ロバート・フリン神父。86歳。僕が中一から高三まで、英語を習った先生であり、「生き方」を教えて貰った先生でもある。フリン先生が作られた英語の教科書「Progress in English」は40年以上前に作られ、現在68版。進化し続けてきた。我が母校、「六甲学院」だけでなく、系列の「栄光学園」「広島学院」「泰星高校」、その他の私立でも、今も使われている。この教科書で勉強した人達も多いだろう。
そのフリン先生に昨日会いに行った。山口の教会に訪ねて以来だから、三年位は経つだろうか。体調によっては会えないと事前に聞かされていたので、心配していたが、23期の先輩方が「先生の誕生日を祝う」という趣旨で、我ら35期にも、声をかけて下さったので、総勢20人は超える人数で、武蔵関の「先生のおられる施設」に伺った。
思いのほか、元気なフリン先生が登場。用意された誕生日のケーキの前に立たれた恩師を囲んで「ハッピー・バースデー」を歌った。先生も体調が良い様で、ニコニコ顔。特に、家族を連れてきた同期もいて、子供達が近づいていくと、本当に嬉しそうに笑われる。ビールもワイングラス一杯だが、飲まれ、サンドイッチにも手をつけられていた。お疲れになるだろうから、当初30分程度、先生とお会いして、その後、懇親会をとの先輩方の配慮だったが、一時間半も御一緒させて頂き、みんなで先生を囲み、「校歌」を合唱、お疲れの様子も見せずに退席された。
僕らがフリン先生と初めて会ったのは、昭和47年4月。「六甲中学」の一年生。しかも、僕の担任はフリン先生。(B組) なおかつ、「バスケットボール部」に入部したら、顧問もフリン先生だった。当時、50代前半のフリン先生の「バスケ」はさすが本場アメリカで習得されただけあって、50代にはとても見えなかった。
その後も、夏休みに姫路から小豆島、高松、鳴戸、淡路島、と一週間近い「サイクリング」にも、僕たち生徒を連れていってくれたし、冬は「アイススケート場」にも連れて行って貰った想い出がある。
学校が「六甲山」の中腹にある事もあり、よくハイキングや飯盒炊爨にも一緒に行った。バスケの試合では、隣の山にある「カナディアン・アカデミー」との試合が想い出深い。外国人は全裸で更衣室を歩く。「金髪の人」は陰毛も「金髪」だったのが印象深い。
そのフリン先生は、今、残念な事に「痴呆」の症状が始まっていて、僕も「日本語」や「英語」で話し掛けたのだが、認識はできていない様だった。
お元気な姿を見て、お酒も進み、今日は月曜日というのに、「疲れ」が出て、ちょっと「無気力気味」。よく考えたら、僕らを教えてくれていたフリン先生の年齢にも届かないのに、「身も心も疲れている自分」が少し情けなくなった。それもフリン先生に言わせれば、「神の与えたこと」なのかもしれないが・・・。
一回り違う23期の先輩方との交流も面白く、「一期一会」とは言うけれど、先生が取り持って下さった「縁」なのだろうと感じていた。
http://rokko17class.hp.infoseek.co.jp/flynn-title.htm
http://www.biwa.ne.jp/~newton-8/newpage23.htm
そのフリン先生に昨日会いに行った。山口の教会に訪ねて以来だから、三年位は経つだろうか。体調によっては会えないと事前に聞かされていたので、心配していたが、23期の先輩方が「先生の誕生日を祝う」という趣旨で、我ら35期にも、声をかけて下さったので、総勢20人は超える人数で、武蔵関の「先生のおられる施設」に伺った。
思いのほか、元気なフリン先生が登場。用意された誕生日のケーキの前に立たれた恩師を囲んで「ハッピー・バースデー」を歌った。先生も体調が良い様で、ニコニコ顔。特に、家族を連れてきた同期もいて、子供達が近づいていくと、本当に嬉しそうに笑われる。ビールもワイングラス一杯だが、飲まれ、サンドイッチにも手をつけられていた。お疲れになるだろうから、当初30分程度、先生とお会いして、その後、懇親会をとの先輩方の配慮だったが、一時間半も御一緒させて頂き、みんなで先生を囲み、「校歌」を合唱、お疲れの様子も見せずに退席された。
僕らがフリン先生と初めて会ったのは、昭和47年4月。「六甲中学」の一年生。しかも、僕の担任はフリン先生。(B組) なおかつ、「バスケットボール部」に入部したら、顧問もフリン先生だった。当時、50代前半のフリン先生の「バスケ」はさすが本場アメリカで習得されただけあって、50代にはとても見えなかった。
その後も、夏休みに姫路から小豆島、高松、鳴戸、淡路島、と一週間近い「サイクリング」にも、僕たち生徒を連れていってくれたし、冬は「アイススケート場」にも連れて行って貰った想い出がある。
学校が「六甲山」の中腹にある事もあり、よくハイキングや飯盒炊爨にも一緒に行った。バスケの試合では、隣の山にある「カナディアン・アカデミー」との試合が想い出深い。外国人は全裸で更衣室を歩く。「金髪の人」は陰毛も「金髪」だったのが印象深い。
そのフリン先生は、今、残念な事に「痴呆」の症状が始まっていて、僕も「日本語」や「英語」で話し掛けたのだが、認識はできていない様だった。
お元気な姿を見て、お酒も進み、今日は月曜日というのに、「疲れ」が出て、ちょっと「無気力気味」。よく考えたら、僕らを教えてくれていたフリン先生の年齢にも届かないのに、「身も心も疲れている自分」が少し情けなくなった。それもフリン先生に言わせれば、「神の与えたこと」なのかもしれないが・・・。
一回り違う23期の先輩方との交流も面白く、「一期一会」とは言うけれど、先生が取り持って下さった「縁」なのだろうと感じていた。
http://rokko17class.hp.infoseek.co.jp/flynn-title.htm
http://www.biwa.ne.jp/~newton-8/newpage23.htm
http://kamatsuta.exblog.jp/
はっきり言って、「ほのぼの感」満載。イラストの優しい色使いやレイアウトに感心します。東京という「大都会」と「農家」が「インターネット」という、とても「現代的な媒体」で繋がる事ができるのは、不思議不思議、あら不思議。
はっきり言って、「ほのぼの感」満載。イラストの優しい色使いやレイアウトに感心します。東京という「大都会」と「農家」が「インターネット」という、とても「現代的な媒体」で繋がる事ができるのは、不思議不思議、あら不思議。
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・「上野アメ横」は「ジーパン」という呼び名の発祥の地。
・東京駅八重洲口の「八重洲」」は江戸時代に漂着したオランダ人航海士「ヤン・ヨーステン」から「ヤーヨス」となり、「八重洲」になった。
・神田古書店街が、「靖国通り」の片側だけに集まっているのは、古本が太陽光に当たらない様にする為。
・「シブヤ西武」の「A館」と「B館」の間に地下通路がないのは、二つのビルの間の道路の下が「水路」になっているから。
・東京だけ、「東京都警」ではなく、「警視庁」になっているのは、1948年、大阪の警察が「大阪警視庁」と名乗り、それと区別する為、「東京警視庁」としたのが始まり。1954年、大阪が「大阪府警」と名称変更をした為、東京は「警視庁」となった。
・「銀座シャンテ」前には、「ゴジラ像」がある。1954年製作の初代「ゴジラ」をかたどったもの。その周辺には、「東宝映画のスターの手形」が地面に飾られている。
・「バイキング」という食べ方は、昭和30年代初め、アメリカ映画『バイキング』が公開され、その中で海賊達が大食大飲するシーンがあり、「帝国ホテル」が新形式の料理に付ける名前に採用されたのが始まり。
・日本初の信号機が置かれたのは、日比谷交差点。1930年、昭和5年の事である。
・「後楽園」の由来は、あの水戸光圀(水戸黄門)が「明の儒者の意見」を取り入れ、中国の教えである「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からきている。
・「パルコ」とは、イタリア語で「公園」のこと。
・童謡『春の小川』の「小川」は渋谷を流れていた「宇田川」の支流「河骨川」のこと。
「りそな銀行」と大阪のFM局「FM802」がコラボして作り出されたユニークなキャッシュカード。「銀行」もいろいろ企画を考えないとダメな時代になって来た様だ。
http://www.resona-gr.co.jp/campaign/cam041201_02.htm
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僕は、SDBに眠気などの症状を伴った「睡眠時無呼吸症候群」で、「CPAP」と呼ばれる、「寝ている間、強制的に空気を肺に送り続ける機械」を毎日付けて、寝ています。
「睡眠呼吸障害」は、以下のホームページでチェックできますので、一度やってみて下さい。成人男性の3分の2が「睡眠呼吸障害」だという調査結果も出ています。時には、「命」に関わる病気なので、軽く考えないで下さい。
http://www.nms.ac.jp/NMS/4med/sas/
「睡眠呼吸障害」は、以下のホームページでチェックできますので、一度やってみて下さい。成人男性の3分の2が「睡眠呼吸障害」だという調査結果も出ています。時には、「命」に関わる病気なので、軽く考えないで下さい。
http://www.nms.ac.jp/NMS/4med/sas/