野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
芭蕉が江戸深川に新築された草庵に移り住んだのが天和三年(一六八三)の冬のことであったが、その翌年の貞享元八月、秋風とともに芭蕉は江戸を出立して旅にでる。掲句はそのときの『野ざらし紀行』の門出の句。通称は『野ざらし紀行』であるが、この年は甲子にあたるので『甲子吟行』とも呼ばれる。
句意は「なんとか独自の俳風を開拓するべく旅立つのだ。旅の途中で行き倒れて野晒しの白骨となるかもしれないが、その覚悟はできている。が、そうはいっても秋風の寂寥を肌に感じ、物悲しさがいっそう深く心にしみることだ」くらいだろうか。
しかしせっかく芭蕉庵ができたのに、なぜ旅に出たのか。説は憶測を含め多数ある。
1.前年に死亡した母の墓参のため。
2.独自の俳風を開拓するべく、また芸術としての俳諧に生きるため
3.地方俳壇への進出や開拓に努めること。などなどであるが、目的は一つでなくそれらの要因が重なっていたのだろう。
がここで考えなければならないのは、「野ざらし」の句は芭蕉の決意のほどが十分に伝わるが、それにしても大袈裟すぎないかということだ。芭蕉が真に言いたいことは「野ざらしを心に」は決してしゃれこうべを晒すことでない。旅することで過去の己を捨てて新しく生き変わること、つまり過去の自己の生き方を衆目に晒し、進化した俳句の世界を開き生まれ変わるということである。「心に風のしむ身」とはそう決意を新たにすると、心が引き締まるということだろう。
文学者である小西甚一氏の評釈によれば、
「このとき芭蕉が旅立ったのは、伊賀への旅ではなく、実は、生涯の旅、藝術への旅だったのである。住む所をもち、人なみの暮らしをしてゆく自分に別れを告げ、藝術としての俳諧に生きるための旅なのであった」ということになる。
では果たして芭蕉はこの旅でどんな風に変わり得たか。次回から『野ざらし紀行』の俳文を辿ることで新たな境地に触れてゆきたい。
芭蕉が江戸深川に新築された草庵に移り住んだのが天和三年(一六八三)の冬のことであったが、その翌年の貞享元八月、秋風とともに芭蕉は江戸を出立して旅にでる。掲句はそのときの『野ざらし紀行』の門出の句。通称は『野ざらし紀行』であるが、この年は甲子にあたるので『甲子吟行』とも呼ばれる。
句意は「なんとか独自の俳風を開拓するべく旅立つのだ。旅の途中で行き倒れて野晒しの白骨となるかもしれないが、その覚悟はできている。が、そうはいっても秋風の寂寥を肌に感じ、物悲しさがいっそう深く心にしみることだ」くらいだろうか。
しかしせっかく芭蕉庵ができたのに、なぜ旅に出たのか。説は憶測を含め多数ある。
1.前年に死亡した母の墓参のため。
2.独自の俳風を開拓するべく、また芸術としての俳諧に生きるため
3.地方俳壇への進出や開拓に努めること。などなどであるが、目的は一つでなくそれらの要因が重なっていたのだろう。
がここで考えなければならないのは、「野ざらし」の句は芭蕉の決意のほどが十分に伝わるが、それにしても大袈裟すぎないかということだ。芭蕉が真に言いたいことは「野ざらしを心に」は決してしゃれこうべを晒すことでない。旅することで過去の己を捨てて新しく生き変わること、つまり過去の自己の生き方を衆目に晒し、進化した俳句の世界を開き生まれ変わるということである。「心に風のしむ身」とはそう決意を新たにすると、心が引き締まるということだろう。
文学者である小西甚一氏の評釈によれば、
「このとき芭蕉が旅立ったのは、伊賀への旅ではなく、実は、生涯の旅、藝術への旅だったのである。住む所をもち、人なみの暮らしをしてゆく自分に別れを告げ、藝術としての俳諧に生きるための旅なのであった」ということになる。
では果たして芭蕉はこの旅でどんな風に変わり得たか。次回から『野ざらし紀行』の俳文を辿ることで新たな境地に触れてゆきたい。