太宰 治(だざい おさむ、明治42年(1909年)6月19日 - 昭和23年(1948年)6月13日)は、昭和を代表する日本の小説家。本名は津島修治(つしましゅうじ)。
1933年より小説の発表を始め、1935年に「逆行」が第1回芥川賞候補となる。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』など。諧謔的、破滅的な作風で、坂口安吾、石川淳などともに新戯作派、無頼派とも称された。大学時代より自殺未遂、心中未遂を繰り返し、1948年玉川上水にて山崎富栄とともに入水した。
経歴
幼年時代
1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧北津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男・津島修治として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士であった。
津島家の先祖について、昭和21年に発表した「苦悩の年鑑」のなかで「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。
金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。
学生時代
1916年、金木第一尋常小学校に入学。1923年、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学直前の3月、父が死去した。
17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。
1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表。 この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。
1930年、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、非合法の左翼運動にのめり込み、授業にはほとんど顔を出さなかった。また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。この頃から太宰は、本名の津島修治に変わって太宰治を名乗るようになる。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍処分を受ける。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中に、カフェの女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、鎌倉・腰越の海に投身する。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。
小説家時代
芥川龍之介を敬愛しつつ1933年、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。選考委員であった川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。 その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。佐藤も選考委員であり、第1回の選考時では、太宰を高く評価していた。第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。第3回では仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っているが、過去に候補作となった作家は選考対象から外すという規定がもうけられ候補にすらならなかった。 1936年、前年のパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌1937年、内縁の妻小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂、一年間筆を絶つ。
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚。甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表した。戦時下も「お伽草紙」など創作活動を継続。1947年、没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、流行作家となる。
自殺
「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)に玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町)における愛人・山崎富栄(1917-1948)と入水心中(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。遺書には「小説が書けなくなった」旨が記されていたが、自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もある。既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は、死後に掲載された。杉並区堀ノ内にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。
2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる。
太宰治記念館 「斜陽館」太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
作家研究
4回の自殺未遂や小説のデカダン的とも言える作風のためか、真に迫った作風を好む作家としてのみ捉える向きもあるが、戦時中は『畜犬談』『お伽草紙』『新釈諸国噺』などユーモアの溢れる作品も残している。深刻な作品のみを挙げて太宰文学を否定した三島由紀夫は、大藪春彦から「それなら君は『お伽草紙』を否定できるか!」と詰め寄られて、一言も言い返せなかった。個人的に太宰と交際があった杉森久英も、永らく太宰文学を好きになれなかったが、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという。
長編、短編ともに優れていたが、「満願」等のように僅か原稿用紙数枚で、見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。「女生徒」「きりぎりす」をはじめとして、女性一人称の作品を多く執筆。「なぜ男性なのに、女性の気持ちがここまで判るのか」と、女性作家や女性文芸評論家から賞讃を受けている(ただしこれは、特定の女性の日記が基になっている作品だからであるとの指摘がある[要出典])。
また坂口安吾、織田作之助、石川淳と共に「無頼派」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、退廃的な作風を好んだ、と一般に言われている。 しかしながら、太宰自身は退廃的な作品を書きながらも同世代の作家のなかでもっとも「神を求めた人」であった、とする研究・評論も多くある。
聖書やキリスト教にも強い関心を抱き続けた。そして聖書に関する作品をいくつか残している。その一つが「駈込み訴へ」である。「駈込み訴へ」では、一般的に裏切り者、背反者として認知されるイスカリオテのユダの心の葛藤が描かれている。太宰は、この作品を口述筆記で一気に仕上げた。
1948年、太宰の死の直前から『太宰治全集』が八雲書店から刊行開始されるが、同社の倒産によって中絶した。その後、創藝社から新しく『太宰治全集』が刊行される。だが、書簡や習作なども完備した本格的な全集は1955年に筑摩書房から刊行されたものが初めてである。
略年譜
1909年(明治42年) 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
1916年(大正5年) 町立金木尋常小学校に入学。
1923年(大正12年) 県立青森中学校(新制県立青森高校の前身)入学。英語作文の成績に優れていた。
1925年(大正14年) 中学の校友会誌に習作「最後の太閤」掲載。友人と同人誌『星座』発行。
1927年(昭和2年) 第一高等学校(新制東京大学教養学部の前身の一つ)受験に失敗し、弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)の文科甲類(文系の英語クラス)に入学。同学年に作家石上玄一郎がいる。
1928年(昭和3年) 同人誌『細胞文芸』を創刊。潤沢な資金を背景に、舟橋聖一や吉屋信子など多数の有名作家から原稿を貰った。このころ井伏鱒二の作品を知り、『細胞文芸』への執筆を依頼。井伏の「薬局室挿話」はこの時の作品である。
1930年(昭和5年) 東京帝国大学文学部仏文学科入学。門人として井伏鱒二のもとに出入りするようになる。同年カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、長兄文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。
1931年(昭和6年) 津島家から除籍され、小山初代と結婚。
1933年(昭和8年) 『東奥日報』紙に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を、「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した。」と、井伏鱒二氏の回想「太宰君」にて記されている。
1934年(昭和9年)檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
1935年(昭和10年)「逆行」が芥川賞候補となり次席。佐藤春夫に師事する。
1937年(昭和12年) 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを荻窪の碧雲荘の二階炊事場廊下にて小館自身より告白され、初代と心中未遂、離別。
1938年(昭和13年) 石原美知子と婚約。山梨県に転居。
1941年(昭和16年) 長女・園子誕生。
1944年(昭和19年) 長男・正樹誕生。
1945年(昭和20年) 青森県に疎開。
1947年(昭和22年) 次女・里子(津島佑子)誕生。愛人の太田静子(1913-1982)の日記をもとに「斜陽」を書き上げる。太田との間に女児(太田治子)誕生。
1948年(昭和23年) 『人間失格』を発表。愛人の山崎富栄と玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町、現・三鷹市)の急流にて入水心中、38歳没(満年齢)。
作品一覧
晩年(1936年、砂子屋書房)
虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ(1937年、新潮社)
二十世紀旗手(1937年、版画荘)
愛と美について(1939年、竹村書房)
女生徒(1939年、砂子屋書房)
皮膚と心(1940年、竹村書房)
思ひ出(1940年、人文書院)
走れメロス(1940年)
女の決闘(河出書房)
東京八景(1941年、実業之日本社)
新ハムレット(1941年、文藝春秋新社)
千代女(1941年、筑摩書房)
駆込み訴へ(1941年、月曜荘)
風の便り(1942年、利根書房)
老ハイデルベルヒ(1942年、竹村書房)
正義と微笑(1942年、錦城出版社)
女性(1942年、博文館)
富嶽百景(1943年、新潮社)
右大臣実朝(1943年、錦城出版社)
佳日(1944年、肇書房)
津軽(1944年、小山書房)
新釈諸国噺(1945年、生活社)
惜別(1945年、朝日新聞社)
お伽草紙(1945年、筑摩書房)
パンドラの匣(1946年、河北新報社)
薄明(1946年、新紀元社)
冬の花火(1947年、中央公論社)
ヴィヨンの妻(1947年、筑摩書房)
斜陽(1947年、新潮社)
人間失格(1948年、筑摩書房)
桜桃(1948年、実業之日本社)
『太宰治全集』 ちくま文庫全10巻、1989年
新版『太宰治全集』 筑摩書房全13巻、1999年
家庭・親族
小説家の津島佑子は次女。衆議院議員津島雄二(旧姓上野)は、太宰の長女津島園子の夫で、自民党の派閥津島派(旧橋本派、旧竹下派)の会長。小説家の太田治子は愛人太田静子との間にできた子である。三兄の津島文治は金木町長、青森県知事、衆議院議員、参議院議員を歴任。文治の長男津島康一は俳優。四兄の津島英治もまた金木町長。英治の孫の津島恭一は元衆議院議員。
系譜
津島家 - 津島家の家系については様々な説があり明確ではない。初代惣助は豆腐を売り歩く行商人だったという。津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、もとの名を勇之助といった。天保6年(1835年)大百姓山中久五郎の次男として生まれ、安政6年(1859年)津島家の婿養子となった。山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。慶応3年(1867年)二代目惣助が他界し、家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りの行商と金貸しで財を蓄え新興の大地主となった。明治27年(1894年)北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、明治28年(1895年)北津軽郡所得税調査委員選挙に当選、明治30年(1897年)再び郡会の大地主議員となり県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。
今、太宰治がブームになり始めている。この不況のせいか・・・



