越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 ピラール・キンタナ『雌犬』

2022年09月12日 | 書評
「乾いた女性」の中の「隠し絵」       
ピラール・キンタナ(村岡直子訳)『雌犬』

南米コロンビアの新鋭女性作家の小説である。

現代コロンビアのジェンダー・人種・階級にまつわる社会問題を、オランダ人画家ヨハネス・フェルメールの絵で話題になったような「隠し絵」で表現している。

最近のX線撮影を使った調査と修復作業によれば、フェルメール作の『窓辺で手紙を読む女』のキャンバスには、もともと「弓を持つキューピッド」の画中画が描かれていたが、没後何者かによって上塗りされたことがわかっている。

この小説では、表向き、太平洋岸の名もない寒村を舞台に、一人の中年女性の日常が淡々と描かれている。

女性の名前は、ダマリスという。おそらく黒人か混血だろう。夫は黒人でロヘリオといい、収入の浮き沈みが多い漁師・猟師である。

二人はダマリスが十八歳のときに結婚したというが、子どもはいない。

いまダマリスは四十歳になろうとしている。

かつては子どもを作ろうとしてクランデラ(薬草類の知識にたけた民間医療士)に高い金を払って、秘術やマッサージを施してもらったことがある。それでも、妊娠しなかった。

「不妊」が彼女の負い目になっている。

それは、この社会で女性が出産するのが当然とみなされているからである。

ダマリスが知人からもらった雌犬は飼い主とは対照的に、繰り返しジャングルに失踪し、子犬を身ごもって帰ってくる。

そもそも野生化した雌犬は、ダマリスが感じる社会的抑圧とは無縁だ。

子どものいないダマリスに対して、エリエセルおじがいったとされる「女が乾く年ごろ」という何気ない言葉は、男性優位社会の中でその意にそぐわない女性たちが味わう「疎外」を隠蔽(いんぺい)している。

それこそ、作者が上塗りした大きな「隠し絵」の一つである。

さらに、別の種類の「隠し絵」もある。

階級や人種の絡んだ、現代コロンビア社会の目に見えない「壁」である。

ダマリスが暮らすのは、入り江を挟んで、村の反対側にある人里離れた断崖の上だ。

都会に住む白人夫妻が建てた別荘の管理人として、同じ敷地内にある粗末な小屋で寝泊まりしている。

富裕層の白人夫妻は、幼い息子をこの地の海で亡くして以来、別荘を訪れることもなく、管理手当も滞りぎみだ。 

「断崖の上」とは、都会のスラムと同様、社会の「周縁」に追いやられた人たちの状況を表している。

「ふたりが住む小屋は浜辺ではなく、木がうっそうと茂る断崖の上にあった。

都市部に住む白人たちが所有する別荘地だ。広くてきれいな別荘には、庭や石畳の歩道、プールがついていた。

ここから村に行くには、長くて急な階段を下りなければならない。・・・(中略)下りたあとは入り江を渡る。川と海の合流地点だが、広くて川そのもののように流れが速く、潮の満ち引きがあった」

ダマリスは主人のいない別荘を守り、床掃除を懸命におこなう。

使うこともない資産を有する裕福な白人主人と、まともな住居すらない黒人貧困層のダマリス夫婦とのあいだの社会的・経済的格差は歴然としている。

「入り江」というのは、ダマリスにとって社会的な境界(壁)の象徴である。

入り江は満潮になると水で埋まってしまって村の中心(社会経済活動)への道が断たれる。

「人生は入り江のようなもので、自分にはたまたま、歩いて渡る運命が用意されていたのだと感じた。足が泥に埋まり、腰まで水につかって、ひとり、完全にひとりぼっちで、子どもを産まない体、物を壊すしか能のない体を前に進める運命が」

マルケスにかぎらず、一九六〇年代から七〇年代にかけてのラテンアメリカブームの作家たちは、中南米・カリブ海に共通する「負の歴史」(ヨーロッパ人による先住民のジェノサイドや、アフリカのディアスポラの民を使った奴隷制、独立後の政治的混乱など)をフィクションの文体にどう活かすか苦心しながら、歴史・社会問題を直接に扱う「政治小説」を書いた。

一方、若い世代にあたるこの作家は、ジェンダーや人種や階級をめぐって、コロンビア社会が根強く温存している目に見えない「壁」を、「雌犬」や「崖の上の小屋」や「入り江」といった象徴的な「隠し絵」で語ったのである。

『図書新聞』2022.8.13


映画評 ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』

2022年09月12日 | 映画
干からびた大地と荒(すさ)んだ心
ロバート・コノリー監督『渇きと偽り』
越川芳明

オーストラリアの辺境(アウトバック)の町を舞台にした犯罪映画だ。

ひとりの中年男、アーロン・フォークを中心に展開する。かれの職業は連邦警察官だが、担当はデスクワークの財務捜査で、金融詐欺。

アーロンは高校時代の親友ルークが死亡したとの知らせを受け、メルボルンからはるばる車で五時間ほどかかる故郷の町へ向かう。かれを葬儀に呼んだのは、親友の父親で、その手紙には謎めいた言葉が書かれていた。

「ルークは嘘をついた。きみも嘘をついた。葬儀で会おう」と。

冒頭のシーンで、二つの対照的な風景が映し出される。

旱魃に襲われ、乾燥しきった大地を上空から俯瞰するショット。やがてクローズアップになり、雑草も生えていない、ひび割れた耕作地が映る。どちらも薄茶色を基調にして、不作ぶりが強調されている。

一転して、高層ビルに覆われた都会のダウンタウンのショットに切り替わる。アーロンはビルの大きなガラス窓から外の摩天楼を無表情に眺めている。こちらは冷たいブルーが基調の風景だ。

アーロンの都会から故郷への旅は、二つの時空のベクトルを持つことになる。

ひとつは、現在の故郷で親友が起こしたとされる心中事件の謎に向かうベクトル。

事件を担当した警察によれば、ルークは農場経営に行き詰まり、妻と息子を射殺して、その後、自殺したという。しかし、父親は警察の捜査を疑っており、息子の残した帳簿にあたってほしいとアーロンに頼む。

もうひとつは、二十年以上前に自分に容疑がかけられた友人エリーの死をめぐる謎に向かうベクトルだ。かつて警察の捜査で、エリーの死因は自殺ということになったが、住民たちはアーロンが殺したのではないか、と疑っていた。

というのも、アーロンはエリーの死の直前に、ノートの紙切れに「川で会おう」と書いて渡していた。おまけに、エリーはかれの苗字が書かれたメモを残していたからだ。

そうしたふたつのベクトルの旅を、現在と過去の二つの時間軸を行ったり来たりしながら語る。

たとえば、中年のアーロンが田舎道を車で走っている映像のあとに、同じ道をピックアップトラックの荷台に乗る二人の女の子と、それを楽しそうに追いかける若者のアーロンとルークが出てくる。

また、中年のアーロンが水の涸れた川を歩くシーンのあとで、かつて水が豊富にあった同じ場所で、警察がエリーの死体を捜索するのをアーロン少年が木の陰から目撃するシーンが出てくる。

このように、並行モンタージュを多用する形で、現在と過去と交互に挟みながら、次第に明らかになってくるのは、ふたつの事件の真相というより、主人公の心の闇のほうだ。

アーロンは「正義」を体現する法の番人ではあるが、そのかれにも後ろめたい過去があるという事実が。

映画には原作があり、イギリス出身でオーストラリア在住の女性作家による推理小説に基づく。

小説と映画のオリジナル・タイトルは共に「渇き(ザ・ドライ)」である。

このタイトルもまた二重の意味を担わされている。

「渇き」とは、伝統的な農業地帯の風景だけでなく、人々の心象もあらわす。

冒頭シーンの干からびた大地から始まり、かつて満々と水をたたえていた川は涸れ川となっており、森も枯れ木ばかりが目立ち、いまにも山火事がおこりそうだ。

地球温暖化の影響を受けたオーストラリア辺境のリアルな風景だ。

急激な気候変動は、人間の心にも影響を及ぼさざるを得ない。

この地の住民たちは、もともとよそ者に対して排他的である。

かつてアーロンに容疑がかかったとき、住民たちはいやがらせや迫害によって、アーロンと父を追い出したいきさつがある。

地元で生まれ、地元で育った者しか受けつけない狭隘な保守性に加えて、主要産業である農業の不振は、住民たちの心を潤いのない、荒(すさ)んだものに変える。

だから、久しぶりのアーロンの帰郷にも、地元民の態度は冷ややかだ。

とりわけ、エリーの父親とその甥はあからさまに敵意をむき出しにして、かれを町から追い出そうとする。

アーロンに協力的なのは、親友ルークの両親以外には、アーロンが宿泊するホテルのマネージャーや小学校の校長夫婦、当地に赴任してすぐに厄介な心中事件に遭った巡査部長など、よそ者ばかりである。

かつて高校時代にアーロンが親しく遊んだグレッチェンという「ファム・ファタール(運命の女)」にあたる女性も登場する。

彼女はアーロンにとって、死んだエリーやルークと仲良しグループの一員だったが、謎の多い女性に変わっている。

主人公アーロンは敵愾心をもった住民に囲まれ、謎の女性に翻弄され、犯罪事件と正面から向き合う。

これは殺伐としたオーストラリア辺境を舞台にした、新手の「フィルム・ノワール」だ。


『すばる』2022年10月号、pp.366-367.

映画評 ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』

2022年09月12日 | 映画
「放浪(ノマディズム)」の哲学  
ヴェルナー・ヘルツォーク監督『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』
越川芳明

 ニュー・ジャーマン・シネマの旗手のひとり、ヴェルナー・ヘルツォーク監督がイギリス作家ブルース・チャトウィンに捧げたオマージュ。

だが、このドキュメンタリー作品(二〇一九年)は、監督自身も断っているように、チャトウィンをめぐる「伝記映画」ではない。
 
ふたりの接点は、一九八三年のメルボルンでの邂逅だった。そのときは、昼も夜もずっと語り明かしたという。

すでにチャトウィンは、ヘルツォーク監督の『生の証明』(一九六八年)に魅せられていた。斥候としてギリシアの孤島に送られた若いドイツ軍兵士が、一万個もの風車がまわる風景にめまいを感じて銃を乱射するシーンがお気に入りだったという。

一方、ヘルツォーク監督はチャトウィンの小説『ウイダーの副王』(一九八〇年)が気に入り、その小説を原作にして『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』(一九八七年)を制作した。ブラジルの極貧の白人が西アフリカに渡り、奴隷商人として巨万の富と地位を築く物語だ。

ふたりには共通する世界観があった。人類の故郷は「砂漠」にあり、その本質は「放浪(ノマディズム)」にあるという考えである。

チャトウィンの頭の中には、約十五万年前に東アフリカで生まれ、アジアやシベリアを通過して、北米に渡り、南米に向かい、その先端のパタゴニアにたどり着いた人類の放浪「グレートジャーニー」があった。

なぜ人類は放浪したのか?

チャトウィンは『ソングライン』(一九八七年)の中でいっている。

「東洋では、かつては全世界で信じられていた考えがいまも生きている。放浪は、人と宇宙のあいだにもともと存在していた調和を回復させる、というものである」

 余談になるが、この思想は中沢新一が『対称性人類学』で唱えている哲学に近いように思える。中沢によれば、日本人は古来、非日常的な儀式や祭り(たとえば、盆踊り)をおこなってきたが、それは崩れかかった宇宙のバランス(非対称性)を整えるためだったという。
 
 ヘルツォーク監督自身も映画の中で似たようなことをいっている。

 「放浪の生活が消えると、人は定住し、都市生活が主流になる。つまり人類の大部分が技術に支配される。そのせいで人類は今、崩壊しつつあると思う。ブルースは人間の脆さを知っていた」と。

 ヘルツォーク監督もチャトウィンも、西洋的で快適な近代生活(テクノロジー万能社会)に疑問を抱き、真逆の世界を生きてきた人々を追いかけた。

 現代の「放浪者」として、オーストラリアの荒野を歌を歌いながら歩くアボリジニに惹かれたのである。それは文化人類学者によって、「ドリーミング・トラック(夢見る跡)」と呼ばれている。いわば、人々と土地とを結びつける絆のことだ。

 音楽家・作家のグレン・モリソンはいう。「中央オーストラリアのアボリジニたちは、砂漠を旅する際、現代の私たちがGPSを使って土地を移動するように、歌や物語を記憶の助けとした。アボリジニ―の人々は死が近づくと、長い旅をして、生を受けた場所に還っていく。それが、(チャトウィンの)『ソングライン』のメッセージだと思う」と。

 古代から継承されてきたアボリジニの歌がGPSであるというのは、とてもわかりやすい比喩であるが、歌がかれらの旅の道具や手段と捉えてしまうと、誤解を招きかねない。

 というのは、アボリジニの歌には、先祖とつながる霊(スピリット)が宿っているからだ。アボリジニは、歌(や物語、踊り)がなくなれば、儀式もできなくなり、風景もなくなってしまうと考える。

 風景とはそのとき、「人と宇宙とのあいだに存在する調和」のことであり、その崩れかかった調和を回復させるために、アボリジニは歌を歌う旅に出るのである。それを、ヘルツォーク監督は「魂の風景」と名付けている。

 アボリジニ(アリヤワッレ族)の老人は、「動物たちも木々も、風景の中で育ってきた。風景が先か、歌が先か、どちらが先とはいえない。鶏と卵のようなものだ。この大いなる謎について考えるのは楽しい」という。

 この老人がいいたいのは、風景と歌は一体である、ということではないのか。どちらもスピリチュアルな存在である、と。

 また、別のアボリジニ(アレント族)の老人は、「時々、飛行機が大きな弧を描いて飛んでいくが、もっと少しずつ進めばいいのに。空には“ソングライン”はない。飛行機はただ外国へいくだけだ」という。
 
 これはいわずもがな。ただの移動と「放浪」の違いに触れているのである。

 ヘルツォーク監督は「世界は、徒歩で旅する人に、その姿を見せる」と述べるが、そうした「放浪の哲学」を証明しようとするかのように、監督自身による映像の数々が披露される。
 
 先ほど触れた孤島の中の一万個の風車のシーンや、パタゴニアの洞窟の壁に残されたおびただしい古代人の手形、南サハラの砂漠で、女性たちの前で化粧をした美を競う若者たちの美の儀式(『ウォダベ 太陽の牧夫たち』(一九八八年)からの引用)、そして、アボリジニの老人による「ソングライン」の歌の実演などである。

 本作はチャトウィンの創作と同様、ヘルツォーク自身が人類とは何か、どうして人類は放浪するのかをめぐって思索をくりひろげ、「放浪の哲学」を追究する優れた芸術作品である。

(『すばる』2022年7月、pp.422-423)

映画トレイラー;https://www.youtube.com/watch?v=oWvHjnhGEow