戦地から帰られた方 被爆者の方 空襲の体験をされた方 この方たちの口は重い
あまりにも怖ろしく むごい光景を思い出したくもない それは脳裏に病巣のように住み着いている
私の叔父は硫黄島で戦死した その知らせは1枚の紙切れだけだ 父母は何も語らなかった
戦死することは国のために闘い英霊となるはずだが 真の心は 招集された時から哀しみにあった
私の知人は 東京大空襲のあまりの悲惨さに 多くを語らず 多くの屍があった地には 近寄れない
広島・長崎に原爆が投下されてから やがて70年にもなるのに被爆者もまた語らずにこの世を去る
長崎の被爆2世の方が これらの方の代わりになって 原爆の怖ろしさ 平和の尊さを訴える
昨日の 鹿児島FM銀河のてんがらもんラジオのゲスト 岡本由美子さんが語っていた
彼女の父は長崎で被爆 多くを語らず 語れぬままに10年ほど前に この世を去った
被爆者であることさえ公表せず 晩年になって 被爆者手帳の交付を受けた
鹿児島だけでも 被爆者健康手帳を受けている方は現在761名居る
しかし 被爆の方々が作る協議会への参加は400名余と少ない
本来は原爆の被害者であるにも拘わらず 世間の目は偏見も加わり冷たい
そのため 被爆していることを隠している方も居る 結婚などでは障碍となったりする
2世である岡本さんは この方たちの語り部として 被爆者の声を聴き 戦争の虚しさを訴える
92歳になる女性の被爆者の話を聴いて 小説風にまとめて紹介している話が涙を誘う
そして自身も言葉に詰まり パーソナリティの皆さんも涙をこらえきれない
その女性の被爆の背景を わかりやすく物語に置き換えていた
仮の名を舞子と呼ぼう 舞子は奄美大島出身だが 鹿児島の女子高に通っていた
戦局厳しいころ 国の政策で女子挺身隊が各地で結成され 彼女もいち早く応募した
躊躇している女学生が多い中 舞子が言うならと 50数名が集まった
目的地も分からぬままに赴任させられたのが 長崎であり 運命の原爆投下に会ってしまった
幸い負傷はしなかったものだが 一緒に来た学生たちは 無残な姿となり 若き命を終えていた
自分が言い出さなければ かくも多くの仲間の命は失わなくても良かったのにと現在まで悔やむ
92歳になっても なんで私は助かったのか なんで生きているのか 贖罪の連日である
それでも 最後の姿を日々を 遺族の皆さんに伝えることが使命と 捜し歩き謝り続けた
会うのも拒否されたり 怒りをぶつける方も居たそうだ 彼女は被爆者でもあるのに・・・・
岡本さんは 昨年の鹿児島での原爆慰霊祭に 被爆2世の代表として平和宣言をした
その時の原稿を読んだ 戦争はしてはならない 被爆者を作ってはならぬ 核兵器は絶対許さない
戦争は悲惨だ そして平和は尊い 戦争の気配がしたら その準備段階で阻止せねばならない
お父さん 原爆の被爆後は辛かったでしょう 痛かったでしょう
心の痛みを生涯持ち続けたでしょう
私の力は微力 しかし 無力では無い 世界から戦争をなくすため 平和を守るため闘い続ける
左が岡本さん 中がブロ友でもあるchidori-tさん 鹿児島バスガイドの向井さん
てんがらもんラジオ http://www.ustream.tv/recorded/90257431
オバマ大統領が 今年初めて広島の爆心地を訪れた
しかし アメリカの世論は 原爆投下が無かったら もっと多くの日本人の命は失われた
従って原爆投下の意義がある 未だにこの主張も強い 核兵器が消える日はくるか?
恨みのヒロシマ 祈りのナカサキ こんな例えがある
長崎の教会のイメージと 長崎の鐘 の歌の永井博士の実話が せめてもの心の救いとなる為か
この歌を歌いながら 原爆犠牲者の鎮魂と 戦争で亡くなった方たちへの平和への誓いを込める
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
同じ世代を生きて、戦後に小学校に入学した私達。その20数年後に生まれた岡元さんが言葉を詰まらせて読んだ平和宣言。戦争も知らず、ひもじい思いもしなかったはずの世代の方が、このように戦争を語り継いでいかれる姿に胸がいっぱいになりました。
それを見事にまとめて伝えられるのびたさん、まさに脱帽です。このように番組からはみ出して、情報を盛り込み、豊かにしてくださることに、私も多くを学ばせていただいています。
今朝は温泉に出かける前に、早朝足跡をのこしていただいたのびたさんを、思わず追っかけてびっくりしました。
とり急ぎ私の部屋にもちかえらせていただき、(それを許していただける関係を築いているので?)ブログの紹介だけ取り込ませていただきました。
8月は、せめてこの月は国民がこぞって平和について考える月でありたいと思います。
「長崎の鐘」を歌うだけでもどんなに意義のあることでしょう。自分のかかわりのある毎日の中から、何かを発信していきたいものですね。こころよりお礼申し上げます。
長崎の原爆記念館とか長崎を取巻く
色んな文化を歩いてきました。
戦争から核爆弾などの運動が・・
最近は、テロ事件で影が薄くなって
来ましたが、本当はこの核がテロ集団に
渡ったとした・・と恐ろしい想像も・・
このごろは考えから捨てきれません
岡元さんのような活動がもっと我々も
理解してあげねばならないと・・
つくづく思いを新たにしました。
いきました、学校の修学旅行でした。
途中からショックが強すぎて
逃げるように出てきました自分を
情けなく思います。あまりにむごい過去から
目をそらしてしまいました・・。
二世のかた素晴らしい跡取りと思います。
みんながその話に耳を傾けてくれたら
何かが変わると思います。・
戦争を微かに刻む私たちです
それでも真の怖ろしさ 虚しさには近づけません
こうして2世の方たちが替って語り部となってくれること感謝ですね そして感動です
8月はまさにすべての犠牲者へのレクイエムの月 平和への想いの月です
今日はリクエストで 長崎の鐘 が歌えるかな
戦争が世界から消えていく これが理想ですが現実はさらに増えていますね
北朝鮮でも核実験と長距離弾道弾 何をするか怖ろしい国家です
ニュースで目に見る この狭間での住民の嘆きが胸を締め付けます
時代の語り部の活動が 一人でも多くの平和への願いにつながればと思います
平和祈念館での見学 私も同じです
あまりのショックに二度と入れません
次のツアーが長崎 広島の時も この思いが頭を離れませんでしたね
2世の方たちの活動が 大切な存在となります
見学をしました。
原爆で被爆した人の持ち物や家の瓦など、それに引きつった顔の
部分が展示してあり、最後までは見るに忍びなかったです。
米国は原爆を落とした事によって戦争が早く終わったと
自負している元軍人もいます。
結果的には戦争は早く終わりましたが原爆によって
多くの一般住民が今でもその後遺症で苦しんでいます。
どんな理由があろうと戦争は絶対にしてはいけないです。
※私は私立の有名校へは進学はしませんでしたよ。
私が育った時代はベビーブームの一期生でしたので
進学難でした。
それで小学校の6年生の時に地元のミッションスクールの
試験を受けてみたら合格していました。
そこで中学から高校まで6年間の教育を受けて
今日に至っています。
あれから、71年だね。
長崎原爆投下もね。
原爆などない世の中にしないとね。
マリババも原爆2世です。
でも 92歳になる叔母などから
子供の頃から 話を聞いていました
自分も歳を重ね 悲惨さ 戦争と言う名の元
皆がそう思っていなくても 出征していく悲しさ
涙が止まりません
こんな辛い経験 口にするのも辛いかもしれませんが
二度と 世界の皆が辛い思いをしないように
口を開いて下さった方々には 感謝します
長崎に出張で行った折に 永井先生の事を知りました
時が流れたんですね、何度も映画を観ました、
と言うより学校の課外授業で見に行きました。
まだまだ子供だったのに悲惨な情景が
目の前に残っています。
長崎も広島も原爆資料館を見に行きました。
綺麗に整備された所へ悲しみの写真集が展示され
悲しみの中にも違和感を感じた覚えが有ります。
戦争は駄目ですね、わたしの父も戦地で無く成りました。
戦争は駄目ですね、怖いです。