年)で、中上世界にも挑んでいる。

 果たして、青山の映画はただ小説をなぞるだけではなかった。むしろ小説の隠れたモチーフがより鮮明になっていた。

 それは水や川のモチーフだ。たとえば、映画の冒頭に、川と橋を撮った早回しのショットが出てくる。川は南北に流れ、橋は東西にかかっていて、そうした風景を北の方から撮っている。

 なぜそうした方角が分かるかというと、夜明けから昼までの時間の経過とともに、太陽の動きが水面に映るからである。主人公の篠垣遠馬(とおま)(十七歳)は、橋の東側に、父の円(まどか)とその愛人との三人で暮らしている。籍を抜かずに長らく父と別居している母、仁子(じんこ)は、橋の西側で魚屋をしている。

 東西にかかる橋は、遠馬にとって、二つの家を行き来しながら大人への成長を遂げる、通過儀礼のための通路だ。西側には神社があり、そこが死者(先祖の霊)を祀る世界だとすれば、遠馬少年は、黄泉の国での仮死体験(恋人・千種(ちぐさ)との社での気まずい性行為)を経て、父の居るこの世に戻る。

 川は二つの世界を分ける境界となる。東側は、遠馬にとって、この世であると同時に、旧世界の価値観を温存している。昭和六十三年夏から翌年の一月にかけて、という時代設定なので、それは「昭和」の価値観と言い換えてもいいだろう。さまざまな禁忌が生きていて、目に見えない世間の眼も存在する。

 しかしながら、そこに住む父・円は、「昭和」の価値観の一面的な体現者ではない。性の営みのときに女性に暴力をふるうことでしか絶頂に達することができないという歪んだ欲望の持ち主(そのため仁子は家を出た)でありながら、彼は世間の禁忌のみならず、身体障害者への差別観からも解放されて、戦火で片手を失った仁子と結婚しているのだ。いわば、「卑俗性」と「聖性」を併せ持つ両義的な存在であり、一種の超人だ。もうひとりの昭和の「超人」の、市民版ともいえる。

 小説では、精力絶倫ともいうべき父・円によって、川は女性の割れ目に喩えられている。「……丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない」。しかも、この川は海に接していて潮の干満があり、満潮では海水が流れ込むが、干潮では捨てられたゴミが目立ち、土の部分が露出する。それでなくても、家庭からの下水や洗濯水がそのまま垂れ流されたり、遠馬のような少年がオナニーで精液を流したりして、ドブ川の様相を呈している。そのドブ川が物語のクライマックスで、聖性をおびるようになるのだ。

 映画では、水のモチーフが見事に展開され、祭りの時期の集中豪雨によって、遠馬の家では雨漏りがして、父の置いた金盥が雨水でいっぱいになる。そこに大鰻が絡む幻想的なシーンが挟まれる。鰻は、絶倫男である父の好物として描かれているので、このシーンは遠馬少年が持て余す自身の性欲の象徴として秀逸だ。

 小説では、仁子の義手が円の腹に突き刺さり、それは「金属の塔」という言葉で表現されている。加虐者に対する被虐者の「逆襲」を感じさせる表現だが、映画は小説の結末を越えて、女性たちのさらなる逆襲を描き出す。それは仁子の昭和天皇に対する発言や、千種のその後の生き方によく表れている。特に千種のそれは西側にある魚屋や神社を舞台にしている。つまりそれは、「東」の時代が終わり、一種女系的な「西」側の価値観に時代が推移したことを表しているのではないだろうか。

 田中慎弥の小説は、淀んだ川の流れを時間の流れと重ね合わせる。

「……時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった」

 映画は、その言葉を引き受けるかのように、最後に淀んだ時間の流れを前へと進ませるシーンを付け加える。冒頭のシーンと呼応するかのように、しかし別の角度から写した川の映像が流れ、そこに「そして年が明けて昭和が終わった。昭和六十四年一月七日、午前六時三十三分。満潮に近い時間だった」という、ナレーションがかぶる。

 かくして、斬新な解釈を施しつつも、田中慎弥の内的世界を見事に表現した映画が完成した。

(『すばる』2013年10月号、368−369頁)


書評 ハリー・マシューズ『シガレット』

2013年10月09日 | 書評

ダイヤモンドの結晶面のような多彩な物語の光を放つ 

ハリー・マシューズ(木原義彦訳)『シガレット』

越川芳明

  この小説は、十五の断章とエピローグからなる構成に大きな特徴がある。それぞれの断章は、まるで屈折率や分散率の高いダイヤモンド結晶面のように、多彩な物語の光を解き放つ。

 いま、あなたの前にある断章は二つ視点を持ち、「アランとエリザベス」とか「オリバーとエリザベス」といった、対話法(ダイアローグ)めいたタイトルが付けられているが、二人が対話を交わすとは限らない。あくまで視点のぶつかり合いによる対話法であり、あなたはそのすれ違いから生じるアイロニーを楽しむ。そういう仕掛けなのだ。

 あなたは、互いに矛盾することもある対話法の空白を埋めながら読み進める。どうせジグソーパズルの絵は完成しないのだから、誤読を怖れる必要はない。むしろ、このパズルはあなたによる創造的な誤読を誘発しているとさえ言える。

 そういう意味で、これはあなたからの積極的なレスポンス、あなたの鑑賞/干渉を要求する「芸術小説」だ。ちなみに、本書は『人生 その使用法』で有名なジョルジュ・ペレックに捧げられているが、そのペレックやクノー、カルヴィーノらからなる<ウリポ>という芸術家集団に、著者ハリー・マシューズも所属している。彼らは一様に、過去から現在へと時間軸に沿って話を進める凡庸なナラティヴ(通常、あらすじと呼ばれる)を回避して、独自のフィクション、独自の言語宇宙を創造しようとする。

 だからといって、怖れるには当たらない。語りのエクリチュール自体は、非常にオーソドックスだから。内容も日常生活の機微、というか男と女、男と男、女と女の愛憎とすれちがい。舞台は、芸術をもビジネスに変えてしまう魔法の都市ニューヨーク・シティと、その都市の富裕層が夏の避暑地として滞在する州北部オールバニー市近郊。時代は、大恐慌からアメリカが立ち直った一九三〇年代後半と、米ソ冷戦のさなかキューバ危機のあった一九六〇年代前半。

 視点となる登場人物は、全部で十三人いる。彼らは夫婦だったり、恋人だったり、親子だったり、愛人だったり、ビジネスパートナーだったりして、互いに何らかの関係性が存在する。

 たとえば、象徴的なのはある父娘(ルビ:おやこ)だ。保険代理店業の立場を利用して大規模な保険金詐欺で大金を稼ぎ、富裕層の一角に食い込むオーウェンと、ヒッピー時代の洗礼を受け、芸術家を志すその娘フィービ。一方がなりふり構わぬ金の亡者ならば、他方は<反資本主義>の権化。父親は娘に自分とちがった芸術家の道を歩ませたくて、幼い頃から英才教育をほどこすが、いざ娘が自立しようと新進画家に弟子入りしたとたんに、その道を閉ざそうとする。おまけに、娘が甲状腺の異常から体調を崩すと、娘の主治医らに自分の偏見を吹き込んで誤診を招く。

 この小説の大きなテーマの一つは、アメリカにおけるそうした親子間をはじめとして、夫婦間の、男女(ジェンダー)間の、芸術家とエージェント(画廊)間の支配/被支配関係であり、その逆転現象である。そのような現象の口火を切る<激動の六〇年代>といった時代性は、神経衰弱に陥ったフィービがケネディ大統領に送る狂気の手紙のように、「隠し絵」として深層に描き込まれている。

 この小説では、ある断章で視点として大きく扱われる人物も、別の断章では背後に引っ込んで、マイナーな人物に変わる。すべての登場人物が、それなりに主役の役をこなす。とはいえ、著者の世界観や芸術観を反映しているという意味で、他の人物より重要な登場人物が二人いる。エリザベスという謎の女性であり、モリスという狂気の批評家である。

 二人に共通するのは、ともにセクシュアリティに関して因習的な価値観から解放されているという点だ。エリザベスは、さまざまな男性と関係しながら誰からも支配されず、また俗物の夫(アラン)の支配に甘んじている保守的な女性(モード)の性的抑圧を解いてやったりする。さらに、絵のモデルとして新進画家(ウォルター)に霊感を与え、かれを一躍スターにする。

 一方、芸術批評家のモリスは年下の男(ルイス)にSMのてほどきをしながら、文章修行をほどこす。モリスが与える文章レッスンの一つは、「芸術は、連続性や一貫性という<自然らしさ>を回避するところから始まる」というものだ。言うまでもなく、この小説はこうしたモリスの芸術論を反映させた芸術実践に他ならない。

 最後に、小説の冒頭と最後のエピローグだけに登場する語り手の「私」について触れておこう。モリスに先立たれたルイスとおぼしき人物のこの「私」は、死に取り憑かれている。「生ける死者は空想の領域の存在ではない。彼らこそ地球の住民だ」と、自らも死者の霊域に踏み込んだかのような発言をしている。というのも、マシューズのみならず、あなたにとっても、ミューズ(芸術の女神)の霊感と死者たちの霊感、これこそが芸術家に真の芸術を創出させる源だからだ。

(『読書人』2013年9月27日号)