寝転んで空を見る

山高きを厭わず 海深きを厭わない

信長所縁の地を行く旅 Day3後編 安土城

2016年10月10日 | 信長公雑記
13時20分過ぎに安土駅に到着。
広い田園の中の真直ぐな道を歩いて『安土考古学博物館』へと向かう。
なんどか訪れた事のある博物館だが、展示内容が変わっているかも知れないので450円を払い入館。
しかし、代わり映えせず・・・。
続いて、安土城天守の上部三階を再建した物が展示してある『信長の館』へ(ここも以前紹介した)しかしここも代わり映えせず。(もう4度目かな)

だがしかし、今回安土に来たのは、この二つが目的ではないので問題ない。

今回の目的は三つ。
1.安土城黒金門の礎石をこの目で確かめる事。
2.柴田勝家が越前から信長に送り、信長が安土城に使ったと言う『笏谷石』を見る事。
3.信長廟の石を良く見てみる事。
(以前安土城は紹介した事があるので、今回はこの三つだけ記事にします)

安土城跡の入山料(値上げした?)を払い、安土城大手道を登って行く。
(因みに、安土城跡は摠見寺の鏡内となっている)
伝羽柴秀吉邸跡やら前田利家邸跡などの疑わしさは千田嘉博氏の著『信長の城』を読んで頂くとして、『黒金門跡』へと登って行く。

因みに、『黒金門』とは門に鉄板を貼り、錆止に漆を塗った門で、防火対策と厳示的効果を持たせた門。

ここから先が安土城の核心部だ(ここより外は家臣の屋敷や寺院)。

滋賀県教育委員会と安土考古学博物館によれば、上の写真の手前、左石段を下りた所、城道正面に黒金門があったと復原している。
が、これは防御面や実際の石垣(外枡形)の作りから言って、間違いである事は明らか。
しかも、前出の千田氏が示す食い違い虎口の位置(城道から石段を上って左にクランクした)に櫓門である黒金門の柱が立っていたであろう『礎石』が現存している。
(右側の礎石は確認できないが)
その礎石を確かめるのが今回の目的の一つ。
上の写真でも礎石が確認でる(左したから石段を上った直ぐ左の地面に)


『黒金門の礎石』
構造・防御面・過去の織田系の城の構造・礎石の存在をみれば千田氏が正しいのは明らかだろう。


黒金門跡を通り、安土城の核心部へと入っていく。
ここには清涼殿を模した建物があったとされ、昔は私自信も、その説を疑って居なかったのだが、『現在は、その発掘調査と説のいい加減さ』が指摘され、『完全に否定されている』。
(考古学博物館や信長の館では、今だその説と再現CGを採用しているが)

個人的には、信長公記にその展望の素晴らしさが記され、家康への接待が行われたと伝わる『江雲寺御殿跡』(滋賀県教育委員会が示す三の丸)へ上りたいところだが、ここへは上る石段が無く、当時は御殿群内部の階段で行き来したらしい。


さて、安土城最大の謎である天主があった天主台へと向かう。
その天主台へ上がる石段の踊り場に敷かれた石が今回の目的の一つだ。

これが『笏谷石の敷石』

越前の足羽山周辺でしか採掘されないこの石の特徴は、加工しやすい事とその色で、特に水に濡れると青色になる事だ。

笏谷石はDay2で訪れた一乗谷でも多く利用されていて(石仏・石塔・燈籠・井戸枠などなど)資料館ではそれらを目にする事ができる。
特に2.5mの巨大な燈籠は圧巻で、その灯が一乗谷を灯していた様を想像すると…。

おっと、話を戻そう。
信長は朝倉氏を滅ぼした後、越前は一向宗に奪われるが、天正三年にこれを奪還。柴田勝家に越前を与え、国持ち大名とする。
そのお礼の意味も在ったのだろう。天正九年七月十一日、勝家は特産品である『笏谷石』の切石数百個を信長に献上したと信長公記にある。
(因みに、勝家の居城『北ノ庄城』天守の屋根瓦は笏谷石で出来た石瓦で、『青かった』と宣教師の記録にある)
その笏谷石が、天主地下一階部分、土蔵の入り口にだけ敷かれているのだ。
これは、千田氏が指摘している様に、来客に対し(天主に入れる者は極々限られて居たが)『朝倉や一向宗を倒し、越前を手にした証し』を示しているのだろう。

写真を良く見ると、写真手前の左右に礎石が確認できる。天主石蔵への扉を支える柱が立って居たのだろう。
千田氏の『信長の城』に書かれている様に、私達が『信長も必ず歩いた敷石』の上を歩き、触れられる事は感激だ。
しかし、この場所に、なんの説明も指摘する看板も無い事が、『なんだかなぁ』である。


最後に『織田信長廟の石』だ
信長廟は、安土山の山頂部の安土考古学博物館と滋賀県教育委員会の言う『二の丸』にある。
しかし、『信長の城』の千田氏は、ここを『詰丸』であると指摘している。
信長の奥御殿があった場所だという事。
『詰丸』とは現代で言う『本丸』であり、『奥御殿』とは信長が普段生活していたプライベート空間。
だから本能寺の変後、何者かが(おそらく秀吉、もしかしたら信雄?)信長の遺品を入れた信長の墓を、安土城のこの場所に作った訳。(信長が生活していた場所だから)
しかし、今回私の興味を引いたのは、そこでは無い。

この信長廟、墓としては珍しい形をしている。

当時の墓と言えば石塔が一般的なのに、この作り。
そして不思議なのは、上に乗っている『自然石』。
当時、高位の者の墓石に自然石を使うと事は大変非礼な事であり、異様な事なのだ。

今まではこの自然石をあまり注意して見なかったので、今回はそれを見る事が目的の一つ。


この石を天主台の上から見ると、なかなか大きな石だとわかる。
上記の理由からこの石は信長に関係のある『石』なのだろうと、推測されている。
信長に関係のある『石』と言えば、『蛇石』と『盆山』だが、この石を山頂に上げるのに一万人を要したとは思えないので、『蛇石』では無いだろう。
となると、天主にあって信長の分身とした『盆山』なのだろうか?
なんの変哲も無い石だから、この石を『盆山』とする説は少ないが、井沢元彦氏の説の通り『盆山』が『影向石』(神が降臨した石)であるならば、『何の変哲も無いのが普通』なのだ。
その石が『特別』なのは、色や形では無く『その石に神が降臨した』のが理由なのだから。
この廟の石が『盆山=神信長の影向石』である可能性は極めて高い。と個人的にではあるが、そう思っている。

では、この石は何処にあった石だろうか?
〇〇公腰掛の石の様に信長が腰を掛けた石なのだろうか?
私は、信長出生地である勝幡城から持ってきた石ではないかと、思っている。
このアイディア(自己神格化と御神体)には、宣教師や石山寺の影向石等の影響があったのでは?と思っている。
このひっそりとたたずむ石積みの上の自然石が、最初は天主に、次いで摠見寺に置かれた、信長のあの『盆山』であり、それをこの目で見ているのならば、なんと感慨深い事だろうか。


入山時間が終る少し前に下山(17時だったか?)、この夜の宿をとってある岐阜へと向かう。
電車が米原駅を出た直後、お婆さんに『ここ空いてますか?座っても良いですか?』とたずねられたので、『もちろん!どうぞ!!』と答える。
『優先席に行ったけど若い人が座ってて・・・』との事だ。
この、お婆さんと車中色々と話す事に。

お婆さんは滋賀県出身で、関ヶ原の旦那さんと結婚され、現在は関ヶ原に住んでいるそうだ。
私の旅の話になったのでそれを話すと、『じゃあ関ヶ原にも来て下さい』と、また『関ヶ原祭り』も勧められた。(関ヶ原は未だなので、何時か行きたいと思う)
俺が『こっちは(愛知から岐阜・滋賀・福井)山や丘に多くの桜が植わってますね』と言うと、昔(滋賀の頃)町に言われて桜の木を植えに行ったとの事。
なるほど、そう言う活動があったのか~と納得。
それに、ちょっと疑問に思った事も聞いてみた。
『滋賀は関西弁ですよね? 岐阜は違いますよね? 関ヶ原は滋賀に近いですけど、どっちの言葉なんですか?』と。
お婆さんの答えは『関ヶ原弁』との事。 笑
ほぼ岐阜の言葉(愛知弁に近い?)らしい。
関ヶ原駅でこのお婆さんとは、お別れ。
『こんなお婆さんの相手をしてくれて、楽しい時間をありがとう』との言葉を頂く。
『こちらこそ』と俺。

岐阜のホテルの着いてビックリ、物凄く狭いし、汚い。(金は払ったが、他に泊まろうかと思ったほど)
以前泊まったホテルは、小さかったが綺麗だったが・・・。

ここには、二度と泊まらない。そう誓って21時頃就寝。



私は歴史好きを自認する男だが、じつは彦根城には足を運んだことが無い。(何回も近くを通っているのに)
勿論、行きたい気持ちはあるが、小谷城跡や安土城跡の魅力に素通りを繰り返してしまう。
無論、後の二つの方が、信長に係わりが強い事もある。
しかし、平和な時を過ごし、整備された城より、朽ち果てていった城跡の方に、より魅力を感じるのだ。
小谷城跡などは特に、落城した歴史的事実があり、その土は武者達の血を吸い、石は業火に焼かれた石なのだ。
いまだ片付けられず、地中に埋もれている遺骸もあるだろう。
もし、魂と言うものが存在するのなら、そこに留まっている魂があるかもしれない。
そんな整備され過ぎていない、その場所で生きて、戦い、死んでいった人達の息吹を感じられる場所で、往時を想像したり文献と照らし合わせて見て回る事は、無上味わいがある。
それはまるで、美味い吟醸酒を飲みながら読む歴史小説の様な味わいがあるのだ。

今回の旅は、特に一乗谷と小谷城跡は、『時の流れに埋もれた』感が強く、格別の味わいがあった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿