台風も逸れて 危ぶまれた 下町のうたごえ 無事に開催できた
口々に良かったねぇ 台風もここのパワーに負けて 近づくのを怖れて行ったんだねと笑う
一昨日は 8月9日 73年前の長崎原爆投下が どうしても蘇る 戦争の傷跡は無数に私たちにある
誰かが私に問う 先生は生まれはどこですか? 私はちょっと言いよどんでから答える
生まれは東京・浅草 両親の故郷は信州・高遠だったが ここに来て天麩羅など惣菜店を経営して順調だった
しかし あの戦争末期には 生活もままならず 食べることさえ窮した
昭和20年には 誰を頼ったのか両親亡き今は分からないが 茨城県・土浦近くの荒川沖 という地名に引っ越す
引っ越しのきっかけを聞いたことがある 私がひもじくて道端に落ちていた何かを口に頬張ったのを見かねたと言う
あの東京大空襲の夜 私は母の手を握って夕焼けのような空を遠くに見た
東京が燃えている 母がぽつりと言ったのを この光景と共に何故か強烈な映像として残っているのだ 当時5.6歳
それでも東京に居たら あの浅草に居たら一面 焼夷弾で焼け野原 生き残っていたか分からない
いま思えば 何かが私たちを救ったのかも知れない
そこは予科練が近い 敵機が編隊で来たのを防空壕で見ていた 機銃掃射の乾いた音も聴こえる
気が狂ったように外に飛び出して何かを叫んでいた人が 遊びのように銃弾で倒れた
一家は そこも引っ越し 信州の岡谷に引っ越した だが3カ月ばかりであった 坂の上から見た諏訪湖の光景がある
親戚を頼って 高遠よりさらに山奥へ越した 入れて貰えたのは馬小屋の道具置場だった 終戦はそこで迎えた
馬の寝息で眠られぬ サーカスの唄にある 芭蕉も東北の旅で 余りにもみすぼらしく馬小屋に止まらされた話がある
イエス・キリストは馬小屋で産まれた だから私はキリストと同じ生活をしたと うたごえの場で話し 笑いを誘う
親戚の山林の一部を借りて 樹々を切り倒して 父が粗末な小屋を建てた 周りも開墾するが土壌は勿論 農作にも向かない
私が一番 栄養失調になったようだ 腹だけが膨らみ 骨は痩せ 眼だけがギョロギョロしていたと言う
出稼ぎに出る父が 次に帰って来るときには お前は居ないと覚悟したようだ
蛇も蛙もこおろぎも 何でも食べた 草も齧った 冬は空腹に耐え 雪に醤油をかけて食べた
妹と空を眺めていたら 急激に幻覚に襲われ 夜になっても収まらない これを語り合う妹が今は居ない このブログだけになる
夜中に星を眺めて 兄弟で歌を歌った 多分 荒城の月 だったろうか 山の下の方の集落に聴こえたと言う
うたごえのリクエストで 東京だよお母さんがある 歌詞の中で ここが兄さんが眠る靖国神社と案内する
私の見たことの無い叔父も硫黄島で戦死した 天皇陛下万歳か靖国で会おうと散って行ったか分からない
父母は一切この話をしなかった 当時 戦地へ送り出すのも 戦死しても 哀しみを表すことは非国民の扱いを受けたのか
広島 長崎の原爆投下 一億玉砕の軍部であったが これで戦争が早く終結したとアメリカは胸を張る
広島だけで良かったはずだ 長崎はプルトニゥム爆弾であり 単に新しい原爆の試験を実行しただけではないのか
怒りのヒロシマ 峠三吉の詩集 にんげんをかえせ に被爆者の怒りを表すことから こう言われ始めたのか
祈りのナガサキ キリスト教信者が多く 世界平和をひたすら祈るから来たのだろうか
永井隆の 長崎の鐘 から来るのだろう 世界平和は広島も長崎も日本人もみんな祈る 原爆に対しては誰でもが怒る
いつもは うたごえで32.3曲歌うのに 今回は30曲 ほんの少し 私の感情を語っていたらトークが長かったと反省でもある
みんなで歌った30曲
里の秋 あざみの歌 遠くへ行きたい 幼なじみ 長崎の鐘 踊子 希望 今日の日はさようなら
智恵子抄 芭蕉布 山のけむり この広い野原いっぱい 寒い朝 下町の太陽 ラジオ体操の歌
栄冠は君に輝く ともしび 夏の思い出 夏はきぬ フニクリ・フニクラ 星影のワルツ
牧場の朝 みかんの花咲く丘 お前に 岸壁の母 禁じられた遊び 東京だよおっ母さん
ふるさと きよしのズンドコ節 ずいずいずっころばし
下町のうたごえ バンド コーヒーブレイク生伴奏 in 本所地域プラザ
YouTube 君恋し
YouTube バラが咲いた
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