越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 ゼーバルト『カンポ・サント』

2011年06月29日 | 書評
死者の視点で現代照射
W・G・ゼーバルト『カンポ・サント』
越川芳明
 
 表題作の「カンポ・サント」が素晴らしい。

「カンポ・サント」とは「聖なる苑」という意味で、「墓地」ということだ。
 
 著者は、住民が死者と共に暮らしていた時代に思いを寄せる。

 「コルシカの老女のなかには日暮れどきに死者の棲家(すみか)を訪れ、土地の利用法や処世の途について死者の声に耳をかたむけ、死者と協議するのをならいとしていた者があちこちにいた」
 
 生きながらにして亡霊の視点を持つこと、あの世からこちらの世界を眺めること。

 これこそ、ゼーバルトが終生心がけてきたことではなかったか。

 この散文が含まれる前半は、ナポレオンの生家があるコルシカ島を舞台にした「紀行文」だ。

 「紀行文」と言っても、ただの旅行記ではなく、自然誌や人類学に基づく考察に個人的な体験を重ね合わせ、それを全世界とは言わないまでも、全ヨーロッパの戦争の歴史へと敷衍(ふえん)する。

 それ自体、ゼーバルトが「統語失調症」の詩人エルンスト・ヘルベックの手法として述べた「さかさまの遠近法」にほかならない。

 「極小の丸い像のなかに、あらゆるものが詰まっている」からだ。

 アメリカの批評家スーザン・ソンタグが絶賛したゼーバルト作品集だが、本書だけは異色だ。

 作家の急死をうけて、編者の手によって編まれた遺稿集だから。
 
 だが、ここに収められた文章は、他のゼーバルト作品の執筆時期に重なるという。

 これまでにこの著者を知らない人にも、恰好の入門書となるはずだ。

 ハントケやグラスなどの西ドイツの戦後文学をめぐって、なぜ「廃墟」を扱った作品がないのか論じ、さらにナボコフやカフカ、チャトウィンなど、異邦人として生きた作家たちを取り上げる。

 かつて著者は、死者の蘇りについて、こう言っていたものだ。
 
 「ある種のものごとはきわめて長い間をおいて、思いもよらぬかたちで、不意を打って舞い戻るものなのである」(『移民たち』)と。

(『北海道新聞』2011年6月26日)
 

書評 ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』

2011年06月27日 | 書評
東部戦線の「地獄絵」を描く 
ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』
越川芳明  

 第二次世界大戦のユダヤ人の大量虐殺を扱った文学の中でも、本書は質量ともに別格だ。

 主人公はドイツ親衛隊の将校で法学博士のマクシミリアン・アウエ。

 ポケットにフロベールの小説をしのばせるような思索派の文学青年だ。

 ナチスの東方への遠征に参加し、最初はユダヤ人の虐殺にかかわらないが、運命の成り行きで、かかわらざるを得なくなる。

 アウエは語り手でもあり、導入部で「殺す者は、殺される者と同じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ」と、述べる。

 彼はもともと戦場で悪夢と嘔吐に悩まされ神経衰弱に陥るほどに繊細な感覚の持ち主だったが、最後には唯一無二の親友だったトーマスを殺めるような「殺人鬼」になり果てる。

 この種の物語では、目を被いたくなるような惨殺シーンがあればあるほど、物語にリアリティがあると見なされやすい。

 本書でも、ウクライナへの侵攻から始まり、スターニングラードでの決戦を経て、敗戦によるベルリンへの撤退に至るまで、血と糞尿と死臭の漂う「地獄絵」の連続だ。

 しかし、著者は虐殺の被害者としてのユダヤ人像を大げさに打ちだすことで、イスラエルやユダヤ人に利するだけの立場は取らない。

 ナチスがウクライナの民族主義者たちに執行を肩代わりさせる報復の公開処刑や、ロシアの戦線の戦争孤児たちが組織する戦闘集団による乱暴狼藉など、暴力は至るところに見られ、ユダヤ人以外にも、その土地の女性や子ども、動物や家畜までが犠牲になる。

 ナチスもロシア・ボルシェヴィキも等しく野蛮である。

 語り手は言う。「近代の大量虐殺は大衆にたいし、大衆によって、大衆のために課せられる一連の過程である」

 戦争や虐殺ではなく、主人公の個人的な体験にまつわるフィクションの部分では、同性愛や近親相姦、父の不在、母殺しなど、ギリシャ神話に想を得た人間的なテーマが絡みあう。

 さらにコーカサス山岳地帯の多民族の諸言語の研究者で、頭蓋人類学のいかさまを説くフォン博士の登場なども相まって、知的な読み物としても大いに楽しめる。

『時事通信』2011年6月19日(日)

カプランオール『蜜蜂』(2)

2011年06月25日 | 映画
本作は、ユスフをめぐる三部作の完結編にあたるが、全編を通して父親から受け継いだと思える病いへの言及が見られる。

第一作『卵』(二〇〇七年)では、中年ユスフが亡き母の遺産手続きのため事務所を訪れたさいに、中庭で綱作りの職人の歯車の音に反応して地面に倒れる。

彼は助けた職人に「弔いの朗誦が聞こえた」と述べる。

第二作『ミルク』(二〇〇八年)では、青年ユスフが母の生活に「再婚」の兆しが見えたとき、バイクの運転中てんかんの発作をおこす。

そうした父譲りの発作は、神に選ばれた者の「聖痕」に他ならない。

母は青年ユスフに対して、「朝起きてくれば、本を抱えている。

外に出れば、空や地面を眺めて、花や虫ばかり見ている」と不満を述べるが、そうした母の愚痴は、ユスフの詩人としての才能を逆に暗示している。


映画の中での満月のイメージも鮮烈だ。

少年は、父の不在のなか、真夜中に水たまりの前に座り、満月を両手でそれをつかもうとする。

月の形が崩れ、やがて元通りになる。すると、少年は月の中に顔を突っ込む。

満月は、カプランオールの好きなモチーフだ。

『卵』でも、晩秋の湖面から立ち上る月がでてくるし、『ミルク』では、夜中に青年が街中を彷徨するその向こうに満月が浮かぶ。

月の動きは、時間の経緯をあらわす。

主人公ユスフをはじめとする人間の世界に次々と歓迎すべからざる出来事が起こり、人間たちが「運命」にもてあそばれても、月は変わらず満ち欠けを繰り返す。

本作は、そうした運命論や自然への畏怖心を育む文化土壌を丁寧にすくい取っている。

イスラム文化圏のトルコが舞台であるだけに、イスラムの信仰生活のシーンも重要な意味を持つ。

たとえば、父が「黒壁」と呼ばれる遠くの森へ養蜂の道具を仕掛けに出て行ったきり戻らないので、母は少年を祖のもとに預ける。

祖母は丘の上に建てられた女子修道院に少年を連れて行く。

そこでは、白い布で頭を覆った女性たちが、昇天するムハンマドのエピソードをつづった一節をみなで朗読している。

そこで、少年は自分の嫌いなミルクをめぐるある啓示を得る。

三部作の中で、特に象徴的な意味を持つのは、『ミルク』の冒頭で、ユスフが大木の枝につるされて口から小さな蛇をはき出す場面であり、また同作の結末で、ユスフが泥だらけの池で大ナマズを抱きしめる場面である。

どちらも野生児の魂を宿した詩人の誕生の瞬間を告げていて、本作は、そうした詩人の魂を育んだ、生命あふれる森の暮らしを、寡黙なタッチで繊細に撮った傑作だ。

(『すばる』2011年7月号、274-275頁)

映画評 カプランオール『蜂蜜』(1)

2011年06月24日 | 映画
森の中で育まれた詩人の魂 
セミフ・カプランオール監督『蜂蜜』 
越川芳明
 
 森の奥深くに馬を引いた男が歩いてくる。

 鳥の飛び去る音、下生えを踏みしめる音が聞こえてくる。

 大きな木の下まで来た男は、一本の長い綱を取り出して、大木の枝に向かって投げる。

 枝につるした綱をつかみ、力ずくで登っていく。

 まるで両足で幹を踏みしめるかのように。やがて枝のきしむ音がする。

 男の足はまるで靴底が幹に張りついたみたいにそこで静止する。

 さらに、枝のきしむ音。

 つぎに何が起こるのか。私たちは目をこらす。
 
 私たちは、六歳の主人公ユスフがトルコ山岳地帯での暮らしで捉える自然の音

 ――鷹の足に付けられた鈴の音、ニワトリ小屋の音、馬小屋の音などをこの映画の「サウンドトラック」として聴く。

 自覚的に聴くことで、私たちも主人公のいる環境に置かれ、その中で生きることになる。

 いま、何が起こっているか。つぎに何が起こるのか。

 私たちは耳を澄ます。そして、考えをめぐらす。

 本作でベルリン映画祭金熊賞を受賞したカプランオールの作品は、物語の背景や状況をいっさい「説明」しないからだ。

 その徹底ぶりは見事なものだ。
 
 カプランオールは物語らないことで語りを進める。

 音楽もない。

 それは「沈黙の叙法」と呼んでもいいくらいだ。
 
 映画のショットの一つひとつは、「語り」の因果律に縛られることなく緩やかにつながり、それ自体に象徴的な意味が秘められている。

 たとえば、少年が養蜂家の父と森の中を歩いているとき、父がてんかんの発作に襲われる。

 そこは小川のそばで、少年は水を汲んでこようとするが、そのとき少年の目に、川の向こうに日射しを浴びて神々しくたたずむ鹿の姿が映り、呆然と見とれてしまう。
 
 少年にとって父は偉大な存在だ。

 しかし、森という自然には人間の存在を超える、

 もっと偉大なものがある。息子ユスフがそう直感する瞬間である。

 そう考えるとこのショットは、父を喪ったユスフ少年がたった一人で薄暗い森の中に入っていき、大木に抱かれるようにその根もとで眠る結末のショットと緩やかにつながる。

 ユスフ少年は、小学校で教科書を読んでいるとき、声がつまってしまう。

 そのため他の生徒から笑われる。

 そんな少年にとって、父だけが吃音を気にすることなく話せる相手だ。

 父と少年は信頼という絆で結ばれており、父は少年に養蜂の仕事の手伝いをさせたり、ナイフを渡してリンゴを切らせたりして「教育」を施す。

 さらに、少年が自分の見た夢を話そうとすると、「夢は他人に聴かれないように」と、息子の耳元でそっとささやく。
(つづく)
 

グラウベル・ローシャ(2)

2011年06月20日 | 映画
 こうした対立の図式は、地主と土地なしの羊飼いや小作農の対立という形で『黒い神と白い悪魔』(一九六四年)や『アントニオ・ダス・モルテス』(一九六九年)に引き継がれる。

 これらの映画は、より大きな歴史的な展望の中に第二次大戦後のブラジルの階級社会の欠陥や貧困問題を見すえ、民衆的な叙事詩として語ったものだ。
 
 どちらも、ブラジルの六〇年代「政治の季節」という狭い時代性を超えて、現在でも立派に通用するのではないか。
 
 むしろ、敵の正体がより強大で分かりにくいいまこそ、民衆の想像力の中で受け継がれて映画として新たな表現を得た英雄譚は見る者の心を打つのではないか。

 とりわけ『アントニオ・ダス・モルテス』(一九六九年)は、俳優のモノローグや村人による民族音楽をふんだんに使った表現の斬新さが光る。

 映画を通じて展開されるミニマリスティックな民族音楽や踊りが貧しい村人に陶酔をもたらす。

 そうした集団的な陶酔こそ、反乱を誘発するので危険視され、「大佐」と自称する強欲な地主はその歌を嫌う。

 物語は、「悪竜と戦う聖なる戦士」というアフロ・ブラジルのフォークロアに基づく。

 それはもともとキリスト教弾圧(悪竜退治)に立ち向かう一王子の栄誉をたたえた聖ジョルジュの物語だったが、ブラジルの黒人たちのあいだでは、圧制者の退治に向かった英雄「狩猟の神オクソス」の物語と混淆した。

 黒人奴隷たちにとって、聖ジョルジュ=オクソスとは黒人であり、悪竜は白人の支配者だ。


 一方、トロバドール(流しの歌手)がギター一本で物語を語る歌が映画を推し進める。

 冒頭に出てくるのは、政府に雇われて、貧困にあえぐ村人たちの蜂起を押しつぶしてきた殺し屋を紹介するこんな風なバラッドだ。

 数々の教会で懺悔したが
 すべての守護聖人に見捨てられた
 アントニオ・ダス・モルテス
 カンガセイロの殺し屋よ
 
 後半に入って、殺し屋アントニオは、自分がその家族を皆殺しにしたという「聖女」の足下で懺悔する。

殺し屋が「真の敵を見つけた」と覚醒したその瞬間、トロバドールの歌が長々と流れる。
 
 アントニオ・ダス・モルテス
 見よ 責め苦のあとを
 私はトラックに乗って出かけた
 いつの日か 一財産を作る気で
 
それから 
私たちは
道をさまよいながら
貧しい人を 助けた
 
 ミナス・ジェライス
 に着いたとき
  私は奴隷となり
 雇われた
 
マト・グロッソ
の森の中では
強い者だけが生き残り
弱い者は売り飛ばされた

 それから 反抗と後悔
  のときが来た
  私は 再びバイーア
 へ行く道をたどった
 
私は見た ジョアゼイロで
老人が5コントスで
自分の娘を
売らねばならない
 
  私は娘を奪って
 老人と荒地へ逃げ
 アラゴアスの外れまで
 たどり着いた
 
私は二人を 見て言った
おまえたち 哀れな天使よ
私は祖母の墓を 掘り起こし
その服を 娘に与えた
 
 老人には
 コイラナという
 毒蛇の
 名を与えた

(『現代詩手帖』2011年6月号、154-155頁)
* ***
「没後三〇年 グラウベル・ローシャ・ベスト・セレクション」は、2011年6月18 日より、渋谷ユーロスペースにてロードショー。

グラウベル・ローシャ(1)

2011年06月16日 | 映画
民衆の歌と共に広がるアフロ・ブラジルの世界
      没後三〇年グラウベル・ローシャ特集に寄せて  
越川芳明

 ブラジルの北東部バイーア州サルバドールは、アフリカから船で運ばれてきた黒人奴隷が売買される港だった。

 いまでも、カンドンブレと呼ばれる西アフリカのヨルバ系の信仰(占い・儀礼の歌や踊り)、カポエイラと呼ばれる、ダンスを装った武闘術の盛んな土地柄である。

 グラウベル・ローシャは、少年時代にその町に移り住み、プロテスタントの教育を受けた。

 後年ローシャ自身が語った言葉によれば、図式的なプロテスタントの演出よりも、アフロ信仰の儀礼のダイナミズムに魅了され、こう言っている。

 「ブラジルの真の歴史と社会学は、書物に書かれている以上に、ブラジル音楽の中に発見されうる。

 黒人たち、つまりリオのサンバの作者たちがブラジルの歴史を作り、すべての批評を築いた。

 黒人たちの音楽には民衆の精神構造が脈打っている。

 音楽の世界でも、詩の世界でもブラジルの最も進んだ芸術家は黒人たちである」

 そんなアフロ・ブラジルの精神をみごとに再現しているのが、ローシャの長編第一作『バラベント』(一九六二年)だ。

 貧困をもたらす社会不正への抵抗という、六〇年代「政治の季節」に特有の一見ありきたりなテーマを題材にしていながら、これまでなかったブラジル特有の映画文法を創造しようという堅固な意思が窺われる。

 「ブラジルの真の歴史と社会学」がその中に発見されるといった「ブラジル音楽」が、この映画の中で、どのように表現されているのか。

 言い換えれば、どのようにカンドンブレの踊りと音楽が使われ、カポエイラが機能を果たしているのか。
 
 舞台は、バイーア地方のある漁村だ。

 一人の不良青年フィルミノが都会から警察に追われ故郷に帰ってくる。

 そして、どん欲な白人の網元に抵抗するように、地元零細漁民(黒人)たちを覚醒しようとする。

 しかし、漁民たちは立ち上がろうとしない。
 
 女性司祭マエ・ダダに導かれて、白装束に身を包んだ女性たちのカンドンブレの儀礼の歌が流れる。

 空や波の打ち寄せる浜辺のショットと共に歌われる「海の女神イエマンジャに捧げる歌」から、白人の血を引いたために、不幸な人生を歩む娘ナイーナの憂鬱を取り除くマエ・ダダによる儀式と占い、チコという有能な漁師とナイーナの養父の死を悼む儀礼にいたるまで、太鼓と鉦にリードされたアフロ信仰の歌が物語を牽引するだけでなく、黒人漁師たちの無意識(恐怖・畏怖)を支配する世界観を提示する。

 一方、漁師同士の意見の対立が起こったとき、その決着をつけるためにカポエイラが使われるシーンが二度ほど出てくる。

 ベリンバオという素朴な弦楽器や、打楽器カハやタンバリンが響かすサンバのリズムに合わせて、改革派と保守派の二人は優雅に舞い、そして激しく戦う。

 一度は、抵抗をあおるフィルミノが敗れるものの、二度目は勝利する。
 
 網元が採れた四〇〇匹、親方が四匹をそれぞれ受け取り、残る漁師たちは一〇〇人で一匹の魚を分ける。

 こうした信じがたい圧政に立ち向かう契機をカポエイラが与える。

 敗者となった漁の英雄アルーアンは、真のリーダーになるべく変身を遂げる。

 一年間マエ・ダダに仕え、都会に出て働き、皆のために網を買う決心をするのだ。
(つづく)
 
 

書評 村上龍『心はあなたのもとに』

2011年06月15日 | 書評
「愛人小説」を装った「情報小説」
村上龍『心はあなたのもとに』 
越川芳明

 五十代のビジネス・エリート、西崎健児が語り手だ。

 かつてチューリッヒに本社を持つ金融機関で二十四年働き、後に日本で優良な中小企業から資金を集める小さな投資組合を作り、そのファンドの投資で成功してきた。

 彼は1型糖尿病という難病を患う二十歳近く年下の四条香奈子、その他の愛人を持つ。 

 西崎は、進取の精神に富み、保守的な日本社会で「成功」を収めた「勝ち組」である。

 彼の金融哲学のキーワードは、「信頼」だ。

 ビジネスの成功は、長い困難な交渉の果てに獲得される「信頼」があればこそだという。

 同時に、女たちとの関係も信頼と信用をめぐる危ういバランスの上で成り立つ。

 いわく、「女たちとの関係は金融市場に似ている」(128)。
 
 しかし、女たちに対しては、ときどき自分が信頼されていないのではないかと悩む。

 愛人たちが重要な局面で自分に相談せずに勝手な行動を起こしているように感じるからだ。

 常に物事の優先順位に留意し、「用心深い性格だけが取り柄」と自覚する西崎だが、女性関係においては「情報」から疎外されている。

 金銭や家族に恵まれ、しかも複数の愛人までいるにもかかわらず、西崎はみずからを「哀れな五十男だ」と称してはばからない。
 
 村上龍の『歌うクジラ』の主人公(こちらは少年だ)は、生きる上で意味を持つのは他人との出会いだけであり、移動しなければ出会いはない、と述べる。
 
 一方、本作の中年の主人公は、たとえばアムステルダム、ロンドンなど、ビジネスで世界を股にかけていながら、ホテルの周囲から出たことがないと言う。

 だから、自分を本質的に変えるような出会いはない。

 唯一、真の他人(階級や性において)といえるのが香奈子なのだ。
 
 しかし、香奈子の死に際して、二人にゆかりの都会の小さな公園に、その背もたれの裏側に英語で

 You will be with me, always. (心はあなたのもとに)と刻んだプレートをとり付けた白木のベンチを寄贈する。

 「おそらく誰もプレートには気づかない。だが、わたしにとっては、香奈子が生きたことの、ただ一つの証だ」(554)と述べるだけだ。

 そうした行為や言葉は、西崎が他人との出会いによって変わったというにしてはあまりに自己満足的に映る。

  香奈子から西崎への携帯メールが本文に数多く引用されている。

 現代人には不可欠なコミュニケーション・ツールであるはずの携帯メールだが、彼女からのメールは西崎に喜びを与えるだけでなく、不安や苦痛を与えたりする。
 
 本作は「愛人小説」を装っているが、一方で、将来のデジタル書籍化を多分に意識した「情報小説」でもある。

 主人公が複数の愛人たちと飲食する高級料理やワインの名前が頻出する。

 また先端の医療ビジネスに関する情報もふんだんに盛り込まれている。

 この作品が電子媒体で読まれるようになれば、それらの固有名詞や専門用語からさまざまなリンク先へと飛んでいって、読者は知識を一層拡大させることができる。

 この小説の付加価値なのかもしれない。(『すばる』2011年6月号、316頁)