ジム・トンプスン『バッドボーイ』の現代性
越川芳明
『バッドボーイ』は、ジム・トンプスンの八作目の小説である。小説家が四十六歳のときの作品で、物心ついた幼少期から二十二、三歳ごろまでの出来事が、一人称の語り(「わたし」)で語られている。
作家が体験したことをクロノロジカル(時系列順)に、細切れに「ショートショート」みたいに綴ったものだ。急速かつ野放図に発展する資本主義への畏怖と嫌悪、暗い過去を背負う敗残者たちへの共感、また彼らを引き寄せる「アジール(聖なる避難所)」としての荒野への愛着など、小説家トンプスンに影響を与えたであろう、若い頃のエピソードの数々が語られている。
いわば、「私小説」の試みと言える。いや、もっと正確に言えば、トンプスンが将来作家になるための(デビューは、三十六歳と遅かった)、「修行時代」を綴った「教養小説」と捉えるべきかもしれない。
ちなみに、この翻訳の原書版が出た一九五三年と翌年の五四年には、それぞれ五冊の小説が出版され、ものすごく多作な二年間だった。二カ月で一冊を仕上げるようなそうした早書きの能力と文体的な特徴(通常「ハードボイルド」と呼ばれる、ほとんど推敲がいらない簡潔な散文)のルーツを、若いころのジャーナリズムの仕事(業界新聞の埋め草、地方新聞や雑誌のフリーランスや記者など)に見いだす者もいる。通常は作品を出して初めて作家と認められるわけだが、この小説を読んで僕が思うに、トンプスンは作品を出すずっと以前から「作家」であった。その点を時代背景と絡めながら、論じてみたい。
T型フォードと西部の油田
この小説の背景となっている一九一〇年代や一九二〇年代は、どういう時代だったのか。トンプスン(一九〇六年生まれ)が青少年時代を過ごした頃に、アメリカ合衆国はどういう国だったのか。とりわけ、ここに描かれたアメリカの西部(ネブラスカ、オクラホマ、テキサス)はどういうところだったのか。
もし小説の中で描かれた「西部」が郷愁を誘うだけのもので、現代に通じるものがまったく見られないとすれば、われわれには退屈以外の何ものでもないだろう。
だが、たとえばコーマック・マッカーシーは、『ブラッド・メリディアン』(一九八五)で、十九世紀半ばの荒野を殺戮に彩られた戦争空間として描いている。そうした「交戦性」をのちに世界制覇に走るアメリカ合衆国の本質として示唆している。
トンプスンの描く西部は、われわれ読者に訴える現代性を備えているのだろうか。
結論を急がずに、一つずつ見ていくことにしよう。
ネブラスカの小学校に入ったばかりの「わたし」は、両親以外にも自分に「教育」を施してくれる先輩たちにこと欠かない。たとえば、八歳から十歳年上の従兄弟(母方)二人から、たばこや酒の手ほどきを受けたり、担任の女性教師にいたずらをするようたぶらかされたりする。この従兄弟たちは、ただのいたずら坊主ではなく、新しい時代の空気を1早く肌で感じ取っている少年たちだ。いずれも失敗に終わるが、かれらの実験精神が当時、アメリカでおこっていた、新しい産業やイノベーションの写し絵になっているからだ。新しい産業やイノベーションとは、他でもない、20世紀初頭のテキサスでの油田の開発や、それと連動した自動車/航空機産業の勃興である。
少年たちは、親にプレゼントにもらった自転車を分解して、一週間かけて簡易な「自動車」に改造する。だが、走り出させると、コントロールを失い、食料貯蔵庫に突っ込んでその入口をふさいでしまう。
自動車製造で失敗した従兄弟たちは、こんどはシート3枚と物干し綱でパラシュートづくりに挑み、一八メートルの高さのある給水塔から下の貯水漕めがけて落ちる。
前者には、明らかに二〇世紀初頭に開発された新型の自動車への憧れがみられる。自動車と言えば、もともとは一台ずつの注文製造であったが、フォード社が一九〇八年にT型フォードという規格車を発売した。フォード社は、ベルトコンベヤーを使った流れ作業方式を発明するだけでなく、それを徹底的に洗練させて効率のいい規格品の生産を実現する。T型フォードを二〇年近くモデルチェンジなしで売りつづけ、千五百万台も世の中に出した。大量生産により安価で自動車が提供できるために、購買層が広がった。そうした消費財の大量生産は、食料品や衣類品をはじめ、いろいろな分野に及び、技術革新が進んだ。そうした二〇世紀の大量生産・大量消費時代の象徴と言えるものが自動車産業であり、その代表的なモデルがT型フォードだった。
少年たちがマネをしようとしたのは、自転車に毛が生えたような初期のものだったとはいえ、移動手段としては馬車から自動車に移行する中で、それは大工場で作られた斬新な自動車が身近に見られる、進取にとんだ時代精神を反映していた。
トンプスンの『天国の南』(一九六七)で、T型フォードを乗りまわしているのは保安官助手である。超金持ちというわけではないが、小作人ほどの貧困者でもない。
「それは速いスピードでやってきた。音で車種がわかった。特許を取ったギアシフトとヘッドを搭載したT型フォード。モデルAやV8が出現するまえ、油田地帯でよく見られた車だ」(13)
このT型フォードには、無法状態となっている油田地帯で、数ヶ月のあいだ「保安官助手」として雇われたバド・ラッセンという男が乗っている。法の執行者として、「必要なこと、さらにはそれ以上のことをやった。彼らは威張るのが好きだったからだ。ろくに食べず働きすぎで反抗できない連中に威圧的に接するのが好きだった」 (14)
こうした表現から想像できるように、作家トンプスンは、プロレタリアートと称される「ろくに食べず働きすぎで反抗できない連中」に心情的に加担しながら、ラッセンのようなT型フォードを乗りまわすプチブルを皮肉る。
「フロンティア・ジャスティス」と呼ばれるアメリカ西部の掟がある。保安官や裁判官のいない無法地帯で、超法規的に処罰をくだすことを意味する。ラッセンのような保安官助手は、この「辺境の法」の執行官として、自分の気にくわない相手を処罰できるから、「威張るのが好きで」、立場の弱い者に「威圧的に接する」のである。
さて、フォード社に代表される自動車産業を二〇世紀アメリカの基幹産業に押し上げるのに寄与したのが、テキサスやオクラホマの油田の発見とその開発であることには、誰の異論もないだろう。木炭や石炭から石油への熱エネルギーの移行がもたらす第二次産業革命によって、アメリカ西部は大きく変化した。
テキサス州ヒューストンは今でこそアメリカを代表する大都市であり、人口二百十万人(二〇一八年)というのは全米で四番目に位置するが、二〇世紀の初めは綿花の集積地で、人口は四万五千人で、全米八十五番目の町でしかなかった。石油精製や石油化学など、石油関連産業の勃興によるヒューストンの発展は、アメリカの発展そのものであった。とりわけ、一九一〇年、テキサス州南東部ボーモントの近くのスピンドルトップでの石油の発見は、新しい時代の幕開けとして、象徴的な出来事だった。
『バッドボーイ』の「わたし」の父親は、独学の身ながら、政治や穀物相場からボクシングや競馬の予想まで、幅広く熟知し、オクラホマシティでは法律事務所の共同経営者をしたり、保安官になったりした。調子に乗って、連邦議員に共和党から立候補し、人種平等を訴えたが、急進的すぎて、みごとに落選。帳簿づけがずさんで、3万ドルの欠損を生じさせて、刑事告発され、メキシコに逃亡する。
父の失敗はそれだけではない。油田事業にも手をだして、借金地獄に追いやられる。成功しそうになるものの、竜巻のせいで、夢が吹っ飛ばされるのだ(189)。
「わたし」と石油産業について言えば、テキサス西部の油田地帯で、危険な油井櫓の解体作業(215)をはじめ、パイプライン敷設のために、シャベルとつるはしを使った土木作業(227)に従事する。その土木工事では、人々が荒野を移動して工事をしつづけるわけで、現場のちかくの飯場に大勢の作業員が野営する。
『国境の南』の冒頭には、こんな導入がある。「パイプライン敷設の仕事は、近年でもっとも大きな仕事のひとつになるはずだった−―この人里はなれたガス田から、はるばるメキシコ湾のポート・アーサーまで。しかし、数週間前にその工事の噂が広まって、週を追うごとに男たちーー前科者、浮浪者、放浪者たちがここへ流れてきた」(3)
『バッドボーイ』で、「わたし」がテキサス西部で目撃するのも、同じ顔ぶれだ。日当45ドルという日銭をもとめて集まってくる、社会の周縁に生きている者たちだ。「飯場には渡り者、浮浪者、前科者、逃亡者と、四百人もの男がいた。(中略)地元当局が取り締まることは不可能で、そこは親方たちがやった。(中略)親方が正義という名の裁きをくだした」(228-229)
ここで「辺境の正義」を体現するのは、保安官助手ではなく、飯場の親方たちだ。この親方たちが自動車に乗っているとすれば、T型フォードであるはずだ。
もちろん、『バッドボーイ』の背景となっている二〇世紀初頭、そこにいたのは敗残者ばかりではない。西部には成功のチャンスが限りなく広がっていた。先ほども触れたように石油が発見されたからである。テキサスの「石油王」と称されるセレブには、ヒュー・ロイ・カレン、H・L・ハント、シド・W・リチャードソン、クリント・マーチソンらがいたが、とりわけ、興味深いのはヒュー・ロイ・カレンである。
一八八一年生まれのカレンは、四歳のときに父親が家族を見捨てて出奔してしまう。そのために、サンアントニオで、母親ときょうだいで貧困のうちに育つ。すでに小学五年のときに家計を助けるために、学校に行かずにキャンディ工場で働く。十六歳で軍隊に入隊して米西戦争に参加しようとしたが、年齢制限に引っかかり入隊拒否に遭う。近くの町に行き、綿花専門の商社で働き口を見つけ、十八歳のときには農家から綿花を買い付け、それを会社が売って儲けを出す「バイヤー」の職を得て、それなりの成功を収める。結婚後、会社に所属しないで「綿花のブローカー」をしていたが、三十歳を機にヒューストンに出ていき起業を決意。今度は不動産業に手を染める。四年ほどは大した成果をあげられなかったが、ある人物との出会いが運命を左右する。一九一五年に、ヒュー・ロイ・カレンは不動産業で成功を収めているジム・チークという男に出会う。ロイとジムは、二人とも石油への投資ではズブの素人だったが、急激なブームになっていた石油産業に賭けることにする。二人は五年間、テキサスのあちこちを旅してまわり、州の中部と西部で、四十三ケ所の土地の賃貸借契約を結ぶ。投資家から二十五万ドルの資金を集め、三ケ所で油井櫓を立てたが、石油は出てこない。
初期の石油発見の方法は、地上にある地質的特徴から油田を探りあてるというもので、たとえば、岩塩ドームと呼ばれるものはその一つだった。ロイは、ヒューストン郊外の「ピアス・ジャンクション」というところにあたりをつけ、岩塩ドームの端っこを掘るという計画を立てた。知り合いの判事のサポートもあり、四万ドルの資金を集め、自己資金の二万ドルを足して土地の賃貸契約を結び、狙った場所を掘らせてみた。すると、見事に一日につき二千五百バレル(一バレルは約百六十リットルなので、約四十万リットル)の石油が噴き出る、「ガッシャー」と呼ばれる大油田に当たった。
続いて、これまで掘ったことがない深層までドリルを入れる案を提唱して投資を募り、それは二番目の「ピアース・ジャンクション・ガッシャー」の発掘につながる。さらにテキサスの材木業で財をなしていた男が投資をしてくれていたが、その男と一緒に、別の岩塩ドームの端っこにドリルを入れると、ここでも一日六万バレルの油田を掘り当てた。
こうしてほとんど無一文だったロイは、五〇年代に亡くなる前に、資産二、三億ドルの大富豪になっていたという。
このように「アメリカン・ドリーム」を絵に描いたような道を歩んだ者がいる一方、二〇世紀初頭の「激動の時代」にドリームをつかみ損ねた者もいた。いや、成功者は一握りにすぎず、そちらの方が圧倒的な多数派だった。
ジム・トンプスンの父親もその一人だった。本書でも、父のオクラホマシティでの成功と失敗が語られているが、続編のRoughneck (一九五四)の冒頭でも、トンプスン家のいっときの栄華が触れられている。十年後に「わたし」と母と妹は、その町のメインストリートにほとんど無一文で通りかかるのだが、「わたし」はこんな幻影を見る。
「わたしには、このビルから親父が飛び出てくるのが見える気がした。若くて、オシャレな服を着て、自分のアパーソン社のジャック・ラビットか、コール社のV8大型セダンに向かって駆けていく姿が。わたしたち家族の者が一緒に車に乗って、壁の本棚が本で埋まった、天井の高い我が家に帰る姿が見える気がした。わたしたちのために、夕食の準備をしているお抱えの料理人の笑顔も」(8)
アパーソン社は、一九〇一年にインディアナ州ココモに設立された自動車製造会社。縦型四気筒エンジン搭載の、六人乗りのツアー・モデルの開発で知られ、一九〇七年に「ジャック・ラビット」の名前で有名になる時速九十キロのスピードカーを五千ドルで売り出す。コール社は一九〇九年にインディアナポリスで設立され、二五年まで高級車の製造を行なった。V8エンジンの開発のパイオニアで知られる。倒産するまで、三万五千台しか作られなかった。とはいえ、0型で知られるV8車は利益率がよく、一九一六年に一台千六百ドルした。
それに対して、T型フォードは、販売を始めた一九〇八年に八百五十ドルだったが、販売を終了する二年前(一九二五年)には三百ドルまで下がり、時には全米で販売される自動車の四割を占めることもあったという。
かつて「わたし」の父は、何百万ドルの石油ビジネスにかかわり、羽振りもよかった。乗っている車もアパーソン社やコール社の高級車だった。だが、自分たちが今乗っているのは、T型フォードのポンコツ車だ。この大きな落差。まるで、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・ただ春の夜の夢のごとし、といった『平家物語』のフレーズが浮かんできそうな運命のいたずら。
確かにトンプスンの小説には、主人公も含めて社会の周縁に追いやられた労務者たちが多く描かれていて、「プロレタリア文学」のように論じられたりするが、彼の文学の本質は、アメリカの資本主義への抗議ではなく、むしろ社会風刺や人間風刺にあるのではないだろうか。
二〇年代のメキシコの金山を舞台に、「わたし」の父と同じように、「黄金」を一夜にして失う男たちの悲喜劇を扱ったハリウッド映画がある。ハンフリー・ボガード主演、ジョン・ヒューストン監督の『黄金』(一九四八)という作品だ。無一文のアメリカ人たちが必死の思いで手にした砂金をひとり占めしようとして、最後は誰もが元の無一文になるという「諸行無常」の物語。ただし、この映画には、誰もが相手をなんとかして出し抜き、利潤を上げようとする資本主義のゲームが一段落して、勝利者がいない無常観漂う世界に対して、その周縁から笑いを発する狂気の想像力がある。トンプスンの小説のテイストもそれに似ていて、当事者本人たちには笑えない悲喜劇を描く。
たとえば、『バッドボーイ』の結末を見ればいい。テキサスの地元ギャングと手を組んだ密造酒販売の失敗で、「わたし」は、母と妹を連れてポンコツ車(もちろん、T型フォード)で、遠いネブラスカまで夜逃げを試みる。だが、たちまちエンジンが不吉な音を立てる。点検してみると、車軸がおが屑とオイルにまみれて緩んでいる。しばらく走り続けていると、床から煙と蒸気が上がってくる。母は怒り心頭で「わたし」に怒鳴りつける。「ばらばらに分解しそうなこの車で、文無し同然の私たちは合衆国を半分も横断しなきゃならないのに−−それが−−それが、あたなはそこで笑っている! ねえ、どうなってるの? なぜ笑えるの?」と。
人生の早い頃から、いっときだけ成功は収めるが、失敗に次ぐ失敗を重ね、「わたし」は二十代なかばにしてこうした「狂気の笑い」を獲得するにいたる。こうした自虐的な「ブラックユーモア」は、小説家としてトンプスンの本質に思えるので、本稿の最後にもう一度別の角度から触れることにする。
トンプスンは、資本主義ゲームの負け組に対してはもちろんであるが、勝ち組に対して、憐れみを感じる心性を持っている。
『バッドボーイ』の「わたし」は、十代で学校に行きながらゴルフ場のキャディをしたり、雑誌社での半端仕事、ホテルのベルボーイをはじめ、いろいろな仕事やアルバイトをして「人生勉強」をする。そして、新聞社で記者をしていた頃には、「名うての悪党や名士の数々」にインタビューをしたという。「映画スターに殺人犯、鉄道会社の社長に偽証人、王子、女衒、外交官、扇動者、判事に被告人」などに。しかし、「あるとき、アメリカで三番目に給料が高いという西海岸の実業家に話を聞いた。誘拐を極度に恐れるあまり、自宅を要塞化してしまった人物で、電話番号を入手したわたしが連絡を入れるとヒステリーを起こしかけた」
こうして富豪になっても、警戒しすぎて人生を楽しめない人間、不幸になってしまう人間がいることをトンプスンは知った。トンプスンは資本主義ゲーム自体を攻撃するのではなく、自分自身も含めて、それに翻弄されてしまう人間たちを、共感を込めて笑いとばした。
長々と二〇世紀のアメリカの自動車産業と石油開発について述べてきたが、いま時代は、石油から再生可能なエネルギー(太陽光や風など)へと移行しつつある。“GAFA”(グーグル、アマゾン、フェースブック、アップルの四社を合わせた総称)と称される巨大IT企業に先導されるデジタル/インターネット革命(第三次産業革命)を経て、いま、先進諸国では自動車運転技術をはじめ、さまざまな工業部門や日常生活でICT(情報コミュニケーションテクノロジー)による自動化技術の開発が進んでいる。それらの未来革命を第四次産業革命と呼ぶ者もいる。(Reimund Neugebauer, et.al, “Industrie 4.0—From the Perspective of Applied Research,”Procedia CIRP 57 (2016)2-7)
ただし、トンプスンの「第二次産業革命」の時代から百年近く経っているとはいえ、現代も先の読めない「激動の時代」であることは同じである。むしろ、世界中で、一人握りの富める者と大勢の貧しい者との格差がいっそう広がるという予測もなされている。したがって、「激動の時代」で敗れていった者に焦点をあてて、一言でいえば「アメリカン・ドリーム」の悪夢的逆説を語ったトンプスンのこの小説は、ばら色とは言えないわれわれの未来を語る寓話にもなりうるのである。二十一世紀に生きているわたしたちにとって、それこそがこの小説の現代性ということができる。
伝道集会と福音主義
「わたし」の父は、議員になろうとして多額の借金を出して大失敗したことから、「人の苦労は無知から生じる」という信条を得る。
父がメキシコに逃亡しているあいだ、「わたし」はネブラスカの親戚(祖父母)の厄介になる。とりわけ、祖父のマイヤーズは、頑固なアル中だが、「わたし」にユニークな「教育」をほどこす。
信心深い祖母に「伝道集会」に連れていかれた6歳の「わたし」は、牧師による「地獄行き」の説教のせいで、眠れない夜を過ごす。「当時の伝道集会では、世界が終わる日付を牧師が予言するきまり担っていた。わたしを恐怖におとしいれたあの牧師は、自分が発って六週間後には、世界はもはや存在しないだろうと述べた」(41)。わたしの不安を察して、マイヤーズ祖父さんは、トディ(ホット・ウィスキー)と安葉巻で「わたし」を落ち着かせてから、伝道集会の牧師の言い草を真に受けるのは「愚の骨頂だ」と説いて、笑わせてくれる。「悲惨きわまりない少年期を経験した祖父は、子どもの心を落ち着かせることこそ善、心の平安を乱すものは悪と信じていた」(28)のだ。
ある日の朝はやく、祖父は「わたし」を「大馬鹿者の群れ」を見に連れていくという。祖父があらかじめ目星をつけていた家に行くと、その一家の者たちが寝間着姿で屋根に登っていた。祖父は「世界の終わり」を真に受けた信者たちを、「なぜ寝間着なんだ? 天国でずっと寝てすごすつもりか」などと嘲笑し、少年の「わたし」も大いに笑う。
とはいえ、「わたし」の内面は、あけすけな祖父よりはもう少し繊細かつ複雑で、西部の純朴な田舎者たちに対して、保安官助手にしたように、皮肉ることができない。「その朝、身内の誰よりも笑おうとしたわたしだが、実のところ、笑う相手に強く共感をおぼえていた。(中略)おそらく、わたし自身が何度となく大馬鹿者であったからであろう」(42-43)
さて、ここで祖父によって揶揄された伝道集会と福音主義について触れておこう。『バッドボーイ』の少年が祖母にキャンプミーティングに連れていかれた時代、プロテスタントのペンテコテ派によるキャンプミーティングが盛んだったようだ。かれらは、イエスの復活・昇天後に、 百二十人の信徒が神の聖霊の降臨を受けたという『使徒言行録』の一説を文字通り信じて、聖霊降臨(ペンテコステ)の運動を展開した。一九〇六年、ウィリアム・シーモア牧師によるロサンジェルスでの集会では、聴衆者が「聖霊のバプテスマ」を受けてエクスタシー状態に陥り、「異言」を語るという現象が起こった。リードによれば、一九一三年に、同じくロサンジェルスで、全世界ペンテコステ派のキャンプミーティングが開かれ、ある伝道師が予言すると、翌年、大勢の信者がその「聖霊のバプテスマ」を経験した。集会は、ほどなく全米各地に広がったという。(David A. Reed, “Then and Now : The Many Faces of Global Oneness Pentecostalism,” The Cambridge Companion to Pentecostalism, 2014, 52-70)
もともとアメリカ大陸にやってきた清教徒たちは、マルティン・ルターらの宗教改革に賛同した者たちで、カトリック教会と違って、「教会」の権威には重きをおかず、「聖書」の言葉がすべてとみなした。植民地時代から現代まで、アメリカの宗教史において、「聖書」の「福音」を広める説教者の存在が大きな役割を果たしてきた。
そうした福音主義(ルビ:エヴァンジェリズム)の信仰復活運動の例として、アメリカでは、ニューイングランドを中心に一七三〇年から四〇年代にかけて起こった「大覚醒」と呼ばれるものがよく知られている。特に、メソヂスト派では、集会でゴスペルソングを歌うミサの採用によって、黒人の改宗に成功したと言われる。この「大覚醒」の代表的な人物といえば、ジョナサン・エドワーズを措いて他にない。彼の説教は、改革派カルヴァンの神学に基づき、その有名な説教「怒れる神の御手の中にある罪人」は、凄まじい地獄の苦しみを説き、改宗して神の正しい救いを求めることを訴えた。『バッドボーイ』の少年が聴いたのは、そうしたエドワーズ流の説教だったと思われる。
また、世俗化の進んだ十九世紀初めには、「第二次大覚醒」と呼ばれる復活運動が起こり、ここではキャンプミーティングで福音主義(神による罪の裁き、十字架による贖罪、神の復活など)を説き、大勢の人々に改宗の機会、救済の機会をもたらした。主な伝道者には、チャールズ・フィニー、バートン・ストーンらがいたが、その宗教復活運動はやがて刑務所改革、女性参政権や奴隷制撤廃などの社会改革につながった。
さて、二〇世紀から現代までは、テクノロジーを利用した伝道集会が生まれる。二〇世紀前半はラジオ伝道が、その後はテレビ伝道が流行したが、その両方でカリスマ的な存在感を見せつけたのは、ビリー・グラハムである。とりわけ、「エレクトリック教会」とも呼ばれた、テレビ伝道キャンペーンの第一回目で、百五十万人もの信者と寄付金を獲得したという。
さらに、ビリー・グラハムの後には、レックス・ハンバード、オーラル・ロバーツなど、新しい「テレヴァンジェリスト」たちが誕生して、視聴者が自宅から教会に対して、クレジットカードを使って寄付金を送らせることに成功した。現代では、コンピュータやスマホを使った「インターネット・エヴァンジェリズム」への移行が見られる。小さい教会の生き残りをかけて、動画や音楽を活用したウェブページを作って布教活動を行なっている。
これまで、『バッドボーイ』に描かれた、アメリカの福音主義者の伝道集会に触発されて、長々とそのことについて述べてきた。そのわけは、それが過去の遺物ではなく、現代アメリカに根強く息づいていて、政治動向に大きな影響を与えているからである。福音派のカリスマ伝道師ビリー・グラハムは、死ぬまで戦後の歴代大統領たちに影響を与えたと言われる。福音派の信者たちの票が選挙での当否を決めるからだ。
なぜトランプ大統領は、イスラム教徒たちの抗議にもかかわらず、聖地エルサレムへのアメリカ大使館の移設をはじめとして、イスラエルを擁護しつづけるのか。
それは、福音主義者たちこそトランプ政権の大きな支持層だからだ。アメリカの福音派の者たちは、「創世記」に描かれた、アブラハムの子孫(ユダヤ人)にシオン・エルサレムの永久所有を認めるという「アブラハム契約」を信じており、かれらは親イスラエル派だからだ。
もし作家トンプスンが生きていたら、トランプ政権を支持する素朴な「大馬鹿者」たちをどのように言っただろうか。早朝に家の屋根に登って世界の終わりの「ハルマゲドン」を待った、ネブラスカの「大馬鹿者」たちに対して抱いたのと同じような「共感」を果たして抱くのだろうか。それとも、テキサスにも大勢いた、自分たちの「常識」を盲信している「大馬鹿者」たちに感じた「鬱陶しさ」を感じるのだろうか。
バーレスクとブラックユーモア
最後に、『バッドボーイ』におけるトンプスン(「わたし」)の語りの本質について述べておきたい。
かれは幼少時代から20代初めまで、数々の悲惨な目に遭い辛酸を舐めてきた。そうしたエピソードを綴りながら、そこには暗い絶望がない。たとえ絶望するような出来事があっても、一歩引いて自分の絶望を笑いとばすユーモアがある。もちろん、そこには25年以上の時間的な隔たりがあり、過去の出来事を冷静に眺められるという事実がある。
それ以上に、将来の作家トンプスンにそうしたユーモアのセンスを与えてくれた存在を忘れることはできない。先ほども触れたネブラスカの祖父である。
十三歳の頃、「わたし」は、テキサス州フォートワースで「百万ドル稼ぐ」父親とそりが合わず、父親のやり方に逆らっていた。金持ちの子供は金持ちらしくという父親の考えで、「わたし」は高級紳士服店で奇抜な「制服」を作らされ、ついに我慢できなくなり、父に対して「罵り言葉」を吐く。罰として家族旅行に同行させてもらえなくなった3日間、遠いネブラスカからやってきたのが、あのマイヤーズ祖父さんだった。
祖父は不良くずれの少年に安葉巻をくれ、密造のバーボンウィスキーでホットトディを作ってくれる。少年を子供扱いしないのだ。ただ人生の先輩としてアドバイスする。「おれたちにはそれぞれやり方があって、そいつをやってくだけさ。他人様のやり方なんて真似できやしない。こっちでやり方を押しつけてもだめだ。よけい依怙地になっちまって、敵にまわすのがオチさ」と。
そこからが真骨頂で、少年に自分の大きなスーツをまとわせ、レストランに連れていき、二人でステーキに卵にホットケーキの朝食をたらふく食べる。その後、ビリヤード場と遊戯場へ行って遊び、最後にバーレスク劇場に繰り出す。
バーレスクとは、イギリスのヴィクトリア朝時代(十九世紀後半)に流行った大衆演劇の一形式だ。様式にとらわれないで演じるパントマイムがあったり、妖精物語を派手な演出で見せたりした。あるいは、類型的な人物が登場して、滑稽な演技をして観客を笑わせた。
一九六八年夏に、ロンドンのリディア・トンプスン一座がニューヨークにやってきて、大成功をもたらし、バーレスクは二〇世紀半ばにいたるまで全米各地に広がりを見せる。
アメリカの舞台では、歌や踊りで上流階級の上品さや賢さを称揚していたものの、観客は労働者階級で、そこにはバーレスクの社会批評や文学的な風刺が効いていた。オーエン・アルドリッチは、次のようにその方法論について語っている。バーレスクは、「崇高な、威厳のある人物や制度を粗雑にぞんざいに扱う」と。
「風刺の恰好の主題は、政治だったり家庭問題だったり、あらゆる種類のセックスの問題だったりする。政治家や判事、警察官などは恰好の標的であり、裁判所はよく出てくる舞台設定だった」(A. Owen Aldridge, “American Burlesque at Home and Abroad: Together with the Etymology of Go-Go Girl,” Journal of Popular Culture, 5-3, 568)
バーレスクには、もともとヴィクトリア朝のブルジョワ文化を脅かす破壊力があった。バーレスク劇場では、下流階級の観客がお上品な上流階級をからかうことができたからである。さらに言えば、リディア・トンプスン一座のバーレスクには、「おしとやかな女性」という、伝統的な女性観や女性の役割を脅かす「ジェンダー革命」や「労働者階級による汚染」をもたらす危険性があった(Robert C. Allen, Horrible Prettiness : Burlesque and American Culture, Chapel Hill: U of North Carolina, p.282)
しかし、ニューヨークのバーレスク劇場では、奥まった三階席が売春の温床になっていた。舞台のほうも、女性が歌と踊りで裸体をさらすストリップショーに変容していく。「わたし」がネブラスカの祖父に連れていかれたのは、おそらくそんなストリップ劇場としてのバーレスク劇場にちがいない。
「当時、フォートワースにはバーレスク劇場がやたらにあって、生前列、別名“禿頭席”を手に入れることができた。途中で短く交互に三度抜けたほかは、小屋が閉まる深夜十二時まで粘った」(91)
「すっかり満足の一日だった。爺は案内係に酒瓶を一本渡し、舞台裏にも二本届けた。あの場所では、爺とわたしのやることは決まっていた。娘たちがほぼ裸になるまで衣裳を引きはがしていく。爺は舞台に上がって楽屋まで娘たちを追いまわした」(92)
バーレスクの荒っぽいユーモアは、ペンテコステ派や福音派特有のプロテスタントの謹厳な倫理観とは対極に位置した。バーレスクが、きらびやかな見世物(女のエロティズム)や模倣(女が男を演じたり、白人が黒人を演じたりする)を強調するのに対して、プロテスタントの倫理は、勤勉や禁欲を重んじて、人間の「見せかけ」と「本質」の乖離を嫌った。バーレスクは、まさに「見せかけ」の演技によって、人間の「本質」をえぐりだしたり笑ったりすることをめざす。トランプ大統領ならば、さしずめそうした手法を「フェイク」とやじることだろう。自らそうした手法を使っているにもかかわらずに。
さて、ネブラスカの祖父は、禁酒法の時代に堂々と酒を飲みながら、そうした型破りの「成人教育」を3日にわたって「わたし」にほどこした。笑えるときには腹の底から笑うことを身をもって教えたのである。それというのも、孤児であった祖父は、かつて「わたし」にこんな民主主義的なアドバイスを送っていたからである。「世間の笑いものになるのはみんなの権利で、いずれおまえの順番が回ってくるぞ」(88)と。
先ほども触れたように、『バッドボーイ』の結末は、無一文で夜逃げする家族を乗せたT型フォードの故障という悲惨な状況である。そんな悲惨な出来事に対して、「わたし」は「狂気の笑い」で応じる。母が怒りにまかせて「なぜ笑えるの?」と問うのに対して、「わたし」はこう答える。「ほかにやることを思いつかないからかな」と。
これこそ、バーレスク的なオチというしかない。かくして、トンプスンが祖父から受け継いだ、「ブラックユーモア」という人生の荒波を渡る手立ては、作家トンプスンの語りの強力な武器となり、物語の大きな魅力となっているのだ。
引用ベージは、すべて以下の本による。
ジム・トンプスン(土屋晃訳)『バッドボーイ』(文遊社、2019年)