伊予・河野家再興を夢見た人たち 2
伊予守護河野家は天正13年秀吉の四国征伐に敗れ、秀吉の先兵となっていた小早川隆景の
無血開城の説得を受け止む無く軍門に下りました。
小早川隆景は毛利家一門であり、河野家最後の当主、牛福通直の正妻も毛利家側から又、母君
も毛利家より嫁してきているので、所謂、親族である。開城の条件として「ここは一旦引いて
後日、お家再興を秀吉に推挙するから」とされます。確かに、以後何度か毛利、小早川側から
秀吉へお家再興の願いが出されていますが、色よい返事はなかったとされます。悶々の日々を
送り、小早川隆景の温情で湯月城の一角に住居を与えられ二年の月日が流れていました。
この辺りのことを伊予河野家史書?とされる「予陽河野家譜」をかいつまんで書くと、
『天正十五年夏、国家は再び大騒ぎとなり、人民は周章狼狽となった所に伊予の領主である
小早川隆景公の代りに福島正則がやってくるとの噂があり、やはり、毛利家の使者がやって
きて「河野家再興を太閤殿下にお願いしているが未だ許可がでない所に、福島正則との所替え
となり、通直公には不幸であるがここは一旦、芸陽に引っ越しして下さい」と。
よって七月九日、湯築城を出て三津浜から出発しました。
この時、従う重臣達は、南彦四郎通具、松末美濃守通為、土居入道了庵、同五郎安長一族、
井門宗右衛門義安、枝松太郎光栄、由井壱岐守通資、栗上因幡守通宗、同但馬入道、平岡
近江守通倚、津々亀(木)谷斎宮通高、別府宮内少輔通興、忽那新右衛門通恭、大内伊賀守
信泰、久枝肥後守宣盛、正岡右近大夫常政、大野山城守直昌、垣生加賀守盛周、和田山城守
通勝、宇野隼人正為綱、同民部丞識綱、三吉(好)長門守秀吉、同蔵人助秀勝、中石見守
通信、大西弾正通秀、仙波大炊助貞高、佐伯河内守惟之、以下氏族郎党僅か五十余人也。
(注・上記の人達は後世に書き加えられた可能性があります)
直ちに帆を揚げ、摂州の有馬温泉に湯治に行き、三七後、紀州高野山上蔵院へ参りお家断絶を
遠祖にお詫びする。
(注・上記は後世の作り話です。)
その後芸州、竹原に隠遁しているところ、病が深くなり七月十五日、母君、奥様、一族郎党
見守る中、夜に御逝去されました。
御年二十四歳、葬儀を行い、遺骸を珍開山長生寺に葬りました。
(注・これも後世の作り話です。以後史実検証を行います。)
法名は「長生寺殿前豫洲刺史月渓園公大禅定門」とされました。
ただちに毛利家との評議を行い、通直正室の甥の宍戸氏の息子を養子として河野太郎と名乗らせ
聚楽第(関白秀吉)にお届けしました。ただなんら音沙汰ございません、嗚呼』
(注・上記は一部史実とされますがふっ復興不可となり、身の危険を感じて、
河野姓を母方の姓(築山)と変名したとします)
と「予陽河野家譜」は語りますが、これは虚実、折り合わせて「家譜」の有終の美談として後世
に脚色されています。
室町末期(戦国末期)に書かれたと同書の奥書には書いてありますが、内容を見る
に江戸初期(1670年前後カ)の最終編纂と思われます。史実に合わない記事が散見されます。
私は最終編纂したの長福寺住職、河野一門の黒川・南明禅師とみています。
それはさておき、上記「予陽河野家譜」の河野牛福通直の七月九日、伊予・三津ケ浜出帆から
七月十五日夜病死するまでの描写は全くの虚構であることを、他の史書より説明しましょう。
【河野牛福通直の卒去までの経緯】
天正十五年は前半部分は秀吉はほぼ九州にいて九州征伐の仕上げをしている時期です。
そんな中、小早川隆景に伊予から筑前への国替の沙汰が急にでます。はっきりと記録に残るのは
天正15年 6月27日 【小早川隆景書状】
○伊予から筑前への国替えを村上元吉に伝える。
(小早川隆景から村上元吉への手紙) です。
これに伴い小早川隆景は国替えの準備に大童となります。その時分秀吉は九州平定を終え帰坂の
途につきます。史書は
天正15年7月2日 【大日本史料】
秀吉、筑前筥崎を発し、是日、長門赤間関に旋る、
翌日、毛利輝元、太刀、馬及び重寶を進めて、之を饗す
この頃、毛利輝元は湯月城の河野通直に書を送り
「七月八日ころ秀吉が三原に到着するので
お家再興の直訴」を勧めたとされます。
輝元は7月2日の下関から7月9日三原まで関白(秀吉)と
中納言(豊臣秀長)に同行し接待を続けていることは下記、小早川隆景書状より明らかです。
天正15年7月24日 【小早川隆景書状】
武吉・元吉の7/13の書状を7/24日に見て突然の国替えに
伊予衆を迎へにやったが留守で、三原に関白(秀吉)と中納言を接待予定が遅れて。
ご立腹であった。しかる所に通直が死んだとかで母(大方){おしで}が慌てて竹原に駆けつけたとか・
・・・(隆景から村上武吉・元吉への手紙)
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の御國替、
一入旁く御心遣い是非に及ばず候、(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ候、御休息肝要に
存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ定まらず候、
當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)事は、筑後のくるめ
(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、以爰何篇御分別有るべく候、
仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと(急に)御渡海候て、留守の儀に候へは、
御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆は、与州え直ちに罷り越し、
諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、一両人罷り居り候、留守の者共ハ、
(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度等に万事取亂れ候、
竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、然る處、(河野牛福)通直御死去、
言語に及ばざる次第に候、さてさて是非無き御事迄に候、大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、
罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子候条、其段も相叶わず、心中計り候の處、
以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も之無く候て罷り居り候、
折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、御心付けられ候て參られ候は祝着申すべく候、
御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、
早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事
肝要に候、何れも其許取静められ候は、ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
この書簡は村上武吉 元吉からの河野通直が急死したとの報に驚いた隆景が返事を出したものである。
注目すべきは7月13日日付の村上武吉の書である。この時、武吉は屋代島和田(現周防大島町和田)に
いて書を書いている。通直が死んだのは備後竹原(現広島県竹原市)であり、急死を告げる小早船が
いくら急いでも竹原から屋代島和田までは半日から一日はかかる。となると通直急死は7月12日以前と
なります。伊豫湯月城から通直が急ぎ出発したのは遅くても7月7日でなければ8日までに竹原で秀吉公
お目見えは叶わなくなります。
史実は7月8日に三原で毛利輝元の饗応を受け翌日出立したとされます。
この饗応時に河野牛福通直は毛利輝元の斡旋でお家再興の嘆願をしたとされますが、にべもなく拒否
され、すごすごと竹原の宿である、小早川家菩提寺の法常(成)寺へ帰り悲観のあまり自害(自殺)
したとされます。
「予陽河野家譜」は病死としますが、自害の記録は「萩藩閥閲録同附録河野通恒文書」に
天正15年7月9日「萩藩附録河野通恒」
【天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶】
と秀吉のせいで自害したのでお家断絶となりました、と書いてありますし、長福寺本河野系図にも
「牛福通直 生害」と記されています。
通直急死の報は母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)に急報され驚いた
母は急ぎ渡海します。これを7月12日以前と記録されます。
これを裏付ける文書が「萩藩閥閲録」にあります。
天正15年 7月12日 閥閲録輝元書簡(毛利輝元から神保就俊宛書「閥閲録」に
『河野通直母「五もし」急ぎ竹原へ渡海する。』
『五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、其方心遣之段推量候、
何とやうにも此節可心付事肝要候、… 』
(天正十一[1583])七月十二日 輝元御判
急ぎ、竹原に渡海した通直母は葬儀を行います。この日を命日とし【小早川文書】は7月13日とします。
しかし、【予陽河野家譜、善応寺本河野家譜】は7月14日とします。これは通夜と本葬の違い
程度と思われます。小早川隆景はこの時点でも筑前にいます。
葬儀の日の七月十四日を命日と決めたのは当時、河野家最高権力者通直母(五もし)と思われます。
通直母は翌年の天正16年4月26日、高野山上蔵院に登り、通直の供養塔と自らも供養塔を建立します。
併せて生前戒名を受けています。【上蔵院河野家過去帳】
【高野山上蔵院河野家過去帳】には下記のように書かれています。
「 長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀 豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月二十六日建立」
この供養塔は現在、高野山奥の院に入ってすぐの右側にありますから河野家ファンならご存じでしょう。
この、通直母たちの高野山詣でのことが後の時代となり「予陽河野家譜」を編纂するときに通直自身が
登山したと脚色されたのでしょう。もちろん有馬温泉湯治もありません。やはり自害では恥ずかしかった
のでしょうね。長生寺で逝去とする論文もありますが、通直自害の時には長生寺はまだなく、通直の死を
供養する為、小早川隆景が通直自害の地、法成寺に隣接する場所の長生寺を翌年を建立しました。
通直墓はたぶん元々は宝篋印塔形式で造られたものと思われますが、崖崩れで押し流されたとされます。
現在、長生寺にある「河野通直墓」と称するものは団子を積み上げた形の単なる慰霊塔ですので厳密には
墓ではありません。
秀吉が頑なに河野家再興を拒否した最大の理由は天正13年に味方になれと湯月城に使者を送ったのに
それを拒否したことである。とします。この時、対応したのは当主の通直ではなく母君の春松院が対応し、
誘いを断り、よせば良いのに、秀吉の悪口まで言ったと河野家筆頭家老大野直昌(ナオシゲ)文書に残ります。
小早川隆景の伊予から転封に伴い、河野家家臣団は三々五々、竹原に移ります。
「予陽河野家譜」に書かれている五十余人が一斉に引っ越ししたわけではありません。
小早川は法成寺の前に広がる地を埋め立て河野家家臣団の家を急ぎ作りましたので一斉には引っ越せ
ません。また、三津ケ浜からも一斉でもなく、家老大野直昌は大津(大洲)から乗船したとします。
しかし、竹原の生活は安定したものではなかったらしく、家臣たちは一人二人と離散します。
この事を歴史書は「竹原崩れ」と表現します。50人程度の人ではなく家族郎従千名近くが移住
したので、多くがまた伊豫に帰りました。広島や山口に移動した人も多いですね。
河野通直亡き後、これは「予陽河野家譜」にあるように、毛利側で協議し宍戸某を養子として通直跡継ぎ
と決し、秀吉に届けでましたが、相続の許可はなかったらしく「家門断絶」となりました。
この後、宍戸某と河野通勝がそれぞれ河野家再興を夢みて活動しますが、結果的には成就しませんでした。
この恨みが「秀吉暗殺未遂事件」の「三原八幡藪事件」に繋がったとされます。
これらの一次史料を時系列に並べると
天正15年7月初 毛利輝元は河野牛福充通直に書を送り、
「七月八日ころ秀吉が三原に到着するのでお家再興の直訴」を促します。
天正15年7月5~6日 河野牛福通直は少数の腹心のみを連れ湯月城を出て、三原に渡海します。
天正15年7月8日 三原滞在中の豊臣秀吉にお家再興を願うが叶えられず。
天正15年7月9日 絶望の淵に至った、河野牛福通直は三原から竹原に戻り、宿舎の法成寺
で自害(自殺)します。
この自害の急報は伊豫・湯月城にただちにもたらされます。
天正15年7月12日以前 通直急死の報は母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)
に急報され驚いた母は急ぎ竹原へ渡海します。
天正15年7月13日 通直母は、小早川の菩提寺・法成寺で通夜を営みます。
(注・後世の書が誤り語る、 「長生寺」の葬儀ではありません)
この日村上武吉・元吉は通直の死を九州の小早川隆景に急報します。
7/24日の返報で自分は九州への移封が決まったので、伊豫で保護していた
河野一族を九州に迎えるとの使者を湯月城に送ったが、通直が留守で母親も
急ぎ竹原に渡海したとかで不思議に思っていたら貴殿(村上親子)の
急報で理解しかつ驚いた、とします。
天正15年7月14日 通直母は法成寺で本葬を営みます。
(注・史実は通直は7月9日に死亡していますが、通直母は本葬の日(7/14)を命日
と定めます。
翌年、高野山上蔵院に届け出た命日が7月14日とされ、通直死後に通直の為建立した
通直戒名を冠した、竹原・長生寺は命日を7月14日としますので、河野家直系を自負
する、河野・築山家は江戸時代を通じて7月14日に法事を行っています。
また、同じく伊予河野家後継を自負する、玖珠・久留島家は法事の使者と香典を九州から
長生寺に送り続けています。【長生寺文書】
通直の遺骸は法成寺に葬られましたが、隣の長生寺に改葬された後、がけ崩れを起こし
通直遺骸は墓ごと流され行方不明になったとかで、仕方ないので供養塔を建立しました。
これが、現在の竹原・長生寺にある「河野通直墓」とされるものです。
厳密に言えば「墓」ではありません。また高野山のも墓ではなく「供養塔」です。
これらが、後世の書とされる「予陽河野家譜」や俗本の「予陽河野盛衰記」に取り込まれ
ますので、江戸中期以降に「河野系図」を作成した河野家子孫家は命日を7/14とします。
「予陽河野家譜」を参考にした河野家子孫家は7/14日に病死とします。また、長生寺で
葬儀したと間違えます。一部の河野家子孫家は法成寺自害、同寺にて葬儀と書く家もあり
この系図を保有する家の方が史実を見ていた家でしょうね。
また、現在の長生寺も通直当時の河野家家紋「折敷漢数字三文字紋」ではなく後の
江戸期の新河野家家紋「傍折敷縮三文字紋」に変えてしまっています。残念です。
江戸中期の安芸国地誌の「芸藩通志」は通直が天正13年に死んだとし、合せるためか
趙誠二も同年に建立されたと書きます。時を置き過ぎた後世の書は多く誤りを繰り返し
ますので、出典の真偽のチェックも必要ですね。
また、史書により混乱させるのは河野通直母の事を複数の呼び名で記録します。
時代により変遷します。
牛福通直・母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)
と時代により名前の表示が変わりますのでその書が何時頃かかれたか推定する
ことができます。
①初期が おしで(御仕出)後に 五もし、と名乗っていたと思われます。
②また、牛福通直相続後に惣領の母親を意味する・大方(たいほう)の敬称が使用した
と思われます。大方(たいほう)とは毛利側の方言で「大奥様」を意味します。
現代の伊豫の郷土史家はこれを大方(おおがた)と間違え、通直母親の固有名詞と
勘違いしています。よって通直の妻は奥様なので、大方とは呼ばれませんでした。
③春禅院は「おしで」の生前戒名ですので伊予河野家由来の寺が発出したものと
思われます。河野家関連文書で春禅院と表示するものは天正16年4月25日以前の
ものと思われます。河野家筆頭家老であった大除家城主大野直昌家文書は「春禅
院」と記録します。
④春松院も生前戒名ですが、春禅院から改製とします。この戒名は高野山上蔵院が
天正16年4月26日に「天遊永寿」の法名とともに命名したと思われます。
高野山上蔵院「河野家過去帳」はそのように書いてあります。
ちなみに人の名前は幼名から始まり、14歳の成人名となり、相続すると正式名を名乗り、
嫡長男は「通リ名」を使用しはじめ、仏門に入れば「法名」を名乗り、変化して
行きますので、同姓同人 同姓異人が數多くでますので歴史書は面倒ですね。
通直母「天遊永寿」は三原で亡くなったとされますが、牛福通直妻は実家に戻った
後、毛利家分家・毛利大野家当主に再嫁します。
余談ながらこの毛利大野家の重臣の子孫が
大戦後国際連盟を堂々脱退した日本全権大使(外務大臣)「松岡洋祐」でした。
*2025年2月11日加筆修正(屋代源三)
伊予守護河野家は天正13年秀吉の四国征伐に敗れ、秀吉の先兵となっていた小早川隆景の
無血開城の説得を受け止む無く軍門に下りました。
小早川隆景は毛利家一門であり、河野家最後の当主、牛福通直の正妻も毛利家側から又、母君
も毛利家より嫁してきているので、所謂、親族である。開城の条件として「ここは一旦引いて
後日、お家再興を秀吉に推挙するから」とされます。確かに、以後何度か毛利、小早川側から
秀吉へお家再興の願いが出されていますが、色よい返事はなかったとされます。悶々の日々を
送り、小早川隆景の温情で湯月城の一角に住居を与えられ二年の月日が流れていました。
この辺りのことを伊予河野家史書?とされる「予陽河野家譜」をかいつまんで書くと、
『天正十五年夏、国家は再び大騒ぎとなり、人民は周章狼狽となった所に伊予の領主である
小早川隆景公の代りに福島正則がやってくるとの噂があり、やはり、毛利家の使者がやって
きて「河野家再興を太閤殿下にお願いしているが未だ許可がでない所に、福島正則との所替え
となり、通直公には不幸であるがここは一旦、芸陽に引っ越しして下さい」と。
よって七月九日、湯築城を出て三津浜から出発しました。
この時、従う重臣達は、南彦四郎通具、松末美濃守通為、土居入道了庵、同五郎安長一族、
井門宗右衛門義安、枝松太郎光栄、由井壱岐守通資、栗上因幡守通宗、同但馬入道、平岡
近江守通倚、津々亀(木)谷斎宮通高、別府宮内少輔通興、忽那新右衛門通恭、大内伊賀守
信泰、久枝肥後守宣盛、正岡右近大夫常政、大野山城守直昌、垣生加賀守盛周、和田山城守
通勝、宇野隼人正為綱、同民部丞識綱、三吉(好)長門守秀吉、同蔵人助秀勝、中石見守
通信、大西弾正通秀、仙波大炊助貞高、佐伯河内守惟之、以下氏族郎党僅か五十余人也。
(注・上記の人達は後世に書き加えられた可能性があります)
直ちに帆を揚げ、摂州の有馬温泉に湯治に行き、三七後、紀州高野山上蔵院へ参りお家断絶を
遠祖にお詫びする。
(注・上記は後世の作り話です。)
その後芸州、竹原に隠遁しているところ、病が深くなり七月十五日、母君、奥様、一族郎党
見守る中、夜に御逝去されました。
御年二十四歳、葬儀を行い、遺骸を珍開山長生寺に葬りました。
(注・これも後世の作り話です。以後史実検証を行います。)
法名は「長生寺殿前豫洲刺史月渓園公大禅定門」とされました。
ただちに毛利家との評議を行い、通直正室の甥の宍戸氏の息子を養子として河野太郎と名乗らせ
聚楽第(関白秀吉)にお届けしました。ただなんら音沙汰ございません、嗚呼』
(注・上記は一部史実とされますがふっ復興不可となり、身の危険を感じて、
河野姓を母方の姓(築山)と変名したとします)
と「予陽河野家譜」は語りますが、これは虚実、折り合わせて「家譜」の有終の美談として後世
に脚色されています。
室町末期(戦国末期)に書かれたと同書の奥書には書いてありますが、内容を見る
に江戸初期(1670年前後カ)の最終編纂と思われます。史実に合わない記事が散見されます。
私は最終編纂したの長福寺住職、河野一門の黒川・南明禅師とみています。
それはさておき、上記「予陽河野家譜」の河野牛福通直の七月九日、伊予・三津ケ浜出帆から
七月十五日夜病死するまでの描写は全くの虚構であることを、他の史書より説明しましょう。
【河野牛福通直の卒去までの経緯】
天正十五年は前半部分は秀吉はほぼ九州にいて九州征伐の仕上げをしている時期です。
そんな中、小早川隆景に伊予から筑前への国替の沙汰が急にでます。はっきりと記録に残るのは
天正15年 6月27日 【小早川隆景書状】
○伊予から筑前への国替えを村上元吉に伝える。
(小早川隆景から村上元吉への手紙) です。
これに伴い小早川隆景は国替えの準備に大童となります。その時分秀吉は九州平定を終え帰坂の
途につきます。史書は
天正15年7月2日 【大日本史料】
秀吉、筑前筥崎を発し、是日、長門赤間関に旋る、
翌日、毛利輝元、太刀、馬及び重寶を進めて、之を饗す
この頃、毛利輝元は湯月城の河野通直に書を送り
「七月八日ころ秀吉が三原に到着するので
お家再興の直訴」を勧めたとされます。
輝元は7月2日の下関から7月9日三原まで関白(秀吉)と
中納言(豊臣秀長)に同行し接待を続けていることは下記、小早川隆景書状より明らかです。
天正15年7月24日 【小早川隆景書状】
武吉・元吉の7/13の書状を7/24日に見て突然の国替えに
伊予衆を迎へにやったが留守で、三原に関白(秀吉)と中納言を接待予定が遅れて。
ご立腹であった。しかる所に通直が死んだとかで母(大方){おしで}が慌てて竹原に駆けつけたとか・
・・・(隆景から村上武吉・元吉への手紙)
「去る(天正十五[1587]年七月)十三日の御状、今日廿四到來、披見候、何ケ度申候ても不慮の御國替、
一入旁く御心遣い是非に及ばず候、(周防の)八代嶋御逗留先、以て然るべく存じ候、御休息肝要に
存じ候、我等事、九州の聞合わせ仰付けられ候間、年内罷り上るべき事ハ定まらず候、
當時(筑前の)立花普請の取亂し、御察し有るべく候、藤四郎(小早川秀包)事は、筑後のくるめ
(久留米)と申す所迄差下され、在宅の躰に候間、以爰何篇御分別有るべく候、
仍ってゆつき(伊予湯月)御仕出(通直母)、(安芸の)竹原へふと(急に)御渡海候て、留守の儀に候へは、
御不如意、是非及ばずの由、昨今追々御到來候、是自り進み候御迎衆は、与州え直ちに罷り越し、
諸城に渡る様、荷物以下の裁判に忘却致し、一両人罷り居り候、留守の者共ハ、
(備後の)三原に、関白(豊臣秀吉)殿・中納言(豊臣秀長)殿御一獻の支度等に万事取亂れ候、
竹原え付心申す事も延引候て、御腹立有るべく御察し候、尤に候々、然る處、(河野牛福)通直御死去、
言語に及ばざる次第に候、さてさて是非無き御事迄に候、大方の御朦氣、彼是以て此節の儀、
罷上り候ても申度き心中候へ共、他國の栖み仕る様子候条、其段も相叶わず、心中計り候の處、
以ての外の御述懐、余儀無き候間、申すべく候も之無く候て罷り居り候、
折節は御勇成され候て然るべく候、通直御座無く候共、御心付けられ候て參られ候は祝着申すべく候、
御進退ニこそ御氣遣りの砌り候間、雖推量致し候、申す事の候、随て輝元吉田歸陳(陣)候間、
早々御使者差越され候て、八代・能美に御父子三人御住宅の条、彌憑み思召すの通、仰せ遣らるべき事
肝要に候、何れも其許取静められ候は、ふと御下向は何篇の儀申談ずべく候、猶期に後音候、恐々謹言
(天正十五[1587]年)七月廿四日 武吉 元吉 御返報 左衞門佐隆景御判
この書簡は村上武吉 元吉からの河野通直が急死したとの報に驚いた隆景が返事を出したものである。
注目すべきは7月13日日付の村上武吉の書である。この時、武吉は屋代島和田(現周防大島町和田)に
いて書を書いている。通直が死んだのは備後竹原(現広島県竹原市)であり、急死を告げる小早船が
いくら急いでも竹原から屋代島和田までは半日から一日はかかる。となると通直急死は7月12日以前と
なります。伊豫湯月城から通直が急ぎ出発したのは遅くても7月7日でなければ8日までに竹原で秀吉公
お目見えは叶わなくなります。
史実は7月8日に三原で毛利輝元の饗応を受け翌日出立したとされます。
この饗応時に河野牛福通直は毛利輝元の斡旋でお家再興の嘆願をしたとされますが、にべもなく拒否
され、すごすごと竹原の宿である、小早川家菩提寺の法常(成)寺へ帰り悲観のあまり自害(自殺)
したとされます。
「予陽河野家譜」は病死としますが、自害の記録は「萩藩閥閲録同附録河野通恒文書」に
天正15年7月9日「萩藩附録河野通恒」
【天正十五年七月九日父通直芸州竹原庄に於て秀吉の爲生害、故を以て家門斷絶】
と秀吉のせいで自害したのでお家断絶となりました、と書いてありますし、長福寺本河野系図にも
「牛福通直 生害」と記されています。
通直急死の報は母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)に急報され驚いた
母は急ぎ渡海します。これを7月12日以前と記録されます。
これを裏付ける文書が「萩藩閥閲録」にあります。
天正15年 7月12日 閥閲録輝元書簡(毛利輝元から神保就俊宛書「閥閲録」に
『河野通直母「五もし」急ぎ竹原へ渡海する。』
『五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、其方心遣之段推量候、
何とやうにも此節可心付事肝要候、… 』
(天正十一[1583])七月十二日 輝元御判
急ぎ、竹原に渡海した通直母は葬儀を行います。この日を命日とし【小早川文書】は7月13日とします。
しかし、【予陽河野家譜、善応寺本河野家譜】は7月14日とします。これは通夜と本葬の違い
程度と思われます。小早川隆景はこの時点でも筑前にいます。
葬儀の日の七月十四日を命日と決めたのは当時、河野家最高権力者通直母(五もし)と思われます。
通直母は翌年の天正16年4月26日、高野山上蔵院に登り、通直の供養塔と自らも供養塔を建立します。
併せて生前戒名を受けています。【上蔵院河野家過去帳】
【高野山上蔵院河野家過去帳】には下記のように書かれています。
「 長生寺殿前豫州太守月渓宗圓大居士尊儀 豫刕奉為河野通直公御母儀御建立
天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月二十六日建立」
この供養塔は現在、高野山奥の院に入ってすぐの右側にありますから河野家ファンならご存じでしょう。
この、通直母たちの高野山詣でのことが後の時代となり「予陽河野家譜」を編纂するときに通直自身が
登山したと脚色されたのでしょう。もちろん有馬温泉湯治もありません。やはり自害では恥ずかしかった
のでしょうね。長生寺で逝去とする論文もありますが、通直自害の時には長生寺はまだなく、通直の死を
供養する為、小早川隆景が通直自害の地、法成寺に隣接する場所の長生寺を翌年を建立しました。
通直墓はたぶん元々は宝篋印塔形式で造られたものと思われますが、崖崩れで押し流されたとされます。
現在、長生寺にある「河野通直墓」と称するものは団子を積み上げた形の単なる慰霊塔ですので厳密には
墓ではありません。
秀吉が頑なに河野家再興を拒否した最大の理由は天正13年に味方になれと湯月城に使者を送ったのに
それを拒否したことである。とします。この時、対応したのは当主の通直ではなく母君の春松院が対応し、
誘いを断り、よせば良いのに、秀吉の悪口まで言ったと河野家筆頭家老大野直昌(ナオシゲ)文書に残ります。
小早川隆景の伊予から転封に伴い、河野家家臣団は三々五々、竹原に移ります。
「予陽河野家譜」に書かれている五十余人が一斉に引っ越ししたわけではありません。
小早川は法成寺の前に広がる地を埋め立て河野家家臣団の家を急ぎ作りましたので一斉には引っ越せ
ません。また、三津ケ浜からも一斉でもなく、家老大野直昌は大津(大洲)から乗船したとします。
しかし、竹原の生活は安定したものではなかったらしく、家臣たちは一人二人と離散します。
この事を歴史書は「竹原崩れ」と表現します。50人程度の人ではなく家族郎従千名近くが移住
したので、多くがまた伊豫に帰りました。広島や山口に移動した人も多いですね。
河野通直亡き後、これは「予陽河野家譜」にあるように、毛利側で協議し宍戸某を養子として通直跡継ぎ
と決し、秀吉に届けでましたが、相続の許可はなかったらしく「家門断絶」となりました。
この後、宍戸某と河野通勝がそれぞれ河野家再興を夢みて活動しますが、結果的には成就しませんでした。
この恨みが「秀吉暗殺未遂事件」の「三原八幡藪事件」に繋がったとされます。
これらの一次史料を時系列に並べると
天正15年7月初 毛利輝元は河野牛福充通直に書を送り、
「七月八日ころ秀吉が三原に到着するのでお家再興の直訴」を促します。
天正15年7月5~6日 河野牛福通直は少数の腹心のみを連れ湯月城を出て、三原に渡海します。
天正15年7月8日 三原滞在中の豊臣秀吉にお家再興を願うが叶えられず。
天正15年7月9日 絶望の淵に至った、河野牛福通直は三原から竹原に戻り、宿舎の法成寺
で自害(自殺)します。
この自害の急報は伊豫・湯月城にただちにもたらされます。
天正15年7月12日以前 通直急死の報は母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)
に急報され驚いた母は急ぎ竹原へ渡海します。
天正15年7月13日 通直母は、小早川の菩提寺・法成寺で通夜を営みます。
(注・後世の書が誤り語る、 「長生寺」の葬儀ではありません)
この日村上武吉・元吉は通直の死を九州の小早川隆景に急報します。
7/24日の返報で自分は九州への移封が決まったので、伊豫で保護していた
河野一族を九州に迎えるとの使者を湯月城に送ったが、通直が留守で母親も
急ぎ竹原に渡海したとかで不思議に思っていたら貴殿(村上親子)の
急報で理解しかつ驚いた、とします。
天正15年7月14日 通直母は法成寺で本葬を営みます。
(注・史実は通直は7月9日に死亡していますが、通直母は本葬の日(7/14)を命日
と定めます。
翌年、高野山上蔵院に届け出た命日が7月14日とされ、通直死後に通直の為建立した
通直戒名を冠した、竹原・長生寺は命日を7月14日としますので、河野家直系を自負
する、河野・築山家は江戸時代を通じて7月14日に法事を行っています。
また、同じく伊予河野家後継を自負する、玖珠・久留島家は法事の使者と香典を九州から
長生寺に送り続けています。【長生寺文書】
通直の遺骸は法成寺に葬られましたが、隣の長生寺に改葬された後、がけ崩れを起こし
通直遺骸は墓ごと流され行方不明になったとかで、仕方ないので供養塔を建立しました。
これが、現在の竹原・長生寺にある「河野通直墓」とされるものです。
厳密に言えば「墓」ではありません。また高野山のも墓ではなく「供養塔」です。
これらが、後世の書とされる「予陽河野家譜」や俗本の「予陽河野盛衰記」に取り込まれ
ますので、江戸中期以降に「河野系図」を作成した河野家子孫家は命日を7/14とします。
「予陽河野家譜」を参考にした河野家子孫家は7/14日に病死とします。また、長生寺で
葬儀したと間違えます。一部の河野家子孫家は法成寺自害、同寺にて葬儀と書く家もあり
この系図を保有する家の方が史実を見ていた家でしょうね。
また、現在の長生寺も通直当時の河野家家紋「折敷漢数字三文字紋」ではなく後の
江戸期の新河野家家紋「傍折敷縮三文字紋」に変えてしまっています。残念です。
江戸中期の安芸国地誌の「芸藩通志」は通直が天正13年に死んだとし、合せるためか
趙誠二も同年に建立されたと書きます。時を置き過ぎた後世の書は多く誤りを繰り返し
ますので、出典の真偽のチェックも必要ですね。
また、史書により混乱させるのは河野通直母の事を複数の呼び名で記録します。
時代により変遷します。
牛福通直・母(御仕出(おしで)・五もし・大方・天遊永寿・春禅院・春松院)
と時代により名前の表示が変わりますのでその書が何時頃かかれたか推定する
ことができます。
①初期が おしで(御仕出)後に 五もし、と名乗っていたと思われます。
②また、牛福通直相続後に惣領の母親を意味する・大方(たいほう)の敬称が使用した
と思われます。大方(たいほう)とは毛利側の方言で「大奥様」を意味します。
現代の伊豫の郷土史家はこれを大方(おおがた)と間違え、通直母親の固有名詞と
勘違いしています。よって通直の妻は奥様なので、大方とは呼ばれませんでした。
③春禅院は「おしで」の生前戒名ですので伊予河野家由来の寺が発出したものと
思われます。河野家関連文書で春禅院と表示するものは天正16年4月25日以前の
ものと思われます。河野家筆頭家老であった大除家城主大野直昌家文書は「春禅
院」と記録します。
④春松院も生前戒名ですが、春禅院から改製とします。この戒名は高野山上蔵院が
天正16年4月26日に「天遊永寿」の法名とともに命名したと思われます。
高野山上蔵院「河野家過去帳」はそのように書いてあります。
ちなみに人の名前は幼名から始まり、14歳の成人名となり、相続すると正式名を名乗り、
嫡長男は「通リ名」を使用しはじめ、仏門に入れば「法名」を名乗り、変化して
行きますので、同姓同人 同姓異人が數多くでますので歴史書は面倒ですね。
通直母「天遊永寿」は三原で亡くなったとされますが、牛福通直妻は実家に戻った
後、毛利家分家・毛利大野家当主に再嫁します。
余談ながらこの毛利大野家の重臣の子孫が
大戦後国際連盟を堂々脱退した日本全権大使(外務大臣)「松岡洋祐」でした。
*2025年2月11日加筆修正(屋代源三)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます