軆内にきみが血流る正座に堪ふ 鈴木しづ子
『俳句往来』昭和26年11月号に掲載。
昭和21年の5月、母は福井市で逝去している。しづ子が母綾子の訃報を受けた直後の句と思われる。東京で一人暮らしをしていた27歳の時である。
「きみの血」とは血縁関係を表わす「血」であろうが、なぜ「正座に堪ふ」なのだろう。訃報に慟哭し、やがて涙の涸れたあとに正座し母の死を認めようとする覚悟の姿勢だったのだろうか。「軆内にきみが血」を性行による体液と見る向きもあるが、下衆の勘繰りというべきだろう。
思い起こせば〈母は病む十薬の花咲きさかり〉と詠ったように、昭和16年夏、母は家族と磯遊びをした後に体調を崩している。母の療養を兼ね、結果的に疎開先となった福井での生活も耐乏を強いられたことだろう。別れる前の母との思い出が去来し、我がままな自分、母に孝行できなかった己を恥じたかもしれない。ちなみに、〈ゆかた着てならびゆく背の母をこゆ〉〈好物のかきもち母をとほく憶ふ〉というような母憶いの句はあるが、父親を詠った句は見当たらない。
良くも悪くも、自己分析をするには時の流れが必要だ。自己を納得させるための、都合のよい自己分析もあろう。しづ子は俳人である前に詩人であったように思う。それは次の自註自解を詠めば明らかだ。後日、しづ子は当時を次の様に分析している。
(注:下記文は、しづ子の原文を詩になるように改行したものです)
それはあまりにも生々しい。
しかし享楽ではなかった。
かたくつむった瞼の痙攣が酷くも記憶を呼び醒ます。
仮令一瞬でもよい、体の支柱が、心の支柱が欲しい、欲しい。
いまさらの如く、叛いていくとせ、血をわけたはらからが、したわしい。
ああ母は、既にいなかったのだ!
母も!――このように泪を流して私をこの世に送り出したのか。
私も母とおなじみちをたどるのか。
母よ、何故生きていてはくれなかったのだ。
私は訴えるところがないではないか。
私は――ああ、その折の私の身もだえがいたたましくも蘇ってくる。
私のはたちの理性は斯くまでに脆いものであったのか。
とり戻すすべのない悔恨と、自棄的な諦感と。
激しい感情の渦巻にもはや己れ一個のみではない血脈の流れは
ときには熱くときには冷たく明瞭な心音をひびかせ
この五体を圧迫しつづけてやまない。
午後九時の時報もすぎた。
雨か。
春寒のともしびはうす黄いろく、ともすれば身も心も崩れてしまう。
正座に堪ふ……
いくたびかの推敲を経たのちのわたしの必死の表現だ。
(『樹海』’48・7月号)
この文中(詩的に改行を多くしてある)の「親と同じ道を辿る」とはどういうことなのか。
仕事の関係で父親は不在がち。母や家族と別れて、都会での一人暮らし。そんなことから職場や生活の辛さを誰にもぶつけることができない。文学少女だったしづ子には、俳句のみが不満の捌け口であったのか。
これからの生活は「母親と同じく不幸を背負う」道になるのか、という嘆きだろうか。どうしても避けられない血のつながりを恨んだに違いない。
ここで、その頃のしづ子の俳句を何句か紹介します。戦時中の工場の様子や生活が彷彿としてきます。
凩やはやめに入れる孤りの燈
むくげ垣つづき寮生列してくる
時差出勤ホームの上の朝の月
鉄臭にそまりゆく指火にかざす
鉄宵にのぞむ手袋はめにけり
銀漢やひそかにぬぐふ肌の汗
青葉の日朝の點呼の列に入る
東京と生死をちかふ盛夏かな
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