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ときは今、あめが下しる 五月哉

2015年10月04日 15時37分02秒 | 文学雑考
光秀が京都の愛宕山に登った理由は、
当時軍神と崇められていた勝軍地蔵が愛宕山にあり、
中国攻め援軍の戦勝祈願(名目)!

5月28日に愛宕山山内の西坊威徳院で愛宕百韻として連歌の会(歌会)が行われた。

その時、光秀が詠んだ句が、

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

有名な俳句、

明智家は元来、
土岐氏の末裔であり、

その土岐が「あめ」と「天」をかけて「下なる」、

つまり「天下」をとる時期が来たと解釈!

なんか、オカシイ

用心深い信長が少数の護衛だけで京都に居た。
それは何故か?

まして

信長は慰労の為と称し、
家康を京都大阪見物に呼んだ、

家康も用心深いが、

家康としては、
信長がそこまで自分を信頼している以上、
軍隊も連れず、
京都に入った、

信長も軍隊を連れていないから安心した。
家康を安心させる為に、軍隊を連れていなかった。
と、解釈した方が正解、

当時は同盟を組んでいるから言っても
油断の出来ない戦国時代、

明智光秀は家康の接待役となっていたが、
安土城で信長から激怒され、
接待役を解任され、
中国攻めで秀吉の応援に行くように命令が下った。

明智も京都を離れた。

明智の行動は明智軍の中に監視しする役目の兵士もいたはず、
それすら、
謀って、
夜、京都方面の進み、

京都に安々と入り、
本能寺を攻め、
二条城を攻めた、

どう考えても
オカシイ、
主殺しが天下を取れる筈がない、

あの智謀の明智が何の策もなく信長を殺し、
後継まで殺した。

ホントは、
明智は信長から
家康を攻めるように密命を受けていた。

だから安々と京都に入れた、
京都から大阪~堺まで行き、
家康を攻める手筈だったのでは、

しかし、
天皇に遣えていたボンクラ公家が明智をそそのかした。

『明智殿、このままでは信長殿が天皇家を滅ぼし、自分が天下人に収まるつもりかもしれません、
いえ、絶対にそうなる、信長殿は神も仏も信じない、あの比叡山まで焼き払ったんですぞえ』
などと公家が明智に吹き込んだ。

その連絡があの愛宕の歌会。

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

とき=土岐家

あめ=天 

下=下す、

あの歌会に京都から行った連絡役の連歌師

戦国の世の連歌師、里村紹巴(さとむらじょうは)
公家の密偵ならぬ、
連絡役だった。

一般には
1、明智光秀は信長から領地を没収された。
その遺恨、
2、安土城で大勢の前で打ちのめされた。
その遺恨、

違うな、
当時、領土を持っていても、
それは信長様からの預かり物(土地)
代官みたいなモノ、

安土で信長が明智をうちのめしたのは
深謀、
家康を安心させる為の計略、

理由は簡単、
公家のそそのかし、

信長は尾張の土俗程度の出、

明智は名流『土岐』の流れを汲む一族

公家はそこらあたりの事を散々、
吹き込んだ、

『明智殿、信長さまを誅したら逆臣の汚名を被ると、お思いか、
否、天皇家からは忠臣のなりますぞ、正しく』

しかし、
事は終り、
公家達はニコニコと明智を迎え入れるが、
本題には一切触れずじまい、


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