ひとりの「民間人」女性の戦い
テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』
越川芳明
十代の少女の顔がアップで映される。少女はキッチンで母に化粧をしてあげているようだ。
母はコンロにかけた鍋料理の具合を見にいき、「今夜の食事はどうするの?」と、娘に尋ねる。
娘はこれからボーイフレンドとデートの約束がある、と答える。
冒頭のこのような平凡なショットが示唆するように、母と娘の日常生活は平穏そうだし、二人の仲もよさそうだ。
母の名前は、シエロという。シエロは普通名詞だと、スペイン語で空・天国といった意味になる。
娘にとって母は空(天国)のような、かけがえのない存在なのだろうか。
母が調理場から戻り、娘が自分の携帯に、おそらくボーイフレンドから送られてきたメッセージを読むところで、「天国」は皮肉な意味を帯び始める。
娘が笑って面白がるメッセージとはこうだ――
「寝ぼけているイヴが『ここはどこ?』と聞く。すると、アダムが答える。『俺たちは服も家も金も仕事もない。でも人々はここを天国と(呼ぶ)。本当はメキシコなのに! 』」
これは、貧富の差が激しい犯罪天国メキシコを皮肉るブラック・ジョークである。
この映画は天国と地獄をめぐる現代風の寓話とみなすことができる。天国と地獄は、キリスト教の二元論(正義と悪)で割り切れるようなものではなく、もっと複雑である。言い換えれば、天国と地獄は背中合わせであるかもしれない。
というのも、母シエロは、ただちに「地獄」に突き落とされ、暗黒の恐怖にさいなまれるからだ。
デートに出かけたはずの娘がどこかに失踪し、シエロのもとにギャングの手先がやってくる。かれらは法外な身代金を要求し、もし警察や軍に知らせたら、娘の命はないものと思え、と冷酷に告げる。
メキシコの国境地帯では、一九九四年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)以降に、武装した麻薬カルテルやギャングによるものと思われる女性の殺人事件や死体遺棄事件が頻発した。
その後、それらの組織に代わって、メキシコ各地で地方のギャング団がいくつも台頭し、抗争を繰り返すようになった。
かれらは麻薬の密売や人身売買、誘拐、みかじめ料の要求などによって、市民生活を脅(おびや)かしている。
警察はまったく頼りにならず、市民は、一言でいえば、不条理な「暴力」に晒されているのだ。
本作がテーマにしている、身代金目当ての誘拐事件は、二〇二一年にメキシコ全土で六百件あまり起こっている。
しかし、これは公的な数字であり、実際は報復を恐れて、警察には届けない人が多い。
メキシコの国立統計地理情報院(INEGI)によれば、警察への届出率は一・六パーセントにみたないという。
現実には、年間で、三万件から四万件の誘拐事件が起こっていると推定される。
また、都市部では、流しのタクシーでお客の身柄を拘束してATMに連れてゆき、持っているキャッシュカードやクレジットカードで現金を引き出させる、
短時間の誘拐もある。そのような手口は「特急誘拐」とか「稲妻誘拐」とか呼ばれる。
本作は娘の誘拐事件をきっかけに、武器を持たない一介の主婦が、娘を取り戻そうと奮闘するプロセスを描く。
原題は、スペイン語で「ラ・シビル」という。意味は「民間人」だ。武器を持つ「軍人」に対して、シエロは「民間人」である。
だが、シエロは身代金を払うも、娘を返してもらえず、警察に相談したためにギャングに家を襲撃され、車も燃やされてしまう。事ここに及んで、ようやく母は軍と手を組むことを決心する。
着任したばかりでこの地方の事情に詳しくない軍隊の指揮官(ラマルケ中尉)の提案で、シエロは軍への情報提供者になり、軍隊と一緒にギャングのアジトに乗り込む。
天国と地獄が単純でないように、作中で描かれる「民間人」と「軍人」の境界も曖昧である。
シエロは知らないうちにこの世界の「暴力」に加担せざるを得なくなるのだ。
この映画は、表向きはメキシコの誘拐事件(目に見える暴力)を扱っているが、細部に目を向けると、メキシコ社会のさまざまな「障害(バリア)」(目に見えない暴力)が見えてくる。
そのひとつは、拭いがたい男尊女卑のマチスモである。
たとえば、シエロと夫のあいだの夫婦関係にそれは見られる。
夫グスタボは、若い愛人を作って別の家に住み、シエロとは別居状態である。
娘の誘拐事件があったときも、娘を外出させた妻のせいにするばかりで役に立たない。
また、テレビニュースを見たシエロが娘の遺体を探しにいく葬儀屋の女性も、この社会のマチスモの犠牲者だ。
彼女はギャングから、ある娘の遺体を引き取るので高級な棺桶を用意しろと告げられる。
もちろんギャングにその代金を払う気などはなく、彼女が負担しなければならない。
シエロの娘がガラスケースの中に飼っているペットのカメレオンの映像が三度出てくる。
シエロも葬儀屋の女性も、ある意味、ガラスケースの中のカメレオンと似ている。
カメレオンは背景に似せた体色変化をおこなって身を守るが、彼女たちもまた自己防衛のためにメキシコ社会のマチスモの色に染まりかねないからだ。
誘拐事件という犯罪や、マチスモという「目に見えない暴力」に対して、ひとりの「民間人」の女性が挑む姿を、安直な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式ではなく、繊細かつ複雑に描いた傑作である。
テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』
越川芳明
十代の少女の顔がアップで映される。少女はキッチンで母に化粧をしてあげているようだ。
母はコンロにかけた鍋料理の具合を見にいき、「今夜の食事はどうするの?」と、娘に尋ねる。
娘はこれからボーイフレンドとデートの約束がある、と答える。
冒頭のこのような平凡なショットが示唆するように、母と娘の日常生活は平穏そうだし、二人の仲もよさそうだ。
母の名前は、シエロという。シエロは普通名詞だと、スペイン語で空・天国といった意味になる。
娘にとって母は空(天国)のような、かけがえのない存在なのだろうか。
母が調理場から戻り、娘が自分の携帯に、おそらくボーイフレンドから送られてきたメッセージを読むところで、「天国」は皮肉な意味を帯び始める。
娘が笑って面白がるメッセージとはこうだ――
「寝ぼけているイヴが『ここはどこ?』と聞く。すると、アダムが答える。『俺たちは服も家も金も仕事もない。でも人々はここを天国と(呼ぶ)。本当はメキシコなのに! 』」
これは、貧富の差が激しい犯罪天国メキシコを皮肉るブラック・ジョークである。
この映画は天国と地獄をめぐる現代風の寓話とみなすことができる。天国と地獄は、キリスト教の二元論(正義と悪)で割り切れるようなものではなく、もっと複雑である。言い換えれば、天国と地獄は背中合わせであるかもしれない。
というのも、母シエロは、ただちに「地獄」に突き落とされ、暗黒の恐怖にさいなまれるからだ。
デートに出かけたはずの娘がどこかに失踪し、シエロのもとにギャングの手先がやってくる。かれらは法外な身代金を要求し、もし警察や軍に知らせたら、娘の命はないものと思え、と冷酷に告げる。
メキシコの国境地帯では、一九九四年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)以降に、武装した麻薬カルテルやギャングによるものと思われる女性の殺人事件や死体遺棄事件が頻発した。
その後、それらの組織に代わって、メキシコ各地で地方のギャング団がいくつも台頭し、抗争を繰り返すようになった。
かれらは麻薬の密売や人身売買、誘拐、みかじめ料の要求などによって、市民生活を脅(おびや)かしている。
警察はまったく頼りにならず、市民は、一言でいえば、不条理な「暴力」に晒されているのだ。
本作がテーマにしている、身代金目当ての誘拐事件は、二〇二一年にメキシコ全土で六百件あまり起こっている。
しかし、これは公的な数字であり、実際は報復を恐れて、警察には届けない人が多い。
メキシコの国立統計地理情報院(INEGI)によれば、警察への届出率は一・六パーセントにみたないという。
現実には、年間で、三万件から四万件の誘拐事件が起こっていると推定される。
また、都市部では、流しのタクシーでお客の身柄を拘束してATMに連れてゆき、持っているキャッシュカードやクレジットカードで現金を引き出させる、
短時間の誘拐もある。そのような手口は「特急誘拐」とか「稲妻誘拐」とか呼ばれる。
本作は娘の誘拐事件をきっかけに、武器を持たない一介の主婦が、娘を取り戻そうと奮闘するプロセスを描く。
原題は、スペイン語で「ラ・シビル」という。意味は「民間人」だ。武器を持つ「軍人」に対して、シエロは「民間人」である。
だが、シエロは身代金を払うも、娘を返してもらえず、警察に相談したためにギャングに家を襲撃され、車も燃やされてしまう。事ここに及んで、ようやく母は軍と手を組むことを決心する。
着任したばかりでこの地方の事情に詳しくない軍隊の指揮官(ラマルケ中尉)の提案で、シエロは軍への情報提供者になり、軍隊と一緒にギャングのアジトに乗り込む。
天国と地獄が単純でないように、作中で描かれる「民間人」と「軍人」の境界も曖昧である。
シエロは知らないうちにこの世界の「暴力」に加担せざるを得なくなるのだ。
この映画は、表向きはメキシコの誘拐事件(目に見える暴力)を扱っているが、細部に目を向けると、メキシコ社会のさまざまな「障害(バリア)」(目に見えない暴力)が見えてくる。
そのひとつは、拭いがたい男尊女卑のマチスモである。
たとえば、シエロと夫のあいだの夫婦関係にそれは見られる。
夫グスタボは、若い愛人を作って別の家に住み、シエロとは別居状態である。
娘の誘拐事件があったときも、娘を外出させた妻のせいにするばかりで役に立たない。
また、テレビニュースを見たシエロが娘の遺体を探しにいく葬儀屋の女性も、この社会のマチスモの犠牲者だ。
彼女はギャングから、ある娘の遺体を引き取るので高級な棺桶を用意しろと告げられる。
もちろんギャングにその代金を払う気などはなく、彼女が負担しなければならない。
シエロの娘がガラスケースの中に飼っているペットのカメレオンの映像が三度出てくる。
シエロも葬儀屋の女性も、ある意味、ガラスケースの中のカメレオンと似ている。
カメレオンは背景に似せた体色変化をおこなって身を守るが、彼女たちもまた自己防衛のためにメキシコ社会のマチスモの色に染まりかねないからだ。
誘拐事件という犯罪や、マチスモという「目に見えない暴力」に対して、ひとりの「民間人」の女性が挑む姿を、安直な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式ではなく、繊細かつ複雑に描いた傑作である。