伊予名門・守護家であった河野家も長年の本家と分家(豫洲家)との内訌により家中は弱体化し
戦国の下剋上の時代には家勢を衰え、臣下から反乱を起こされたり、また、伊豫支配を目論む
中国の毛利一族(毛利・小早川・吉川)の調略により、河野通宣の代では毛利家と婚姻関係を結び
毛利頼りの態勢になります。次代の河野牛福通直も毛利側から正室を受けました。
長曾我部元親も四国全土の支配を目論み、南予や東予を攻め湯月城にも迫ります。
土佐側の資料「土佐物語」等を湯月城陥落で家老の平岡某を人質に取るとします。
伊予側資料はこれを否定します。
天正10年春に高松城の攻略をしていた織田信長の家臣、秀吉は、毛利や河野へ調略の使者を送り
「味方になれ」と誘います。瀬戸内海を支配していた村上海賊三家の内、能島村上家、来島村上家
は同年四月十日、秀吉の招きにあい、姫路会談を行います。能島村上家は河野家と毛利家とは血縁
の誓いを立て仲であるので、織田側に寝返ることは出来ませんと断りました。しかし、来島村上家は
河野家への往年の恨みから織田側に付くことを応諾しました。これで、瀬戸内海の制海権が崩れ始め
ました。この会談以降の夥しい数の「来島村上が裏切った、大変だ!」とする書簡が飛び交います。
【萩藩閥閲録・毛利家文書・小早川文書】
このような状態で高松城の水攻めが行われ、「信長公本能寺にて自害」の密報に秀吉は慌てて休戦し
明智光秀退治に走ります。「秀吉大返し」この時、毛利側も「信長自害」の報を手にいれ秀吉軍を
追うとの進言がありましたが、秀吉に貸しを作るとのことで追わなかったとされます。
歴史に「もし」があれば、もし毛利軍が秀吉軍を追えば勝利は間違いなかったでしょう。
「引き上げる軍勢はとても弱い」がこの時代の常套でした。
それから三年、秀吉の天下となり、全国制覇を目指し、彼は四国征伐に乗り出します。
豊臣家重臣となった毛利家も四国征伐の先鋒を受けます。
小早川隆景が先頭にたちますが、伊豫河野家は立場上親族で討ち果たし壊滅させるわけにも
いきません。そこで小早川は出陣にあたり「伊予を平らげた暁には伊予を下さい」と秀吉と
談判して承諾を得ました。これはとても稀な事です。戦う前に報償要求はまずありえない時代
ですね。主君が「切り取り次第」とけしかけることは多いですが逆はまずありません。
戦後の「論功行賞」で揉めるからです。
秀吉から伊予拝領の約束を受けて小早川隆景は伊豫征伐に向い、湯月城に立て籠もる河野
牛福通直に書を送り「大勢はもはや決している、無血開城すれば、今後、河野家再興に努力
する」とし河野主従は之を受け入れたとします。開城を止む無しと強く迫ったのは戒能通森
とされます。ただ、伊豫河野側の記録をそう書きますが、先代の河野通宣の嫁(毛利家)
が湯月城に嫁して来るときには毛利家御付の家臣団が湯月城の中にいますので毛利家支店
の役割を果たしています。当代の牛福通直の嫁も毛利家側から送り込まれています。
湯月城開城を納得しない河野家家臣団も多くいて、あちこちで自刃したり逃亡します。
これを後世「河野崩れ」と表現されます。
天正13年6月湯月城無血開城され、8月までに伊予の支城は総下城となり、9月までには
すべて小早川隆景に引き渡されました。
隆景はさっそく、伊豫支配を始めますが、この時、敗者の河野牛福通直家中は湯月城に
留めおき保護します。将来の河野家再興の許可がでるのを待つ体制です。
江戸期の書で「天正13年河野家滅亡により河野通直、小早川領竹原に移る」とする書類は
嘘です。牛福通直は天正15年7月11日まで湯月城に居ます。
河野牛福通直家中が竹原へ移住するのは通直は竹原法常寺で生害(自殺)して後、小早川隆景
が筑前に転封を命ぜられてからの天正15年8月以降のことです。
この辺りのことは「予陽河野家譜」を信じる人は納得してくれません。
最初に河野家再興を熱望したのは河野家最後の当主「河野牛福通直」です。
つづく
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