越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』

2024年08月31日 | 書評
「精神的な異邦人」となることを恐れずに  
書評 中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』
越川芳明

中沢新一は述べる。
「いわゆる言語学主義的な構造主義の限界を突破して、それを生命と物質の領域にまで押し拡げていかなくてはならない。この本はそういう要求に応えて、レヴィ=ストロースの構造主義に新次元を開こうと試みた」と。

いかにしてレヴィ=ストロースの「構造主義」が過去の遺物(研究対象)などではなく、むしろ未来に開かれた、新次元の「革命的科学」になりうるのか。

「構造主義」の現代性を説くべく、三元論の諸構造の「奥」で作動しているとされるものをトポロジーの助けを借りて論証する第三章といい、
北米大陸の北西海岸(ブリティッシュ・コロンビア)の先住民のふたつの対照的な仮面をめぐるレヴィ=ストロースの考察を引き継ぎ、
それらと日本列島の山人や山姥の仮面との共通性を論じ、「環太平洋圏」に共通の基層文化層が存在するという大胆な仮説を打ち立てる第四章といい、
本書の後半で中沢が繰り出す論法(レトリック)は、まるで熟達の大道芸人のダイナミックなジャグリングのように、我々を飽きさせない。  

我々は本書を読み進めるとき、レヴィ=ストロースの「構造主義」のどこに「革命性」があるのかを語る著者の手捌きを、驚嘆を覚えながら楽しむことができる。

ここではとりわけ前半のふたつの章に絞って論じていこうと思う。

詩人と量子物理学者
レヴィ=ストロースは「神話的思考と科学的思考」と題したエッセイの中で、量子物理学の父のひとりニールス・ボーアのことばを取りあげ、面白いことを言っている。

ボーアは量子物理学が見かけ上の矛盾を乗り越えるために、詩人や民族学者に目を向けるべきだという。
とりわけ詩人は、この世界の「現実」を表現するさいに、常識や定説(ものごとの表層)に惑わされないために、たとえば複数の視座に立ったり、相容れない意味を含んだ言葉を並置させたりする(撞着語法と呼ばれる)ことばの使い方をする。
そうした一見矛盾をはらむようなイメージや表現によってこそ、「記述という直接的な努力からはこぼれ落ちてしまう構造」(本書のいう、構造の「奥」)が知覚可能になるのだという。

撞着語法とは、身近な例で言えば、「チベットのモーツァルト」のようなことばの使い方で、ごく初期の頃から、中沢は詩人(=革命的な民族学者)として、見かけ上の矛盾を乗り越えようとしていたわけである。
その姿勢は、四十年以上もたった現在でも変わらない。

しかしながら、いま我々が注目したいのはそこから先である。

レヴィ=ストロースは、先のエッセイで量子物理学者のことばを引きながら、神話(古代人の思考の産物)と科学(近代人の思考の産物)というように、一見対立するふたつの項に第三の項(民族学と詩)を持ち出すが、
中沢によれば、近代思考(二元論に代表される)の行き詰まりや矛盾を突破し、構造の「奥」にたどりつくためにも、そうした三元論的思考が必要らしい。

のっけから、度肝を抜かれるような論考が待っている。
「仏教の中の構造主義」と「構造主義の中の仏教」と題された考察がそれである。
一見、これも撞着語法のように感じられるかもしれないが、そこにはかならずしもパラドクシカルな飛躍はないようだ。

というのも、「構造主義を仏教の光によって新しく照らし出してみるとき、それはふたたび、現代の人類を導く有力な思想として蘇ってくるに違いない」という信念が中沢にはあるからだ。

レヴィ=ストロースの「構造主義」が「未開社会」の分析を通して、最も進化しているとされる西洋近代の思考が、古代人の「非二元論のダイナミズムを失った変形ないし硬直化」でしかないことを明らかにしたように、
仏教もまた、生と死、善と悪といった二元論的思考を否定して「現実」を観察する方法をとっている。

仏教では、たとえば形を持たないもの、名付けられないもの、自我と無我のあいだにあるものなど、いわゆる「中道」を追い求める。
それはまさしく対立するどちらのグループにも属さない実在である。
僕なりの理解では、それは集合でいう重なりの部分である。
たとえば、Aという集合とBという集合があるとして、ふたつの集合が重なる部分だ。
AでありAでない、BでありBでない、AでもありBでもある、そんなボーダーの「実在」を仏教は追い求めた。
おそらく、それこそが構造の「奥」なのであろう。とはいえ、そう理解しても、修行を経ずしてそれを体得するのは、それほど簡単なことではない。

五〇年代初頭レヴィ=ストロースは東パキスタン(現バングラデシュ)を訪れていた。
そのとき、彼は直感したようだ。「私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、西洋(オクシデント)が自慢の種にしているあの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下での聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?」と。

要するに「西洋がつくりだしてきた思想も、学問も、科学も、仏陀の瞑想に包摂される教えの断片にすぎないのではないか」
アジアで仏教の本質を学んだ(と中沢が想像する)レヴィ=ストロースが、本書で「生まれながらの仏教徒」と呼ばれるゆえんだ。

プロレタリアの民族学
我々の楽しい驚嘆はさらにつづく。
「構造主義と仏教」という、一見異質に見えるふたつの対立項が論じられるさいに、第三項としてマルクス主義が登場するからだ。

具体例として、レヴィ=ストロースの弟子のひとりであったリュシアン・セバークが引き合いに出される。
セバークこそ、民族学(構造主義)を使ってマルクス主義を完成に導いていくことができる人だった。

「今日、不成就の状態で足踏みと後退と裏切りを続けている資本主義の姿を正確に映し出すことのできる、このような人間科学を真に必要としている」のであれば、セバークの仕事(マルクス主義的民族学)に期待しないほうがおかしい。

プロレタリアをほかの領域にも応用できる「理念」としてとらえるセバークにとって、「民族学は資本主義そのものを照らし出す、歪みない鏡となることのできる稀有な人間科学」となるはずだった。

だが、セバークは志半ばにして斃れてしまう。
だからこそ、本書はセバークになり代わり、「構造主義」のマルクス主義的展開を試みるのだ。

読者諸賢の愉しみを奪うことになると思うから、これ以上は深入りしない。その代わり、僕の心に響いたセバークをめぐることばを最後に挙げておこう。
「民族学者は自分の生きている社会の価値に呑み込まれてしまうことのできない生き方を自ら選んだのであるから、その社会の求める思考法をそのまま受け入れることはできない。彼は自分の生きている社会の中で、精神的な異邦人となる」

「精神的な異邦人」となることを恐れずに、本書の数々の刺激的な論考をさらに発展させていくのは、若い人類学者たちに課せられた使命だろう。


草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』

2024年07月14日 | 書評
何役もこなした翻訳家の人生   
草生亜紀子『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』
越川芳明

シェイクスピアの翻訳で知られる松岡和子は昭和十七(一九四二)年、日本が中国の東北地方に樹立した満州国で生まれた。

本書は、和子とその家族が経験した出来事を伝記風につづった「ファミリー・ヒストリー」。背景である時代も知ることができる。

父親は帝大出のエリートで、満州国の高級官吏だった。

日本の敗戦により、中国の八路軍(はちろぐん)(のちの人民解放軍)によって連行され、その後消息不明になる。

母は四歳の和子と妹と、父の連行十日後に生まれた弟を連れて、一年近く中国をさまよい、なんとか無事に帰国。

行方不明だった父は、十一年間ソ連で抑留生活を送ったのち帰国を果たす。

和子は十四歳になっていた

明治生まれの母は東京女子大英文科卒だった。

父の不在のあいだ英語教師の職を見つけ、「母子家庭」に向ける世間の冷たい目にも屈せずに、幼い子供たちを養った。

やがて和子も母と同じような「キャリア・ウーマン」の道を歩む。

東京女子大英文科を出たあと、演出家をめざして新興の一小劇団の研究生になる。

さらにシェイクスピアを本格的に学ぼうと、東大大学院英文科に進む。

東大紛争まっさかりの一九六八年、エンジニアと結婚。

その後、母校をはじめ大学で教える傍ら、二人の子を育て、夫の母の介護もしながら、せっせと小劇場に出かけ、劇評を書き、海外の現代劇の翻訳をこなす。

一人で何役も引き受ける、多忙な毎日だった。

著者は言う。「……演劇は和子を嫁や母であることの義務から、ほんのひととき救い出してくれる解放の時間だった」と。

和子は人生の節目で、さまざまな人脈に恵まれている。

なかでも「彩の国さいたま芸術劇場」の芸術監督に就任した蜷川(にながわ)幸雄は、シェイクスピア全作を上演するプロジェクトで和子による翻訳を採用することに決めた。

和子の未来の仕事に期待した異例の抜擢だった。

ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年07月12日 | 書評
世界を救うための寓話 
ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。

一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。

素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。

書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年04月23日 | 書評
世界を救うための寓話
書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』
越川芳明

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。
 
一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。

彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。

(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。

あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。

そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。

さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。

これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。

書評 ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』

2024年02月01日 | 書評
なぜ民主主義の国で、いまなお人種差別がなくならないのか?  ブレンダ・E・スティーヴンソン『奴隷制の歴史』(所康弘訳、ちくま学芸文庫)
越川芳明

「奴隷制とは何か?」という問題提起で始まる本書は、米国の奴隷制に興味を持つ者にとっては、まるで最新の携帯電話<アイフォン15>みたいに、小ぶりながら膨大な情報量と知的刺激にみちた良書だ。

著者のスティーヴンスンは、「訳者あとがき」によれば、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史学教授だという。

豊富な資料を丹念に読みとき、淡々と「歴史的な事実」を積み重ねるその叙述法には、歴史学を専門とする学者の手堅い姿勢がうかがわれる。

逆に言えば、文学作品のような感情の昂りを表現することを極力抑えている印象だ。

著者のとおい祖先が16世紀から始まる大航海の時代以降にアフリカから新天地に運ばれた奴隷であること、
つまり、自身がアフリカン・ディアスポラの末裔であるということがあえてそうしたスタンスを取らせているのかもしれない。

制度への憤怒は内にとどめておくことによって、逆に読者の中に奴隷制に関する知見だけでなく、そうした制度への憤怒を醸成させることを意図しているかのように。

著者は語る。「奴隷制とは何か? 
これは簡単な質問のように思われるかもしれない。ほとんどの人々は、奴隷制とは南北戦争が終わる前にアメリカ合衆国で暮らしていた黒人の状態のことだと信じている。……
(中略)ほとんどの学生が知らないのは、奴隷制が歴史上、最も一般的な制度の一つであるとともに、最も多様な制度の一つであるということだ。
ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジア、オーストラリアなど、ほとんどすべての地域の文明で何らかの形の奴隷制が存在していた。
……(中略)さらに奴隷制はほとんどの場所や地域で、今なお存在している。
実際、世界中で推定二〇〇〇〜三〇〇〇万人の人々が債務奴隷、性奴隷あるいは強制労働者として、いまだに奴隷状態にあると考えられている」

確かに第1章で、古代から大航海時代(つまり奴隷貿易)が始まる頃までに世界各地で見られた奴隷制について概説しているが、
本書の真骨頂は、やはり著者の得意分野である北米の奴隷制である。アフリカと大西洋の奴隷貿易(第2章)、北米の植民地(第3章)、
南北戦争以前の米国の奴隷制と反奴隷制(第4章)というように、質量ともにそのことをしめしている。

アフリカン・ディアスポラの歴史
歴史学者ポール・ラヴジョイによれば、アフリカから新天地に連行されたアフリカ人は、推定で1200万人だという。

奴隷貿易にかかわったヨーロッパの帝国は、ポルトガル、スペインのほかに、オランダ、フランス、イギリス、デンマークなどだった。

18世紀にヨーロッパの諸帝国に莫大な富をもたらし、その力で産業革命を成功させ、飛躍的な発展をもたらした影の功労者は「奴隷貿易」であり、植民地での「奴隷制」だったと言っても過言ではない。
アフリカから連行されたディアスポラの民の、血と涙の労苦なくしてはそうした繁栄はなかったに違いない。

本書によれば、アフリカ奴隷の出身地としては、コンゴ・アンゴラなどの中央アフリカが40パーセント、ベニン湾岸の西アフリカが20パーセントと、それだけで全体の60パーセントを占めていたという。
奴隷の到達地としては、ブラジルが400万人、スペイン領植民地が200万で、奴隷の約半数を占めていた。

さらに、奴隷制を経済的な観点からいうと、アメリカ大陸で売られた奴隷の価格は、17世紀後半から18世紀後半にかけて、4倍以上に値上がりし、しかもその数も3倍弱にふくれあがったらしい。

「一般的には、17世紀後半から18世紀を通じて、対外的な労働力需要の増加に伴い、奴隷の価格は上昇した。たとえば、この時期の奴隷の平均価格は4倍から5倍ほど上昇した。これに対し、奴隷の出荷数は二倍から三倍ほど増加している」

要するに、この時期に奴隷貿易は儲かる産業と化していたことがわかる。その産業に加担していたのが、アメリカ建国の父たちとされる偉人だったのいうのもアメリカ史の逆説だ。
たとえば、独立宣言を執筆した大陸会議の委員長を務めたヴィアージニアのリチャード・ヘンリーは五十人以上の奴隷を所有していたし、第二回大陸会議の議長を務め、アメリカ合衆国の独立に尽力したサウス・キャロライナのヘンリー・ローレンスは奴隷商人かつ最大の奴隷所有者だった。

「奴隷体験記」の活用
本書の特色を一、二挙げるならば、まず網羅的であるという点がある。

大西洋奴隷貿易に果たした「中間航路」の役割から、北米における奴隷制反対運動や逃亡奴隷の活動まで、あるいはイギリス植民地時代の奴隷制と経済から独立以降の米南部の奴隷の生活まで、もれなく詳述されている。

さらには、語る主体として表に出てこなかった奴隷自身の「身の上話」もたくさん引用されていることが重要である。

誰もが認めるように、歴史はメディア(活字や伝達媒体)を占有する者によって作られてきた。アフリカ奴隷はつねに歴史の対象となっても、主体にはならなかった。

ここにきてようやく、歴史学者たちがオーラル・ヒストリーの「奴隷体験記」を史料としてつかうことによって、奴隷あるいはその末裔が歴史の主体となることが可能になったのだ。

フレデリック・ダグラスやハリエット・ジェイコブズらの著作は、すでに有名になっている「奴隷体験記(スレイヴ・ナラティヴ)」だが、
本書では、無名の奴隷による「体験記」を数多くつかっていることが注目に値する。

一例を挙げれば、オラウダ・エクイアーノという男の話がとても印象的である。

「……身の上話の中で、ナイジェリア出身のイボ族と名乗っている。
奴隷を所有していた裕福なコミュニティのメンバーの息子だったが、妹と一緒に誘拐され、西アフリカで何度か売られた後に、イギリスの植民地へ送られた。

誘拐された当時、一一歳だったエクイアーノは、自分と妹が二人組の男女に捕えられた瞬間を鮮明に覚えていた。二人組は屋敷の壁を乗り越えてきて、二人を掴まえ、「口を塞いで」、「すぐ近くの森まで」連れて行き、手を木に縛りつけた。

翌日、誘拐犯はエクイアーノと妹を引き離し、それぞれ別の人間に売り渡した。「二人をばらばらにしないように頼んでも無駄だった」。

「妹は私から離され、すぐに連れ去られた。私は言葉では言い表せないほどの混乱状態に陥った。

私は泣き続け、嘆き、数日間、彼らが私の口に無理やり押し込んだもの以外は何も食べなかった。……(中略)オラウダの最初のアフリカ人の主人は金細工職人であった。

そのため昼間はその仕事を手伝い、夜は家事奴隷の女性と一緒に働いていた。その後、一七二個のタカラガイとの交換で再び売られ、同じ年頃の裕福な少年の遊び相手となった。

エクイアーノは西アフリカの奴隷社会の習慣にならって、その家族に養子縁組されることを望んでいたが、再び売りに出された。

「こうして私は時には陸路で、またある時には水路で、様々な国や地域を旅し続け、誘拐されてから六〜七ヵ月が経った頃、海辺に辿り着いた」

すぐさまエクイアーノは大西洋をわたってカリブ海に向かう奴隷船に乗ることになった。

このような無名の奴隷の語られざる「物語」が何百万、何千万とあるに違いない。つまり、人類をめぐる「歴史」は、まだ書き換えられる可能性があるということである。

私のような読者は、このような「物語」をもっと読んでみたいという衝動に駆られる。

そのような読者のために、ありがたいことに巻末に「注」のかたちで出典情報が載っている。さらなる奴隷制をめぐる「読書の森」へと誘うためである。

また、本文中の固有名詞(人名や土地名など)には、原語がカッコで添えてある。

これもまた小さい工夫だが、興味を抱いた読者がネットや図書館で調べる糸口となるはずだ。

訳文は平易でこなれており、読みやすい。

米国の奴隷制に興味がある初心者に基本的な知見をもたらすだけでなく、いまなおどうして民主主義の国で人種差別がなくならないのか、その理由を読者に示唆する優れた図書だ。

書評 コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』

2024年02月01日 | 書評
「アメリカン・ドリーム」の黒い寓話  コルソン・ホワイトヘッド『ハーレム・シャッフル』 
越川芳明

マンハッタン島の北に位置する黒人街(ハーレム地区)を舞台にして、まだ学校やバスやレストランなどで人種隔離による差別が平然とおこなわれていた頃、つまり六〇年代前半のアメリカを扱った小説だ。

夢破れて一流ダンサーからレストランのウェイトレスになった中年女性から、自分を見下す北部人に反発を覚える南部人の強盗まで、
あるいはロースクールを出て、注目される公民権関連の事件を好む弁護士から、ギャング間の抗争に巻き込まれるドラッグの売人まで、これまで一般の読者に知られることのなかった人間群像をいきいきと蘇らせる。
もちろんこれらの登場人物は、ほとんどが黒人だ。

一見すると、「犯罪小説」のようである。第一部では高級ホテルを舞台にした金庫破り、
第二部ではやり手の銀行家を失墜させるために仕組まれた策略、
第三部では白人の不動産財閥の家から盗まれた物品をめぐってその強奪戦が、それぞれ描かれているからだ。

だが、そうした事件に巻き込まれる我らが主人公レイ・カーニーは、しがない家具屋の経営者にすぎない。
父親はいわく付きの犯罪者だが、かれには周りの環境に染まらないところがあり、父親とは違う真っ当な生き方を模索する。

とはいえ、一方では世渡り上手でもあり、盗品の電化製品や宝石を横流しして小銭を稼ぎ、警官には賄賂を、ギャングにはみかじめ料を払ったりもする。
その甲斐もあって、商売は順調で、次第に「アメリカン・ドリーム」の階段を登っていき、最終的には有力な事業主だけの会員制クラブに入会を許されるまでになる。

この小説に鋭い風刺のパンチが効いているとすれば、黒人街のこの「小悪党」の成功の物語が、白人の「大悪党」による、もっと大規模な成功の物語へとつながっていくからだ。

マンハッタン島の南地区には、ラジオ街と呼ばれた小さな電気屋の立ち並ぶ横丁があった。六〇年代の半ばにそこに世界貿易センタービルの建設が決まる。
そのとき白人の不動産王がその周辺の土地の地上げをおこない、莫大な利益を得ることになる。

おそらく、これこそが作家の書きたかった、知られざるアメリカ現代史の真相である。

書評 ピラール・キンタナ『雌犬』

2022年09月12日 | 書評
「乾いた女性」の中の「隠し絵」       
ピラール・キンタナ(村岡直子訳)『雌犬』

南米コロンビアの新鋭女性作家の小説である。

現代コロンビアのジェンダー・人種・階級にまつわる社会問題を、オランダ人画家ヨハネス・フェルメールの絵で話題になったような「隠し絵」で表現している。

最近のX線撮影を使った調査と修復作業によれば、フェルメール作の『窓辺で手紙を読む女』のキャンバスには、もともと「弓を持つキューピッド」の画中画が描かれていたが、没後何者かによって上塗りされたことがわかっている。

この小説では、表向き、太平洋岸の名もない寒村を舞台に、一人の中年女性の日常が淡々と描かれている。

女性の名前は、ダマリスという。おそらく黒人か混血だろう。夫は黒人でロヘリオといい、収入の浮き沈みが多い漁師・猟師である。

二人はダマリスが十八歳のときに結婚したというが、子どもはいない。

いまダマリスは四十歳になろうとしている。

かつては子どもを作ろうとしてクランデラ(薬草類の知識にたけた民間医療士)に高い金を払って、秘術やマッサージを施してもらったことがある。それでも、妊娠しなかった。

「不妊」が彼女の負い目になっている。

それは、この社会で女性が出産するのが当然とみなされているからである。

ダマリスが知人からもらった雌犬は飼い主とは対照的に、繰り返しジャングルに失踪し、子犬を身ごもって帰ってくる。

そもそも野生化した雌犬は、ダマリスが感じる社会的抑圧とは無縁だ。

子どものいないダマリスに対して、エリエセルおじがいったとされる「女が乾く年ごろ」という何気ない言葉は、男性優位社会の中でその意にそぐわない女性たちが味わう「疎外」を隠蔽(いんぺい)している。

それこそ、作者が上塗りした大きな「隠し絵」の一つである。

さらに、別の種類の「隠し絵」もある。

階級や人種の絡んだ、現代コロンビア社会の目に見えない「壁」である。

ダマリスが暮らすのは、入り江を挟んで、村の反対側にある人里離れた断崖の上だ。

都会に住む白人夫妻が建てた別荘の管理人として、同じ敷地内にある粗末な小屋で寝泊まりしている。

富裕層の白人夫妻は、幼い息子をこの地の海で亡くして以来、別荘を訪れることもなく、管理手当も滞りぎみだ。 

「断崖の上」とは、都会のスラムと同様、社会の「周縁」に追いやられた人たちの状況を表している。

「ふたりが住む小屋は浜辺ではなく、木がうっそうと茂る断崖の上にあった。

都市部に住む白人たちが所有する別荘地だ。広くてきれいな別荘には、庭や石畳の歩道、プールがついていた。

ここから村に行くには、長くて急な階段を下りなければならない。・・・(中略)下りたあとは入り江を渡る。川と海の合流地点だが、広くて川そのもののように流れが速く、潮の満ち引きがあった」

ダマリスは主人のいない別荘を守り、床掃除を懸命におこなう。

使うこともない資産を有する裕福な白人主人と、まともな住居すらない黒人貧困層のダマリス夫婦とのあいだの社会的・経済的格差は歴然としている。

「入り江」というのは、ダマリスにとって社会的な境界(壁)の象徴である。

入り江は満潮になると水で埋まってしまって村の中心(社会経済活動)への道が断たれる。

「人生は入り江のようなもので、自分にはたまたま、歩いて渡る運命が用意されていたのだと感じた。足が泥に埋まり、腰まで水につかって、ひとり、完全にひとりぼっちで、子どもを産まない体、物を壊すしか能のない体を前に進める運命が」

マルケスにかぎらず、一九六〇年代から七〇年代にかけてのラテンアメリカブームの作家たちは、中南米・カリブ海に共通する「負の歴史」(ヨーロッパ人による先住民のジェノサイドや、アフリカのディアスポラの民を使った奴隷制、独立後の政治的混乱など)をフィクションの文体にどう活かすか苦心しながら、歴史・社会問題を直接に扱う「政治小説」を書いた。

一方、若い世代にあたるこの作家は、ジェンダーや人種や階級をめぐって、コロンビア社会が根強く温存している目に見えない「壁」を、「雌犬」や「崖の上の小屋」や「入り江」といった象徴的な「隠し絵」で語ったのである。

『図書新聞』2022.8.13


書評 ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』

2022年01月04日 | 書評
災害を生きた「救済」の物語
ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』
越川芳明

十五歳の黒人女子高校生が語る物語。

舞台は米国南部ミシシッピ州の架空の町、ボア・ソバージュ。フランス語で「野生の森」という意味だ。

メキシコ湾を臨む浜辺や湿地帯(バイユー)から遠く離れ、堅固な樫の木などからなる森を切り開いてできた黒人貧困層の人たちの共同体だ。 

いまなお鹿やキツネの生息するそうした「野生の森」に、少女は飲んだくれの父親や三人の十代の兄弟と住んでいる。母親は七年前の、末っ子のお産のときに亡くなっている。

少女の語る物語は、社会の周縁に追いやられた人々のそれだ。具体的には、二〇〇五年にルイジアナ州ニューオーリンズやミシシッピ州に甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナがやってくる十二日間の出来事が一日ごとに語られる。

少女は、父や三人の兄弟、そして兄たちの遊び友達という男ばかりの世界で、次兄が並々ならぬ愛情を注ぐメスの闘犬の出産と生きざまに魅せられる。そして、母親と過ごした日々の記憶が彼女の中に鮮明に残っている。

この小説が素晴らしいのは、語りの文体にある。

まるで人生の辛酸をなめた黒人ラッパーのように、自分に妥協しない言葉が吐き出される。

地の文では基本的に動詞の現在形が用いられているが、ときどき短いフレーズやリフレインが挟まれる。そうしたスピード感のある文体によって、描写の場面がまるでいま目の前で起こっている出来事のように読者に迫ってくる。

忘れてならないのは、文学好きの少女が夏の課題として読み進めているというギリシャ神話へのたび重なる言及だ。

少女はメディアという、愛と憎悪と復讐の人生を生きたコルキスの王女に感情移入する。それは、王女メディアが少女と同様に、たくましい女性だが、好きな男性の前ではからっきし無力で、そして大きな代償を払ってまで尽くすにもかかわらず、最終的には裏切られてしまうからだ。

ここで好きだった男の子に妊娠させられて苦難を味わう少女の物語は、男性中心主義社会における女性の孤軍奮闘という、より普遍的なテーマにつながってくる。

ハリケーンを「生き永らえたわたしたちは這うことを学び、残されたものを拾いあさる」と少女は言う。「死と再生」の通過儀礼を通して、少女が「希望」を獲得する、優れた救済の物語だ。
(「日経新聞」2021年11月6日)

書評 中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

2021年12月30日 | 書評
もう一つの<アメリカ>を探して
中村寛、松尾眞『アメリカの<周縁>をあるく』

若い文化人類学者と写真家による、知的な刺激にあふれる「旅」の記録である。「旅」といっても観光旅行ではなく、フィールド・ワークだ。

巻頭のエピグラフで、少女が「地図を燃やさなきゃ」と仲間の少年に語りかける。そして、ふたりは熾した火で地図を燃やす。ふたりが燃やす「地図」とは、マスメディアの報道や、子供たちが学校で使う教科書、親や教師の教える「常識」の比喩と読める。

それは、この本の「旅」を思い起こさせる。このふたりの旅人は、既成の「地図」があるために、私たちが気づかずにいる世界を覗きみようとするからだ。ちょうどイギリス作家ブルース・チャトウィンがオーストラリアでどんな地図にも載っていないアボリジニの「歌の道」(名著『ソングライン』)を発見したように。

たとえば、プエブロ・インディアンの居留地がたくさんあるニューメキシコは、そんな「旅」に格好の行先だ。

彼らはそこで出会うべくして出会った先住民のひとりから興味深い事実を教えてもらう。この土地は「サント・ドミンゴ」という、征服者のスペイン人たちが名づけた名称で呼ばれているが、地元の先住民たちは太古の昔から「ケワ」と呼んでいる、と。土地の名前が違うだけではない。使っている言語も世界観も違う、もう一つの「アメリカ」がここにある。

ふたりは八年ほどかけてハワイ、アラスカ、ロッキー山脈地帯、米国北部などを歩きつづける。

その間に、オバマ政権からトランプの政権へと移り、マスメディアで報道される動向も、ヘイトクライムやそれに反対する集会など、よりセンセーショナルなものが多くなる。そこで、ふたりはトランプ支持のプア・ホワイト(貧乏白人)の住むアパラチア山脈の山麓を訪れる。 

既成の地図をわきに置いて、この本を読むことをお勧めする。新しいもう一つのアメリカ、そしてもう一つの日本が見えてくるだろうから。

(時事通信より発信、「長野日報」2021年9月21日ほか)

書評 栗田大輔『明治発 世界へ!』

2021年12月25日 | 書評
「強さ」の秘密
栗田大輔『明治発 世界へ!』


著者の栗田さんは、明大体育会サッカー部の監督である。

夏の総理大臣杯で5年連続の決勝戦進出を果たし、2年前は冬のインカレを初めとして大学生が獲得できる優勝杯をすべてものにした。

監督歴「6年間でタイトル10個」「プロ50人以上輩出」とオビに謳(うた)われているように、結果をだしつづけている。

だから、これはいま全国の高校生年代のサッカー選手たちがあこがれる明大サッカー部の強さの秘密に迫った、タイムリーな本だ。

だが、栗田さんの本職は一部上場のゼネコンのばりばりの営業マンである。

家庭人でもあり、地域のサッカースクールも経営している。その上、僕が瞠目(どうもく)するのは、選手たちにやる気を起こさせる「教育者」としての姿勢だ。

「大学の四年間で「変化する瞬間」が2〜3回ぐらいあるんです。(中略)私はその瞬間を見逃さないようにしています。ここだと思った瞬間に、相手にズバッと響く話をします」と、栗田さんは語る。

営業活動で磨いた言葉の力を若い選手の「育成」に活かすその手腕は、職場で若い人たちに接している中間管理職の皆さんにも参考になるはずだ。

書評 吉田朋正編『照応と統合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』

2021年05月10日 | 書評
「窮極の一冊」  隠し絵のような光彩を放つ   
吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』(小鳥遊書房)

 ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアは、まるで多重人格者を地でゆくかのように、いくつものペンネームを持ち、さまざまな文学的ペルソナを演じた。土岐恒二は、名前こそ変えないが、長い論文も短い評論も翻訳もこなし、好みの詩人や作家も多様性に富み、ペソア顔負けの八面六臂の多才な芸を見せる。

 ペソアが多言語に通じていたように、土岐もおそらく英語以外にスペイン語やフランス語などの外国語にも堪能だったはずである。そのことが彼を狭い専門領域にとどめなかった要因の一つであるように思える。

 神秘主義者スウェーデンボリのいう「普遍的類似」の影響を受けたボードレールやブレイクの「照応理論(コレスポンダンス)」を研究するうちに、土岐も自身の書き物に「照応理論」を取り入れ、自家薬籠中のものにしていたようだ。

 伝統的に専門性を重んじる英文学の世界において、世紀末文学やロマン主義文学に造詣が深く、オスカー・ワイルド、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、コーリッジ、W ・B・イェイツについての論考がひときわ光彩を放つ。だが、それらの著作は一種の「隠し絵」なのだ。つねにフランスのボードレールやランボーの詩の思想や、ラテンアメリカのボルヘスやコルターサル、米国の象徴主義詩人・エズラ・パウンドの詩論がキャンバスの下地に塗り込まれているからだ。

まず、土岐が「ペイターの中心思想」と指摘する「消滅への憬れ」を見てみればよい。過去は消滅したとしても、現代によって影響を受け蘇るというパラドックスを主題にした絵画(著作)があるとしよう。土岐によれば、ペイターは古典を「世代が交替するごとに更新される「現代性」」を帯びたものだと捉えていて、そのことを未完の長編『ガストン・ド・ラトゥール』によって示そうとしたという。だが、そうしたパラドックスを描いた絵の下地には、ボードレールのいう古典的な芸術作品の「現代性」という思想が隠されている。ボードレール曰く、「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ」(242)と。

次に、土岐は「廃墟、遺跡、遺物、墳墓、墓碑銘、古写本、美術品の破片、日記といった、時間の海に洗われて消滅してゆく過程においてかろうじて消えのこった壮麗な過去の残闕(ざんけつ)」(216)(「ウォルター・ペイターの印象批評」)こそ、ペイターの創作の原動力だという。そうした欠片・断片こそ過去の大いなる栄光や汚辱を映し出す鏡だという発想は、ボルヘス読解の鍵として提示される「迷宮の構造式」に通じるものだ。すなわち、それは「部分が全体を、縮小が極大」を反映するという、もう一つのパラドックスである。ボルヘスは文学の媒体である言語の細部(極小)をつき詰めていけば、宇宙(極大)にたどり着くと考えた。小さな図書館こそ大宇宙の象徴だった。

さらに言えば、土岐がボルヘス全集における同一作品の重複採録の謎を解き明かすために持ち出す、作家の「パリンプセスト理論」とは、前に書いた文字を消してその上に重ね書きすることだが、それはボードレールのいう「窮極の書物」「ある一冊の絶対的書物」という観念と「照応」する。

 おそらく土岐は、すぐれた文学論は、そうした「パリンプセスト理論」に基づくものだと考えていたはずである。詩人や作家の作品に上書きする文学作品としての文学論を目指したと思われる。なぜなら、土岐の著述には自身の手になる日本語の素晴らしい引用が散りばめられているからだ。読者にとっては、土岐の論考を読みながら、詩人や作家の残した「宝石」の輝きに触れることができる。

 土岐は広大かつ多様な領野を切り拓くにあたって、世紀末やモダニズムの英米文学であれ、現代ラテンアメリカ文学であれ、一見別のものの中に共通点を見つける、折口信夫のいう「類化性能」を駆使して、浩瀚な著述を残した。それが「照応理論」に基づく「隠し絵」だった。

編者・吉田朋正は、それらの遺稿を分類・整理するという非凡な「別化性能」を発揮して大部な本に「統合」した。この仕事によって、類稀なるユニークな「窮極の書物」が出来あがった。誠に慶賀に堪えない祝事(ほぎごと)である。
初出 『図書新聞』2021年2月6日

書評 石山徳子『「犠牲区域」のアメリカ』

2021年01月04日 | 書評
核の汚染と人種差別
石山徳子『「犠牲区域」のアメリカ』(岩波書店)
越川芳明


米国ニューメキシコ州のロスアラモスは原爆開発の「マンハッタン計画」の拠点として有名であるが、本書では原爆に関連する米国内の各拠点を辿っていく。

長崎に投下された原爆のプルトニウム生産現場のハンフォード・サイト(ワシントン州)、ウラン開発地コロラド高原(南西部)、高放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場候補地ユッカ・マウンテン(ネバダ州)、放射性廃棄物の中間貯蔵施設を誘致したスカルバレー(ユタ州)など。

これらの地名はあまり知られていないが、共通する点はなんだろうか。

どこも大都市からはるかに遠く隔たった辺境であり、誰も住む者がいない「不毛の土地」と見なされている点だ。

本書はそうした「不毛の土地」という常識のウソを暴き立てる刺激的な研究書だ。

というのも第二次大戦から冷戦期にかけて、米国の原爆開発にかかわったこれらの場所は「不毛の土地」どころか、古代から先住民たちが土地の精霊たちをうやまい、動植物と共生しながら生きてきた「神聖な土地」だったからだ。

「ストックホルム国際平和研究所」のデータ(2019年)によれば、世界の軍事費の四割を米国が占めているという。

軍事予算は約七千億ドルで国家予算の一割弱だ。

「国家安全保障」という大義名分のもとで、軍事大国アメリカの基盤とも言える原子力開発。

それに伴う多少のリスクは仕方ない、と誰しも考える。

なぜなら、リスクは大都市に住む市民ではなく、「不毛の土地」が負うのだから。

核による汚染は、米国の人種(先住民)差別と分かちがたく結びついている。

被害を受けるのは、きまって社会の周縁に追いやられた先住民だ。

日本でも「核のごみ」の最終処分場の選定をめぐって、財政難で苦しむ北海道の過疎の村や町が危険を承知で候補地に志願している。

政府が膨大な「調査費」を提示しているからだ。

ここにも資本主義世界で「犠牲」になる人々がいる。本書はそんな現代日本の課題をも考えさせてくれる。

書評 ハワード・ノーマン(川野太郎訳)『ノーザン・ライツ』

2021年01月04日 | 書評

青春小説、多文化主義を内包 
ハワード・ノーマン(川野太郎訳)『ノーザン・ライツ』(みすず書房)
越川芳明

十代の白人少年を主人公にした「青春小説」だ。白人といっても父はウクライナ系、母はイギリス系である。

舞台は一九五〇年代後半のカナダ中央部・マニトバ州の秘境。冬には昼でもマイナス十四、十五度になる極寒の土地だ。

少年は母の計らいで、詫(わび)しく閉ざされた実家から一五〇キロほど離れた辺境の村で五回の夏を過ごす。

少年に部屋を提供してくれるのは、サム(イギリス系白人)とへティー(クリー族)の老夫婦で、少年とほぼ同世代の、夫婦の甥ペリーも同居している。

少年はそこで自分の英語文化とはちがう先住民の文化と触れ合うことになる。

少年はまずバイリンガルのへティーからクリー語のてほどきを受け、簡単な挨拶ぐらいはできるようになる。だが、サムからは「話し方を学ぶのはいい、でも白人がクリー語で考えることはできないのを、忘れてはいけないよ」と、釘を刺される。

キリスト教の宣教師たちが先住民を「野蛮人」とみなし「教化」しようしていることを戒めているのだ。

へティーの老父にはクマ狩りにつれていってもらうことになるが、ペリーが少年に「人間と自然(動植物)との共生」という先住民の世界観を伝える。

「動物たちはいつも聴いているんだ。食べるものがたっぷりあることをぼくらが当たり前に思っているとわかったら、彼らは狩りのときにその身を捧げてくれない」と。

その辺境の村はもともとクリー族の村だったが、フィンランド語の葬送歌を歌う大男をはじめ、フレンチ・カナダ人やノルウェイ人など、英語を母語としない人々も住みついている。

カナダは世界にさきがけて一九七一年に「多文化主義」の導入を宣言した。

文化に優劣は存在しないとして、先住民文化をはじめとするエスニック集団の文化と英仏文化とが平等であることを、のちに憲法に明文化した。

それまでは英仏系を頂点にしたエスニック・ヒエラルキー(階層性)が存在して、その最底辺に先住民がおいやられていた。

現代でも優れた国策にもかかわらず都会に住む先住民が過酷な境遇にさらされている。

主人公の少年が多感な時期に過ごす辺境の村は、「多文化主義」をじかに肌で教わる「学校」だった。

そういう意味で、この物語は少年少女の読者には「多文化主義」を学ぶ格好のテクストになるだろう。

『日経新聞』2020年12月19日

島田雅彦 『君が異端だった頃』

2020年04月05日 | 書評

「私小説」を逸脱する「私小説」 
島田雅彦 『君が異端だった頃』(集英社)
越川芳明

島田雅彦に「アイアン・ファミリー」という、ブラックユーモアに彩られた傑作短編がある(『暗黒寓話集』所収)。

紀元前に大陸の秦(ルビ:しん)からこの島国にやってきて、「鉄の文化」(刀や鉄砲といった武器や、仏塔といった建造物や、貨幣の鋳造など)をもたらした、秦(ルビ:はた)一族の系譜をたどる、抱腹絶倒の「寓話」だ。

寓話であるから、権力や先入観に対する風刺が効いている。秦家の末裔だという「私」が嘘くさい系譜をひもとくとき、容易に想起されるのは「万世一系」という天皇家の系図をめぐる虚構性だ。そもそも私たちが世界に類のないものだと誇っている「日本文化」の根っこの部分も、起源をたどれば、大陸や朝鮮半島からのそれと混じりあった、ハイブリッドなものでないか。そういう皮肉の笑いが聞こえてくる。

系譜というのは、後からやってきた人間(子孫)が自分の立ち位置を確認したり、自分をよりよく見せびらかしたりするために作り出すフィクションである。

島田雅彦は、「系譜フェチ」みたいなところがあり、二人称の「君」を語り手にしたこの小説でも、「系譜」が出てくる。文壇での立ち位置を模索する若い「君」が編み出す、日本作家の「異端」の「系譜」である。大学在学中に文芸誌『海燕』で鮮烈なデビューを飾るものの、文壇の大御所からは無視されつづけ、芥川賞候補になること六回、ことごとく落選の憂き目をみる。

そんな逆境のなかでも「青二才」の「君」を支援してくれる先輩作家たちもいた。大江健三郎、安部公房、埴谷雄高、古井由吉、後藤明生。たとえば、大江からは異質な存在に冷淡な日本社会で「異端」の生き延びる方法(面従腹背やダブルスタンダードで、洗脳を免れる)を学んだという。とはいえ、なんといっても読んでいて面白いのは、「君」を激しく抑圧しながら可愛がる理不尽な怪物、中上健次の存在だ。ニューヨークに逃亡する「君」を「来襲」して、マンハッタンの危険地帯で一緒に飲みまわる。

「文豪列伝」と題された最終章は、文壇での「ニッチ(居場所)」を探求する「君」の二十代の物語だ。新宿界隈の文壇バーが舞台で、そこは編集者と作家と批評家が高い頻度で顔を付き合わせて研鑽を積んだ(ただクダを巻いて酒を飲んでいただけ、という説もあるが)「創作学校」だった。作家たちのおかしな生態が描かれていて退屈しないが、これは平成のインターネット時代になって消えてしまった「文壇」という文学共同体に関する貴重な証言でもある。

だが、この小説は文壇をめぐるものだけではない。

むしろ、作家個人の「系譜」、すなわち自伝である。「私小説」の形式で、多摩の山を切り開いた新興団地で過ごした幼少時代(のちに作家が「郊外」という文学トポスを発明することになる原風景)、工業地帯で過ごした高校時代(思春期の「君」の心身に刻まれる、強烈な異文化としての「カワサキ・ディープ・サウス」)、そして、これまた「君」の日本語を異化してやまない「ロシアン・スタディ」を学ぶ大学時代などが、クロノジカルに語られる。

友人や知人、恩師などの実名が数多く登場するが、小説の真骨頂は、二人のアメリカ人娘の登場する性愛の物語だ。ニューヨーク滞在中に、「君」は妻には内緒で、二人の大学院生のニーナとの自堕落な恋にうつつを抜かす。とりわけ、コーネル大学のニーナとはのっぴきならない関係になる。彼女は日本にまで追いかけてくる。ここでも「君」は持ち前のマゾヒストの才能を発揮して、彼女に沈滞している創作意欲の起爆材になってほしいと願う。

「彼女に振り回されることで大きな遠心力を得て、自分を何処かに飛ばすことはできるはずだった」(273)。この関係はやがて妻の知れるところとなり、泥沼の様相を呈す。その修羅場は、壇一雄『火宅の人』を彷彿させもする。

では、なぜいま「私小説」なのだろうか。島田雅彦にとっては、「系譜」作りも「私小説」も、同じ理屈のフィクションなのかもしれない。

「君」は言う。「「自分を捏造する癖」は誰もが持っているが、その悪癖を最後まで捨てないのが小説家というわけである」(235)と。

また、「私小説」についても、「君」はこう言う。「私小説は嘘つきが正直者になれる、ほとんど唯一のジャンル」(298)だ、と。

さて、話を「異端」に戻せば、十六世紀に宇宙の無限性を唱えて、コペルニクスの地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノがドミニコ会修道士(キリスト教徒)であったように、「異端」とはアウトサイダーのことでは決してない。

ある共同体や組織の「周縁」を住処にして、そこから「異言」を唱える「奇人」や「変人」である。

生物多様性が、地球に棲むすべての生物のための環境維持に欠かせないように、文化の多様性をもたらす「異端」の存在も、共同体を活性化するのに役立つ。

かくして、秦氏をめぐる寓話は、ここでは日本の近代文学の歴史に接続されて、小説のジャンル自体を批評する寓話へと変身を遂げる。

各章には、雑誌掲載時にはなかった「縄文時代」「南北戦争」「東西冷戦」「文豪列伝」といった寓意を込めたタイトルが付けられていて、ただの「君」自伝を超えた読解へと誘う。

あけすけなまでに自己暴露の「私小説」でありながら、「私小説」というサブジャンルから逸脱して、そこに安住する正統派を笑う、とても手の込んだ「異端」の小説だ。

(初出『すばる』2019年9月号、294-295頁)

今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』

2020年04月05日 | 書評

深い思索を促す「哲学」の書 
今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』(慶應義塾大学出版会)
越川芳明 


 ボルヘスは、小説家や詩人といった肩書きより、ことばの「創造者」という名称がふさわしいような気がする。

 今福龍太はアルゼンチンの「創造者」を「自己分裂の冷徹な目撃者」(14)と称する。自己分裂するのは人間一般である。我々は誰しもが「分裂症」であり、「生と死、この世とあの世、現と夢、自意識と無意識、死と不死の夢のはざまで」生きていて、自己分裂を強いられるからだ。

 今福は、ボルヘスの「分裂症」の世界観を「虎」という形象に託して論じる。たとえば、ボルヘスの「Dreamtigers(夢の虎)」という文章は、「幼いころ、わたしは熱烈に虎にあこがれた(中略)縞模様の、アジア産の、王者のごとき虎にである」という告白で始まるが、すぐに「ああ何と無力なことか!わたしの夢は決して、願いどおりの猛獣を生み出せない。なるほど虎は現われる。しかし、それは剝製にすぎない」とつづく。

 「夢の虎」とは「有限の時間」であり、「宿命」であり、「直線的な時間の流れ」であり、「宿命を背負ったわたし」だ。今福に言わせれば、「虎の探求は、人間という存在の現世における限界をおのれに知らしめることにもなった」(6)

 と同時に、ボルヘスは「ただひたすら「いま」という瞬間の充満によってのみ「永遠」へと侵入」しようとするという。「彼の時間への反逆は、「ボルヘス」という人格でありつづけることの「不幸」からのまったき自由を、どこかで夢見ていた」(8)と。そういう意味では、「夢の虎」は、「永遠」(「いま」という瞬間の無限の連鎖)であり、「夢」であり、「迷宮」であり、「不死のボルヘス」なのだ。

 このように、ボルヘスの「夢の虎」は両義的な特性を帯びた存在であり、人間の自己分裂の隠喩となる。

 ボルヘス自身の自己分裂を端的に表しているのは、「ボルヘスとわたし」という創作である。それは「さまざまなことがその身に起こっているのは、もう一人の男、ボルヘスである」という二重人格者のような発言で始まる。まるでみずからの尾をくわえるウロボロスのように、「ボルヘス」という「創造者」は文学伝統、言語そのものに呑み込まれ、「わたし」は「ボルヘス」に呑み込まれる。

 「「わたし」とは、生身の人間としてついには無に帰する「死すべき」mortal存在である。一方、「ボルヘス」はすでに言語あるいは伝統に属するものとして「不死」immortalの属性を与えられている」(17)と、今福はいう。

「自己の分裂、分身、アルター・エゴ、鏡、円環的時間の主題。ボルヘス自身が「フィクション」において探求したすべてのテーマが、この一文で「わたし」と「ボルヘス」の関係としてすでに語られている」(18)と。

 シェイクスピアを論じた「Everything and Nothing ――全と無」というボルヘスの文章も、イギリスの文豪に言及しながら、実はボルヘス自身について語ってもいるようで、パラドックスに満ちていて面白い。ボルヘスによれば、シェイクスピアは自分が何者でもないという恐れを抱き、実に多くの別の人間を演じつづけたが、死の直前には「ただひとりの人間、わたし自身でありたい」と神に願う。すると、どこからか、神の声が聞こえてきてこういう。「わたしもまた、わたしではない。(中略)お前はわたしと同様、多くの人間でありながら、何者でもないのだ」と。

「神の夢見(創造)の産物であるかもしれぬ人間が、その神から、自分もまた世界を夢見ることを通じて無数の他者へと転生していたのだ、と告げられたとき、唯一無二の絶対者へと向けられるべき儚い人間の魂の救いはどこにあるだろう? すべてであり無。神もまたこの宿命から逃れることは、ボルヘスの世界においては、できないのである」(144−145)と、今福は告げる。

 別の見方からすれば、ボルヘスの文学は、自己言及のそれであり、作者の「オリジナリティ」は否定され、「すべては「異本」であり決定版は存在しない」(51)のだ。

 今福の訳したボルヘスの詩「夢」には、どこか他の作品で聞いたようなフレーズが木霊(こだま)する。
 
 わたしはユリシーズの漕ぎ手たちよりはるかに遠く
 人間の記憶の及ばない
 夢の領野へと赴くだろう。
 (中略)
 死者たちとの対話
 ほんとうは仮面である顔
 とても古い言語に属する言葉
 (中略)
 わたしは万人であり、何者でもないだろう。
 わたしは他者であり、それがわたしであることを知らないだろう(146)

 ボルヘスの文章からは、宿命と不滅のはざまに生きる「創造者」の夢見る、逆説に満ちた「宇宙」が窺われるのではないか。
ボルヘスの「分裂症」の世界観は、逆説の宝庫とも言える。「極小であり、極大である世界」を志向し、「ボルヘスのどれも短い物語が語るのは、つねに一つの限定づけられた世界。(中略)にもかかわらず、(中略)大宇宙へと果てしなく拡大する」のである。また、「バベルの図書館」では、「無限に向けて開かれていたはずの空間が、極限の幽閉空間になってしまう」(85)のだ。 

 本書には、詩や短編やエッセイや講演など、ボルヘス自身のことばが例文として(著者自身の名訳で)豊富に挙げられており、これからボルヘスを読もうとする者にとっても、すばらしい入門書になるだろう。だが、だからと言って、ボルヘス理解が容易になるわけではないのだが。

 というのも、今福は「客観的にボルヘスという作家を同定し、解説的に叙述すること」(20)を意識的に避け、彼なりのボルヘス解釈を通じて、わたしたち自身に人生や死、自己や宇宙についての深い思索を促す、「哲学」の書を目指そうとしているようだから。(了)

初出『図書新聞』(2020年3月21日号)