透水の 『俳句ワールド』

★古今の俳句の世界を楽しむ。
ネット句会も開催してます。お問合せ
acenet@cap.ocn.ne.jp

山頭火の一句鑑賞(六)      高橋透水

2015年01月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
うしろすがたのしぐれてゆくか   【一】
 山頭火が『草木塔』に「昭和六年、熊本に落ちつくべく努めたけれど、どうしても落ちつけなかつた、またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである」と記し、「自嘲」の後に続けたのがこの句である。前年に、熊本の元妻サキのもとにしばらく滞在したあと、九州を旅した山頭火は、その年の十二月に熊本市内に居を構えたが、翌年の十二月に再び放浪の旅に出たことを記したものが、上記『草木塔』の文に当る。
 さてこの句は行乞吟というより旅行吟と言いたいほどで、山頭火の日記などからしても決して暗い心情ではない。すっきりした気持ちで自分を見つめているようだ。誇張して言えば浮き浮きした上気感さえ受け取れる。しかしながら「自嘲」の前書きは重い意味を持っているのだと解釈したいというのも自然のことだろうし、更に句の「うしろすがた」の解釈にも、山頭火が第三者的な目線で客観的に己の姿を描いていると指摘する論者・評論家が多数いることは十分承知している。
 例えば、次のような解釈が代表的だろう。自己を後ろから見ている第三者としての作者の心情で、歩いている自分はやがて時雨に濡れきるだろう。こうなった己の姿は自嘲するしかない、などという捉え方だ。
 しかし「自嘲」という前書きに捕らわれ過ぎては解釈が歪曲されてしまう。「自嘲」という前書きを鵜呑みにするわけにゆかないのは、繰り返し山頭火に現われる自尊心・自負心を捨てきれない己を嘲ったまでだからだ。ただその繰り返しの中に陽と陰がこれも繰り返すのだ。言ってみれば躁と鬱である。
 〈笠も漏りだしたか〉には「述懐」の前書きがあるが、自嘲に通じ、行乞記の〈笠も漏りだしたか〉には(自嘲)〉と記載されている。
 憶測になるが、山頭火に通じるのに、斎部路通と井上井月がいたし、「しぐれ」と言えば芭蕉が頭にあり、更には一茶を思ったのではないだろうか。
 〈どうしようもないわたしが歩いている〉の心境とは明らかに異なっているのだ。

 俳誌『鷗座』2015年一月号より転載
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山頭火の一句鑑賞(五)   ... | トップ | 山頭火の一句鑑賞(七)  ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史」カテゴリの最新記事