蟇だれか物いへ声かぎり 楸邨
日中戦争の最中、昭和十四年の作。句集『颱風眼』に収録されている。
戦況は抜き差しならぬところまできていて、国家に気兼ねなしでは誰も口を開けない、物の言えないような時代だった。句は解釈の仕方ではそうした時代の民衆の代弁とも取れる。しかし楸邨は蟇を見ていると、言いようのない思いにかられたのだ。蟇は鈍重であるがどこか頑固で忍耐強いのは自分に似ている。が、蟇と同様物の言えない自分が情けなく悔しい。こんな時代に誰か大声で叫ぶ者はいないのか。
楸邨『颱風眼』の序で、第一句集『寒雷』後の自己の立場を次のように述べている。
『颱風の烈しい勢が募りに募つた時、その中心にひそむ深い沈黙の一瞬がある。颱風が如何に荒れ狂はう と、この颱風の眼は、動きつつ常に静寂を保つ。自己の身を置く環境がどんなに激動しようとも、その底 にあつて、自らの激動をみつめてゐる無限に静寂な「颱風眼」、これこそ、私が切に望んでやまぬ「俳句 眼」である』
また後年、『遥かなる聲』の著書のなかで、難解句と評された〈海越ゆる一心セルの街は知らず〉を自解して「海を越えて出征してゆこうとする青年のひたすらな心は、セルを着て楽しく過ごしている街の人々にはわからないというのである」として、続いて〈蟇誰かものいへ声かぎり〉〈兜虫視野よこぎる戦死報〉を並べて、「これも少し言い過ぎは免れないが、何か黙っているのが切ないような世の空気があった。それで「蟇」の句は出来たのであったが、(略)蟇の黙々としてはいつばっている姿に、何か言わずにいられぬような切迫感が充溢している」と記した。
物事を徹底して考え抜かないと納得せず、またカオスの時代に直面して楸邨は物言えず苦悩するしかなかった。やはり「蟇」に楸邨そのものを重ねて見ても間違いないだろう。
日中戦争の最中、昭和十四年の作。句集『颱風眼』に収録されている。
戦況は抜き差しならぬところまできていて、国家に気兼ねなしでは誰も口を開けない、物の言えないような時代だった。句は解釈の仕方ではそうした時代の民衆の代弁とも取れる。しかし楸邨は蟇を見ていると、言いようのない思いにかられたのだ。蟇は鈍重であるがどこか頑固で忍耐強いのは自分に似ている。が、蟇と同様物の言えない自分が情けなく悔しい。こんな時代に誰か大声で叫ぶ者はいないのか。
楸邨『颱風眼』の序で、第一句集『寒雷』後の自己の立場を次のように述べている。
『颱風の烈しい勢が募りに募つた時、その中心にひそむ深い沈黙の一瞬がある。颱風が如何に荒れ狂はう と、この颱風の眼は、動きつつ常に静寂を保つ。自己の身を置く環境がどんなに激動しようとも、その底 にあつて、自らの激動をみつめてゐる無限に静寂な「颱風眼」、これこそ、私が切に望んでやまぬ「俳句 眼」である』
また後年、『遥かなる聲』の著書のなかで、難解句と評された〈海越ゆる一心セルの街は知らず〉を自解して「海を越えて出征してゆこうとする青年のひたすらな心は、セルを着て楽しく過ごしている街の人々にはわからないというのである」として、続いて〈蟇誰かものいへ声かぎり〉〈兜虫視野よこぎる戦死報〉を並べて、「これも少し言い過ぎは免れないが、何か黙っているのが切ないような世の空気があった。それで「蟇」の句は出来たのであったが、(略)蟇の黙々としてはいつばっている姿に、何か言わずにいられぬような切迫感が充溢している」と記した。
物事を徹底して考え抜かないと納得せず、またカオスの時代に直面して楸邨は物言えず苦悩するしかなかった。やはり「蟇」に楸邨そのものを重ねて見ても間違いないだろう。
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