戛々とゆき戛々と征くばかり 赤黄男
『戦艦』昭和十二年十一月号初出。赤黄男が陸軍少尉として中国へ出征した折の句である。「戛々」は固い物が触れ合う音で兵隊・軍馬・砲車などが広大な荒野をあてどなく行軍している様子を連想させるが、この場合はそうした実景というよりむしろ未知の大陸を行軍するときの、何かに追われるような心的な描写であろう。行けども見えない戦場に向かう緊迫感が「戛々」のリフレーンで表われている。
昭和十二年五月、生活の困窮が続く赤黄男に招集があったが、病気のためすぐに解除されている。しかし間もなくその年の九月には支那事変の動員が下り、香川県善通寺の工兵隊に入隊した。三十五歳のときである。さらに十一月に中支へ出征し、転戦の日々を過ごすことになるが三十の半ばといえば決して若くなく、体力の負担は大きかったろう。
昭和十三年、日野草城は「『旗艦』に於ける事変俳句」について書いた。この頃から俳壇に戦争俳句が流行し、赤黄男は『旗艦』八月号に、〈落日をゆく落日をゆく真赤い中隊〉を発表し好評を得た(ただし句集に載せなかった)。このころ赤黄男は中尉に昇進している。
昭和十四年、軍事郵便で送られてくる赤黄男の前線俳句が、しばしば『旗艦』に載るようになった。『ランプ』と題し「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」と前書きのある連句は、単に戦闘や戦場の悲惨な様子を描写した前線俳句でなく、むしろ情緒的な句である。何句か挙げると、
落日に支那のランプのホヤを拭く
やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ
靴音がコツリコツリとあるランプ
灯をともし潤子のやうな小さいランプ
このランプ小さけれどものを想はすよ
など。最後の二句は愛娘の潤子に呼びかけたもので、家庭を想う父親像が窺われる。しかしまた一方では〈鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり〉のような句がある。赤黄男は戦士たちの悲惨な死をまざまざと見たのである。
俳誌『鷗座』2019年6月号より転載