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西東三鬼の一句鑑賞(三)   高橋透水

2015年10月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
白馬を少女瀆れて下りにけむ  


 歴史は偉人を必要とする。秋桜子の反ホトトギスの動きから新興俳句運動が起こったが、その新しい波に乗るかのように、三鬼の俳句人生が始まった。虚弱で文弱であったが、津山という風土もあってか早熟な少年だった。早くから漱石はじめ文学書を乱読していたが、俳句とは無縁に近かった。が運命のいたずらか、三十過ぎに「ホトトギス」の支配や影響のない俳誌が現われ、幸運にもそれらの俳誌に三鬼は俳句を発表する機会に恵まれたのである。三鬼の言葉を借りれば、その頃の情勢は「俳句の明日は未知であり、俳句に汚れていないから希望が多かった」からなのだろう。
 鑑賞句は、昭和十一年『旗』に出典したもの。自註に「代々木乗馬会で作った」とあり、また「後年『白馬』を白馬岳と解した人が出て来たのは驚いた。或る女子医専の学生は、この白馬を裸馬と解したと聞いた。これには作者が感心した」と述べている。
 三鬼の俳句には「少女」が多出する。初期の句だけでも、〈汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ〉〈ジャズの階下帽子置場の少女なり〉〈哭く女窓の寒潮縞をなし〉〈月夜少女小公園の木の股に〉などがある。ただし、俳句上の少女は三鬼より年少なら皆少女で、一般にいう少女でないことがあるので注意が必要だ。しかし三鬼の眼は少女や少年ばかりでない。
〈緑陰に三人の老婆わらへりき〉と老婆の他、手品師、道化師と対象は広い。
 また掲句の鑑賞には健康で清純な少女の乗馬姿に絵画的な美をみる一方、「白馬」「瀆れて」の解釈がさまざまな憶測を呼んでいる。純潔な少女が馬に穢されたなどもあり、乗馬の運動から、少女の馬への贖罪意識を強調したり、はたまた白馬との性的感覚を連想して得意げに評論する者まで現れた。こうし様々な解釈のできる俳句が名作だと強調する鑑賞者もいるが、この句に関してはどうだろうか。いずれにせよ、「白馬」と「少女」に象徴された「何ものか」は三鬼の意識にかかわらず、性的な観念があったに違いない。
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