失われた瞬間(とき)を求めて
――オルハン・パムク『無垢の博物館』(早川書房)
越川芳明
トルコのノーベル賞作家オルハン・パムク(一九五二年生まれ)の受賞後第一作(原作は二〇〇八年刊)の待望の翻訳が出た。
トルコ辺境の少数民族クルド人問題やイスラム民族主義の問題を絡めた前作の『雪』(二〇〇二年)とはうって代わって、表立ったテーマは恋愛だ。
ケマル・バスマジュという、アメリカで教育を受けた三十歳の繊維業の財閥の子息と、彼の遠縁にあたる没落した家系の、十二歳年下の娘フュスン・カスキンとの禁断の恋が語られる(と思いきや、最後に、あっと驚くポストモダンな小説の仕掛けがあるのだが、それはいま触れないでおこう)。
禁断の恋というのは、ケマルにはフランスで教育を受けたスィベルという名の上品な許嫁(いいなずけ)がいるからである。
一人称の「わたし」の語りで語られるこの長編小説の翻訳書は二巻に分けられているが、正直なところ、上巻の四分の三ほどまでは退屈の極みであった。
上流階級に属する婚約者の女性と別れることなく、貧しい美少女を妾として囲いたい、といった金持ちのぼんぼんの脳天気で、独りよがりな論理(しかし、それはケマルの父のような、前の世代の権力者や金持ちには自然な感覚だった)が見え隠れするだからだ。
ケマルの手前勝手な思いを敢えて一人称の語りに託して語るパムクの意図はどこにあるのだろうか。
しかし、婚約が破綻するあたりで、にわかに小説は面白くなる。
禁断の恋が新たな局面を迎えるにつれて、ケマルの素朴な語りも翳りを帯びてくるからだ。
家族ごとの失踪のあと、思いを寄せるフュスンが別の貧しい若者と結婚してしまっているという知らせがケマルに届く。
しかし、ケマルは遠縁であることを口実にして頻繁にフュスンの家を訪れ、映画監督になる夢を抱くフュスンの若い夫に援助を申し出る。
フュスンとの関係は、妄想といたわりのあいだを行き来するものとなり、手を触れることすらできない。
(つづく)
――オルハン・パムク『無垢の博物館』(早川書房)
越川芳明
トルコのノーベル賞作家オルハン・パムク(一九五二年生まれ)の受賞後第一作(原作は二〇〇八年刊)の待望の翻訳が出た。
トルコ辺境の少数民族クルド人問題やイスラム民族主義の問題を絡めた前作の『雪』(二〇〇二年)とはうって代わって、表立ったテーマは恋愛だ。
ケマル・バスマジュという、アメリカで教育を受けた三十歳の繊維業の財閥の子息と、彼の遠縁にあたる没落した家系の、十二歳年下の娘フュスン・カスキンとの禁断の恋が語られる(と思いきや、最後に、あっと驚くポストモダンな小説の仕掛けがあるのだが、それはいま触れないでおこう)。
禁断の恋というのは、ケマルにはフランスで教育を受けたスィベルという名の上品な許嫁(いいなずけ)がいるからである。
一人称の「わたし」の語りで語られるこの長編小説の翻訳書は二巻に分けられているが、正直なところ、上巻の四分の三ほどまでは退屈の極みであった。
上流階級に属する婚約者の女性と別れることなく、貧しい美少女を妾として囲いたい、といった金持ちのぼんぼんの脳天気で、独りよがりな論理(しかし、それはケマルの父のような、前の世代の権力者や金持ちには自然な感覚だった)が見え隠れするだからだ。
ケマルの手前勝手な思いを敢えて一人称の語りに託して語るパムクの意図はどこにあるのだろうか。
しかし、婚約が破綻するあたりで、にわかに小説は面白くなる。
禁断の恋が新たな局面を迎えるにつれて、ケマルの素朴な語りも翳りを帯びてくるからだ。
家族ごとの失踪のあと、思いを寄せるフュスンが別の貧しい若者と結婚してしまっているという知らせがケマルに届く。
しかし、ケマルは遠縁であることを口実にして頻繁にフュスンの家を訪れ、映画監督になる夢を抱くフュスンの若い夫に援助を申し出る。
フュスンとの関係は、妄想といたわりのあいだを行き来するものとなり、手を触れることすらできない。
(つづく)